陸上を移動する参謀府。指揮用陸戦艇G1ベースのコンタクトフロアは、ひっそりとした暗闇に包まれていた。そこへ、数名の参謀や部下を引き連れ、慌ただしく入ってきたのは、そこで指揮を執っていた青年。その腹心の部下――バトレー・アスプリウスであった。
「殿下ッ!? 殿下……ッ! お気をたしかに!」
バトレーの浅黒い肌には、すでに脂まじりの汗が浮き出ていた。それを拭うことも忘れて、恰幅の軍服姿の中年の男はスローン・チェアに駆け寄り、息をたしかめた。
「血が……」
血に塗れた椅子。肘掛けにしなだれかかるクロヴィスの眉間の中央には、よほど近距離で撃ち込まれたのか、弾痕と細く枝分かれした赤い筋道が垂れ、後頭部のあった背もたれ一面に血と、肉片と、骨の一部が混ざったものが飛び散っている。
「くそっ……なにをしている、ボサッとするな! 早く医師を呼べ! 騒ぐでないぞ! まだ……診断が下るまでは……、公表できるまでは……」
威勢良く飛び出す声の調子も段々と弱々しく、沈んだ色を映し出していく。
「バトレー将軍……」
背後で佇む青白い顔をした参謀役が、物悲しくバトレーを呼んだ。バトレーは振り返ることもせずに、滑る血痕の残る床の上に膝をつき、大いに嘆き悲しんだ。
「あ、あぁ……なんて、惨い……、なにゆえ、このような……」
生前、老若男女を魅了した美しい碧眼は、冬の寒空の下の凍り付いた湖面のように灰白色に濁り、天上の世界へ旅立っている。
「何を見つめていらっしゃったのでございますか。貴方様の身に、いったい、なにが……」
毒ガスと称して、研究中だったある女の捜索に親衛隊を遣わせていた。しかし、テロリストによる猛攻を受けたか、謎の集団死を遂げていた。ナイトメアにも搭乗もせず、廃屋の中で、無理心中を図ったかのように。無論、女は逃亡中の身で未だ消息を掴めず。そこへ雪崩れ込むように、唐突な主人の死がもたらされた。
非常事態を前に、バトレーの仕事は山積みだ。もはや、クロヴィスと共に励んでいた秘密の研究どころではなかった。
a.t.b.二〇一七 May
カストラリア王宮 執務室
昼食を終えて、いくらか公文書を読み終えた午後のはじめ。
ブラインドを下ろし、ヒマラヤの峰の合間から射す鋭い光を遮る。室内に籠もる柔い光が、幾何学模様の絨毯にぼんやりと落ちていた。ティラナは霞み始めた目を擦り、大きく欠伸を噛み殺した。チカチカと網膜の裏で明滅する残像は、慢性的な寝不足のサインだ。
秘書官数名と女官が執務室に何度もやって来ては、確認済みの書類を抱えてまた各自所定のデスクに戻っていく。その足音さえ、今の彼女には頭痛を誘うノイズに聞こえた。
ふと耳を澄ませば、執務室の外の広大なギャラリーから、絨毯の上に三輪車を走らせる幼いルークのはしゃぎ声が反響してくる。侍従と乳母に遊んでもらってご機嫌な息子の声。愛しいはずのその音を遠くに聞きながら、ティラナはふと、ひどく惨めな既視感に捉われた。
――まるで、放課後、一人だけ教室に残されて、山積みの課題をやらされている落ちこぼれの学生だ。
ティラナの人生のなかで、一度も学校に通ったことなどないはずなのに。
「ぐぅ〜、ううぅ〜……! なにくそ〜……! 自分の仕事の遅さにイライラするわ!」
ペンを放り出し、ティラナは自身の豊かなブルネットを両手で手荒にかきむしった。
手元の執務机に並ぶのは、最終確認の署名を待つ膨大な公文書の山だ。有為転変、時々刻々――世界はあまりにもめまぐるしく、絶えず変化し続けていく。つい数ヶ月前に決着したはずの通商条約が進展し、あるいは変更され、昨夜入ったばかりの未知の情報が上書きされていく。世界中が狂ったように軍拡へと舵を切り、ブリタニア、E.U.、中華連邦の三大勢力が小競り合いを繰り返すたびに、カストラリアが握る中立的価値=Aその他特許や資源の価値も乱高下する。
その最前線に追いつき、追い越し、常に最適解を弾き出さなければ、この国の王冠など一日で叩き落とされるのだ。アナリストの仕事を待っていては出遅れる。紙の新聞のように、すぐに意味をなさなくなっていく。
神聖ブリタニア帝国という飢えた怪物の足元で、カストラリアは今なお、危うい均衡を保ち続けていた。
