凍れる蜜約






 a.t.b.二〇一七 April
 神聖ブリタニア帝国 宰相府


 帝都ペンドラゴン皇宮の脇にそびえ立つ、大理石と特殊ガラスで構築された超高層の尖塔。その中枢に位置する宰相府の大記者会見場には、狂気的な熱気が渦巻いていた。
世界各地から集まったマスメディアの放つ無数のフラッシュが、冷徹な大理石の壁面に刻まれた巨大なブリタニアの国章と、演台に立つ一人の男を容赦なく照らし出す。父親である皇帝シャルルと、名門大貴族の母親から受け継いだ純正な、ギリシャ彫刻のように美しい金髪が、激しい閃光によって一瞬だけ白く染め上げられた。
 マイクの前に立つ神聖ブリタニア帝国宰相、シュナイゼル・エル・ブリタニアは、寸分の隙もない型どおりの微笑みを湛え、静かに会場を見渡した。フロア一面には世界的な報道関係者が席を埋め尽くし、カメラの死角となる遥か遠くの壁際では、重武装の守衛と、利権の動向を窺う本国の貴族たちが固唾を呑んで控えている。

「――それでは、本日の定例会見における、各戦線および各エリアの現況についての発表を終えます」

 シュナイゼルは優雅な所作で手元の端末に目を落とし、よく響く、鼓膜に心地よい声音で言葉を紡ぎ出した。
「まず、長らく混迷を極めていたE.U.前線についてですが、我がユーロ・ブリタニア軍による戦略的包囲が完了し、戦況の膠着は間もなく打破される見込みです。ブリタニアは無益な流血を望みません。E.U.評議会が速やかに現実的な終戦交渉のテーブルにつくことを、私は切に期待しています」
 相手に選択の余地を与えない事実上の降伏勧告でありながら、彼の口から発せられると、まるで至高の人道主義的救済のように聞こえるから不思議であった。
「次に、内情の不安定さが指摘されていた『エリア十七』ですが、本日付で新たな総督を現地へ派遣することを決定いたしました。これに合わせ、帝国のサクラダイト産出の要である『エリア十一』をはじめとする各エリアの統治状況も再精査し、治安維持体制を一段階引き上げます。特にエリア十一においては、一部の反ブリタニア勢力による不穏な動きを完全に封殺し、名誉ブリタニア人を含むすべての市民の安全な経済活動を保証することをお約束しましょう」
 その丁寧な言葉の中に、数字で呼ばれる原住民――ナンバーズへの配慮は、最初から一欠片も含まれていない。それこそが、実父シャルル・ジ・ブリタニアの敷いた、明確な弱肉強食と格差を示す帝国の国是であるからだ。シュナイゼルはそのシステムを完璧に理解し、宰相としてよどみなく運用してみせる。
「これらに伴う治安維持コストの懸念についてですが、我が国の優れた技術陣の尽力により、次世代ナイトメアフレームの量産効率は従来の一四〇%にまで向上しています。軍需産業の健全な拡大は我が帝国の経済をさらに潤すものであり、増産体制への移行に一切の滞りはございません」
 世界的な軍拡を平然と正当化し、経済的合理性を説くその姿に、記者たちは圧倒されるほかなかった。
「最後に。近年、周辺国を巻き込みながら不自然な軍備増強を続ける『中華連邦』に対し、我が帝国は、加盟国および中立諸国と緊密に連携し、新たな段階の経済的・政治的包囲網を敷くことで合意いたしました。これは世界のパワーバランスを維持するための、人道的な措置であります。……ブリタニアは常に、世界の平和と、正しき秩序のためにその力を尽くします。本日は以上です」
一分の隙もない、完璧なステートメント。それがどれほど欺瞞に満ちた素晴らしい演技であったとしても、公式の場である以上、アンコールの拍手が湧き起こることはない。ただ、会場の隅から隅までをシュナイゼルの青紫色の視線だけが静かに彷徨い、彼は再びスポットライト代わりのフラッシュの雨を全身に浴びた。

