りんごの花






「教会にいって懺悔しなくちゃ……」
 天蓋がもたらすビロードの、擬似的で小さな夜を見上げて、ティラナは独り言のように呟いた。
 教会の高い天井から跳ね返ってくる聖歌。秩序と理性に反動的なロマン派のレリーフの数々が、戒めるように見下ろしている。彫りの深い、陰影の濃さが天使と悪魔のように、天から睨み付けている光景が、ティラナの目の奥に浮かぶ。
 戒律を破ったのは、勢いと、こうしなければいけないような、今この時が分水嶺であるような気がしたからだ。
 玻璃の向こうに広がる山嶺の夜は、寂滅とした漆黒に閉ざされている。高級染料で染め上がったヴァイオレットに浸すように白い手を伸ばすと、薬指のブルー・ダイヤモンドが星屑のような微光を放った。エンゲージリングが、偽物の夜のなかで一等星のごとく燦然と輝いている。ふいに、その手を絡め取る大きな手が現れて、音もなく重なった。それから、彼の口元へ導かれて、慈しみの接吻が掌に触れた。
「外すのを忘れていたわ。すっかり。……擦れて傷になっていない?」
「傷になっても、シートがあるよ」
 治癒促進シートがあれば数時間で元通りだが、物理的な問題ではなく、気持ちの問題だとティラナは譲らず、念を押すように「……見せて」とせがんだ。
 白く精巧な陶器のように艶めく肌。一糸纏わぬ姿は、肌触りのよいブランケットに隠されている。
「どこにもないよ」
「いーいーかーらー!」
 仕方ないと、シュナイゼルは苦笑を交え、巨躯を反転させて広大な背を晒す。痕らしきものがないか、目を皿のようにしてティラナは探した。ぼそりと「手形があるわ」といって、白い肌のうえにやや赤らんだカエデのような形が残る箇所に、自分自身の手を置いた。爪を立てるなど許されない――と、指の腹や掌全体に力を込めていたからだ。そこから、人差し指でつうっと指で文字を書き始めて言い当てられるか試した。
「……くすぐったいよ」
「どう? なんて書いたかわかる?」
「愛している=c…ハートマークつきでね」
「むー……簡単だったか……」
 看破された口惜しさを隠しもせず、ティラナはさらに指先を走らせ、背の平原に得意の化学構造式の複雑な幾何学模様を描き出していく。
「広いから描き甲斐があっていいわ」
 描いては彼が答える一連の問答の遊戯の時間を楽しむが、やがてそれにも飽きたティラナは、ぴたっと背中にくっついては背骨に沿う窪みに鼻先をぐりぐりと擦つけた。
「今頃みんな青い顔をして、作戦会議しているに違いないわ」
 戒律破り。それどころか、婚姻条約の半永久的凍結の通達に戦々恐々としているに違いない。
「そうだね」と頷く声が、耳を寄せた皮膚の向こう、体の中で鼓動とともに深く響く。心音がゆるりと一定のペースで呼吸と混ざる。眠ってしまいそうだと、うつらうつらと意識が遠のき、瞼がとろんと下がってきたとき、唐突にティラナはその温もりを失った。
「……あ〜ん……、もうちょっとで眠れそうだったのに……」
「まだ早いよ」
「……もう十二時だもの。早くはないわ」
 沈んでいたマットレスが浮き上がり、彼が移動したのがわかった。ベッドから降りるのかと思いきや、再びスプリングが軋み、ティラナごと深く押し下がった。
「……シュナイゼル?」
「もう一度しようか」
 真上の双眸が、春の野に揺れる菫のようだ。心なしかキラキラと輝いて見える。
 疲れなど感じていないかのような誘いに、ティラナは諦めて欲しさに言い訳を繰り出す。
「……これでも本当に初めてだったのよ? もう少し労って欲しいわ。違和感が残ってる。……アドレナリンが出て、そんなに気にしていなかった痛みだってあるんだから」
「既成事実が、欲しいだろう?」
「十分できたわ」
 キスのしすぎでふやけた唇を、綺麗なのにしっかりとした男性的な太さの親指がなぞる。
「まだまだ、だよ」
シュナイゼルは首を、ビロードの布越しには見えぬ扉の方に振った。
「部屋の外に待ち構えている彼らに、私の方から迫った≠ニ貴女を庇う必要があるし……、それにはもう少し説得力が必要なのではないかな」
