凶報







 a.t.b.二〇一七 May
 エリア11・クロヴィスの研究所


 足取りが重い。地下へと続く冷え切った回廊を進みながら、バトレー・アスプリウスは内側から込み上げる脂汗を拭った。失態続きかもしれないと思うほど、自分自身を哀れみたくなる。主を暗殺され、その直後にはカストラリアの怜悧な女王から『イズの遺跡』という致命的な単語を突きつけられた。破滅の足音は、すぐ背後まで迫っている。
 自動扉が横にスライドし、白衣を着た研究員たちが一斉にバトレーを振り返った。整然と並ぶカプセル、明滅するモニター。彼らが心血を注いできた、あの不老不死の少女≠巡る研究の拠点が、ここだ。
「諸君も知っての通り、計画はすべて失敗した――。ゆえに、この研究所を破棄する」
 バトレーの重々しい宣言に、室内が凍りついた。主任格の研究員が慌てて歩み寄る。
「えっ? しかし――」
「ナリタに場所を用意し、すべて移す」
 遮るように、バトレーは冷酷に言い放った。猶予など一刻もないのだ。すでに本国からは、クロヴィス暗殺の調査と戦後処理のために、純血派や新たな権力者たちが続々とこのエリア十一へ雪崩れ込もうとしている。
「記憶が無いとはいえ、私や参謀がクロヴィス殿下の元を離れたのは事実だ。殿下をお守りできなかった罪は重い。私は近いうちに本国に戻され、責任を問われるだろう」
 バトレーは拳を握りしめ、声を潜めた。
「その際、皇帝陛下に秘密でこの実験を進めていたことが知られると――我々の首は確実に飛ぶ。何としてでも、本国の査察が入る前にコードR≠ここから運び出すのだ」
「わかりました。早急に準備を進めます」
 事態の深刻さを察した研究員たちが、顔を青くして端末に向かい始める。その慌ただしい背中を見つめながら、バトレーはカストラリアでの通信を思い出し、奥歯を噛み締めた。どうしても、あの女王の言葉が頭から離れない。
「……最後に、この中に、オオカミがいないことを信じて伝えるが――、研究の漏洩が疑われる」
 その言葉に、研究員たちの手がピタリと止まった。
「……研究の漏洩、ですか? まさか、本国に……?」
「いや。もっと恐ろしい相手だ。医学の申し子――カストラリアのティラナ女王が、神根島の遺跡に、そして我々の研究に勘づいている可能性がある。これ以上の隙を見せるな。……いいから急げッ!」
 バトレーの怒号が、破棄されゆく研究所に虚しく響き渡った。



 a.t.b.二〇一七 May
 カストラリア王宮・リビングルーム


 深夜のシュナイゼルとの通信から数日後。激務の合間に訪れた、束の間の休息だった。
 柔らかな陽光が差し込むリビングルームのソファに座り、ティラナはルークが目の前で赤青黄と、原色のカラフルな積み木を組み立てるのを、薄く笑みを浮かべて眺めていた。昼食に用意させたサンドイッチが、サイドテーブルに置いた皿に残っている。囓りかけのものは放置され、少しずつ乾燥して生地の先が硬くなっていた。どんな味がしていたかさえ、曖昧だ。
 クロヴィスの死。気にしないように心がけていた小さな動揺は、次第に大いなる不安を掻き立てた。
 ――もしも、死んだのがクロヴィスではなく、シュナイゼルだったなら?