「それでは次に、質疑応答に移ります」
 進行役の硬質な声がマイク越しに響き、記者たちが一斉に挙手する。シュナイゼルは指名された記者に対し、一切の揺らぎを見せずに応じていった。
「――現在、E.U.前線における我が軍の進駐は、現地住民の治安維持を第一目的としています。一部メディアが懸念されているような強硬な軍事制裁の意志は、我がブリタニアにはありません。私たちは常に、対話の門戸を開いているのです」
 国是を忠実に守り、柔和で迎合的な態度は油断を誘う。
 国際マーケットにも、敵対国の軍部にも、被占領国にも。
「中華連邦からの関税引き上げ交渉に関しては、半月後に予定されているE.U.サミットでの会談後に対応いたします。現段階での一方的な措置には、相応の遺憾を表明せざるを得ません」
 すべての質問を煙に巻き、あるいは帝国の有利な盤面へと誘導し終えたシュナイゼルは、ようやく壇上を後にした。
 会見場から続く静謐なガラス張りの回廊へと足を踏み入れた瞬間、控えていた側近のカノン・マルディーニ伯が、音もなくその斜め後方へと寄り添った。
「……見事な演説でしたわ、殿下。これで本国の強硬派の視線も、完全に中華連邦へと釘付けです。彼らがカストラリアの『婚姻凍結』に付け込んで、あの国をブリタニアの許可なく侵略しようとしていた不穏な動きは、これで完全に封じられましたね。……カストラリアが中立を保ち、自立した国であり続けるための、完璧な防波堤――」
「炙り出しには有効だろうね。包囲網を敷けば、中華連邦内部の主戦派か、あるいはカストラリア国内に潜む手先か、どちらかが焦れて頭か尾を出す。その先の、炙り出された害獣を処理するハンティングは、彼らの領分だ」
 シュナイゼルは歩みを止めず、微笑の裏に隠された冷徹な計算の一端を口にした。彼は宰相という巨大な権力を盾に、シャルルや他の皇族たちがカストラリアへ手出しをできないよう、完璧な砦として機能し続けていた。
 それが――彼女と交わした密約。

 記者会見会場からホールに出たシュナイゼルを捉えようと、報道陣が遠慮なくカメラのフラッシュを焚く。いつのものことだと、嫌な顔ひとつせず、サービスのつもりで、ある一方向のカメラに目線を合わせ微笑むと一層激しくなる。
「お休みになりますか?」
 カノンの下手からの問いに「いいや」と首を傾ける。
「このあとすぐに、内廷大会議室で内政の報告を受けなければならない。……兄上はもう、ご到着されたかな」
「はい。オデュッセウス殿下は先ほどご到着されました。他の殿下方もすでにお見えになっています」
「うん。では、行こうか」
 ガラス張りの回廊を通り抜け、リフトで上階へ移動後、連絡通路を経由して内廷へ向かう。シュナイゼルの頭脳は、息をつく暇もなく、次なる帝国の帳簿管理へと切り替わっていた。

 シュナイゼルがようやく最上階の宰相執務室へと戻ってきたのは、地上から向けられるナイトアップの光が、一層眩しく感じられるほどの深い真夜中のことだった。
 広大な砂漠の中に、不自然なほど栄華を誇る帝都ペンドラゴンの夜景が、特大のガラス窓の向こうに果てしなく広がっている。
 ドレスコードを厳格に守った軍服の下のジャボのピン・ブローチを外すと、侍従らが上着を脱がしにかかった。
「シャワーを浴びるよ。……今日はなかなか長丁場だったね。今日は君ももう休みなさい。カノン」
「Yes, Your Highness」
「ふっ……」
 軽やかな、自嘲とも溜息ともつかないシュナイゼルの笑い声が静かな室内に響き、退きかけていたカノンは、その足を再び彼の方へと向けた。
「殿下? いかがされましたか」
ガラスの大窓の外、果てしない夜の闇を遠く見つめながら、シュナイゼルはまるで独り言を呟くように言葉を紡いだ。
「君が向こうにいた時は、周囲の目を気にして、なるべくその言葉を使わないようにしてくれていた。こちらの公務に戻ってからもう随分と経つ」
 カノンは一瞬だけ目を丸くし、それから合点がいったように艶然と微笑んだ。
「こちらでお仕えするようになって、もう五年……ですわね。……カストラリアでは英語での会話も問題ありませんでしたが、あちらの宮廷では、どうしてもブリタニア・アクセントは浮いてしまいますから。影に徹するには、郷に入っては郷に従え、ですわ」
「ああ。君はあの国の言葉にも、驚くほどよく馴染んでいたよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ、殿下」
 シュナイゼルがこれからシャワーを浴び、僅かな酒を口にした後、再び徹夜で山積みの書類仕事に戻ることを、カノンは痛いほど知っていた。だが、それを敢えて咎めることはしない。
 なぜなら、このような夜、シュナイゼルが決まって何を待っているのかを理解しているからだ。彼は時差を隔てた遥か彼方の国際通信――カストラリアからの定期暗号通信が入るのを、見計らったかのように待っているのだ。
「それでは、おやすみなさいませ。殿下」
「ああ、おやすみ。カノン」
 側近が静かに退室し、完璧な静寂が執務室を支配する。
 シュナイゼルは一人、ガラス窓に映る自らの仮面のような微笑を眺めながら、意識を過去へと滑らせていった。