「それくらい、私の方からにしてもいいわ。……仕掛けたのは私の方だからといって」
「いけないよ。これから、神から王権を授かるのだから。きれいでいなければ」
 もっともらしい理由にティラナは不貞腐れるように唇をツンと尖らせた。そこを狙って、シュナイゼルはチュッと軽く音をたてて口づけた。
「日に日に、女性として実り豊かになる貴女に……欲情してしまった罪深い男だとね。その役割を、喜んで演じきろう」
 喜色の滲む笑みとともに首筋に顔を埋め、薄い皮膚に、ヒルのように強く吸いついた。
「ん……痛いわ。シュナイゼル」
 マーキングの痕跡を執拗に残しながら「意図せぬ、陵辱の証しさ」と彼は言った。
「嫌なこと言わないで。婚前交渉よ」
「……なるほど。それでは、今から、婚前交渉でいいかい? 第二幕の始まりだ」
「さっきが陵辱で、今からが本番ってこと? おかしな話」
 眉を持ち上げて、「ふふ」とシュナイゼルは悪計の遂行を喜ぶ悪戯少年の顔をした。
 既に原型を留めぬほどに乱脱した薄絹のネグリジェ。かろうじて下腹部を覆っていた布の襞を、シュナイゼルの大きな手が容赦なく剥ぎ取り、たくし上げていく。
 指先が触れ、そこが十分に濡れているかを確認するように深く割り込んでいく。引き抜かれた指が、蜜で細い糸を引いているのをじっと見下ろして、彼は愉しげに呟いた。
「いやらしいね」
 ――あなたがやっているんでしょうが。
 ティラナは言葉にせぬままジト目で見上げる。不満げなその視線を塞ぐように、シュナイゼルは再び彼女の唇を奪った。今度はただ重ねるだけではない。彼女の息を吸い尽くし、熱い舌で口内の隅々までを何度も何度も味わい尽くすような、濃厚で深い口づけだった。外気が肌を撫でたのも束の間、すぐに彼の圧倒的な質量と熱量が、ティラナの肢体を完全に敷き詰めた。
「あぁ……、シュナイゼル……、あ……っ……ん、んーっ……う……」
 ギッ、ギッ、ギッ、と重厚な木製の寝台が悲鳴のような軋み音を立て、それに追従するように、ヴァイオレットの天蓋から垂れ下がる幕が一体となって激しく揺れる。
 初めての夜――とは、甘い幸福ばかりではない。
 経験のない感覚の波に翻弄され、甘い喘ぎにも似た呻き声を洩らすティラナとは対照的に、シュナイゼルは驚異的な適応力をもってその行為を支配し、心底悦びに満ちた表情で快楽を貪っている。
 ――こんな表情をみるのは、はじめてかも……。
 ぼうっとする頭で、そんなことを思う。
 普段の完璧な仮面を剥ぎ取られ、剥き出しの熱を放つ婚約者。その姿をどこか冷静に見上げながら、ティラナの意識は強烈な睡魔に襲われていた。何しろ、いつもはこの時間には眠りに就いている。シュナイゼルをブリタニアに帰している間、執務に徹していた。長年彼の仕事だったものを、徐々に引き継いでいく課程では――並大抵ではない苦労を思い知った。
「……んう」
 痛く、違和感はあるけれど、彼がこれほど幸せそうならもういいじゃない、と――現実逃避を兼ねてこの数日間に思い馳せたあと、若干寝落ちしかけた、その時だった。
「ひゃあ……っ!? あ、んぅっ!?」
 突然、背筋が跳ね上がるような強烈な熱波が、ティラナの脳髄をダイレクトに貫いた。
 半分閉じかけていた琥珀色の瞳がパッと見開かれる。あまりに明確で嘘のつけない肉体の快反応。それは、シュナイゼルの突きの角度や深さが、ほんの数回前のものから劇的に変化したことを意味していた。
「……おや。今のは、とても良い反応だね」
 神がかった頭脳。
 理知的な菫色の双眸が、形を変えた愉悦に細められる。
 彼はほんの数往復の行為のなかで、ティラナが漏らすかすかな吐息の音、肌の粟立ち、筋肉の緊張と弛緩のデータを完璧に処理し、彼女の肉体が持つ「最も感じやすい絶対の法則」を早くも掴み取ってしまったのだ。一晩どころか、ものの数分でコツを完全に見出してみせたのである。
 ――そうだった、この人……そういう人だったわ……!