形の上では、帝国が敷いたエリア制の枠組みに組み込まれた、親ブリタニア国家。しかし実態は、政庁も総督も派遣されず、租界の建設すら免れている。世界で唯一、事実上の独立を維持することを許された『特級衛生エリア』――それが、このヒマラヤの飛び地の国に与えられた歪な特権だった。
他国の手本として扱われる優等生。その実態は、いつでも噛み殺せるように喉元に牙を突きつけられたまま、笑顔を強要されている飼い犬と変わらない。そしてその牙をいつでも剥ける位置にいるのが、世界で最も愛する男、ブリタニア宰相――シュナイゼル・エル・ブリタニアなのだという事実が、ティラナの心臓をチリリと焦がした。
「陛下。昼寝の時刻ですよ」
不意に差し出されたのは、色鮮やかな数錠のサプリメントと、一杯の白湯の入ったカップ。
振り返れば、長年彼女に仕え続ける女官長のレルヒが、一歩も引かないという冷厳な目でティラナを見下ろしていた。
「……あともうちょっと。このE.U.側の関税データだけ弾き出したら……」
「駄目でございます。情報収集は移動時間にでもお付き合い致しますから、今はお休みくださいませ」
容赦のない制止の言葉に、ティラナは「うう」と呻いて、机の上に突っ伏した。
「だってだって〜! 内閣から相談が数日おきに舞い込んでくるんだもの〜。……相談といいつつ、いつまでも君主のゴーサインがなきゃ足が竦んじゃうくらい臆病……いいえ、慎重なのよ、ロンハード政権は……」
「たたき上げから出世された方でございますし、長年の癖が抜けないのでしょう」
「わ……私、十二年間もこの国のことに携わってないのに、相談もなにも……わかりっこないのよ。でも、……優秀な事典役は本国で栄進されてしまったんだから」
皮肉とやさぐれの混じったティラナの物言いに、一つ頷いて、レルヒは淡々とその日の残りのスケジュールを告げた。
「今晩は夜十九時から公式の会食、その後は観劇のご予定もあります。これ以上お顔に隈を作られては、シュナイゼル殿下に私の首が飛ばされます」
「……あのお堅い夫の脅し文句を、私の前で使わないで頂戴……。それに……直轄とはいえ宰相閣下に、我が国の内々の人事権はないわ」
珍しくレルヒがくすりと笑った。どうやらこれは、彼女なりの冗句だったようだ。
ティラナはむくれたように呟きながらも、ついに折れてペンを片付けた。
逆らえない。もし自分がここで倒れれば、カストラリアは、そしてルークはどうなる。何より、あの皇帝が、今度はどんな手段で自分を『固定』しにくるか分かったものではないのだ。
「わかったわよ。寝ればいいんでしょう、寝れば」
ぶつぶつと文句を言いながら、ティラナは渋々と、サプリメントを飲み込んで、執務室の奥にある仮眠用のソファへと這うように移動し始めた。
クッションの位置を微調整し、やっと寝るぞと落ち着きかけてきた頃、トントンと絨毯をの上を進む鈍い靴音が眠りを妨げた。
儀礼的なノックを数度、現れたのは主席秘書官のコルネルだった。
「陛下。エリア十一より通信が……」
「……ん……え? 今度はなに……?」
「エリア十一より入電でございます」
繰り返し同じ情報を、眠気でスリープしかけた頭に押し込む。エリア十一。お思い当たるの件といえば――。
「エリア十一……? もしかしてクロヴィスから?」
スカートの裾を握り、再び執務室の椅子に戻る。
レルヒに差し出された端末を前に、ティラナはふと手を止めた。先日話していた神根島訪問の話だろうか。端末のプライベート回線のランプが、チカチカと青白く明滅し、入電を示している。
「はい。クロヴィス殿下ですか?」
『私、クロヴィス殿下の側近を務めております、バトレー・アスプリウス将軍にございます。ティラナ陛下』
「アスプリウス将軍? ……この通信は個人的な回線だけれど。どうかなさったのですか?」
画面の向こうの巨漢の軍人は、異様なほどに血の気を失った顔をしていた。その額に浮かぶ大量の汗が、ただ事ではない緊迫感を漂わせている。
『バトレー将軍にございます。まだ……公式には発表されておりませんが……、一昨日、クロヴィス殿下が薨御されました』