 あれは、五年前――。皇暦二〇一二年の冬のことだ。



 a.t.b.二〇一二 December
 神聖ブリタニア帝国・ペンドラゴン皇宮


 厳冬期を迎えるカストラリアを離れ、シュナイゼル・エル・ブリタニアが久しく本国の地を踏んだのは、年の瀬も差し迫った十二月二十八日のことであった。
 クリスマス直後の華やいだ余韻と、新年の到来を祝う豪奢な装飾に彩られたブリタニア皇宮の広大なサロンに彼が姿を現すと、その場が一気に華やぎに満たされる。
「シュナイゼルお兄様! おかえりなさいませ!」
 一際愛らしい声を上げて駆け寄ってきたのは、まだ幼さの残る異母妹、ユーフェミア・リ・ブリタニアであった。桜色の髪を揺らし、無邪気にはしゃぐ妹の姿に、シュナイゼルの仮面のような微笑が、この時ばかりは本物の兄としての柔和なものへと緩む。
「やあ。しばらく見ない間に、随分と大きくなったね、ユフィ」
「もう、お兄様ったら! 子供扱いなさらないでください!」
 ふくれっ面をしてみせるユーフェミアの隣には、美しい金髪を優雅に揺らした同母弟、クロヴィス・ラ・ブリタニアが、飾られたブロンズ像のように洗練されたポージングで佇んでいた。直前までユフィは、彼の前でスケッチをしていたためである。
「クロヴィスもまた背が伸びたね。このままではすぐに私を追い越してしまいそうだ」
「まさか。兄上ほどではありませんよ」
 サロンに集まるのは伝統的にクリスマスの日だが、久々の本国への帰国とあって、その日のサロンには他の兄弟姉妹たちも集まっていた。
 お決まりの挨拶を終え、話題は先月――十一月七日に執り行われた、カストラリア王女ティラナの誕生日に移ろいでいった。本国でも、女王のバルコニーから民衆へ向けて放たれた彼女の堂々たる演説は大きなニュースとして報じられていた。
 好奇心に瞳をきらきらと輝かせたユーフェミアが、兄の袖を軽く引きながら、かねてより帝国中が注目している『お祝い』について、無邪気な質問を投げかけた。
「シュナイゼルお兄様。お義姉様との正式な結婚式の日取りは、もう決まったのですか? 私、お義姉さまのドレス姿を拝見するのが、今から本当に待ち遠しくて……!」
 純粋な祝福の言葉。シュナイゼルは、瞳の奥の光を一切変えることなく、優雅に首を横に振ってみせた。
「ありがとう、ユフィ。だがね、結婚式よりも先に、彼女にはこなさなければならない大仕事があるんだ。カストラリアの新たな女王としての戴冠式が先だよ。国家の体制を整えるのが先決だからね、私たちの式はそのあとさ」
「まあ……。お忙しいのは素敵ですが、お兄様と離れている時間が長くなるのは、少し寂しいですね」
「嬉しいね。寂しがってくれるのかい?」
「お兄様ったら! 私だけではありません。ほかのみんなだって……!」
 くるりと首を回し、周囲の椅子に散らばる兄弟たちを見遣るユーフェミアに、此度の帰省を促した婚約者の姿が思い出される。
 ――『来年以降は気軽に帰れないかもしれないんだから、顔の一つでも見せに行った方がいいと思うの』
 ダイニングルームで、好物の鴨肉料理を前に、人差し指をピンとひとつ立てて、得意げな顔で彼女はそう言った。
 ――『それとも、私もご挨拶に伺ったほうがいいかしら?』
 結婚前の挨拶――それも悪くないと思ったが、急な思いつきを実行に移すには些か難がある。警備チームも、外務省経由での通達も、何から何まで大掛かりになる。とくに、官僚たちの冬期休暇を潰すのは後が怖い。
 ――『新年を迎える時期に、国を離れるのは認められないな。そういえば、ラジオスピーチをすると言っていなかったかい?』
 遠回しに諦めてもらおうと話題を逸らすと、ティラナはナプキンで口元を拭いながら目を細めた。
 ――『そうね。惜しいけれど、……そういうわけにはいかないもの。それに、あなたとずっと離れるわけではないのだから……、せいぜい羽を伸ばしてくるといいわ! あ、あとお土産をお願いね。空港の免税品店限定パッケージのブランデーがあって――』
 安い買い物だ。空港の店舗に問い合わせて購入すれば簡単に手に入るのに――という言葉を呑み込む。ティラナは『あなたが言いたいことはわかっているわ。……ちょっとした普通の生活への憧れを言ってみただけよ』と口にし、『安全に、何事もなく……帰ってきてくれたらいいの』と願った。
 弟妹たちの無邪気な談笑を穏やかに受け流し、一通りの挨拶と歓談を終えたシュナイゼルは、ようやく目的地であるウィルゴ宮殿へと赴いた。帰省の主目的のひとつに、それがあった。

