a.t.b.二〇一三 January
カストラリア王宮 王の応接間
王の応接間に通された禁欲的なキャソック姿の男は人知れず指を擦り合わせた。その部屋に、その王宮に、その場所に。呼び立てられる事があるときは、よからぬ予感が走り、言い知れぬ気配を感じている。ジーン枢機卿は先代の国王の頃より、身をもって学習していた。その血を継承する娘も同じように、秘密の葬儀を執り行いたいと申し出たのがたった半年前のことで、そしてまた今、新しく――この年明けの神聖な時間を待たずして話があると呼び立てられている。身構えるのも無理のない話である。
質素な教会の中の事務室にある木製の椅子よりも、はるかに良質な綿を詰め込み、拘り抜かれ意匠を凝らした椅子。謁見を許された者のなかで何名が同じ感想を抱くだろうか。
開け放たれた扉に侍従が顎を高く、胸を張った姿勢で現れた。それは、準備が整い、もうまもなく到着する≠ニいう合図だ。絨毯に吸収される足音が二人分、広い廊下の奥から応接間の方へ向かってくる。
扉に人影が差したとき、立ち上がって待っていたジーン枢機卿は「女王陛下」と頭を垂れた。
「ごめんなさい、お待たせして。ジーン枢機卿」
「然程のことでもありません。……素晴らしいソファだと感激しておりました」
殆ど待っていない。それは本当のことだ。応接間に入って数分経ったか、経っていないか。ただ本来は待っているはずだった――ということだ。年若く、聡明な女性君主の一歩半後ろで、無色透明な影のように控えている大男のことが気がかりだった。
「長話にぴったりのソファね」
懸念とは裏腹に。女王は得意のユーモアを滲ませて、鷹揚に相槌を打った。ささやかな観察眼ではあるものの、ジーン枢機卿は、なぜ、彼女が人々が休まる年明け間もない日に呼び立てられたのか≠ずっと考えていたが、その謎はすぐに解けそうだと。
女王の若々しい、艶やかな肌が、ひび割れた冬には似つかわしくない明るさを打ち出している。洗いたての石鹸の香りや、肌なじみのよい口紅の発色の良さは塗り立てのようだ。日の高い正午の時間帯にはやや、不似合いなコンディション。
視線をあわせたまま微笑みの型紙を維持する。つまり、その通りに、長話になるということである。
なによりも――。
「……殿下も、お話しに参加なさるのですか?」
懺悔に同伴者がいる。その同伴者の男からも、やはり清潔感ある石鹸の香りが漂ってくる。ジーン枢機卿はほのかに胃の辺りが痛むような気がした。
「ええ。……なにかいけないかしら?」
「いいえ! そういうわけではございません。……しかし……」
言いかけると、何か?≠ニ逃げた先の視線が、聖人の微笑とともに小首を傾げるシュナイゼルの双眸と交じる。
「……用件といいますのは……、なんでも、告解を行いたいと触れがございましたが」
もはや答えはわかりきっている。
肩同士の距離の狭さや、意識しないように努めてぎこちなくなる所作、瞳の色や動き、シュナイゼルはともかく――隠しきれていない。
言葉にせずとも、伝わる。男女の仲に相成ったのだと。一線を越えてしまったのを打ち明ける場なのだと。結婚式の話は度々持ち上がっていたが、戴冠式の予定を考慮し、最低でも半年ほどの間隔を要する。すると、もうあと一年の辛抱である。年頃の、現代的な男女が、肉欲への希求と好奇心、挑戦を抑えられるだろうか。それも昨日今日知り合った相手ではなく、明日も数十年後も共にいる関係性であるならば――多少の猶予と寛大な慈悲をもって赦しが認められないだろうか――。
ジーン枢機卿はたった一人呼び出された聖職者だが、結局はその話を他の聖職者にも事後承諾として周知せねばならない。万が一、時期尚早な懐妊が発覚した場合、不埒な勘繰りを避け、御子の洗礼を執り行うには守秘義務の徹底は不可能であるからだ。