 亡くなったばかりのクロヴィスを悼むべき時間のはずなのに、気づけばクロヴィスをシュナイゼルに置き換えてしまう。とめどなく溢れる危うい想像。ブリタニアとカストラリア。離れているということは、いざ何かが起きたとしても、すぐに駆けつけることは叶わず、当然死に目にもあえない。恐怖が悲しみをより深めていた。その堪らなく抑えようのない不安が、動悸と不整脈を引き起こし、安眠を妨げていた。
 ――こわい。
 弱まった涙腺。意図せぬ涙がじわりと目尻に滲み、視界がぼやける。
 子供を産めば、母親になれば強くなるといわれているが、そうしなければ上手くいかないだけだ。嫌な想像は水膨れのように丸々と膨らんでいく。
 ――もし、明日急に彼がいなくなってしまったら。
 ルークは、父親のいない子供になるだろう。それは、ティラナと同じ道だ。
 ルークは、たった一人の王位継承者として重責を負うだろう。それも、ティラナと同じ経験を味わわせることになる。
 たったひとつ異なるのは、シュナイゼルが死んでしまったとしても――生き続けなければならないということだ。息子に帝王学を授け、成人し、王冠を継承する準備が整うまでは。人生の片側を預ける伴侶に恵まれるまでは。
 気分が悪かった。こんな形で、両親の心情を学ぶことになるとは思わなかった。
 ――お父様は、なんでもした。安心を欲しがって、どんなことだって。
 親指で涙を押さえつけ、幼児の丸い背中を見据える。ベージュのベストにはポツポツと毛玉ができはじめていたが、ルークはその着心地を好んでいた。シュナイゼルに似ているのは、そのふわりと軟らかな髪質や、はっきりした顔つきや、嘘をつくときの動機。発育の良さは、既に高度なコミュニケーション能力を獲得しつつあった。幼い頃の九歳の彼ともう一度会えたような気がした。そして、自分の嫌いなところにも似ていて、憎らしく愛らしい。
 ――だから、守ってやらなければ。
 安全な方法で、子供の治世に負担がいかぬように。
 計画≠ヘ着々と進んでいた。そのために、シュナイゼルとの別離も受け入れてきた。ブリタニアに刃向かうことなく、妥協と停滞を選択した。――仮に、シュナイゼルが死んだとしても、一番最後まで舞台に立ち続けなければならない――。
 ――今の私は、キングなのだから。
 焦燥と混乱を落ち着ける。プレス機で押し潰し、強圧でそれらをぺしゃんこに。不安が銀色の紙にみえるまで。
 だが、壁に掛けられた大型モニターの衛星放送が、その沈静化していく思考と静寂を容赦なく切り裂いた。
『速報です! 政庁より、クロヴィス殿下が薨御されたことが発表されました。先のシンジュクゲットーでのテロによって命を落とされていたことが正式に発表されたのです。この後、政庁からジェレミア・ゴットバルト代理執政官の会見が始まります。繰り返しお伝えします。先ほど――』
「……っ」
 ビクッとティラナの肩が震えた。
 パッと画面が切り替わり、軍服に身を包んだ純血派の男――ジェレミアが、瞳孔の開いた目でカメラを睨みつける映像が映し出される。
『クロヴィス殿下は薨御された。イレヴンとの戦いの中で、平和と正義のために殉死されたのだ! 我々は悲しみを押して、その遺志を継がなければならない!』
 バトレーから事前に聞いていたとはいえ、公式に突きつけられた義弟の死の事実に、ティラナの心臓が不快に拍動した。だが、ニュースはそれだけで終わらなかった。画面の下部に『緊急速報』のテロップが躍る。
 緊迫感を表すように、アナウンサーのブリタニアの標準英語がアクセントが強まった。
『たった今、新しい情報が入りました。実行犯とみられる男が拘束されました。発表によりますと、逮捕されたのは、名誉ブリタニア人です。――枢木スザク一等兵。容疑者は元イレヴン、名誉ブリタニア人の枢木スザクです!』
 画面に映し出されたのは、かつて日本と呼ばれた国の、最後の首相の息子。囚人のための拘束衣、そして首には首輪が取り付けられ、話すことを禁じられ、両脇を兵士に固められ連行される姿だった。
「枢木――スザク……」
