――ここまで来て、引き返すなんてできない。
ティラナはパチンと、静寂の断崖に響くほど勢いよく両手を打ち合わせ、いささかも諦めない強固な姿勢を貫いてみせた。
「……それじゃあ、こうしましょう。あと二時間よ。二時間だけ、私に時間をちょうだい。その代わり、二時間のうちに絶対に見つけ出してみせるから。それまでに懇親会の方には、潮の目や機材トラブルのせいで到着が少し遅れるかもしれないってことで、上手く調整をお願いね、カノン!」
「陛下……! あ、お待ちください、陛下!」
背後からカノンが引き留める声を完全に振り切り、ティラナは白い砂浜を蹴って力強く走り出した。数名の侍女や女官、そして同行を依頼していた高齢の相談役たる考古学者が、息を切らせて彼女の背中を追いかけていく。今日のために、動きやすいパンツスーツと頑丈なスニーカーを選んで履いてきて本当に正解だったと、ティラナは心の中で自分自身の先見の明を賞賛した。
島の奥へと進むにつれ、どこからか激しくも途切れることのない重低音――激しい水の音が響き渡り始める。近くに滝か、あるいは地下を流れる川があるのだろう。シダ植物の生い茂る緑豊かな未開の森を強引に突き抜け、浜辺から回り込むようにして島の側面に位置する断崖絶壁へと辿り着いたとき、ゴツゴツとした不規則な火成岩の岩場が連なる先に、ぽっかりと不気味に口を開けた巨大な穴蔵が、ティラナの目に飛び込んできた。
海からの湿った風がビュウと音を立ててその暗黒の内部へ吸い込まれ、不気味な反響音を立てている。まるで巨大な鯨の胃袋に自ら取り込まれてしまうかのような根源的な恐怖が走り、ティラナは思わず生唾を呑み込んだ。
「真っ暗。洞窟だわ……」
肩から斜めがけにしていた機能的な鞄から、高輝度のLED懐中電灯を取り出す。親指でカチリとスイッチを押し込むと、鋭い純白の光線が闇を鋭く切り裂いた。
ゆっくりと慎重に足を進めていくと、周囲の壁や地面は、外の柱状節理とは異なる、明らかに人工的な意図をもって削り出された岩のブロックに覆われ始めている。そして、洞窟の最奥部。その空間の突き当たりに、それは厳然と鎮座していた。
「ここが……もしかして、神殿なの……?」
見上げるほどの巨大な扉が、遙か上空の、闇に隠れた天井にまで届くほどの圧倒的なスケールでそそり立っている。
「やった。……やった! 見つけたわ、お父さま……」
体中を駆け巡る歓喜の震えに耐えかね、ティラナは思わず小さな拳を振り上げ、ガッツポーズを取った。自らの仮説が、カストリア家に伝わる祭祀の伝承が、確かに正しかったのだ。
「そうだ、写真を撮らなきゃ……」
携帯性に優れた高解像度カメラを構え、パシャリ、パシャリと、その異形の門を一心不乱に撮影していく。カストラリアの王室サーバーと自動同期設定を組んであるため、この瞬間に世界最高峰のセキュリティを経由し、画像データがカストラリアにあるプライベートクラウドへ暗号化されて同期される仕組みになっていた。万が一の事態に備えた、科学者としての冷徹なリスクヘッジである。
「それにしても……なんて立派で不気味な門なのかしら」
長きにわたる歳月の中で色彩こそ激しく退色しているものの、細部にはまだ、禍々しいほどの赤、青、そして紫の顔料の痕跡が残されていた。そしてその中央には、象徴的な、鳥のような紋様が刻まれている。
それはカストラリア国内に点在する、どのカストリア家の神殿とも意匠が異なる、異質の文明の遺物であった。
「随分と久しいね。お姫さま」
不意に、石造りの冷徹な空間に響き渡ったのは、そのおどろおどろしいロケーションにはあまりにも似つかわしくない、柔らかな幼い子供の声だった。
ガチリと、氷漬けにされたか、強力な磁石が足裏にくっついているみたいに、ティラナは足が竦んだ。
「誰ッ……!?」
意を決して振り返ると、暗闇の中から、懐中電灯の光に浮かび上がるようにして、その少年は佇んでいた。
うねるように波打つ、長い金髪の髪。まだ声変わりもしていない、あどけない少年の顔立ち。しかし、その瞳の中に湛えられた色彩――赤みの強い、妖しい紫色の双眸を見た瞬間、ティラナの脳裏に、かつて見たあの『金羊毛』の不思議な夢の記憶が鮮烈に呼び起こされた。遠い昔の記憶の底に置いてきたはずの、存在しないはずの少年が、今、目の前に立っている。
――夢幻を視ているの……? 私は、高熱の幻覚でも見ているっていうの?