刹那的なほどの一瞬。永遠の狭間。まっしろに消し飛んだ沈黙の果てに、掠れた吐息が先に溢れた。
「――……え?」
あまりの唐突さに、明晰なはずの脳の歯車が一瞬だけ噛み合わなくなる。数日前、あれほど華やかに笑い、異母兄への皮肉を口にしていた美しい義弟の姿が脳裏をよぎった。
「今なんとおっしゃったの?」
『……、薨御されました。クロヴィス殿下が』
「……映像に切り替えていただける?」
『ああ、はい……』
乱れた音声の向こうから、ようやくバトレーの顔が画面に映し出される。その表情は、悲しみというよりも、底知れぬ恐怖と焦燥に支配されていた。
「本当に? ……悪戯ではなくて? 悪い冗談を吹き込まれたのですか?」
『そんな。とんでもない。……誠のことにございます。ティラナ女王陛下』
バトレーの必死な声音が、これが冷酷な現実であることを告げていた。ティラナは冷えていく指先を机に押し当て、急速に思考を巡らせる。つい先日まで生きていたはずの皇子が、植民地の地で突如として命を落とした。その事実が持つ政治的意味は、あまりにも重い。
「……なぜ私に……と考えたけれど、思い当たることがあるわ。……クロヴィス殿下と最後に通信した者が私だったから……。それは……つまり……」
『あ、ああ……いえ……その……』
バトレーが言葉を濁し、視線を泳がせる。ティラナは彼のその態度から、疑いの目を向け始めている可能性を瞬時に察知した。
「しゃきっとなさい。貴方のお名前はクロヴィスから度々聞いています。良き側近なら主人の名に恥じぬ態度を堅持して。再度確認するけれど、本当のことなのね?」
毅然とした女王の叱咤が、バトレーの恰幅のよい身体を強張らせた。婚約者≠介した身内を亡くした直後とは思えぬその理性的で冷徹な佇まいに、バトレーの顔にはなんと恐ろしい女性か≠ニ書いてある。
『ま、誠にございます』
「公式発表の前に私に尋ねるということは、……事故死でもないということ? ……暗殺……? 私が疑われているのね?」
『……はい。失礼を申し上げます。陛下』
大きなセント・バーナードか、ブルドッグが機嫌を伺うように、額に汗をかいて彼は顎を引いた。これほど鋭い女性が、暗殺という凶行に手を染めるはずがないと直感しつつも、自らの保身のために探りを入れねばならない。それが彼の限界だった。
『殿下とは、何についてお話しになられましたか?』
「クロヴィスとは……ちょっとした世間話と……、約束事を話していたわ。もし内容を知りたければ、通信音声の解析を許可いたします」
『お礼申し上げます。陛下』
おずおずと額を画面に向け、バトレー将軍は『……具体的には、どのようなお話しを?』と平身低頭の態度で質問を進めた。
「エリア十一への訪問をお願いしていました。殿下もこちらに関心があり、詳しい日程を後日定めようと話し合ったのが具体的な内容です。……ですから、ちょうど今ご連絡戴いて、てっきりその日程調整の話をするのかと思ったのですが……このように、残念なことになってしまいました」
バトレー将軍はなにやら引っかかったのか、詳細を聞きたがった。
『ご訪問……、失礼恐縮にございまするが……殿下は、遺跡について……お尋ねになりませんでしたか?』
「……、遺跡ですって?」
ティラナにその意図はなかったが、思いのほか低く威圧的な声音が飛び出し、バトレー将軍はしっかりとした肩を仰け反らせた。
『あっ! い、いいえ。殿下は非常に考古学の造詣に深い方であらせられましたゆえ……、実を申し上げますと、殿下が私を徴用なさるのは、ご趣味への飽くなき探究心と実利からでございます』
バトレーの露骨な動揺を、ティラナの聡明な瞳は見逃さなかった。『遺跡』という単語に、彼は明らかに異常なまでの警戒心を示している。何かを隠しているように。暴かれることを恐れているようだ。
「……なるほど? 過去に我が国へお越しになられた際にも、あちこちご案内差し上げましたし、もちろん、東部にある遺跡にも。……なにか遺言を預かっていらっしゃる?」
死後に遺灰や散骨、寺院へ納めることを希望する者はあるが、暗殺とあらば検死後、本国へ移送され国葬を営まれる。さらにその後、皇陵へ埋葬されるのが一般的であり、未婚のクロヴィスの場合は難しいだろう。それとも、あの気まぐれな義弟は、何か特別な言葉を残したのだろうか。