「……あのう……、……簡潔に話すならば……褒められた話ではないことは承知なのだけど……、関係を持ったの。……シュナイゼルと。関係というのは、肉体的な接触のことで……」
「陛下」
皆まで言うな――と念を込めて、尊称を呼ぶ。女王の告白に、やはりそうだったと、ジーン枢機卿は溜息を堪えた。
女王は「あまり驚かないのね?」と不思議そうな顔をした。
「……失礼を承知で申し上げますが、おふたりの仲睦まじさを鑑みると、そうではないかと思い至った次第でございます」
「そ……そう……? ……で、でもね……ただ、若気の至りで勢いづいたわけではなくて……ちゃんと理由はあるの。その理由をお話ししたうえで、今後の話をしたいの。構わない?」
「……ええ。神の僕として、なんなりとお聞きいたします」
ティラナはふっと表情を引き締めると、応接間の高い窓の向こう、凍てつく冬の空へと一瞥をくれ、再びジーン枢機卿の方に向き直った。
「……告解だけで済めば良かったけれど……事態はもっと深刻です」
「は、はあ……。と、いいますと?」
ジーン枢機卿の微かな動揺を肯定するように、ティラナは声を低くして本題を切り出した。
「結婚に問題が生じたの。……外交上の、政治的な問題で」
「政治的な、問題でありますか?」
「婚姻を凍結せよとの通知書を受けています。ブリタニアの主上から。つまり――婚姻条約を反故にする事です。理由は明かされていません。我が国の存続がクーデターから十二年も維持されているのは、ブリタニアの威光を借りているからです」
その言葉の重みに、枢機卿の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。神聖ブリタニア帝国という巨人がその意思を翻したとき、この小さな王国が被るであろう不利益は計り知れない。
「婚姻は事実上同盟関係を強固にするものですが、凍結維持の勅命を受けたらば従わざるを得ません。……理由は、言わずもがな……」
「不服を申し立てるなど明らかにすれば、対立の口実を与する、そうお考えなのですね」
「ええ。……攻め入る口実を自ら作ることになります。表向きにエリア制度に組み込まれた庇護を受けているものの、他の被占領国と比較すれば占領≠ネど飾りでしかありません。異例も異例、特例措置です。今まではそれでよかったかもしれない。しかし……、偽りを真にする機会があれば、かの覇者は力を行使することを厭わないでしょう」
旧日本と比較すればその差は歴然である。誰が、飢え、痩せ細り、瓦礫の傘の下で暮らしているだろうか。この国に瓦礫はなく、ブリタニア人は入植せず、多種多様のルーツを持つ亡命者の末裔が、高水準の生活を営み続けている。
「そもそもの話、我が国は戦争はできません。攻撃を受ければ応戦は十分可能ですが、数百年の不戦神話を崩すことになります。国家生命線を絶つ、自殺行為です。安全な中立国に価値を見出す者に切り捨てられてしまったとしたら? 国内が戦場と化すれば、すぐさま中華連邦が入り込んでくるでしょう」
すべてが、瓦解する。
「国を取り上げられるか、傀儡化か。和解には人質になることもあります。他の中華連邦≠ノ連なる元国家のように」
切々と語るティラナの言葉を、傍らに佇むシュナイゼルは静かに、肯定的な深い眼差しで見守っていた。大帝国の第二皇子でありながら、彼は完全にこの王国の女王と一蓮托生である道を選んでいるようだった。
「なにごとも、防衛策を講じることは無駄ではないと考えています」
「策といいますと、いったい?」
「結婚です」
ジーン枢機卿は、眉を顰めた。