 ティラナは今更のように思い知った。この男が、手加減も妥協も知らぬ恐るべき男であったということを。
 それと同時に、自分自身の肉体が、あまりにも単純な生物学的ロジックによって快楽を暴かれ、支配されていくプロセスが、びっくりするほどにちょっぴり悔しかった。
 シュナイゼルにとって、最愛の彼女に行為を痛いもの∞嫌なもの≠ニして記憶させるわけには絶対にいかなかった。彼は何としても、この第二幕≠ナティラナに極上の悦びを教え込み、自分の腕の中に繋ぎ止めたいのだ。
「――貴女をその程度の、不完全な満足で終わらせるつもりはないよ」
「――シュナイゼル……?」
「一度や二度で治まらないみたいだ。私のこれ≠烽ヒ」
 これ≠ニはちょうど下腹部に入り込んでいる熱源のことである。
 嫌な予感がする。ぎこちなく、顔を引き攣らせてしまう。
 絶対の王者の風格を湛えた微笑みとともに、シュナイゼルは明確な猛攻態勢へと入った。
 先ほどまでの探りを入れるような動きは完全に消え去り、的確に、容赦なく、ティラナの最も弱い部分だけを抉るように、熱い質量が何度も何度も最奥を突き上げる。ビリビリと背筋に甘い電流が駆け上る。
「い……っ!? あ、うそ……っ、待って、シュナイゼル、あぁっ! も、もう、ダメ……っ! ダメってば……!」
「ダメではないよ。これからだよ」
 降参を告げる彼女の言葉など、今の彼には心地よいノイズに過ぎない。
 逃げ場をなくすように太腿を大きく開かれ、完全に組み敷かれたまま、ティラナは自分の理性が甘美な熱によってドロドロに融解していくのを自覚した。どんどんと体が作り替えられていく。もしくは、彼を取り込んで形質転換する細胞のような――。
 汗に濡れた指先がシーツを掻き毟り、逃げ場のない快楽のなかで、ティラナは必死に彼の強靭な肩へと組み付いた。
 狂おしいほどの熱量で迫る彼に、これ以上振り落とされないように、ただ本能のままにしがみつく。しかし、その必死の抵抗が二人の身体をさらに密着させ、最奥への容赦のない侵入を深く、より確実なものへと変えてしまう。
「――あ、う……っ! あ、あぁぁ……っ!」
 骨盤がぶつかり合うような強い圧迫感と、神経の芯を直撃する劇的な刺激。その二重の衝撃に、ティラナの背中がビクビクと弓なりに跳ね上がった。喉の奥から絞り出されたのは、もはや言葉の体をなさない、掠れた悲鳴のような喘ぎ声だった。
 脳裏を過るすべての思考が白く爆ぜていくなかで、視界の最上部に、あの菫色の双眸が降ってきた。
「気持ちいいね?」
 覗き込んできたシュナイゼルの顔には、盤上のキングを完璧な手順で追い詰めたときと同じ――絶対的な勝利を確信したチェスプレイヤーの、極上の微笑みが湛えられていた。
 ――悔しい。
 あまりにも悔しくて、ティラナは真っ赤に火照った顔のまま、涙の滲む琥珀色の瞳で彼をキッと睨みつけようとした。だが、肉体の芯まで完全に融解させられた彼女の視線には、彼を拒絶するだけの力など一微塵も残っていない。ただただ蕩けきった、情欲の熱を孕んだ誘惑としてしか機能しなかった。
 狂おしいほどに揺れるビロードの闇のなかで、二人の間には互いの呼気と、ひどく濃密な肌の匂いが立ち込めていた。激しい運動の後に漂う汗の臭いであるはずなのに、不思議と、上質なパルファムのようにも感じられてしまう。
 生物学的に自分を圧倒し、支配していくこの男が、少しばかし憎らしい。
 そんなティラナの幼く甘い抵抗を、すべて見透かしているかのように、シュナイゼルはふっと目元を和らげると、彼女の耳元へそっと唇を寄せた。
「愛しているよ、ティラナ。……私の可愛い、唯一の女王さま」
 鼓膜を優しく震わせる、どこまでも穏やかで、そして狂おしいほどに深い愛の囁き。
 ――ずるい人。
 そう思う間もなく、耳朶に触れた彼の唇が、再び心地よい電流を彼女の身体に走らせる。とめどなく、嵐が静まり返るまで、ずっと。
 


 a.t.b.二〇一七 April
 ドイツ アルテスラント


 欧州前線の混迷が深まる中、ドイツの北部ハンブルク近郊に位置するアルテスラントは、世界の喧騒から隔絶されたかのような、寂寂たる平穏に包まれていた。