『そのようなことでは……ございませぬが……』
「……散骨の話ではないの? じゃああれは冗句だったのね……」
『えっ……ええ。殿下はなんと仰って……?』
「……え? もし自分が死んだら景色映えのしない場所ではなく、素晴らしい場所へ眠りたいと仰っていました」
ティラナにそれを教えたのは、数年前の夏のことだ。
『さようにございましたか……』
バトレーは、ただただ目の前の女王の言葉に合わせるのが精一杯のようだった。ティラナは静かに息を吐き、自嘲気味な笑みを浮かべる。人体実験の被害者たち、そしてクーデター。多くの凄惨な『死』をその手で、その目で見てきた彼女にとって、命が失われるという現象そのものは、驚くほど身近で普遍的なものだった。たとえそれが、皇族であっても。
「その気持ちはよくわかります。決まったところで眠らなければいけないのは、窮屈です。……バトレー将軍、どうかなさいましたか?」
『……いいえ。殿下の死に動じてばかりの私めに、そういった殿下のお心を気遣うことさえ思い至らないのは、なんたる愚かしさかと自分を恥じていたところでございます』
「……私にとって、死は普遍的なことですから」
『大変失礼を申し上げました、陛下……!』
冷徹とも取れるその言葉に、バトレーは再び恐縮して平伏した。この女王にとっては、世間を揺るがす皇子の死さえも、ただの等質な現象の一つに過ぎないというのか。その底知れなさに、彼はただ圧倒されるしかなかった。
「お気になさらず。……エリア十一への訪問は……しばらく難しそうね?」
『……それは、はい。……正式に発表がされるまで、あまり口外なさらないでいただきたいと存じます。事が事でありますから……』
「心得ていますわ。……この件、シュナイゼル宰相閣下のお耳には入っているのですか?」
バトレー将軍の額から一筋、汗が垂れて、彼はすぐにそれをハンカチで拭った。
『それは、もう既に。……対応につきましては内々でどうにか纏めると申し上げております。私は……クロヴィス殿下の側近でありますゆえ、次の総督へのお口添えも上手くいくか……』
総督の派遣には皇帝の最終決定ももちろんのこと、宰相府からの申し入れもある。既に皇族含め軍部と貴族による大会議が催されているに違いないが、当然のことながらティラナが口に挟む余地はない。
「……そう。次の総督も未決定でしょうし……我が儘は言いません」
シュナイゼルにはすでに報告がいっている。
――彼は働きづめで、なるべく顔を合わせられるように連絡を入れるようにしているが、しばらくは控えたほうがいいだろう。ティラナの方も、正式発表後に出す、弔電の準備も始めなければならない。
画面の向こうのバトレーが、まるで最後の確認をするかのように、不気味なほど真剣な眼差しで問いかけてきた。
『……ところで、女王陛下。ご訪問の際はどちらへ伺うご予定でありましたか?』
「ん? ……ああ、私もクロヴィスの影響を受けて……ちょっとした真似事なのだけれど、遺跡に興味があったのよ。そちらの伊豆諸島にあるといわれている遺跡よ」
バトレー将軍は目を見開いた。彼は、ただただ驚き、それっきり固まってしまった。
激しい動悸を悟られてはいけない。しかし、バトレーの口腔内は乾ききり、舌先は縺れていた。
イズ諸島――すなわち、彼らがトップシークレットとして調査を進めていた、神根島の遺跡。なぜ、今、このタイミングでカストラリアの女王からその名前が飛び出すのか。バトレーの脳裏に、すべての秘密が、かの女王に見透かされているのではないかという、底なしの恐怖が駆け巡っていた。
一国の女王は堂々たる威厳のまま疑惑に対して、証拠となる最後の通話履歴と音声情報の解析を認めた。そこまで手の内を明かせるということは、彼女の潔白の証明であると同時に、これ以上の追及を無駄だと切り捨てる女王の傲慢さの裏返しにも思えた。
イズ――伊豆諸島。おそらくは、否、間違いなく、神根島にある遺跡についてのことだ。
――もしや、コードR≠ワたの名を、不老不死研究が漏洩しているのでは?