「お察しのように、公に挙げることはできません」
恐ろしい計画の始まりに触れたような、悍ましさに目眩がした。慎重に意図を測り、女王が口にしたばかりの真意を追及する。
「……欺くと……おっしゃるのですね?」
「そう。ブリタニアを……欺くことになります」
今一度、傍らで話に耳を傾ける第二皇子に、視線を巡らせる。
「秘密の婚姻を、望んでいます。ジーン枢機卿」
シュナイゼルが口を開くことを遮り、責任を奪い取るようにティラナは言葉を重ねた。
言葉が出てこなかった。半年前には秘密の葬儀を執り行い、その次は、秘密の結婚式である。
「……万が一、ブリタニアが我が国に矛を向ることがあったとき、切り札が必要になる」
「……御子さまでざいますね?」
女王はゆっくりと顎を引いた。
「対中華連邦にも、対ブリタニアにも有効なカードです。……私も、中華連邦に絡む件で伯父や伯母を亡くしています。嫁ぐなんてことは、もっとも愚かで最悪なことです。避けたい一手。だからこそ……父も、この婚姻を受け入れたのだと思います」
ジーン枢機卿は先王の苦渋の葛藤と苦悩、そして決断を知っていた。たった一人の後継者の人生を国のために捻じ曲げる、苦渋の決断を。
「もっとも……伯父や伯母の死がなければ、私は女王になることはなかったでしょう。ただの縁戚筋の公爵家の娘としての人生もあったはずです。クーデターほどの大事にもならず、国家が機能不全に陥ることも避けられた」
静かに吐露された女王の覚悟。血塗られた王座に就いた彼女の双眸には、いかなる脅威にも屈せぬ鋼の意志が宿っていた。
シュナイゼルはそっと彼女の細い肩に手を添え、まるでその重荷を半分引き受けるかのように、枢機卿へ向けていつもの穏やかな、しかし反論を許さぬ完璧な微笑を向けた。
裾の下で、混沌と緊張の糸をほぐすように、指同士を擦り合わせる。
国家を守るためには必要な、禁忌破りであった――それが、女王の弁である。そして、それを正当化するためには、秘密の結婚式を挙げる必要があると説いているのだ。
ああ――、悩みの種が増えた、と。そう悟ったときには、手遅れだった。
a.t.b.二〇一七 May
カストラリア王宮 執務室
画面に映し出されたのは、五年前に撮影されたきり、自動バックアップによって端末の奥深くに眠っていた共有データだった。二〇一二年の神根島遺跡調査――あの不可解な記憶喪失の疑惑に満ちた事件の、数少ない物理的な記録。
曇り空に包まれるカストラリアの午前の執務室は、精彩を欠き、灰色の記憶の鈍い色調に包まれている。
ティラナは食い入るように画面を見つめ、当時の不自然な状況を脳内で再現しようと試みていた。画像内の洞窟入り口の白い岩壁の影の状態を見るに、直射日光を浴びていたわけでもない。それどころか、洞窟からは鳥肌がたつほどのひやりとした冷気を感じていたはずだ。それなのに、なぜ自分たちの記憶はあの場所を境に、霧の彼方へ消え去ってしまったのか。五年の歳月を経てもなお、頼れるのは曖昧な記憶の残滓ばかりであった。
「……もっと大切ななにかを……あのとき、憶えていたはず」
自分の中で見つけていた事柄。喉の奥に魚の小骨が突っかかったような違和感。その小さなきっかけさえ、自分で掴めなければ、他人に尋ねられもしない。協力的なシュナイゼルであっても、お手上げである。ティラナが理解しないこと、関知しないことを――彼は進んで明かすようなことをしないからだ。
思考の迷宮を抜け出すように、彼女は手元の端末を操作し、ある人物へのプライベート回線へと接続した。
「……お世話になっています。私、カストラリア王国……、ああこれプライベート回線だから挨拶はよかったのかしら……クロヴィス殿下?」