 エルベ川の対岸に広がるこの広大な土地は、中世の高貴な建築様式を色濃く残す木組みの家々が、瑞々しい緑の芝生の上に整然と建ち並んでいる。初夏へと向かうこの季節、街の至る所に設えられたアーチには、赤やピンク、白といった色とりどりの高貴な薔薇が咲きこぼれ、甘やかな薫香で満ちていた。
そして何より、この地を象徴するりんごの花が、ようやくその可憐な蕾を解き始める季節でもあった。

 早朝の柔らかな光が庭木を照らす頃。
 庭の片隅にあるりんごの木に、待ち望んでいた瑞々しいピンクの花びらが小さく覗いているのを見つけ、一人の幼き少年が跳び上がるようにして歓喜した。その無垢な聖なる子の名は、ルークの愛称を持つルキウスであった。
 少年は、自分の小さな手のひらよりも愛らしいその開花を、一刻も早く大好きな人々に報せようと、細い足で懸命に屋敷の廊下を駆け込んでいった。
「セラ! セーラ! 花、咲いたよ! りんごの!」
 ドタドタと音を立てて飛び込んできた愛らしい主の姿に、エプロン姿のセラフィナは驚いて振り返り、すぐさまその美しい眉が自然と持ち上がった。
「ルーク、まさかまたあの大きな木に登られたのですか? だめですよ! りんごの枝はまだ折れやすくて、怪我をされてしまうかもしれないのですから!」
 日頃の温厚さからは想像もつかないほどに真剣な声音で窘められ、ルークは小さな肩をすくめて、きゅっと唇を結んだ。
「セラ、怒らないで……こわい」
「怒っているわけではありません、心配なのです。……さあ、こちらへおいでなさい」
 大粒の涙を溜めて縋り付いてくる幼子を、セラフィナは切ない愛おしさを込めて強く抱きしめた。
 かつて南方経済回廊の安定化において、参画国への莫大な利益供与と強固な信頼構築を成し遂げたカストラリア。その計り知れない功績を讃え、ドイツのヴィルヘルム皇太子から直接別荘と果樹園≠贈り物として譲り受けたのが、この邸宅であった。ティラナは、かつてクローンゼー城での亡命生活で親戚筋への心労を重ねていたセラフィナを労うため、この麗しき別荘の管理人として彼女を公に呼び寄せたのである。
「無鉄砲なところはお母様譲りね」
「むてっぽう……?」
「あとの事を考えないで行動すること」
 年齢に比例しない頭脳の発達は両親譲りで、難解な言葉を理解しなくとも、それが褒められていないことはわかるのか、むっと顔を曇らせた。だがその時、表の門から続く砂利道を静かに踏みしめる、重厚なタイヤの音が微かに響いた。ルークはその音を鋭く拾うと、ぱっと意識を窓の方へ移らせ、屋外に見えるお目当ての来訪者の影に、たちまちその顔を歓喜に染めた。
 ルークの視線の先。薔薇のアーチが連なるアプローチを歩いてくるのは、柔らかなカーディガンに可憐な花柄のスカート、足元には頑丈な厚いブーツを履き、顔立ちを隠す大きなサングラスに、風よけのスカーフで頭を覆ったティラナの姿であった。欧州の農村部であればどこででも見掛けるような、慎ましき一般的な主婦の格好そのものである。しかし、薔薇のアーチの奥の門前を固める高級車の待機列、鋭い視線を走らせる私服警護員たちの存在を見れば、彼女が断じてただの主婦≠ナはないことなど一目瞭然であった。

「女王陛下」

 終わりのない螺旋状の底を思わせる、一階ホールの美しい吹き抜け。そこに整列した使用人たちが、至高の敬意を込めて順に恭しく一礼する。その厳かな静寂を破るように、子供の明朗たる声が響き渡った。
 少年は絨毯の上を軽やかにステップを踏むように走り、母親の元へと迷わず飛びついた。
「ママ! ママ! おかえりなさい!」
「殿下、きちんとお姿を整えて、ご挨拶をなさってください。さっき練習したでしょう?」
後ろからセラフィナが慌てて礼儀作法を注意するも、今のルークにとってはそんな形式的な決まり事などお構いなしであった。母親の温もりに触れた喜びで、その包囲をすり抜けていく。
「ママ、あのね! アップルパイ、つくったんだよ!」
 少しでも母親の歓心を買おうと、一生懸命に小さな声を弾ませて自慢する我が子を見つめ、「まあ、ありがとう!」とティラナは仮面を脱ぎ捨てて破顔し、愛しい息子を愛おしげに抱き上げた。必死にその首にしがみつくルークの小さな背中を、セラフィナはどこか遠い目で見つめていた。
「いいえ。とんでもございません。陛下」
「喉が渇いたわ。お茶にしましょう。アップルパイを食べながら。……こら、ルーク! やめなさい」