ティラナが完全に言葉を喪失してしまったのは、突如として少年が現れたからではない。彼が夢≠ナはなく、過去においてティラナと実際に会ったことがあるという事実を暗に認めたからでもない。
何よりも恐ろしかったのは、その過去の記憶の中にいる少年の姿と、いま目の前に立っている少年の姿が、一寸の狂いもなく、完璧に子供のままの姿≠ナあったという事実。
そう――まるで、彼一人だけ、世界の時間軸から完全に切り離され、時が静止しているかのように。
ティラナのただならぬ動揺を完全に楽しむように、少年は唇の両端を吊り上げ、微笑を浮かべた。
「それとも、今は『女王様』と呼んだ方がいいのかな?」と、動揺を見透かす微笑で少年は尋ねた。
「あなたとは……昔、どこかで会ったことがある……?」
「あるよ。君がそれを覚えていてくれて、うれしいよ」
少年は、まるで退屈なチェスの駒を動かすかのような、酷く大人びたトーンで言葉を紡いでいく。
「シュナイゼルと君が結婚して、ブリタニアの親戚になるのなら、色々と手間が省けると思っていたのに。完全に僕の見込み違いだったよ。……まさか、君の方から会いに来てくれるなんて思わなかったな」
「親戚に……? やっぱり、あなた、ブリタニアの皇族……? だけど……どう見ても……」
目の前にいるのは、紛れもなく幼い姿のままの子供だ。
だが、遺伝子疾患である小人症の類いとは根本的に異なっていた。通常の小人症であれば、身長は伸びずとも、顔立ちの骨格は年齢相応に大人のものへと変化し、皮膚には皺やシミが経年に応じて増えていくはずだからだ。
しかし、彼の顔は――年齢という概念そのものがその若さでピタリとフリーズしているようにしか見えない。そう、まるで時自体が止まっているようにみえる。――では、いつから? 一体どういう生体理論を用いれば、このような肉体の不老が成立するというのか。
どれほど舌足らずな物言いであっても、その発言内容の構文は、非の打ち所がないほど論理的で、完成されている。知能の成熟度は、間違いなく成人、それも教育を受けているようにみえる。
――大人が、精巧な子供の着ぐるみを被っているような違和感。言葉の組み立て……語順が、正確だわ。
沈黙の中で、仮説を立てる時間を阻むように、きれいな少年は大きな瞳を細めた。
「さすがは、科学を究めた女王様だ。その聡いところ、恐れを知らないところが、あの虚無の子≠虜にしたんだね。……伯父にして、とても誇らしいよ」
「伯父……ですって?」
――Uncle=B
彼が今、明確にそう口にした。
ブリタニア皇族の系譜において、シュナイゼルのおじ≠名乗るということは、すなわち、現神聖ブリタニア帝国皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアの兄弟ということになる。それが、母親違いか、あるいは、同じ母親なのか定かではない。年齢の凍結を考慮すれば、前者の可能性が高いが、それにしても目の前の異常事態の合理的な説明にはならない。
ティラナの背中に、じっとりと冷たい脂汗が滲んでいくのが分かった。少年の愛らしい微笑みの奥から、底知れない、人間という種そのものを蔑むような「嘲り」が明確に伝わってきたからだ。
「あんまり僕が喋りすぎると、シャルルに怒られちゃうかな? でもね、お姫さま。これは君がこれまで辿ってきた過酷な運命に対する、僕からのちょっとした『お詫び』のつもりなんだよ」
「お詫び……? 一体、何の話をしているの……!?」
一歩、少年へと近寄った。その時、その少年に危害を加えないようにと、彼の連れていた、幼い子供ふたりがティラナの前に進み出た。