研究方面では、代理人を通さずやり取りをすることも多い。いつもの調子で架電したが、電話口では、間違い電話か悪戯電話ではなかと怪しむ文官の囁きを拾っている。彼らのいうように通常、国家元首が身内以外に直通架電など行わない。
「こちらはプライベート用回線のはずですが、あなた方が判断されることでしょうか?」
『失礼いたしました。クロヴィス殿下はただいま席を外しておられます――で、殿下ッ!?』
『よい。下がれ』
受話器の向こうで慌ただしい足音が響き、次いで聞き慣れた、どこか華やかで気品のある声が鼓膜を震わせた。
『側近の非礼をお詫びします義姉上。この私めに何用でございましょう』
「お忙しいところ失礼するわ。手短に用件を伝えるわ――」
直球でお願いしようと口を開こうとしたのを、クロヴィスは穏やかに制した。
『ちょうど会食から戻ってきたところでして。今から休憩の予定でしたので、そう急ぐこともありません』
「そう?」
相変わらず優雅な義弟の態度に、ティラナは小さく息を吐いた。
この嫋やかな態度は、ブリタニア皇室の、特に生まれの早い男子特有の性質なのだろうか。
『お元気そうでなによりです。この一週間、貴女のお顔を見掛けない日は一日たりとも存在しない。……博士号取得おめでとうございます。ティラナ義姉上』
「……ありがとう。クロヴィス。正式取得には半年ほどかかるから、昨日今日で簡単に取れるものではないわ」
生化学分野にて、ティラナは四つ目の博士号取得の功績をあげた。その世界的なニュースは、すでにブリタニアの皇族たちの耳にも届いていた。
『これで邪推ばかりを垂れ流すハイエナ共には、良いお灸になったでしょう。兄上から祝電は、もう?』
「いただいているわ。今週頭だったかしら。……公私ともに。もう少ししたらタブロイド紙にも取り上げられるはず」
『あまり嬉そうではありませんね?』
耳聡く、クロヴィスはティラナが喜びに浸るよりも、どこか憂いているのを指摘した。人のことをよく見ているもやはり兄弟の血か。母親違いであっても兄に似ている。
「そうかしら? ……たしかにもっと浮かれていてもいいかもしれないけれど、その辺は複雑な心境なの」
サロニア公爵がもたらした人体改造事件。把握する被害者数だけでものべ二三四人。そのうち現生存者数は七八人。実験の初期段階、身元割り出しが不可能であった犠牲者や、現在も行方不明扱いとなっているケースを会わせても、潜在的被害者数は二〇〇〇名を超える試算である。
被害者救済プロジェクトを発足し、その治療と回復と生活支援を行っている。
度重なる人体改造により、過剰複製された細胞や遺伝子により重度の造血機能障害や、二次障害を患う患者の存在が、その問題解決に四つめの博士号取得に至る道筋をつくった。なんと皮肉な因果であろうか。罪を購うために、救済といいながら、同じ被害者を利用して功績を讃えられるなど。
自嘲気味に微笑みを崩す。まばゆいばかりの賞賛と祝福の嵐。
かえってそれは痛みとなって、自分の周囲をまきびし地獄が包囲していく。善行をなしているはずなのに、罪の具が厚みを蓄えていくような感覚に、周囲との温度差を感じていた。それを筆頭侍医のひとりとなったDr.ゼーバッハに打ち明ければ、彼はしばし考え込んで『サバイバーズ・ギルトでございましょう』と答えた。
――『サバイバーズ・ギルト……? 生存者が抱く罪悪感のことね? そんな気がしていたけれど、私もなのね』
――『ええ、例外なく。貴女様も被害者のお一人ですから』
生き続けることは、過去との比較を、対峙を余儀なくされる。両親の死や、マルカのことを忘れられる日はない。