 その名前が鼓膜を叩いた瞬間、ティラナの脳内で、完全に噛み合っていなかった過去の歯車が、凄まじい勢いで逆回転を始めた。
 ――枢木――スザク。
 記憶の深淵、暗黒の底から、冷たい水が噴き出すように。深い澱の底から沈んだ匣を引き上げる感触。ちらつく鮮烈な赤、赤、赤――。
 血の色の落日。白波押し寄せる砂浜と断崖。火の玉の降る、明るい夜。自らのアイデンティティと人生を狂わされ、奪われた瞬間の何か≠ェ、その名前をトリガーにして一気に脳の回路を焼き切ろうと暴れ出した。
「あ、……つ、あ……っ」
 激しい耳鳴り。視界が急速に狭まり、色彩を失っていく。
 心臓が、まるで破裂するかのように痛い。脳が、限界を告げるように、激しいエラーを起こして思考を停止させた。
「陛下――!」
 周囲に控えていた侍女たちの悲鳴が、遠くで聞こえた気がした。
 ドサリ、と絨毯の上に崩れ落ちる。
 視界が完全に暗転する直前、目の前でひっくり返った積み木と、突然倒れた母親の姿に恐怖し、火がついたように泣き叫ぶルークの声だけが、ティラナの意識の底に冷たく突き刺さっていた。



 クロヴィスの亡骸を護送する大型装甲車の中。バトレー・アスプリウスは、重苦しいモーター音に身を委ねながら、手元の通信端末に向かって血走った目で問いかけていた。主を失い、さらにカストラリアの女王ティラナから『神根島の遺跡』という最悪の急所を突かれた今、彼の精神は限界まで磨り減っている。
「研究所は?」
『昨晩のうちにはナリタに――』
 画面の向こうで研究者が落ち着いた声で答える。機器を通すとすべてが無機質な響きに聞こえた。極秘裏に進めていた『コードR』の成果物と設備一式は、どうにかトウキョウ租界の手が届かない、ナリタの山岳要塞へ隠匿できたようだった。
「そうか……。申し訳ありません、殿下」
バトレーは通信を切ると、車内の中央に鎮座する、冷たいクロヴィスの棺を見つめ、祈るように、あるいは許しを請うようにそう呟いた。すべては保身のため、そして亡き主の悲願を守るため。
 ――その時、凄まじい衝撃音とともに、装甲車の巨体が大きく跳ね上がった。
「何事だ!?」
バトレーがよろめきながら叫ぶ。怒号の代わりに返ってきたのは、フロントガラスの向こうでハンドルを必死に切る運転手の悲鳴だった。
「ナ、ナイトメアが! 純血派の……」
「純血派だと!?」
バトレーの顔が驚愕に歪む。間髪入れず、車外から、割れんばかりのサザーランドの通信音が響き渡った。
『バトレー将軍。クロヴィス殿下の殺害幇助の容疑で拘束させていただく』
「おのれ、殿下の亡き今、軍部を乗っ取るつもりか……!」
 狂乱するバトレーの抵抗など、鉄鋼の巨人の前には無力だった。次の瞬間、凄まじい金属音が鳴り響き、護送車の装甲天井がバリバリと紙切れのように引き剥がされる。眩い陽光とともに、サザーランドの重厚なマニピュレーターが上空から覗き込んできた。
『おわかりですか、私たちの決意を』
「だ……だから、私は!」
「憶えていない? まだそんなつまらぬ言い訳を」
 ジェレミアはクロヴィス暗殺時に警備が手薄であり、側近や参謀でさえ守護に就かなかったことを、意図的な黙認であったと疑っている。
「他の者にも聞け! 証言なら――」
 バトレーの言葉を批難する声が被さる。
「我が身大事か、見苦しい! あなたがこれ以上、殿下のおそばにいるのは許されない」
ジェレミアの一喝が下る。この日を境に、バトレー将軍を含め、租界の権力を握っていた旧体制派の文官たちは、何一つ弁明の機会を与えられぬまま、すべて更実に追い込まれた。


 しかし、純血派の野心はそれだけでは満たされない。ジェレミアの執務室では、さらなる謀略の火種が燻る。部下のヴィレッタに言い聞かせていた。
 これは悪意のある陳腐な権力志向ではない。名誉ある、皇族への忠誠心からだ。大義名分があり、ジェレミアはそれが正しいことであると邁進していた。
「クロヴィス殿下殺害の責をバトレーたちに負わせるだけでは、新しい総督が本国から送られてくるだけ。我らが本当に地位を得るには功績が必要だ。クロヴィス殿下殺害の実行犯を捕らえるのだ。その功を持って発表をする――」