金羊毛≠フ少年は口を開き、さらに言葉を重ねた。
「君がこれまで、たくさん苦しいことも、悲しいことも経験してきたのは知っているけれどね……。君のように聡い存在が、今、僕たちの敵に回ってしまうのは、非常に都合が悪いんだ」
色素の薄い短い髪の少年は、金羊毛の少年の合図を受けてこくりと頷いた。なにか恐ろしい気配に、ティラナはその場から走りだそうと、数歩退いたが、その瞬間――あの赤い瞳と目が合った。そして、次に気づいたとき、少年は先ほどまでいた場所からすぐ目の前に迫っていた。瞬間移動のように、音も気配もなく、腰元でティラナを見上げている。
「ひっ……!?」
短い悲鳴をあげるより、前に、もう片方の幼い少年が迫っていた。
――なにが起こっているの? 一瞬で……。
フィルムのコマとコマの間の時間よりも、かなり少ない時間のなかで、子供たちの動きはティラナの認知速度と思考速度を上回っている。
不老の少年――V.V.は、ロロの肉体的な限界などお構いなしに、完璧に硬直したまま、微動だにできなくなっているティラナの元へと優雅に歩み寄った。
ティラナの主観時間では、完全に世界の時間が停止している。風の音も、波の轟音も、自分の心臓の音すら聞こえない静寂の中で、V.V.の小さな冷たい指先が、彼女の震える手に触れた。
「さあ、夢のなかで会おう、ティラナ。――ありがとう。ロロ。もういいよ」
V.V.の許可が下りた瞬間、ロロは力の限り張り詰めていた能力を解除し、激しい動悸のする自らの胸元を狂ったように押さえつけながら、両膝をガタガタと地面についた。あまりの精神的・肉体的負荷に、彼の呼吸は激しく乱れている。
「……あっ……はあ、あなた……! 今、一体何をしたの!? この子に、そして私に、何を使ったっていうの……!」
世界の時間が動き出した途端、ティラナは激しい眩暈に襲われながらも、眼前の異常現象に対して叫び声を上げた。しかし、V.V.はただ、哀れな子羊を見るかのような慈愛に満ちた目で彼女を見つめるだけだった。
「……ダメだよ、お姫さま。君はまだ、何も知らずに眠っていなきゃ。やっぱり、我が儘な女王様には、王子様の優しい子守唄が必要なのかな? それじゃあ、僕からあとで、君たち二人にとっておきのプレゼント≠してあげることにするよ」
羊のように愛らしく、しかし中身は冷徹極まる神そのものであるかのような瞳を持つ少年。
波打つ金髪を小さく揺らしながら、V.V.はロロの傍らに控えていた、もう一人のギアス能力を持つ嚮団の子供へと、冷酷な視線で合図を送った。
促されたもう一人の少年が、感情の消えた虚ろな足取りでティラナの前へと進み出る。彼の両目には、不気味に赤く輝く鳥のような紋章≠ェ宿っていた。
少年はティラナの琥珀色の瞳を真っ向から見据え、鈴を転がすような、しかし絶対的な強制力を持った平坦な声で、静かに呪いの言葉を命じた。
「――ここへ来るまでのこと、そして、この島で見たすべての記憶を忘れろ」
ティラナの視界が、急速に赤く染まっていく。脳の神経細胞が、外的な力によって強制的に書き換えられ、切断されていく圧倒的な不条理。カメラのデータが、サーバーに同期されたことすら、彼女の意識から消し飛んでいく。
「おやすみ、カストラリアの女王様」
薄れゆく意識の淵で、ティラナはただ、その不老の少年の歪んだ微笑みだけを、呪詛のようにその身に刻みつけながら、深い暗黒へと崩れ落ちていった先に――金羊毛が野を駆け、黄金の羊毛を輝かせて走っているのがみえた。
a.t.b.二〇一二 October
黄昏の間