クロヴィスと共に、ブリタニア本国にも明かさず、秘密裏に進めていたこの研究。つい先日、第四の博士号取得の先報がもたらされたばかりの、生化学の第一線で活躍する化け物染みた研究者が、なにも勘づいていないことがあろうか。あの不老不死の少女の細胞組織、人工血液の技術、治癒促進のロジック――。秘密裏の研究では、幾度となく先行研究となる彼女の功績に助けられてきたが、不老不死≠フ根幹の仕組みへの解明には至っていない。
しかし、この女王が――もしも、とうに摩訶不思議な力に及ばずとも、より近い知性を有しているのだとしたら――?
なんと、おぞましい話だろうか。みすみす相手に手がかりを、隙をみせてしまったかもしれないのだ。もしも、すべてが繋がっているとしたら? 今さらになって、すべてが怪しく思えてくる。バトレー将軍の動揺は増すばかりであった。
彼女は最後になにを言っていただろう。バトレーの沸騰し、蒸気の白いもやに包まれた頭ではいい加減なやり取りをしたように思う。
プツン、と通信が切れた。冷え切った液晶画面を見つめたまま、バトレーは自身の巨体を支えきれずに、執務室の椅子へどさりと崩れ落ちた。背中を伝う冷や汗が軍服をぐっしょりと濡らしている。
「おい! おい、そこのお前!!」
バトレーは部屋の隅に直立不動で控えていた通信兵を、ひっくり返った声で怒鳴りつけた。
「殿下は……なにか、他に申していなかったか?」
「他……といいますと」
突然の詰問に、若い通信兵は目を白黒させる。
「いや。なんでもいい! たとえば、カストラリアの女王についてでもだ……!」
「カストラリアの……? 通話記録をお聞きになりましたか」
的外れな質問を返す部下に、バトレーは苛立ちを爆発させて机を強く叩いた。
「ついさっき聞いたばかりだ。先に女王が仰った通りの内容であった。嘘偽りなく――。私的な会話であった。義理の姉と、義理の弟――仲は悪くない。殿下は宝物をお借りになっていたようだ。美術館の期間限定展示のものを。しかし、こうなってしまっては返却の準備も進めなければなるまい――」
独り言のように早口でまくしたて、バトレーは爪を噛んだ。
音声データに偽装は見られなかった。二人の会話は文字通り、親密な義理の姉弟の世間話に過ぎない。しかし、だからこそ恐怖が勝る。あのクロヴィス殿下が、あの怜悧なティラナ女王を前にして、神根島(イズ)の秘密を一切漏らさずにいられただろうか。いや、会話の端々から「遺跡」の存在を察知されたからこそ、彼女は先ほどピンポイントでその地名を口にしたのではないか。
いや、それだけではない。クロヴィス殿下は先ほどの通信の最後、シュナイゼル殿下の「白手袋」について意味深な話をしていた。あれは何だ。バトレーは血走った目で、もう一人の情報管理官を睨みつけた。
「殿下は……シュナイゼル殿下の秘密について、お話しに……」
「秘密? いったいなんだ、それは」
「それが……具体的には……なにも」
「まどろっこしい! 何事も知らぬなら話すな!」
怒号を浴びせられた事務官が怯えて頭を垂れる。
「ただ……手袋のお話しをされました」
事務官はそう言った。理不尽だと顔が言っているが、今のバトレーにそんな部下の心理を思いやる余裕など一微塵もなかった。「なんてことだ!」
バトレーは両手で丸い頭を抱え込み、天を仰いだ。
主であるクロヴィスは暗殺され、その背後には『コードR』の全貌を見透かしているかもしれないあの女王の影がある。そして本国では、何事も完全に見通す第二皇子シュナイゼルが、すでに事態の収拾に動いているかもしれない。