 皇宮の敷地内でも、一際静謐な佇まいを見せるウィルゴ宮。その一角にある、執務室へと足を踏み入れた途端、先ほどまでの華やかな空気は霧散した。
 シュナイゼルは上着のボタンを外すと、長らくこの部屋の最高機密金庫に保管していた、特製のファイルを取り出した。中には、ティラナのノートの文面を分割したものである、彼女のアイデアが緻密にファイリングされている。
 シュナイゼルが静かにその資料に目を通し、今後のカストラリア防衛のためのチェス盤を脳内で組み立てていた、その時だった。
 重厚なマホガニーの扉が静かにノックされ、宮廷の年老いた侍従が、酷く緊張した面持ちで室内に滑り込んできた。
「失礼いたします、シュナイゼル殿下。……只今、陛下がお呼びでございます。謁見の間にてお待ちとのことにございます」
「……父上が?」
 シュナイゼルは資料を閉じる手を一瞬だけ止め、青紫色の瞳を僅かに細めた。
 帰国して早々の、皇帝シャルルからの直々の呼び出し。カストラリアでのティラナの不自然な記憶喪失、そして本国で密かに進められている「婚姻凍結」の筋書き。それらの裏で糸を引く実父が、ついに自分という駒を動かしにかかってきたのだと、シュナイゼルは瞬時に悟った。
「わかった。すぐに伺うと、父上にお伝えしてくれ」
「はっ。畏まりました」
 シュナイゼルは完璧な微笑の仮面を再びその美貌に張り付かせると、手元の機密資料を金庫の奥へと仕舞い込み、皇帝の待つ絶対の居室へと向かうべく、静かに立ち上がった。