現実世界の如何なる物理法則からも切り離されたその空間は、常に世界の終わりを思わせる永遠の夕陽に照らされ、不気味なほど厳かに凪いでいた。虚空に浮かぶ古代の石柱、神の領域を模した巨大な神殿構造。その中心に、神聖ブリタニア帝国第九八代皇帝シャルル・ジ・ブリタニアは、絶対的な巨躯を玉座に預けて佇んでいた。
その厳格な威容の前に、音もなく近づく小さな影がある。
波打つ長い金髪を揺らし、まるで自宅の庭園を散歩するかのような足取りで現れたのは、嚮団の主たる不老の少年、V.V.であった。彼の足元で、神根島から連れ帰られたティラナについての報告が、酷く淡々とした、しかし確信に満ちたトーンで語られ始める。
「あの娘は放っておけばいずれ、僕たちの『神殺し』のシステムに確実に気づくよ。だから、あらかじめ僕が眠らせてあげたんだ。……まあ、かつて僕らが進めていた神経細胞や、生体細胞、ニューロリンクの研究において、彼女の構築した基礎理論が間接的に役立ってくれたことも事実だからね。その恩赦として、今回は殺さないで生かしてあげることにしたのさ」
V.V.はまるで、優秀な実験動物を気まぐれに保護したとでも言うように、残酷な愛らしさを湛えて微笑んだ。しかし、その赤紫色の瞳の奥にある警戒の光までは隠しきれていない。
「だけどね、シャルル。……彼女はあまりにも賢すぎる娘だ。記憶を消したとはいえ、脳の回路が元々異常なほど優れている。そのうちまた何かの拍子に違和感を抱いて、僕らの計画――ラグナレクの接続を根本から阻止しようと動き出すかもしれない。それに、あの娘の傍にシュナイゼルがいるというのも、僕にとっては非常に厄介なんだ」
V.V.は一歩、シャルルの足元へと近づき、かつて己が引き起こした凄惨な事件の記憶を、まるで昨日の出来事のように掘り起こしてみせた。
「覚えているだろう? 君の子であるシュナイゼルが、カストラリアの王室経由で秘匿していた例の極秘論文がどうしても欲しくてね。僕はあの時、ウィルゴに火を放って、暗殺を演出して、燃やしてしまったことがあったけれど」
シャルルはじっと幼い兄を見下ろして言葉に耳を傾けていた。
「……僕はただ、神殿の調査を依頼しただけだよ。そのついでに論文も欲しかった。だから、彼に力を与えてあげた。たった、それだけのことだよ」
V.V.の口元にはささやかな笑みが浮かぶ。シャルルは子供の頃にもそうしたように倣って、ふっと口角を持ち上げた。
「……というわけでね、シャルル。今度も君の方が、責任を持ってしかるべき『手』を打つ必要があるよ。……僕が君の命に応じるために必要な力を――その源は義娘から得ていたんだから」
「……手≠ニ、おっしゃいますと?」
シャルルは深く低い声を響かせた。常に世界を、そして自らの子供たちすら「嘘に塗れた有象無象」として見下す皇帝の双眸が、兄たる不老の少年の言葉を真っ向から受け止める。
「簡単なことさ。あの娘に、国家の存亡に関わるような『問題』をたっぷりと与えてあげればいいのさ」
V.V.は楽しげに小さく両手を広げ、悪魔的な解決策を提示した。
「目の前の自分の国を守ることで手一杯にさせて、身動きが取れなくなるほどの苦境に追い込んでしまえばいい。自分の足元が崩れかけている女王様に、神根島の古代遺跡をわざわざ調査し直すような、余裕なんてあるはずがないものね。ブリタニアの圧倒的な国力をもって、彼女に絶え間ない重圧を与え続けるんだ」
カストラリアという国家そのものを、ティラナを縛り付ける『檻』に変えてしまえという冷酷な進言。それを聞いたシャルルは、微かにその重い瞼を動かし、玉座の肘掛けを握る手に僅かな力を込めた。
「兄さんは、それでよろしいのですか」
シャルルの問いかけに、V.V.はピタリと足を止め、意外なものを見るかのようにそのあどけない顔を歪めた。