 ティラナの顔に手を伸ばし、大きなサングラスを掴んでカチャカチャと下げたり上げたりを悪戯っぽく繰り返す子供の手を優しく咎めるが、そこに女王としての威厳は微塵もなかった。ただの、一人の愛深い母親の顔がそこにはあった。

 やがて、ルークが嬉しそうに侍女を伴って薔薇摘みのために庭の方へと出ていくのを、ティラナは時折、愛おしげに視線で追いかけていた。
陽光が優しく降り注ぐテラスの、白いアイアンチェアに腰掛け、ルークが手伝って作ったアップルパイを優雅に口へと運ぶティラナ。その傍らに静かに寄り添い、紅茶を注ぎ終えたセラフィナが、周囲に他の者がいないことを確認してから、そっと静かに話しかけた。
「……ルキウス様は、段々とその向こう見ずなところがティラナ様に似てこられましたね。……ですが、その気品溢れるお姿の造形だけは、あまりにも『あの方』に生き写しでいらっしゃるので、時に頭がおかしくなりそう」
「ん〜……それは否定できないわね! 私も時々、ミニチュアの彼に見つめられているような奇妙な錯覚に陥るもの」
 苦笑まじりに美しい肩をすくめるティラナ。その表情を見つめながら、セラフィナは居住まいを正し、他の使用人たちに決して聞こえないよう、さらにそっと声を潜めて本質を尋ねた。これが余計な世話焼きであり、越権行為だと分かってはいても、ルークを数日間預かり、その様子を間近で見ていたからこそ、言わずにはいられなかったのだ。少年は、幼いながらに自らの環境を理解し、かなり寂しい思いを隠している。優秀な乳母やナニーがどれほど手厚く面倒を看ていようとも、彼にとって本物の母親の代わりなどどこにもおらず、少年の世界の中心には、常にこの偉大な母親がいるのだ。
「……ティラナ。シュナイゼル殿下とは、次はいつお会いになるご予定なの?」
「……ええっと、次はたしか……、欧州サミットだったはずよ。公式には我が国の首相が出席するのだけれど、裏の方で殿下から直接の招待をいただいていてね。その時もまた、数日間お世話になるわ。……セラフィナ、……貴女には本当に悪いんだけど不在の間、ルークを頼めるかしら」
 この通り、彼女は一国の命運を握る女王であり、同時に世界最高峰の頭脳を持つ科学者でもある。四六時中、我が子と一緒にいるどころか、顔を直接合わせることすら叶わない日もあるのが現実だった。
 訳ありの王族は、一般的な幸福な家族のようには暮らせない。――無論、セラフィナ自身でさえ、親子の団欒とは縁遠い過酷な子供時代を過ごしてきた身であったが、少なくとも彼女の周りには、親戚筋の従姉妹たちが大勢いた。それこそ、かつてはティラナ自身が、彼女にとって最高に刺激的な遊び相手であったように。
 だが、この小さなルキウスにはそれがない。
 世界からその存在を完全に秘匿されし、孤独な王子。世界を欺く両親の間に誕生した、カストラリア王国の次代を担う、唯一無二の正統なる後継者なのだから。
 セラフィナはこうなるに至ってしまった経緯を密かに振り返り、口端を緩め頷いてみせた。
「……もちろん。託児所でも、ナニーでも、私にできることであればなんなりと、喜んでお引き受けいたします」
 セラフィナは、元公爵令嬢としての完璧な気品をもって、深く一礼した。
 当初、マズーレン湖水地方に位置するクローンゼー城にて、サロニア公の血筋であるというだけでベルケス公爵一家の刺すような厳しい視線に晒され、息の詰まるような心労を重ねていた頃に比べれば、この薔薇とりんごに囲まれたアルテスラントでの生活は、彼女にとっても救いそのものであったのだ。
「こっちに移ってきて、少しは気が楽になった?」
「ええ。……あのお城での暮らしも決して悪くはなかったけれど……やはり、どうしても気を遣ってしまいましたから。……ですから、こうして別荘の管理をお任せいただけたこと、本当に心から感謝しております。陛下」
「そう。よかった」
 ティラナはそう言い――甘いアップルパイに、渋みの強い二杯目の紅茶を啜る。
 テラスの向こうでは、ルークが侍女たちに囲まれながら、嬉しそうに真っ赤な薔薇の茎をハサミで切り取っている姿が見えた。切り取った薔薇をこちらに向けて誇らしげに掲げる無垢な少年の姿が。


 聖なる日曜日。
 アルテスラントに響き渡る厳かな鐘の音に導かれ、ティラナたちは近くの教会へと日曜礼拝に足を運んでいた。復活祭――イースターの華やかな喧騒が一段落したばかりの聖堂内は、静謐で、どこか落ち着いた祈りの空気に満たされている。