 重厚な扉が閉ざされたその部屋は、外部の喧騒が一切遮断された絶対的な静寂に包まれていた。
皇帝シャルル・ジ・ブリタニアによる直々の呼び出しを受け、謁見に臨んだシュナイゼルを待ち受けていたのは、側近や衛兵すらすべて排された、異様な「人払い」の空間であった。広大な謁見の間の奥。玉座の前に傲然とそびえ立つ実父の巨躯を前に、シュナイゼルはいつも通りの完璧な礼節をもって一礼する。
 しかし、その直後にシャルルの口から厳然と放たれた一言は、世界をも統べる才覚を持つ者の思考を、一瞬にして完全に停止させるに十分な破壊力を持っていた。
「……は」
 それが、聞き間違いであると信じたかった。
 常に如何なる不測の事態にも微笑を崩さないシュナイゼルの唇から漏れ出たのは、完全に呆気にとられた、掠れた吐息であった。実父が冷酷に突きつけてきたのは、カストラリア王国王女ティラナとの、事実上の「婚約破棄勧告」に他ならなかった。
「神聖ブリタニア帝国において、例外は認められぬ。特定の小国に対する特別扱いは出来ぬということだ、シュナイゼル」
「――陛下。貴方はかつて、私に為すがままに≠ニ仰せになりました。カストラリアに関する一切の権益、および政略の差配は、何事もこの私にお任せに。そのすべてを委ねると、そう確約されたはずです。……父上、我らが交わした『初心の密約』をお忘れではありますまい」
 シュナイゼルは穏やかな口調を維持しながらも、その青紫色の瞳に鋭い光を宿らせ、皇帝に詰め寄った。皇暦二〇〇〇年、カストラリアとの婚姻条約に至る手前、実父との間で結ばれた、あの国の頭脳と私産をブリタニアの最大利益へと昇華させるための極秘裏の盟約。それを今、皇帝自らが一方的に反故にしようというのか。
「密約の期限など、無限ではない。常に物事は形を変えていくものだ」
 シャルルは地鳴りのような声を響かせ、我が子を冷酷に見下ろした。その双眸には、一国の運命など芥子粒ほどにも思っていない絶対強者の傲慢さが満ちている。
「我がブリタニア帝国にとって、不利益に値する存在となれば、いかに約束があろうとも即座に切り捨てる。それもまた統治者としての策のひとつに過ぎぬ」
「不利益、ですか。カストラリアはいまだ、その真なる価値を喪失しておらぬかと存じます。あの国が抱える潜在的な資源、そして彼女の持つ世界最高峰の頭脳。再生の機会はいくらでもございます。機が熟し、我が帝国の真の糧として真価を発揮するのは、まさにこれからです」
「ならば、そなたが自らの手で御してみせるがよい」
 御してみよ――。
 不可解だと、シュナイゼルはそれが矛盾を孕んでいることに気づいていた。
「――婚姻を結び、完全にブリタニアのくびきに繋ぎ止めさえすれば、それは決して夢物語ではございません。現段階で条約を覆すことは、国際社会において帝国側が相応のペナルティを負うことになります。……もし、それ相応の益が見込める『他の有用な策』が陛下にございますれば、ぜひ、この愚息めにその高説を授けていただきたく存じます」
 へりくだるシュナイゼルの言葉は、慇懃無礼なまでの論理的逆襲であった。国際法と帝国の実利を天秤にかけ、実父の不条理な決定を覆そうと、完璧な弁論を組み立てる。だが、シャルルはその合理性すらも、鼻で笑い飛ばすように一蹴した。
「そなたに手を引けと言ったのだ、シュナイゼル。条約そのものを完全に破棄せよとは言っておらぬ。ただ――あの婚姻という名の条約を、永久に『泳がせ続ければよい』のだ。さすれば、主導権を握られた彼の国は、自らの存続のために、我がブリタニアがいかなる条件を突きつけようとも、すべてを呑まざるを得なくなる」
 その瞬間、シュナイゼルはようやくその目的を、正体を呑み込んだ。
「……つまり、私と彼女の婚姻を『凍結状態』のまま維持せよ、と?」
「左様」 
 シャルルは満足げに唇を歪め、我が子の聡明さを肯定するように深く頷いた。
「あの女王は国を守るために、ブリタニアへの従属を拒めなくなる。これ以上の枷はあるまい」
 見事なまでの、覇者の考えである。今までもそのようにし、力を奮い、多くの国家を手中に収めてきた。
「しかし、陛下。些か、――過ぎることではありませんか」
「案ずるな。その件に関する公式な書状は、すでに我が手によって、カストラリア王宮へ『通達済み』である」
 閃光の稲妻。雷が落ちたかのような衝撃が、シュナイゼルを襲った。
 すでにカストラリア側へ通知した――という事実。すなわち、自分がこうして本国に呼び出され、謁見の間に足を運ぶよりも前に、ティラナを縛り付けるための冷酷な罠は完全に発動していたのだ。
 ――罠か?
 怜悧な思考は、父帝の意図を読み取ろうと、威厳ある瞳から真意を探るために、玉座の上の大男を見据える。血を分けた男親を。
 シュナイゼルは、美しく整ったその柳眉を酷く不快そうに顰めた。
 通知を知れば、彼女がどのような心持ちになるか、手に取るようにわかる。――まさしく、裏切りであろう。
常に周囲に安心感を与え、如何なる絶望的な戦況であっても絶やされることのなかった彼の、物憂げで穏やかな色彩が、今、初めてどす黒い深い陰りを帯びていく。実父への怒りか、あるいは己のあずかり知らぬところで最愛の婚約者を傷つけられたことへの、底知れない不快感か。
 シュナイゼルは身を翻し、確かな足取りで謁見の間を去った。


 本国ペンドラゴンでの実父シャルルとの無慈悲極まる謁見を終え、シュナイゼル・エル・ブリタニアがすべての予定を切り上げて、雪深きカストラリア王国へと戻ったのは、十二月の末日のことであった。
 カストラリアの首都リダニウムの街路は、新年を迎える賑やかな祝祭の空気に満ち、瑞々しい街路樹を彩る美しいイルミネーションが、白銀の世界を鮮やかに照らし出していた。上空の巡航高度から見下ろすと、それはまるで漆黒のビロードにぶちまけられた宝石箱のように、目眩がするほど煌びやかに輝いている。
 先代国王たちの崩御から十数年――復興と発展を遂げたカストラリア。「地上の天界」と呼ぶに相応しい夜景であった。
 しかし、シュナイゼルはその余韻に浸ることもなく、王室専用小型航空機の豪華な革製シートに深く身体を沈め、ただじっと堪えるように瞼を閉じていた。
 ペンドラゴン皇宮の門を潜り、本国の空港へと移動する道中から、車内にはすでに不穏で冷ややかな空気が流れていた。
 随伴していた彼の側近たる秘書は、シュナイゼルの斜め後ろの席で、主君のただならぬ気配に終始戸惑う様子を隠せずにいた。だが、その秘書の端末が静かに着信音を震わせ、彼が携帯を耳に当ててしばらくした時のこと――。
本国が自分たちを飛び越えて、外務省を経由せず、カストラリア王宮へ放った直接通達という最悪の事態をすべて把握したのだろう。秘書が絶望に息を呑む微かな声が、ジェットエンジンの低い駆動音に混ざってシュナイゼルの耳に届いた。