「シャルル。それは、親心?」
嘘のない世界を目指すはずの二人が、黄昏に染まる空間の中で、互いの腹の底を探り合う。
「シュナイゼルを可愛いと思っているわけじゃないだろう? だけど、婚約を完全に『破棄』してしまえば、カストラリアは生き残るために中華連邦の懐に飛び込んで、僕たちの庭を荒らし始める。だから、あえて婚姻を『凍結』にしておくのさ。『従順にブリタニアの利益に貢献し続ければ、いつでも婚姻を復帰させてやる』という甘い餌をぶら下げておけば、あの娘はカストラリアを守るために、ブリタニアに搾取され続ける道を選ぶしかない。……ねえ、シャルル。これほど合理的で、嘘に満ちた世界に相応しい、完璧な罠はないとは思わない?」
V.V.の冷徹な言葉が、黄昏の空間にいつまでも不気味に反響していた。
a.t.b.二〇一二 October
エリア11 トウキョウ租界
どれほどの時間が流れたのだろうか。重苦しい泥のような眠りの底から、ティラナはゆっくりと意識の表層へと浮上した。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたカストラリアの王宮ではなく、最高級の調度品で整えられた見知らぬ天井だった。微かに漂う高貴な白檀の香りと、窓の外から遠く聞こえる近代都市の喧騒。状況が掴めず、混乱する頭を動かそうとしたその時、すぐ傍らから、あまりにも聞き慣れた、そして世界で最も安心をもたらす柔らかな声が鼓膜を震わせた。
「目覚めたんだね。ティラナ」
「……シュナイゼル……? あれ? 私は、一体どうして……。ここは、ホテルの部屋?」
ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、心配そうに彼女を見つめていたのは、神聖ブリタニア帝国第二皇子、シュナイゼル・エル・ブリタニアその人であった。常に崩されることのない完璧な微笑の奥に、今は微かな安堵の色が滲んでいる。
「シュナイゼル、あなたがどうしてここにいるの?」
「カノンから緊急の連絡が入ってね。君が倒れたと聞いたものだから、懇親会への出席と、現地の視察も兼ねて急遽こちらへ飛んできたんだよ。……本当に心配したよ」
「……懇親会……。そう、エリア十一の総督府との懇親会は!? 視察のスケジュールはどうなったの!?」
突如として脳裏を過った公務の責任感に突き動かされ、ティラナはシーツを跳ね除けてベッドの上で勢いよく起き上がった。しかし、激しい眩暈が彼女の視界を大きく歪ませる。倒れ込みそうになるティラナの肩を、シュナイゼルは大きな、温厚な手つきでそっと優しく抑え、ベッドへと戻した。
「落ち着いて、ティラナ。懇親会は一昨日無事に終わったよ。……君の代わりに私がすべて代理として出席し、滞りなく取りまとめておいたから、何も心配する必要はない。カストラリアの威信に傷がつくような真似はさせていないさ」
「一昨日……!? そ、そんな……。私、丸二日も……気を失って眠っていたというの……?」
激しい動揺と、自己嫌悪、そして底知れない後悔が胸に押し寄せる。それと同時に、胸の奥を冷たい風が吹き抜けていくような、形容しがたい不気味な空白感が彼女を苛んだ。
ティラナは恐る恐る、目の前で自分を見つめるシュナイゼルへと視線を向けた。彼は無言のまま、いつもの穏やかな笑みを絶やさず、彼女から紡がれる次の言葉を待っている。その静けさが、今のティラナには酷く恐ろしかった。
「……怒っているの、シュナイゼル? 私は……せっかく用意してもらった訪問先で、決められたスケジュール通りに動くこともできず、あなたにまで余計な日程の調整をさせてしまって……」