 聖歌の残響が心地よく跳ね返る回廊を歩いていると、セラフィナがふと、前方の祭壇近くで一心に奉仕活動に励む一人の少年に目を留めた。
 ハンブルクの名門・ヨハネウム学院の制服に身を包んだ、まだ幼さの残る少年。
「彼、ここの教会で奉仕活動をしていて、よく見掛けるの」
 セラフィナの言葉に誘われるようにして、ティラナはその少年の横顔を視界に収めた。その瞬間、彼女の背筋に、原因不明の冷たい電流が走った。
「……たしかに。すごく似ているわね。生き写しみたい……。まるで――、弟みたい……」
「まるで……?」
セラフィナが不思議そうに首を傾げる。だが、ティラナの耳にその声は届いていなかった。
「ティラナ……?」
 突如として、脳髄の奥底から強烈な『変な感覚』が競り上がってきた。
「え?」
 ティラナは何事かとセラフィナの方を向いた。無意識に口走ったものに驚いて。また混乱して。
「……大丈夫? ティラナ……」
「……いま、弟って言った?」
「弟……? ええ……たしかに、そう言ったわ。……弟って誰のこと?」
「誰……?」
 もう一度、長椅子のその場所からパイプオルガンを弾く少年の後ろ姿を見上げる。混じりけのない金。柔らかくカールし、ぴかぴかと光に反射する。幼い息子や、その彼の父の持つ本物の金色のように。
 なによりも、このやり取りを――過去にも、している。
 そっと側頭部に指を這わせる。

 ――よく似ている弟はいるが……年齢は一回りほど離れているよ。
 ――それじゃあ、あなたの弟とは会ったわけじゃないのね。

 脳裏に蘇るやり取り。シュナイゼルとの会話と、その時に見つめていた彼の胸元のシャツの色が鮮明になっていく。
 なぜこの話題になったのか、記憶の糸をたどる。そう――あの夢をみたからだ。
 ――ブリタニア、ウィルゴ宮で……。
 見たこともない、しかし確実に知っているはずの、金色の長い髪をした少年の顔。その残像が、頭の中で幾重にも混ざり込み、激しいノイズとなって視界を歪める。どうして唐突に、そんな存在しない記憶≠思い出したのか。
 ――あの子……。あの夢の中にいた、あの子は……。……だめ、わからない……。
 混濁する意識を押し潰すように、彼女の脳内で灰色の絵の具がべったりと塗りたくられていく。記憶の引き出しをこれ以上開けさせまいとする強烈な自己防衛システム。重たい絵筆が記憶のキャンバスを乱暴に覆い隠し、すべてを忘却の彼方へと追いやっていく。
 「……なにか、大切なことを忘れている気がする……」
こめかみを押さえ、苦しげに息を吐き出すティラナ。その琥珀色の瞳を見つめながら、彼女は自嘲気味に、心の中で呟いた。
 ――これも……あの、叔父に施されたギアスという『力』のせい、だというの……?


 教会から別荘の邸宅に戻ると、ティラナは私室のデスクに向かい、最高機密の暗号化独立回線を起動させた。
 時差は約九時間。南西ブリタニアは、今まさに深夜零時を迎えた頃だろう。あちらでの彼の多忙を極める生活ぶりを考えれば、この時間でもまだベッドに入っていないことは容易に想像がついた。
 コール音が数回鳴った後、スピーカーから『やあ』という、どこまでも温かで、鼓膜に心地よく響く声音が帰ってきた。
「遅くにごめんなさい、シュナイゼル。もう、お休みになるところだったかしら?」
『いいや、ちょうど公務を一段落させて、シャワーを浴び終えたところだよ。……今は、アルテスラントにいるね?』
 通信の向こう側で、カツン、とブランデーのボトルとクリスタルグラスがテーブルに置かれる、微かな音が響いた。彼の前には今、あの完璧な造形の指先がグラスを傾けているのだろう。
「ええ。イースターが終わって……ようやくこちらでもほっと一息つけるわ。……昨日やっと、この別荘に戻ってこられたの。カノンがブリタニアへ戻るのと入れ違いになってしまったのが、少し残念だけれど」
『ふふ、彼からはすでに素晴らしいお土産を預かったよ。ルークからだね。りんごの花の、美しい押し花のしおりを貰った。とても嬉しかったよ』
「ああ、やっぱりあの子、隣の家からいただいた花を、自分でせっせと押し花にしていたのね。昨日やっと、うちの庭の方のりんごの花も咲いたところなのよ。……聞いて、今朝、花が咲いたのが嬉しくて、あの木によじ登ったんですって」