 窓の外では、カストラリアの険しい山々を覆うように重苦しい嵐が吹き荒れ、ガラス窓をガタガタと絶え間なく揺らしている。王宮の主寝室の暖炉には赤々と火が灯されていたが、室内に満ちる空気は、その熱を拒絶するかのように酷く張り詰め、凍てついていた。
 部屋の主である若き女王――ティラナ・ヴァル・カストリアは、豪奢な長椅子の背に力なく身体を預けていた。本国からの非情な通達をすでにその手で受理していた彼女の横顔には、いつもの快活さは影を潜め、隠しきれない意気消沈の色彩が色濃く滲んでいる。
部屋に入ってきたシュナイゼルの足音を耳にすると、ティラナはゆっくりと琥珀色の瞳を持ち上げた。
「……シュナイゼル」
「ただいま、ティラナ。……無事に帰国したよ」
 予定では、年末年始を挟んでの一週間をブリタニアで過ごすはずだった。今年が最後の帰省となるだろうからと。彼女の勧めに従い、カストラリアを発ったのは一昨日の夜のことだった。
 しかし、状況が変わった。
「……ただいま、ですって? おかしな人ね。そんな挨拶の前に、あなたには私に対して、何か他に言うべきことがあるのではないかしら?」
 ティラナの声音には、いつもの悪戯めいた響きはなく、研ぎ澄まされた刃のような、鋭利な硬さが混じっていた。彼女は傍らのテーブルに無造作に放り出されていた、ブリタニア皇帝の国章が捺された公式書簡を忌々しげに指先で弾いた。
「これは、どういう意味? いいえ……そうじゃないわね。これを読まれるとまずいから、戻ってきたの? それとも……私が悲しむ顔を見たくて戻ってきたの?」
「どれも違うよ」
「うそ」
 ぴしゃりと、否定的な一言が、シュナイゼルの言葉を拒むように撥ねつける。
 ティラナの頬には乾いたばかりの涙の痕跡。赤らんだ目元から、ジュクジュクと泥濘むような熱っぽさが伝わってくる。
「……そうしなければ、いけないんでしょう? ……これを開いて、よく読んでみてちょうだい。もし、カストラリア側がこの決定を受理しなければ、今後は『他のエリア制と同様の扱いを視野に入れる』と明確に脅迫めいた一文が記されている。それは……すなわち、カストラリアの主権と独立をこれ以上認めないという、事実上の宣戦布告に他ならない。……これまで我が国がブリタニアの保護政策のもとで、破格とも言える優遇措置を受けてきた見返りとして、貿易、企業、そして軍事協力の路線を誠実に敷いてきたわ。……シュナイゼル、あなたの助言によって……」
 じわりと涙がこぼれたのを、ティラナは親指できつく揉むように拭った。
「あなたの助言で……この国は再興した……」
 大きく息を吸い、吐き出す。湧き上がる悔しさを押し殺して、ティラナは奥歯を磨り潰すように噛み締めた。そして、その疑念に満ちた視線を、愛と信頼に懸けて、真実を暴こうと、目の前に佇む最愛の婚約者へと真っ直ぐに向けた。
 愛の前には理性が、信頼の前には奸計が。ティラナの頭脳のなかでは、優れた才覚を持つシュナイゼルが自分自身を陥れたのではないか――という不安が渦巻いている。
「こうなることを、……あなたは最初からすべて見越したうえで……ずっと私を騙していたの?」
「違うよ、ティラナ。それだけは誓って否定させてもらう。私は一度たりとも、君を欺くためにその手を握ったわけではない」
「……本当にそう言い切れるかしら?」
「私を、疑うのかい?」
 ティラナは自嘲気味に、首を傾けた。
「これまでの私の常識では、およそ考えも及ばなかった不条理な事態が、いま目の前で起きているのよ。科学者としても、一国の国家元首としても、あらゆる可能性を疑って一考するのは当然でしょう」
 ティラナは長椅子から立ち上がり、暖炉の火に照らされたシュナイゼルの美しい輪郭を、縋るように、その周囲を回り、激しく責め立てるように見つめた。