被害者達との交流は密に行っていた。療養施設ハイマート・ハウスで暮らすミレーヌは、入所以前から自殺未遂を繰り返している。姉と入れ替えられ、恋人を喪っている。自分だけが生き残った≠アとに絶望し続けている。たとえ、肉体が自分の姿に戻ったとしても、サロニア公の実験に加担した両親と和解に至るはずもなく、支えてくれる人のいない孤独に晒され、死を願う毎日を過ごしている。
そうした実情を知っていると、人を救うことの難しさや、その傷口を深く広げているのではないか――と思い悩む機会が増えた。
もはや、単純に喜べなくなってしまった。純粋に、誇り高く、無邪気に。万能感というライムグリーンの培養液に浸かった幸福な少女時代は、死んでしまっていた。
a.t.b.二〇一三 March
カストラリア王宮 礼拝堂
凍てつく風に雪が混じる。春待ち遠しく、長い夜の最中に、真夜中の秘密結婚式が厳かに執り行われようとしていた。
重厚な扉が開くと、礼拝堂内の冷えた空気がいっそう引き締まる。ティラナは侍従長の頼もしい腕に身を委ね、一歩、また一歩とバージンロードを進んだ。彼女が纏う純白のドレスは、仄暗い空間の中でそこだけが発光しているかのように清らかだった。頭頂には、プラチナを地金にいくつかの優れた宝石が輝くティアラが戴かれ、ヴェールの内側で琥珀色の瞳が静かにまたたいている。
磔刑のキリスト像の下、祭壇前には、聖職者であるジーン枢機卿と、夫婦となる男女がふたり。その背後の長椅子には、祝福を述べるべき親戚は誰一人として座っていない。本来、カトリックにおける結婚とは、神と人々の前での神聖な誓約であるはずだった。しかし今夜のそれは、人々を排し、ただ神のみぞ知る秘密の婚姻の儀式の場となっている。
だからこそ、彼女の選んだ衣装は己の意地と誇りの証明でもあった。ブリタニアの流行ものの型ではなく、カストラリア王室に眠っていた由緒ある、ヴィンテージの総レースのドレスを、現代風にリサイズしたもの。豊潤な身体のシルエットに沿いながらも、歴史の重みとカトリックの厳格さを象徴するような、首元から手の甲まで隙無く覆い隠す、禁欲的で大人しいデザイン。それでありながら、花嫁にだけ許された無垢の色は、彼女の美しさを残酷なまでに際立たせていた。
祭壇の前で侍従長の手を離れ、隣に並んだ男を見上げる。驚きに一瞬だけ双眸を揺らしたシュナイゼルは、すぐにいつもの、しかし今夜はとりわけ熱を帯びた聖人の微笑みを浮かべて、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「綺麗だよ、ティラナ」
「ふふん。でしょう? 大急ぎで誂えさせたの。公に世界へお披露目できないのが、ちょっぴり悔しいくらいにね」
「いいや。世界に見せる必要なんてないさ。今この瞬間は、私だけのものだからね」
いつにない独占欲を隠そうともしない彼の言葉に、ティラナは面映ゆくて、少女のようにはにかんだ。世界を敵に回す覚悟で臨んだ謀略の初手。その中心にいるのは、紛れもなく恋い焦がれた男なのだと、胸の奥が熱くなる。
シュナイゼルはカストラリアでは見慣れた燕尾服を纏っている。上質なミッドナイトブルーのウールで仕立てられたウールコート。完璧に糊のきいた純白のピケ織りのベスト。美しく結ばれたボウタイ。シンプルな装いである。肩からかける飾帯も、胸元を飾るきらびやかな勲章や徽章も身につけていなかった。それでいても、彼はいつだって史上最高峰の輝きを内側から放っている。
やがてジーン枢機卿が、重々しく結婚の契りの口上を述べ始めた。
「愛する兄弟姉妹、そして神のしもべたるシュナイゼル、ならびにティラナ。私たちは今、人の目を離れ、ただ万物の創り主である全能の神の御前に集いました。