「私が、怒っているように見えるかな?」
シュナイゼルは困ったように眉を八の字に下げ、宥めるように彼女の髪に触れた。しかし、ティラナは完全に自信も、科学者としての誇りも失っていた。
「少し、女王としての職務に張り切りすぎていたのかもしれないね。ティラナはいつも、自分の限界以上に背負い込もうとするから」
彼はどこまでも優しく、労わりの言葉をかけてくれる。しかし、何ひとつ女王としての仕事をこなせないまま、大切な時間だけが無情に過ぎ去ってしまったという厳然たる事実に、ティラナの胸は締め付けられた。己の不甲斐なさと情けなさに、視界が歪み、目尻から熱い涙がじんわりと滲み出す。
「……違うの、私は、あの場所へ……調査に……。ん? ……うう……っ!」
記憶の糸を手繰り寄せようとした瞬間、脳の奥底が万力で締め付けられるかのような激しい激痛が走り、ティラナは思わず両手で側頭部を強く押さえた。脳の神経細胞が、その先の思考を物理的に拒絶しているかのような感覚だった。
「ティラナ!」
シュナイゼルが名前を呼ぶ声が、ガンガンと打ち付けるような音に変わって頭蓋内に反響する、
「あたまが……千切れそうに痛いの……。何も、思い出せない……」
「すぐに侍医を呼ぶよ。横になっていなさい」
シュナイゼルが医療機器のインターホンを鳴らそうと、ベッドから身を離そうとしたその時だった。彼を失うことへの本能的な恐怖に駆られ、ティラナは遮二無二その腕を掴もうと手を伸ばしたが、力が入らず、べしゃりとシーツの上に無様に身体を崩してしまった。
「あ……待って……! 行かないで、シュナイゼル……!」
「大丈夫だよ、どこへも行きはしないさ。すぐそこだ。控え用の隣室で待機している医師を、呼び出すだけだからね」
取り乱す彼女の姿を見たシュナイゼルは、元々座っていたベッド脇の椅子ではなく、シーツが大きく沈み込むほど近く――ベッドの縁へと腰を据え直した。そして、震えるティラナの華奢な身体を、大きな包容力を持ってその腕の中にしっかりと抱き留めた。彼の胸の温もりと規則正しい鼓動を感じて、ティラナの呼吸は僅かに落ち着きを取り戻す。
「違うの、シュナイゼル。何かがおかしいのよ……」
「何がだい? ゆっくり話してごらん」
シュナイゼルの胸に顔を埋めたまま、ティラナは必死に脳裏に浮かぶ残像を言葉にしようともがいた。ぱっと頭の中が不可解な閃光に包まれ、断片的なイメージだけがフラッシュバックする。
島――。
思い浮かぶのは、吸い込まれそうなほどに高い青い空と、鬱蒼と生い茂る原始の緑、そして白く輝く砂浜の光景だ。
だが、そこから先へ進もうとすると、世界のすべてが急激に深い真っ黒な闇に塗り潰され、何も、誰の顔も思い出せなくなる。
「……ぁ、……う……っ」
あまりの恐怖と不条理さに、またしても琥珀色の瞳から涙がこぼれ落ち、シュナイゼルの上質な上着の生地を濡らしていく。
「焦らなくてもいい。君の頭脳は今、酷く疲弊しているんだ。ゆっくり……私に教えてごらん」
シュナイゼルの穏やかな声音に導かれるようにして、ティラナは震える唇から、辛うじて掠れた一つの単語だけを絞り出した。
「……島……」
「島……。神根島の、遺跡調査のことだね」
シュナイゼルが事も無げに口にしたその『正解』の響きに、ティラナの肩がビクリと跳ね上がった。
「調査……? そうよ、調査だわ。カストラリアの歴史にとって、とても重要な……。でも、私……本当にあの島に行ったの……?」
あやふやで、霧がかかったような記憶。自分の体験であるはずなのに、尋常ではないほどにリアリティが欠落している。そんなティラナの混乱を静めるように、シュナイゼルは客観的な事実だけを、一つひとつ丁寧に列挙していった。