 手がかりは殆どなく、凶器の出所から見ても、犯人はブリタニア軍の内部の人間である可能性が極めて高かった。だが、それでは純血派の政治的パフォーマンスにはならない。彼らが求めているのは、ブリタニアの威信を揺るぎないものにするための『分かりやすい生贄』だった。
 ただ一人、動機を持ち合わせる人間がいる。軍の最底辺に位置する兵でありながら、非ブリタニア人である男。国を奪われ、皇族を憎む理由がこれ以上なく揃っている存在――。

 冷え切った、コンクリート壁に囲まれた尋問室。
 青緑髪の男、ジェレミア・ゴットバルトは、透明なビニール袋に入れられたブリタニア軍制式拳銃を、冷酷な手つきで拘束衣の枢木スザクの前に掲げてみせた。
「この銃、なんだかわかるな? 枢木スザク」
 少年は無言でいた。黙秘ではない。黙秘せざるを得ない、首輪が彼の言葉を封じていた。
「クロヴィス殿下の殺害に使われたものだ。線状痕も確認済み。それと調べさせてもらったよ。君は日本最後の総理大臣、その嫡子だそうだなあ。動機も十分」
「何かの間違いです。自分はこんな銃、見たこともありません」
 スザクは真っ直ぐにジェレミアを見据え、身に覚えがないと毅然とした態度で否定する。だが、その実直さこそが、純血派の傲慢を刺激した。
 不意に背後から、兵士がスザクの固定されている椅子を力任せに蹴り倒した。ガタン、と激しい音を立てて、スザクは拘束された椅子ごと床へ横倒しにされる。
「君の指紋が検出されているんだよ。君には親衛隊の殺害容疑もかかっている。……認めたまえ。今ならイレヴンではなく、名誉ブリタニア人として裁いてもらえるぞ?」
「自分は……やっていない!」
 床に叩きつけられた衝撃に耐えながら、スザクはなおも叫ぶ。しかし、返ってきたのは、容赦のない軍靴による踏みつけだった。鈍い衝撃と痛みが脇腹から全身へと走り、視界が火花を散らすように暗転する。ブリタニア軍兵士たちによる、抵抗の許されない一方的な暴力の応酬。
 理不尽な悪意に押し潰されそうになる激痛の最中、スザクの脳裏に、かつて自分を守るために、逃がすために、軍人の前に立ちはだかった一人の軍人の背中が鮮烈に蘇った。
 ――オジサン。
 彼は、ダミアン・モリヒャルト。軍曹だった。本当の名前も所属階級も、戦後、桐原泰三に尋ねて初めて知った。
 カストラリア軍所属の一兵士。こうしてスザクも軍人としての道に進んで、軍曹が現場を制する重要な調節弁であることを知った。
あの過酷な逃避行。子供を連れて、安全な場所へ。桐原の家までは、あともう少しだった。虐殺行為が蔓延する街中を潜り抜け、ブリタニア軍の捕虜になった。スザクの生命を優先し、その場の危機を救ってくれた恩人。
 そして、スザクの子供心の友情と、正義から生まれ出た罪を知る人。
 ――あの人は、無事だろうか。助かっただろうか。今も、世界のどこかで生きているだろうか……。
 暴力の苦痛を逃がすように、意識の狭間のなかで、スザクは祈るように想いを馳せる。自分のような名誉ブリタニア人とは違い、自分の生まれ育った国から認められた、正規の軍人。温厚で、そしてどこか哀しい瞳をしていたあの軍曹。
 彼のような高潔な人が、今もどこかで、自分と同じように言われようのない罪を着せられたり、理不尽な暴力に晒されて傷ついていないだろうか。
血の味のする口を固く結びながら、スザクは理不尽な闇の中で、ただその確かな『光』の記憶だけを、必死に胸に抱き締め続けていた。



 a.t.b.二〇一七 May
 ブリタニア ペンドラゴン・宰相府


 エリア十一総督である、神聖ブリタニア帝国第三皇子、クロヴィス・ラ・ブリタニアの薨御。その報せを受けて、本国ブリタニアの宰相府はかつて無いほどの慌ただしさを窮めている。九十八代皇帝による占領政策始まって以来、総督の何者かによる暗殺。テロリストの犯行か、内々の人間による蛮行か。帝国内部では、その犯人への関心と話題として席巻していた。エリア十一から上がってくる情報を待つ中、航空機での移送の段取り、国葬の準備とただでさえ忙しない日常政務に差し込まれたイレギュラーな事態に現場の緊張感は高まっていた。その中であっても、一際冷静に政務を回し、国事の舵を取る帝国宰相の手際の良さに他皇族、宮廷に仕える廷臣や、軍部、各行政部門の者たちは一定以上の信頼を置いていた。