婚礼とは、キリストと教会の結びつきを現す聖なるサクラメントであり、人間のいかなる都合によっても、引き離すことは叶わぬ不壊の絆です。今夜、あなたがたが交わす誓いは、地上の権力や流行のためではなく、神の国において永遠に記録される真実の誓いであります」
静まり返った礼拝堂に、誓いの言葉が、そして二人の確かな未来を縛る約束の音が響き渡る。
ジーン枢機卿は、二人の前に立ち、まずシュナイゼルへ向けて聖書を掲げる。
「神のしもべ、シュナイゼル・エル・ブリタニア。あなたは、ここにいるティラナ・ヴァル・カストリアを妻とし、順境にあっても逆境にあっても、病めるときも健やかなるときも、生涯これを愛し、敬い、貞節を尽くすことを誓いますか?」
「はい。誓います」
シュナイゼルが淀みなく答える。次に、ジーン枢機卿はティラナへと厳かな視線を移した。
「神のしもべ、ティラナ・ヴァル・カストリア。あなたは、ここにいるシュナイゼル・エル・ブリタニアを夫とし、順境にあっても逆境にあっても、病めるときも健やかなるときも、生涯これを愛し、敬い、貞節を尽くすことを誓いますか?」
「はい。……誓います」
確かな声を受けて、ジーン枢機卿は二人の右手を重ね合わせ、十字を切った。そのあと、祭壇から白絹の気品あるリングクッションを前に持ち出した。
「指輪の交換を」
伝統的に、婚約指輪は結婚指輪の上に蓋をするように嵌めることになる。ティラナが既に居場所の落ち着いた、ブルー・ダイヤモンドを右手に移そうとしたとき、そっとシュナイゼルの指先が静かに制した。小指のシグネットリングの金環。薬指の婚約指輪のブルー・ダイヤモンドの輝きに、温かみのあるイエローゴールドの冷たい感触が薬指をくぐり、新たな隣人となった。
藍色のリングクッションの上に残る一回り大きな金環を摘まむと、落とさないように慎重に端正な指にくぐらせる。何事もその手を介して守られてきた。大きな手、形の整った指。今、捧げた金の輪によって正式に占有されていく。その重みと確かな手応えに、ティラナは自身の指先が微かに震えるのを覚えた。
「神が結び合わされたものを、人が離してはならない。天と地を創られた全能の父なる神が、あなたがたの誓いを全うし、豊かな祝福で満たしてくださいますように。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、あなたがたの心を満たし、その歩みを光で照らし、世の終わりまで共におられますように。――父と、子と、聖霊のみ名によって。アーメン」
ごく僅かな従者がアーメンを唱えた。その微かな残響が消え入るのを待って、ジーン枢機卿は静かに告げた。
「神の前で、二人の魂は一つとなりました。その聖なる約束の証を、今ここに。……さあ、誓いの接吻を」
その言葉を合図に、シュナイゼルがゆっくりとティラナの前に一歩踏み出した。驚くほど丁寧な手つきで、大きな両手が彼女の頭上に伸び、純白のレースの裾をそっと捉える。厳かな静寂の中、ヴェールがゆっくりと持ち上げられ、彼女の頭頂のティアラを越えて、背後へと流された。
遮るもののなくなった空間に、ティラナの情熱的な琥珀色の瞳があらわになる。黄金色にライトアップされた大聖堂のような眩しさはないが、揺れるキャンドルの 炎に照らされた彼女の顔は、シュナイゼルの目を完全に奪うに十分な美しさだった。
神前にて、神聖な誓いを交わし、引き上げられたヴェールの向こう側で、ふたりは静かに唇を重ねた。冷え切った礼拝堂内で、重なり合う互いの指のゴールドだけが、確かな熱を帯びていた。
ふっと唇が離れた瞬間、ティラナは誰もいない背後の長椅子へ、一瞬だけ視線を彷徨わせた。
――かなり寂しい。大袈裟に大歓声を浴びたいわけではないけれど。