「カストラリアという小国を見捨てず、これまでブリタニアが多大な国力を割いて守ってくれたのは、我が国がもたらす実利と、私の頭脳を天秤にかけて『益がある』と判断したから。それは分かっているわ。損得とトレードは成立している。この部分に関して、私は追及しない。国際政治において誰だってそう判断するでしょうし、その点については、私はあなたにもブリタニアにも、心から感謝しているの。……だけど、昨日今日のそれとこれとは話が別よ。国家間の連携がどれほど強固であっても、二人の婚姻を果たさないなどと、……道理が通らないわ。契約不履行よ! ……両国間の、最も重要な政治的盟約のひとつであるはずなのに」
「そうだね。貴女の言う通りだ」
次第に泥濘み、涙声を絞り出すティラナの言葉に、シュナイゼルは同調した。
「……だったら、あなたは納得しているの? この、あまりにも不条理な決定に。……私に手を引かせようと……宥めるために帰ってきたの?」
 痛切な問いかけに対し、シュナイゼルは微かにその長い睫毛を伏せ、表情に薄い影を落とした。
「――これは、陛下の仰せのことだよ。臣下であり、子である私が、容易に覆せるものではない」
「陛下……ですって?」
 その言葉を聞いた瞬間、ティラナの眉がピクリと跳ね上がった。薄氷にピキリと、ひび割れる直前の切り立った緊張。咄嗟に、これは言葉を間違えたのだとシュナイゼルは理解した。
 彼女の瞳に、鋭い光が宿る。
「今、なんて言ったの? ……シュナイゼル。あなたの言う『陛下』は、あいにく二人……いるけれど?」
 神聖ブリタニア帝国皇帝シャルル・ジ・ブリタニア。そして、カストラリア王国の摂政であり、いずれ彼女の王配となるべき立場において彼が仕える主――すなわち、女王であるティラナ自身のことだ。
 どちらの陛下≠フ意志を最優先にしているのか、という痛烈な皮肉と問い。それを突きつけられたシュナイゼルは、珍しくはっきりと柳眉を八の字に下げ、迷子になった子供のように、どこか哀しげな顔をして見せた。
「父君のお考えに対し、私心を挟むことは私には出来ないんだよ。……私は……摂政や、貴女の婚約者である前に……ブリタニアの皇子なのだから」
 落ち着いた、宥め諭すようなシュナイゼルに、ティラナは頑として引き下がらない。むしろ火に油を注いでいた。
「私はブリタニア皇帝≠フご意思に従うよりも手前の、……あなた自身の本当の意志について尋ねているのよ、シュナイゼル!」
 感情を爆発させる激しい咆哮。主寝室に反響する声は、そこへ至る廊下にも伝わっている。影法師として様子をうかがう従者たちの気配が一斉に色めき立つ。シュナイゼルはただ動じることなく、興奮状態に陥るティラナの肩を、大きな手で優しく包み込み、人を虜にする美しいふたつの瞳が、真っ向からやりようのない怒りを受け止めた。
「私は、婚姻を全うするつもりでいるよ、ティラナ。その気持ちが揺らいだことは、ただの一度だってないさ」
「一度も……? 本当に、ブリタニアで何を言われようとも、一度も?」
「ああ。一度も、ね」
 確信に満ちた声音に、ティラナの身体から僅かに強張りが抜けた。しかし、この包み込む過酷な現実は何ひとつ変わらない。彼女は再び長椅子の肘掛けに深く凭れ、俯いたその美しい顔を、片手で覆い隠してしまった。
 大きな窓から差し込む、激しい風と、敷き詰められた灰色の冷たい影が、まるで彼女の背負う運命そのものであるかのように、その華奢な輪郭に重く降り注ぐ。
「……独立か、服従か。……国家の存続か、個人の幸福か。カストラリア国民の命か、あるいは、あなたとの婚姻か。……もし、私がこのままブリタニアへの服従を明確に拒めば、やはり戦争になるかしら?」
「そうだね。……帝国の強硬派は喜んで軍を動かすだろう」
「……そうなってしまったら、この国は確実に敗けるわ。なによりも、自ら中立国であることを放棄することになる。国際社会で批難に晒されて……本当の意味で、我が国は敗戦国と、被占領国に転落するのよ。そして弱体化した暁には、生き残るために中華連邦の懐に泣きつく羽目になり……最後には、カストラリアという国そのものが世界地図から消滅するかもしれない」
 そこまでを一息に紡ぎ、ティラナは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。瞳の奥では絶望を通り越した、冷徹極まる『狂気』と『覚悟』が、ギラギラと妖しく光り輝いていた。