「……やはり、何も憶えていないんだね。君は間違いなく、カノンたちを連れてあの島へ行ったよ。大型の調査船では浅瀬に接岸できなかったようだから、途中で小さなボートに乗り換えてね。もちろんカノンも同行した。夕方までに租界へ戻るには途中で切り上げる必要があったのだが、君はそれを拒み、一人で調査を敢行したそうだ。そして……緑を抜けた浜辺で、完全に意識を失って倒れていたところを、捜索に出たカノンたちに発見されたんだよ」
「……そうなの? 本当に、なんにも思い出せないわ……。私、浜辺で一人で倒れていたの? な、なんで……私はそこで倒れて……何を見ていたの?」
「熱中症による重度の脱水症状と、過労が重なったのだろうと、侍医は診断していたけれどね……」
シュナイゼルの説明は極めて論理的で、辻褄が合っていた。だが、ティラナには納得できなかった。理由不明の消化不良。本能が、その完璧な着地点に異議を唱えていた。熱中症のせいで、特定の数時間の記憶だけが、これほど綺麗に、不自然に削ぎ落とされるものだろうか。
ティラナはシュナイゼルの腕の中から顔を上げ、その鎮静効果をもたらす青紫色の瞳を、縋るように見つめた。
「……それじゃあ、あの島には……。私の探していた神殿も、伝承の遺物も、本当は……なにもなかった、ということなの……?」
「現場の様子と情報をつなぎ合わせるなら、そうなるだろうね」
シュナイゼルはティラナの背を優しく撫でながら、酷く客観的で、それゆえに抗いようのない響きを持った声音で告げた。
しかし、ティラナは、その言葉をそのまま受け入れることを拒絶していた。
「そ、そうだわ……カメラ! 私、カメラを持っていたはずよ。そこには、何か……!」
閃きに突き動かされるようにして、ベッドの脇のナイトテーブルに置かれていた、機能重視のショルダーバッグへと手を伸ばした。中から愛用の高解像度カメラを引ったくるようにして取り出し、すがるような思いで電源を投入する。液晶画面を操作し、最新の撮影データフォルダを開くが――。
「……嘘。何も、ない……?」
画面に表示されたのは、『データが存在しません』という無機質なシステムメッセージのみであった。不自然だ、と彼女の鋭敏な直感が激しく警鐘を鳴らし始める。
熱中症で倒れる直前まで、自分は確かにこの手でシャッターを切っていたはずなのだ。仮に操作ミスがあったとしても、1枚のデータすら残っていないなどということがあり得るだろうか。メモリーカードを確認しても、読み込みエラーやセクタの破損といった物理的な形跡は一切見当たらない。まるで、最初から「何も撮っていなかった」かのように、完璧に、綺麗に消去されている。
「……やっぱり、何かおかしいわ。こんな消え方、説明がつかないもの」
ティラナは小さく首を傾げ、不可解な空白の恐怖を、科学者としての疑念へと変換しようと躍起になった。
「王宮サーバーの方も、自動同期されたログが残っているかどうか、すぐに確かめてみないと……。シュナイゼル、私の端末を――って、どうしたの……?」
端末を探そうと身をよじるティラナの身体を、シュナイゼルは背後から包み込むようにして、その大きな腕で優しく抱き締めた。不意に視界が彼の広い胸に遮られ、耳元で衣擦れのカサカサとした微かな音が響く。
何事かとティラナが動きを止めた瞬間、彼女の細い左手が、シュナイゼルの温厚で大きな手によって優しく包み込まれた。
彼の手指が滑るような手つきで動き、ティラナの左手の薬指に、ひんやりとした硬質な感触が滑り込んでいく。