この世界でもっとも頼りになるのは、同じインゴットの一塊から生まれた片割れの金環の持ち主、夫となったこの人だけだ。
a.t.b.二〇一七 May
エリア11 トウキョウ租界・政庁
「贈っていただいた法具や屏風を大変気に入りまして……私設の美術館にも展示予定です。……ええ。本国ではなく、エリア十一です」
クロヴィスは考古学のほか古美術にも造詣が深く、芸術肌である。いわゆるマニアである。義姉の持つコレクションの一部を借りて、今度トウキョウ租界に開く自身の私設美術館に展示する予定だった。
受話器を肩と耳で挟みながら、彼はデスクの上に広げられた美術品の目録を優雅な手つきでめくっていく。
「総督というものは暇とは無縁ですね。自由の身であった頃が恋しい」
ふっと漏らしたため息は本物だった。芸術を愛し、気ままな宮廷生活を送っていた日々は遠い。今やこの極東の不安定な植民地を統治する最高責任者だ。ティラナからの不意の架電は、彼にとって退屈な政務の合間の、極上の清涼剤でもあった。
だが、彼女が口にした『次の計画』を聞いた瞬間、クロヴィスの端正な眉がわずかに動いた。
「イズ諸島周辺への視察ですか? 義姉上のことですから、ご存知でいらっしゃると思いますが……途上エリアであるエリア十一の治安は不安定でして。……反ブリタニア勢力の潜伏地点も各所に点在し、目下撲滅と平定を急いでいるところです。……お伺いしたいのですが、その訪問の目的はいったい……?」
探るような声音を、柔らかな微笑のオブラートで包む。
「考古学研究……それはまた、興味のそそられるトピックだ。私もしがらみが無ければ是非そのチームへ志願していたでしょう」
神根島。その周辺海域。クロヴィス自身もまた、その『不可思議な力』の片鱗に触れている身だ。だからこそ、稀代の科学者でもあるティラナが、わざわざこの極東の島々へ目を向けた理由を、ただの学術的探求だとは思い込めない。だが、ここで無粋に問い詰めるのは三流のすることだ。芸術家を自認する彼ならば、もっと美しく、互いに実りのある舞台を用意すべきだった。
「……そうだ。……では、こうしましょう義姉上。……私も是非、そちらで気になる場所があるんです。その調査を受け入れてくださるのであれば、こちらの訪問をバックアップ致しましょう」
『良い取引になりそうね』と好感触に、クロヴィスは自然と口角が上がった。
異母兄であるシュナイゼルの永遠の婚約者≠ニ――世間ではいわれているが、それが見せかけであることをクロヴィスは見抜いている。
二人の婚姻は『凍結』されたままだ。しかし、その裏で通い合う視線の熱、言葉の端々に滲む、他者が立ち入ることを許さない絶対的な共犯関係。世間の連中は『破談間近の哀れな婚約者たち』だの『義務的な繋がり』だの、踊らされたまま気づかない、観客たち。ふたりは舞台役者顔負けの俳優である。多少の観劇の作法と、教養があれば、彼らの視線だけで大いに察することができるというのに、やはり気づかない。これにはクロヴィスでなくとも失笑ものであろう。ユーフェミアはともかく、あの戦場ばかりに目を向けるコーネリアでさえ、ふたりには『情の通った特別な関係が続いている』とわかるほど、あからさまだ。
何よりティラナという女性の気質がそれを証明している。快活で明朗。ブラックユーモア。慇懃無礼な従臣と貴族に囲まれて育ったブリタニア皇室の皇子皇女らには刺激的な薬物だ。兄上があのひとをあきらめるはずがない。クロヴィスはそう確信していた。
「このエリアは……、ルルーシュやナナリーの眠る場所。穏便に済ませておきたいところだが」