自分たちが囲い込んでいた秘密が、ブリタニアとカストラリアという巨大な二つの意志によって、今まさに押し潰されようとしている。底なしの泥沼に足を取られたかのような絶望感の中、バトレーはただ、迫り来る破滅の足音に怯えて震えることしかできなかった。
招待された観劇から帰ったのは二十三時頃。冷え切った身体を入浴で温め、ナイトドレスに身を包んでから、ライフワークである研究時間に小一時間を費やしているうち、気づけば深夜の二時を回ったところだった。
静まり返った書斎に、通信端末の無機質な機械音が鳴り響く。青いランプがチカチカと暗闇のなかで明滅しているのを見つめ、ティラナはペンの動きを止めた。この時間、このカストラリアの私信回線に連絡を寄越すのは、世界にただ一人しかいない。しかし、トウキョウ租界であれだけの事件が起きた直後だ。当分の間、彼はチェス盤の戦後処理に没頭し、通信など控えるだろうと思っていた、そんな相手からの着信だった。
「シュナイゼル――?」
通話ボタンを押し、画面に映し出された端正な貌を見上げる。
『やあ。こんばんは、かな。もうおやすみの時間だね、ティラナ』
画面の向こうのシュナイゼルは、いつも通りの、温和な微笑を浮かべていた。ブリタニア本国は今頃、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているはずだというのに、彼の声音には微塵の揺らぎもない。ティラナはふっと、昼間から胸の奥に溜め込んでいた重い息を吐き出した。
「……クロヴィスのこと、昼間に聞いたわ。とても残念で……考えないようにして過ごしていたけど、まだ信じられない」
『耳が早いね。話を聞いたというのは誰からだい?』
「クロヴィスの側近からよ。……たしか、バトレーと名乗っていたわ。……ちょうどエリア十一への訪問について、クロヴィスから日程調整の返事が聞けるんじゃないかと期待して待っていたら、代わりに訃報を聞かされたの。……彼が最後にプライベート通信で会話をした相手が私だったから、バトレーには軽く容疑者扱いされちゃった。公式発表までは絶対に口外しないようにって強く釘を刺されて……。でも、あなたにはもちろんセーフよね?」
ティラナのどこか自嘲気味な言葉に、シュナイゼルは画面の向こうで軽く微笑む。
『そう』
短い相槌を聞いた後、ふと、通信画面の青白い反射のなかで、ふと自分自身の顔の一部が不自然にギラリと光ったような気がして、ティラナは傍らに置いていた手鏡を慌てて引き寄せた。角度を変えながら、念入りに己の顔を確認する。
「あなた、輪をかけて忙しいだろうから、しばらくは通信なんてできないんじゃないのかと思っていたわ。いいの? こんなところで私にかまけていて」
『……変なところで遠慮をする。貴女は』
「気遣いと仰ってくださいな、宰相閣下。……国葬だから、これから準備が本当に大変でしょう?」
『……慣れている。いつものことだよ。マニュアルもあるし、……国葬といっても国家元首クラスではない。いち皇族の扱いだ』
「……そうね。私からも、正式な弔電を送るわ」
悲しみを覆い隠すブリタニア皇族の冷徹さを思い知りながらも、ティラナはやはりしきりに手鏡で自分の頬や額を写し続けていた。その落ち着かない様子に、シュナイゼルが画面の向こうから『どうしたんだい?』と不思議そうに尋ねてきた。
「悪戯をされたのよ。まだそれが顔に残っていないかどうか……気になっちゃって」
『悪戯? ルークがしたのかい?』
「そうよ。手ひどいのを。かなりね」
手鏡のなかの自分を見つめながら、ティラナの脳裏に、数時間前の気怠い午後の記憶が蘇る。
――レルヒに叱られ、渋々執務室の仮眠用ソファに横になったティラナの頬に、しっとりと、熱の高い、小さな掌がぺたぺたと張り付いてきた。薄暗い睡魔の底で、ティラナは声を絞り出す。