 そんな他愛のない、けれど何にも代えがたい家族の情景を愛おしそうに紡いでいたティラナの声が、ふっと小さく落ち着いたトーンへと切り替わった。
 ほんのつい先ほど教会で見た金髪の少年の残像と、頭を塗りつぶしたあの不自然な灰色のノイズが、冷たい澱のように蘇ってくる。
「……シュナイゼル。実はね、少し思い出したことがあるの……」
 唐突に落ちてきた重みのある声に、通信の向こうのシュナイゼルは、グラスを傾ける手を僅かに止めた。彼女の驚異的な頭脳が、ただの世間話の延長でそんな前置きをするはずがない。
 シュナイゼルは記憶の回復を手伝うことはあっても、彼自身から仕向けることはない。必要な時に、必要なだけのヒントを授ける。ティラナが壊れてしまわないように、辻褄のあわない出来事も受け流して。それが、もう五年も前の不可解な出来事の再確認であったとしても。
「……単刀直入にいうと……あの、エリア十一に訪問したことがあったでしょう。遺跡調査の件のことなの」
 通信画面の向こう。グラスのなかの氷塊が溶けて、硝子とぶつかる音がカラリと響く。
「……あの島で……、誰かと会ったのではないか……と、思って」
『誰かと? ……たしか、あの島……神根島だったかな。……神根島は無人島だ』
「わかっているわ」
 ティラナは画面の向こうの最愛の男に向けて、こくんと小さく、しかし明確に頷いた。
「……遺跡調査に出たあの日、自動でバックアップデータが取れるように設定してあったの。たしかに私はあの島にいって……神殿の周辺まで行って、写真まで撮っているのに、その時の記憶が脳内に全くないのよ。公式には『熱中症で倒れた』ということになっているけれど、冷静にロジックを組み立てるほどにおかしいわ。私が倒れていたとされる砂浜から神殿までは、一〇〇メートルも離れていた。そんな状態で、まともな意識もない人間が移動できるはずがないもの」
 その画像で得ていた違和感。随行員は浜辺で倒れているティラナを確認しているが、その直前の行動に不自然な点はなかったという。だが、画像には――神殿の入り口と思しき洞穴を撮影したデータが残存している。食い違う証言、記憶とデータ。この三つがトライアングルを形成しぐるぐると回転している。
 あまりにも不自然。あまりにも非論理的。
 ティラナの理性が、その空白の時間をただの病気≠ニして処理することを頑なに拒んでいた。
『何者かが関与しているのではないか、と? あの、不毛の無人島に……』
「……ええ。私はあの日、あの島で、確実に誰かと会っているわ。今日……それについて、ほんの断片的な――何かを少し思い出せそうになったのだけど。……脳が、それを思い出そうとすることを自然と拒絶するの。べったりと重たい絵の具で隠されるみたいにね。……シュナイゼル。私に起きているこういう不可解な現象は……、初めてじゃないでしょう?」
 過去、叔父アルディックのギアス≠ニ呼ばれる力に操られ、肉体まで変えられた過酷な記憶の混濁。自分の脳が、特定の事象に対して不自然な拒絶反応を示すその『感覚』を、ティラナは誰よりも恐ろしく、そして正確に知っていた。
『……あの男と、同類の力、ということかい?』
「そう睨んでいるわ。だから……なんとか、その手がかりを探るために、もう一度あの神根島に――」
『――……神根島に再訪願いたい……ということかい? ……それならば、相談相手はクロヴィスになるね』
 シュナイゼルは彼女の言葉を引き継いで、しかしどこまでも穏やかに、その最適解となる異母弟の名を口にした。
『今、エリア十一の総督を彼が任じている。神根島はその管轄下にあるからね……再訪問を申し出るなら、直接クロヴィスに頼むといい。……事態が事態だ。それとも、私の方から事前に彼へ口添えをしておこうか』
「……いいえ、大丈夫よ。アポくらいは自分で取れるわ。あなたをこれ以上煩わせたくなくて、ちょっと訊いてみただけだから。……クロヴィスと直接やり取りをするのは、二年前、うちに遊びに来て以来かもしれないわね」
『ふふ、その節は、私の我が儘な弟が大変世話になった』
「とんでもない。賑やかで楽しかったわ」
 二年前の夏――。
