空白のシニストラ






 a.t.b.二〇一三 April
 カストラリア リダニウム大聖堂

 
 厳かな静寂が支配するリダニウム大聖堂。ステンドグラスから差し込む春の光が、祭壇の前に座す一人の若き女性――いや、新たな君主を照らし出していた。
 豪奢な金衣を纏ったティラナの頭上に、枢機卿の震える手が王冠をゆっくりと載せる。
『全能なる神の御名において、また聖なる使徒の権威により。カストリアの気高き血を継ぎし者よ。汝にこの王冠を授く。主が汝に知恵の光を与え、正義の剣を持たせ、この王国の民を不変の安寧へと導かんことを』
『私、ティラナ・ヴァル・カストリアは、三位一体なる神の御前、そして愛する我が民の前で誓います。カストラリア王国の憲法を遵守し、法の支配と自由を護り、正義と平等のうちにこの国を統治することを。神よ、我が誓いを助け給え』
 枢機卿は厳かに戴冠のための口上を述べると、聖油を浸した指で、玉座のティラナの額と胸元に十字を描いた。
『これにより、ただいまをもって、神の信任に基づき、この方は女王となった』
 二十五歳。若い女王の、誕生の瞬間。
 枢機卿が両手を宙に掲げ、半歩退く。列席者の貴族らが一斉にコロネットを被り、淑女はティアラの位置を今一度正す。