「……ふふ、ようやく理解したわ。あなたの陛下≠ヘ……シュナイゼル・エル・ブリタニアという、私にとって世界で最も魅力的な『餌』を目の前にぶら下げることで、この私を、カストラリアを、都合よく制御しようとしているみたいね?」
 ティラナは低く、鈴を転がすような声で笑った。そして、すぐに表情を打ち消した。
「だけど、私はあの傲慢な皇帝の言いなりにだけは、絶対にならない。……すべてを、この手で手に入れてみせるわ。カストラリアの独立も、そして、あなたという存在も、そのすべてを」
「……一体、どうするつもりだい」
 シュナイゼルが問いかけるよりも早く、ティラナは弾かれたように立ち上がり、彼の胸元を強引に掴んで、背後の窓ガラスへと激しく押し付けた。ドスンと鈍い音が響き、冷たいガラス越しに、シュナイゼルの完璧な造形をの身体が固定される。
息を呑む間もなく、ティラナは彼の美しい唇を、貪るように、そして奪い去るように激しく塞いだ。
「……っ、ティラナ……」
 不意を突かれたシュナイゼルの唇から、微かな吐息が漏れる。唇を離したティラナは、至近距離で彼を見上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「簡単なことよ。とても、簡単なこと。――この世界が仕掛けてくるゲームの条件と同じ。最後までこの『舞台』の上に残り続けた方が、最終的な勝ちなんだから。ブリタニアが婚姻を凍結させたまま……国を搾取するつもりなら、私はその凍結された時間を逆に利用して、ブリタニアの喉元を掻き切るだけの牙を研いでみせる」
 不撓不屈の精神。殊勝な物言い、そして計り知れない生命と意志のエネルギー。
 ティラナは、シュナイゼルの見事な金髪に自らの細い指を深く絡め、その顔をさらに近づけた。
「私の言っている、この意味がわかる? シュナイゼル」
 最愛の婚約者が放った、あまりにも過激で、しかし至高の知性を孕んだ宣戦布告。
シュナイゼルは、自らの髪を弄ぶ彼女の手の感触を愉しむように、いつもよりもほんの少しだけ、その微笑みの溝を深くした。彼女の愛する瞳に、狂おしい色彩が灯っていく。まるで、新しい遊びを思いついた子供の誘いにのるように。
「……うん。ほんの少しだけ、毒の味がするよ。その口づけは」
 互いの睫毛が触れ合うほどの至近距離で、二人の王者はじっと見つめ合った。それはまるで、地球を見下ろす、冷然と美しい『月』との対話のようであった。
「……どうかしら。あなたを怒らせてしまったかもしれない」
「まさか。私は今、これ以上ないほどに、貴女という存在に魅了されているよ」
 ティラナはうんと背伸びをすると、シュナイゼルの広い額と鼻先をこすり合わせ、互いの呼吸を熱く交わらせた。そして、その端正な唇の肉厚な弾力を試すように、挑発的に、狂おしく彼の唇へと噛みついた。かすかな血の味が、二人の理性を完全に吹き飛ばす引き金となる。
 広い掌が、腰上のくびれを強引に引き寄せ、窓ガラスから引き離して広いベッドへと押し倒した。重なり合う二人の身体に、窓外の激しい吹雪の影が寒々と投げかけられる。
遠く、カストラリアの峻厳な山の輪郭さえも白むほどの、圧倒的な雪景色の向こう側で、吹き荒れる風音はまるで野生の馬の長い嘶きのように、王宮の周囲を激しく巡り続けていた。
 しかし、外界の凍てつく冬嵐とは裏腹に、主寝室の空気は急速に沸騰していく。
暖炉の中では、赤々と熱された薪の中でパチパチと炎が爆ぜ、火の粉を散らしていた。その爆ぜる音が、衣服を剥ぎ取り、互いの肌の温もりを貪り合う二人の甘い喘ぎ声と重なり合う。
「――っは……、ぁ……」
 国家を、世界を、運命を巻き込む過酷なチェスゲームの裏側で、二人はただお互いという絶対的な存在だけを求め合い、深い禁忌の秘め事へと溺れていく。



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午前四時の異邦人
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