 ほんの四日間の短い公式視察日程で、第三皇子クロヴィスはカストラリアの地を踏んだ。ティラナは彼を、歴史ある『ドゥム・カ・ヴァイの離宮』や、王室の栄華を象徴する『フォンス・レガリス』といった豪奢な別荘でもてなした。元より芸術を愛するクロヴィスは、滞在中も「史跡巡りがしたい」「博物館や美術館へ行きたい」と熱心に願い出て、およそ公務よりも個人の趣味の色合いが強い時間を過ごしていった。その自由奔放な様子は当然ブリタニア本国にも詳細な報告が上がっており、帰国後、彼は実父である皇帝シャルルから軽い注意を受ける羽目になったようだが、ティラナにとってはどこか憎めない、古き良き思い出のひとつであった。
 ティラナは小さく笑みを返しながらも、脳裏に潜む灰色の霧の向こう側をじっと見つめていた。エリア十一――かつて日本と呼ばれた、あの極東の島国の荒涼とした景色を。自分から大切な記憶のピースを奪い去った不気味な空白地帯。
 その時、静まり返った私室の扉の隙間から、じっとこちらを窺う小さな気配があることにティラナは気づいた。
視線を向ければ、そこには小さな身体を縮めるようにして様子を見つめる、愛しい我が子の姿。
「ママ」
「おいで、ルーク!」
 ティラナはすかさず暗号化通信機の前に座ったまま、両腕を大きく左右に広げて、最愛の宝物をその胸の中へと迎え入れた。その小さな身体を確かな温もりとともに抱きしめ、柔らかい金髪の頭を優しく撫でながら、ティラナは愛おしげに囁きかける。
「ほら、ルーク。あなたが一生懸命に作ったと言っていた、あの綺麗なりんごの花のしおりね。あなたのダディがちゃんと受け取ってくれたって。とっても、とっても喜んでいたわよ?」
 その言葉を聞いた瞬間、ルークの瞳が、ぱっと弾けるように嬉しそうに輝いた。まだ完全に定まりきっていない、青みの混じる不思議な宇宙の色彩。彼独自の淡いヘーゼルの瞳が、まるで春の花が開くかのように鮮やかに花やぐ。
『そろそろお昼寝の時間かな?』
「少し早いけど、いつものお願いする?」
 画面の先の、真夜中にいる彼の方が眠そうな顔をしているとは、あえて指摘しない。ティラナは、お馴染みとなった読み聞かせをしてもらおうかとルークを誘う。「ダディのおこえ、すぐ眠くなっちゃうからイヤ」とルークが不満を垂れると、シュナイゼルは『夢の神だからさ』と返し、前回途中で終えていた絵本の続きを読み始めた。
 遠く隔てた神聖ブリタニア帝国の深い真夜中と、ここアルテスラントの静かな午前。
 安息日がもたらす柔らかで和やかな春風が、窓の外でりんごの木の葉をサラサラと心地よく揺らしている。
 やがて、蕩々と穏やかな声音で絵本の読み聞かせを続けていくうちに、膝の上に乗せているルークの長い睫毛が震え、その瞼がとろんと重たげに下がっていった。ティラナはそっと絵本を閉じると、小さな寝息を立て始めた彼を抱き上げ、柔らかなベッドへと静かに横たえた。
 ふぅ、と小さく息を吐いてデスクへと戻り、まだ繋がったままの通信機へと視線を落とす。
「シュナイゼル〜?……」
 モニターの向こうの最愛の男へとそっと呼びかけるが、画面の先の彼はぴくりとも微動だにしない。そこには、普段の完璧な仮面を完全に下ろし、静かに深い眠りに就いている宰相閣下の寝顔があった。
 少し前にシャワーを浴び終えたばかりだと言っていた通り、ほんのりと湿り気を帯びた金髪が、いつもより無防備にその額へ零れている。その穏やかな寝顔は、つい先ほどまで自分の腕の中で眠りに就いたルークの横顔に、驚くほどよく似ていた。親子そっくりの、血の繋がりを否定させない至高の造形。
 このまま最高機密の通信を切ってしまおうか、ティラナは一瞬迷った。
 けれど、彼が激務の合間にふと目を覚ましたとき、何も映っていない漆黒のモニターだけを目にすれば、どれほど孤独で空しい思いを抱くだろうか――そう考えると、どうしても回線を切る気にはなれず、そのまま接続を維持しておくことにした。
 窓の外からは、りんごの木を止まり木にする小鳥たちの、愛らしい囀りが微かに聞こえてくる。
 世界を揺るがす二人の男たちの眠りに守られるようにして、ティラナ自身もまた、心地よく穏やかな眠気へと優しく誘われていくのだった。
 



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午前四時の異邦人
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