 宰相府のロビー、廊下、職員用のエリア、会議室。朝昼晩――何時、どこであっても、更新され続ける情報が錯錯し、囁きが絶えない。
「マルディーニ卿。おかえりなさい」
 張り詰めた空気が漂う廊下を進むカノンへ、すれ違いざまに声をかけたのは、シュナイゼルに仕える同僚の側近であった。手にした端末から目を離さぬまま、逼迫した現場の熱を伝えるように早口で囁く。
「たいした仕事じゃないわ。ちょっとしたお使い。……それより、こっちはずっとこんな状態なのかしら」
「はい。赴任先のエリアで総督が……亡くなるなんて、それも皇族が。こんなことは、あってはなりません。……より厳重なセキュリティ構築の再考が必要だと、本日の大会議でも提言があったようです」
「そうでしょうね」
 中央法務局帰り。ある件でカノンはシュナイゼルから頼まれ事を引き受けていた。
「私は宰相殿下のところへ。急ぎの報告があるの。これにて、失礼するわ」
「あ……お引き留めしてしまい申し訳ございません」
「気にしないで」
 軽く手を振って同僚と別れたカノンは、専用のリフトへと滑り込んだ。上階へと静かに昇る箱の中で、乱れた衣服を小さく整える。最上階に位置する宰相執務室の重厚な扉の前に立ち、短くノックをしてから入室した。室内には、うずたかく積まれた書類の山と、その中心で淡々とペンを走らせる主人の姿があった。
「シュナイゼル殿下」
「カノンかい。……見ての通りだ。……昨日の会議では、情勢と治安が他のエリアよりも不安定なエリア十一へ派遣した責を問う声もあった。……今朝、ガブリエッラ妃からお叱りを受けたよ」
 ガブリエッラはクロヴィスの母、シャルル皇帝の皇妃のひとりであった。
お叱りを受けた≠ニいうわりに、シュナイゼルの様子は平時と変わらない。
「エリア十一を希望したのはクロヴィス自身だ。兄として、宰相として、意向を尊重したつもりだったが……、こんなことになるなら、辞令を出すべきではなかったな。クロヴィスには悪いことをした」
 反省を呟きながらも、書類にサインを記すシュナイゼルの手は滑らかだ。
 目上の者が話し終えるまで遮ってはならない――。プロトコルを守り、やや急くようにカノンは主人にとって最重要の報告を挟み込んだ。
「殿下。……女王陛下がお倒れになりました」
カノンの言葉に、万年筆のペン先がふいと浮き上がった。
「……倒れた? いつのことだい?」
「はい。つい三時間前のことです。リビングルームでお倒れになったと……」
 第三者には普段と見分けのつかないほどの、静穏で凪いだ表情。しかし、その報告を耳にするなり険のある顔つきになったのを、側近のカノン・マルディーニはしかと見逃さなかった。
「侍医は過労だと仰ったそうですが、……クロヴィス殿下殺害の、容疑者の報道をご覧になっていたそうです」
「ふむ。容疑者はたしか――」
「枢木スザク。……日本国最後の首相、枢木ゲンブの嫡男。現在は制度を利用し、名誉ブリタニア人となっています。我が軍に入隊し、一等兵に」
 そういえばと、シュナイゼルは頭を振る。
 枢木スザク。昨日今日に限らず、しばしば登場する名前だ。エリア十一占領政策においては、主に政治的な要因であるが、シュナイゼルの私的領域においては妻の過去を知る者≠ナあった。
「……彼か。……軍入隊を機に、皇家との婚約を解消したそうだよ。……一種の勘当だ」
「お詳しいのですね」
「ティラナが言っていたんだよ。……今回の逮捕を受けても、キョウトは静観するだろう。総督殺しを礼賛できない」
「枢木は、本当にクロヴィス殿下を殺害したと思われますか?」
 シュナイゼルは首を傾け、さらりと金色の前髪が揺れた。
「事の真偽は不明だが、大衆は都合のいい物事の方を信用する」