プラチナの繊細な台座に、幾石ものクリアなダイヤモンドが眩い光の縁取りを形成している。そしてその中央には――人工顔料のプルシアン・ブルーにすら匹敵する、息を呑むほどに深く、濃密に澄み渡ったルーヴェンフェルス・ブルーの希少なダイヤモンドが、鎮座していた。
「な、え……? きゅ……急に、どうしたの、シュナイゼル……」
「本当はね、すべての視察を終えて、君と共にカストラリアの王宮へ戻ってから正式に手渡そうと思っていたのだけど……。つい、この上着のポケットに忍ばせて持ってきてしまったんだ。君を前にすると、何度も渡しそびれるのは、もう嫌だったからね」
ティラナは先ほどまでの記憶への固執を完全に忘れ、じーっと夢中になって、自らの薬指で青く燃え盛るような石の輝きに目を凝らした。あまりにも彼女が沈黙したまま石を見つめ続けているので、シュナイゼルは微かに声を潜めて尋ねた。
「……あまり、お気に召さなかったかな?」
「ち、違うわ! 急に……あまりにも急だったから、びっくりしすぎてしまって、ただ言葉が見つからなかっただけよ」
慌てて弁明するティラナだったが、彼女の琥珀色の瞳は、すでにその宝石の構造そのものへと向けられていた。
「……ねえ、これ……ただのブルーダイヤモンドじゃないわね? この特有の吸光特性と、内部の不純物の結晶構造からして……もしかして、南アフリカの特定の鉱床からしか産出されない、超高圧力下で生成されたホウ素含有型の希少石かしら……?」
美しさへの感嘆や、婚約指輪をもらったことへの王道な嬉しさではなく、真っ先に石の成分や地質学的な質についての質問を組み立て始める婚約者。
シュナイゼルは、その様子が当初の己の予想と一寸の狂いもなく的中したことに耐えかね、思わず声を上げて愉しげに笑った。
「……あははは!」
「な、なによぉ……。人が真剣に分析しているのに」
「うん、ごめんね。あまりにも私の予想通りだったから、嬉しくなってしまったんだ。君ならきっと、綺麗だと言うよりも先に、石の成分を看破しようとするだろうと思ってね」
「なんだか恥ずかしいわ。私のリアクションまで、あなたに完全に読まれているなんて」
「そんなことはないよ。君のそういう、真理に対してどこまでも誠実なところが、私は大好きなのだから」
シュナイゼルの真っ直ぐな言葉に、ティラナの胸の奥から、今度こそ本物の嬉しさと愛おしさが、じんわりと温かく込み上げてきた。
「……うふふ。……とっても嬉しいわ。本当にありがとう、シュナイゼル!」
「リングの内側を見てごらん。君への、特別なメッセージが刻んであるよ」
シュナイゼルに促されるまま、ティラナは一度指輪を外し、プラチナのアームの内側を光に透かした。そこには、極小の文字で、格調高いラテン語の銘が精巧に彫り込まれていた。
『Calicem spinarum exhaurio(カィリケム・スィピナールム・エクスハウリオ)』
――私は、棘の杯を飲み干す――
その意味を脳内で翻訳した瞬間、ティラナの胸に鮮烈な記憶が蘇った。かつて彼女がシュナイゼルにプロポーズをした際、棘の多い植物である『ホリドゥラ』から棘を取り除き、編み上げた臨時の指環を贈ったことがあった。
このラテン語は、まさにその時の彼女の誓いに対する、シュナイゼル・エル・ブリタニアという男からの、これ以上ない不退転の『返答』であった。どれほど過酷な運命という名の棘が待ち受けていようとも、貴女と共にその杯を分かち合い、すべてを飲み干そうという、底知れぬ決意の証明。
先ほどまで恐怖の涙に濡れていたティラナの頬に、ふっくらとした温かな微笑みが完全に舞い戻った。
見事に上機嫌を取り戻した最愛の婚約者を見つめ、シュナイゼルは愛おしさを込めて、彼女の涙の跡が残る頬へと、優しく、深いキスを贈った。