――『うぅ――……ん、ルーク……ママ、おやすみしたい……おねんねの時間なの』
――『ママ、お歌をうたってあげる』
ルークの小さなハミングが始まった。愛息の歌う童謡は、息の弾みに合わせて音が上がったり下がったり、実に見事な不協和音を醸し出して、ちっとも寝つけない。
平均睡眠時間四時間という超過密スケジュールの弊害は、望んで授かったはずの子供との、十分な交流の時間を奪っていくことだった。母子の密接な関わりは子供の将来に多大な影響を与える――。自国カストラリアの福祉ガイドラインに制定されている「親子の時間」の質と量に、今の自分がまったく満たないことを誰よりも自覚しているからか、たまの触れ合いの時間に、ルークを叱る≠ニいうことがどうしても殆どできずにいた。
結果、甘やかしすぎたのだ。
一瞬、本当に眠りに落ちていたらしい。突如として執務室に響き渡った侍女の悲鳴によって、ティラナの眠りの膜は強引に切り開かれた。
気がつけば、侍女長のルイーゼが恐ろしい形相で、濡れたコットンを手にティラナの顔を親の仇のように拭き始めている。
『どうしたの……ルイーゼ……、もうちょっとだけ寝かせ……んん……ゴシゴシしないで……そんなに私、涎垂らしてないわ……んぎゅ……!』
無理やり上体を起こされ、差し出された鏡を見て、ティラナは悲鳴を上げて飛び上がった。
『……なによこれぇ!?』
金、銀、ピンクゴールドのコスメ用ラメグリッターが、ティラナの顔全体にくまなく、非常によく擦り込まれていた。すこし顔を傾けるだけで、窓からの光を受けてピカリと顔が発光する。さながら、暗闇に浮かぶ人工太陽。あるいは、ディスコのミラーボールである。
犯人は現場に戻ってくる。――部屋の扉の陰からひょっこり顔を覗かせる子供の両眼と目が合った。
『ルーク! こっちに来なさい! ルキウス!!』
その日はじめて母親の叱責を浴びたルークは泣きべそをかいた。
通信画面の向こう、白を基調とする軍装の、肩を飾るエポレットの金紐が、シュナイゼルが声を上げて笑うたびにさらさらと細かく揺れた。
『――あっはっはっは……!』
「なに笑っているのよ……おもしろくないわよ……!」
『いやはや。さすがは、貴女の子だと思ってね』
「私だってお父様のお顔には、せいぜい口髭を描き足してあげたくらいよ!」
『ほら。やっているじゃないか。悪戯好きなのは確実に母親譲りだ』
子供同士の言い合いのような口ぶりで、シュナイゼルは息子の性格が妻に似たことを喜んでいるようだった。
「ミラーボールにはしていないわ。まだ可愛い悪戯で済む……はず……だったのよ……」
もごもごと言い訳を探すが、シュナイゼルの楽しそうな微笑みの前には無力だった。
『私にしてきた過去の悪戯の数々を、忘れたとは言わせないよ』
「おかげさまで、今夜の私は格好のピエロよ。……アイシャドウの……グリッター? というのかしら。あのラメのキラキラしている細かい粉が、洗っても洗っても顔中に居座っていて……。今夜の劇場がわざわざ気を利かして、私にスポットライトを浴びせてくれなくて、本当に心の底から安堵しているわ」
ため息をつくティラナを見つめるシュナイゼルの青紫色の瞳が、画面越しに、ほんの少しだけ細められる。それは彼女の笑顔の裏にある、慢性的な疲労と、擦り切れた秒針≠フ乱れを労るような、静かな光を帯びていた。
『下瞼に、これ以上天然のアイシャドウが描き足される前に、今日はおやすみのキスを贈るよ、ティラナ』
「あら。それは嬉しいわ」
ティラナは静かに鏡を置き、少しだけ悪戯っぽく、しかし恋い焦がれた夫に向けて、穏やかな笑みを返した。