 手元で万年筆のキャップを静かに嵌め、シュナイゼルは椅子の背に身を預けた。思考の海に沈むような短い沈黙。クロヴィスの死という国家の揺らぎすらどこか他人事のように処理していた男の瞳に、極めて個人的な、そして昏い関心の光が宿る。
「なにかを思い出したかもしれないね。……君の読み通りなら、枢木少年とはただならぬ仲≠ナあったらしいじゃないか」
「殿下、語弊があります。拡大解釈が過ぎますし――だいいち……子供と、成人の男ですわ。当時は」
「そうかい? 相手が子供だろうが、老人だろうが、……変な気を起こさないとも言い切れない」
「勘繰りすぎでございます」
「妻の貞節を信じたうえでいうが……典型的な人たらしだよ。彼女は」
 ほんの呆れをまじえて「それを貴方が仰いますか」と、カノンは小さく息を吐いた。
「私のは計算づくだが、彼女はそうはいかない」
 ティラナとて、意識的に相手を攻略しようと懐に入ることをする。だが、問題は、計算抜きのときが恐ろしい。
 彼女が放つ無自覚の引力は、時に立場や性別、年齢の壁さえも容易に融解させてしまう。シュナイゼルは自嘲気味に口元を綻ばせ、デスクの端に置かれたティラナの写真へと、酷く穏やかで、同時に独占欲の滲む視線を落とした。
「もし――ティラナに彼≠フ記憶が戻ったら、私は嫌われてしまうかもしれないな」
「……自覚はございますのね」
 皇歴二〇一〇年、八月。ブリタニアによる侵攻直下の日本。軍規違反を犯した兵士らによって、瀕死状態だったダミアン軍曹をそのまま保護せず、囮として再度サロニア公爵のアクセスポイントを探るために放り出した。いかに事件を解決するためだったとはいえ、危険にさらした事実は覆らない。ティラナがふと何かの拍子に当時の凄惨な記憶を取り戻せば、今ある愛と信用を一挙に失いかねない。シュナイゼルにとっては、唯一、後ろめたい不都合な過去であろう。
「あのときは、あの選択が正しかったと私は思うけれどね。それは今も変わらない」
 執務机に出来た書類の一山が片づく。
「後ほど、ティラナには直々に連絡を取るよ」
 そういって、シュナイゼルはカノンに今一度目を合わせ、与えていた本来の仕事を思い出させた。
「ところで、中央法務局のお使いは済んだのかい?」
「はい。滞りなく。強制送還後、逮捕されるでしょう」
 帝国宰相とは、主権である皇帝の指針に基づいて国家を運営する実務者の中の長である。いわば有力な右腕であるが、それは同時に、標的となる巨大な的でもあった。今回のクロヴィスの殺害を受けて、より身辺警護が引き締められるだろう。テロリズムは日常的な隣人である。とりわけ、現在のシュナイゼルのもとには、婚約解消の噂から、間諜を請け負った情婦や情夫役が事あるごとに送り込まれていた。
「ありがとう。鼠にしては間抜けで、あっさりとした最後だったね」
「……今月だけで既に三件。対策を講じなければなりませんわ」
「婚約関係は維持されていると、この左手を見せればすぐに話が片付くが」と、シュナイゼルが白手袋に覆われた左手をくるくると翻しては、誇らしげに掲げて言った。
「それはなりません」
「わかっているよ。ちょっとした冗談じゃないか」
 頑然と却下するカノンに一笑したあと、シュナイゼルは戯けたように肩をすくめてみせた。
「殿下のそれは、婚約指輪ではなく、結婚指輪でございますわ。それはそれで……新たな問題を呼び込みます。なにより――」
皇帝陛下がそれを知れば、情況は確実に悪化する。禁じ手の一つであり、すべてにおいて最悪に至ったときに用いる、最後の切り札だ。カノンが言いかけた言葉をシュナイゼルの思いつきが見事に遮った。
「そうだ、カノン。君はまだ、女装を楽しんでいるかい?」
「――は?」
 なんだその質問の仕方は――とカノンは喉から出かかった言葉を飲み込んだ。シュナイゼルの欠点のない顔には、よからぬ企てを思いついたと言わんばかりの喜色が滲んでいた。



90
午前四時の異邦人
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