ぽつりと呟いた言葉は、通信の向こうの彼女には届かないほどの独り言だった。七年前、この地に人質として送り込まれ、戦禍の最中行方不明となった弟と妹。その面影が、トウキョウの街並みを見るたびに脳裏をよぎる。
「殿下。お時間でございます」
冷徹な事務官の声が、劇場のブザーのように鳴り響いた。
「――ああ。……申し訳ございません。次の予定が迫っておりまして、具体的な日取りについては……またこちらから連絡差し上げます。はい……」
通話を終え、カチリと端末をデスクに置く。クロヴィスは椅子の背もたれに深く身体を預け、目の前に控える側近を気怠げに見上げた。
「兄上が……手袋を外したがらない理由を知っているか?」
「……シュナイゼル殿下のことでございますか?」
「それ以外に誰がいるとでも? オデュッセウス兄上は公務以外では外したがる。肌が弱くて、汗でかぶれるのを嫌がるからだ」
手首まで覆う白手袋。あの完璧な第二皇子が、どんな時も頑なにそれを外そうとしない本当の理由。
白手袋。それは、シュナイゼルという名俳優が纏う、最も傲慢で美しい衣装。
「私も、いい役者でいなければ」
椅子から立ち上がり、乱れた上着の襟を正す。これから向かうのは、パーティーという大舞台。統治には地盤固めが重要だ。そしてカメラを向けられれば瞬時にパーティーではなく、総督の仮面を被り直す会見ステージに移り変わる。
照るスポットライト。向かうカメラ。掲げられるマイク。切り取られた世界の中で、名俳優となる。
『おまたせしました。ブリタニア帝国第三皇子、クロヴィス殿下、会見の時間です』
身を焦がすほどの情熱と達成感。拍手喝采。そして、もはや得がたい通り過ぎていった青春の高揚感。あのシェイクスピアの劇のように。
舞台に立ち、無数のフラッシュを浴びた瞬間、クロヴィス・ラ・ブリタニアは完璧な悲劇の主人公へと変貌した。眉をひそめ、憂いに満ちた声をマイクへと乗せる。
「帝国臣民のみなさん――。そしてもちろん、協力いただいている大多数のイレヴンの方々も。わかりますか? 私の心は今、ふたつに引き裂かれています――悲しみと怒りの心にです――」
街頭モニターを見上げる黒髪の少年がいた。黒地に金のライン。襟元の百合の花の紋章、フルール・ド・リスが租界の中にある私立アッシュフォード学園の制服であると一目でわかる。しかし、時間帯は午前で、街中を闊歩するには早すぎだろう。鋭くも見える涼やかな紫紺の眼差しの先では、ツインタワービルに突っ込んだテロ被害による報道が流れていた。
ブリタニアの占領地となったエリア十一のなかで、もっとも整備の行き届いた、クリーンなトウキョウ租界の街中。歩行路の途中、一際目立つ大画面の中央から、半分血の繋がりを持つ兄の切実な叫びが、辺り一帯に響き渡る。
『しかし、このエリア十一を預かる私が、テロに屈するわけにはいきません。なぜなら、これが正義の戦いだからです。すべての幸せを守る正義の――。さあ、皆さん。正義に準じた八名に哀悼の意を共に捧げようではありませんか』
アナウンサーが『黙祷』と発する声がモニター越しに街中に響く。
街中にいるブリタニア人は静かに各々の黙祷に入る。微動だにせずモニターを睨む少年に、その隣でサイドカー付きバイクを扱う、真ん中分けの青髪の少年が問いかけた。
「あれ? やんないの?」
「リヴァルは?」
「アハッ、恥ずかしいでしょう」
「そうだな……。それに俺たちが泣いたって、死んだ人間は生き返らない」
「うわっ、刹那的」
友達同士の軽妙なやり取りが続き、黒髪の少年は瞳を眇め、独り言のように呟いた。
「所詮、自己満足。……どれだけ背伸びしたって、どうせ世界は変わらない……」
少年の名は、ルルーシュ・ランペルージ。その日、運命と出会い、王の力を手にする少年である。