「――Lûmen thir Vareina!(ルーメン・シル・ヴァレイナ)」
「――女王陛下万歳!」

 瞬間、大聖堂を埋め尽くす人々の大唱和が弾けた。それは巨大なハリケーンのごとく、熱狂という名の風の濁流となって蠢き、遥か空高い石のアーチへと幾重にも反響していく。
 しかし、その重厚な、熱狂の裏で、列席するカストラリアの貴族たちの目は一様に強張っていた。彼らは心配そうな目つきで、次に続くはずの儀式を見守っていた。
『オマージュ』――臣従の誓いの儀。
 本来であれば、王のもとに歩み寄り、膝をつき、忠誠を誓い、左頬にキスをするという極めて重要な一連の儀式。しかし――玉座の女王のもとに跪く者は、ただの一人もいない。
 そんなことは、この国の民であれば誰でも知っている。女王の親族の多くが、命を落とし、あるいは反旗を翻し罪人となり、さらにその親族は責から国外へ亡命した。だがしかし――唯一、新しい時代を戴く女王の傍らに、左側に立つ者がいることを知っていた。
 動けない。誰もが釘付けになっている。その日一番の衝撃は、戴冠式が行われるこのリダニウム大聖堂内に、最初から静かに居座っていた。
 来賓列側に、シュナイゼル・エル・ブリタニアが臨席していたからだ。
 ティラナの長年の婚約者であり、本来ならば王配として彼女の傍らに立つべき男が、あろうことか儀式の中には一切登場せず、国賓としての立場で――ブリタニア帝国を代表するゲストとして立っている。
 それが何を意味するのか。カストラリア貴族たちの間に、疑念と不安がどす黒く渦巻いていく。夏の避暑地――ヴァルグレイでの休暇。女王の誕生日となる十一月七日、バルコニーに揃う姿。あれほど仲睦まじいとされていたふたりへの、決定的な違和感。
 それは、最も最悪な事態――『婚約破談』を予感させるには十分すぎる光景だった。
『いったい、なんの冗談だ。陛下お得意の悪戯にしては、かなり、たちが悪いではないか』
 正装となるローブの毛皮、マント、扇や手袋の陰で、貴族や要職者たちが血の気を引かせた顔で囁き合う。
『王室は零落れたのか? たったひとりの主の遊びと公事の区別を曖昧にし、許すほどまでに』
『どうなんだ、ロンハード首相?』
 糾弾するような視線を向けられ、ロンハード首相はひきつった顔で首を振った。
『い、いいえ……私も、非常に驚いております』
 ロンハードは儀式側の最前列の位置から、ちらと視線を動かす。距離は離れているが、その二メートルに迫る目立つ長身は嫌でも視界に入った。
 堂々たる佇まい。周囲の動揺など欠片も意に介さず、シュナイゼルは正装で最前列を位置取っている。
 それは、戴冠の儀式を終えたティラナが中央の身廊をまっすぐ抜けるとき、真っ先に、そして必然的に目が合う特等席であった。
 法務大臣であったコートニーは後ろから、ロンハードだけに聞こえるように囁きかけた。
『それとも、爵位を持っていないからか? 丸裸であるくらいなら、最重要国賓扱いのほうがマシだといいたいのか、ブリタニアは。先王の遺言状により、特例で公爵の爵位を授けられるはずだ。陛下はなぜそのようにしない?』
『わかりかねます』
 ――否。
 首相であるロンハードには、この歪な状況の「真実」が知らされていた。彼は、最高機密事項を耳に入れられぬほど虚けな無能ではない。政治的な要因により、二人の婚姻をいま表立たせるわけにはいかないこと。しかし、国家の利益を最優先した結果の体裁であり、個人としての信頼関係には一寸の綻びもないことを、彼はしっかりと承服していた。
 なぜこのような回りくどい真似を――と、事情を知らぬ者が懸念を抱くのは当然だ。だが、過渡期にあるカストラリアが生き残るための選択肢は、現状、これ以外に存在し得ない。
 もしここで、カストラリアがブリタニアの傘下から完全に『一抜け』するような動きを見せれば、それは他国へ連鎖的な独立を喚起する引き金となる。そうなれば、ブリタニアとの全面的な敵対関係に陥る未来は避けられない。今日までの庇護者が、明日からの最悪の敵となるのだ。さらに、巨大な隣国である中華連邦はその隙を好機と捉え、E.U.を巻き込んで自らの陣営に引き込もうと画策するだろう。反ブリタニアに転じることは、外交だけでなく、国内の経済や国民生活に決定的な暗い影を落とすことを意味していた。
 ――長すぎたのだ。十二年という、ブリタニアの強大な庇護の下にあった時間は。
 もし、世界でもっとも成功した『宥和政策による統治』が行われた幸福な国があるとすれば、それは間違いなく、このカストラリアのことだった。
 過ぎ去った過去を今更悔やんでも詮無い。だが、あの国王夫妻の命を奪った忌まわしいクーデターが、すべての歯車を狂わせ、この国の有り様を根底から変えてしまったことだけは、覆しようのない事実であった。
『七日後、議会で摂政大権返還の儀≠ェある。殿下にはそれとなく訊いてくれ』
 ロンハードは、正面の女王から視線を外さずに、重く、静かに答えた。
『……努力しますが、ご期待に添えるかどうかはわかりません』
 オマージュを初めから存在しない行程であったかのように、式は厳粛に進められていく。やがて、変声期前の少年のみで構成された聖歌隊の清らかな歌声と、列席者たちによる地鳴りのような国歌斉唱が響き渡る中、女王は大聖堂の中央身廊へと歩みを進めた。
 国賓の席に差し掛かったとき、間違いなく、ふたりの視線は交わった。誰もが息を呑み、永遠の刹那を経験した。
 すれ違う、わずか数秒の静寂。
 重責の象徴である王冠を戴き、前を見据えるティラナの琥珀色の瞳に、動揺の欠片すら存在しない。ただ、その双眸の奥には、周囲の浅はかな邪推など到底届かぬ高みで、ある一つの確信が燃えていた。
 対するシュナイゼルもまた、完璧な微笑を湛えたまま、微かにホリドゥラの瞳を細める。
 ――よく似合っているよ。
 声なき賛辞が、彼の眼差しから真っ直ぐに伝わってくる。形式上の婚約解消も、国賓としての冷徹な距離感も、すべては肥大化したブリタニアを水面下で内側から解体し、ルークに遺すべき新秩序を完成させるための、二人だけの完璧なプロット。完全なる計画。
 世界を欺く壮大な狂言の幕開けを祝すように、シュナイゼルは胸元で静かに手を組み、新たなる女王へ、誰よりも深く、気品に満ちた一礼を捧げた。その徹底された他人のような距離感こそが、彼らの間に結ばれた、何者にも壊せぬ絶対的な共謀の証だった。
 シニストラ。――左側から彼の姿が去ったと、人々は愚かにも思うだろう。だがそれは違う。彼はより大きな使命をその背に抱き、ただ広大な世界へと飛び立ったばかりなのだ。
 大聖堂から、王宮へ続く沿道までを埋め尽くす、二万を超える王国軍の軍靴が、リダニウムの石畳を文字通り震撼させていた。一糸乱れぬその行進は、大聖堂の動揺を歓喜へと変える。バルコニーから大観衆に向けて手を振る。傍らに、彼はいない。

 その日から一週間後。
 シュナイゼル・エル・ブリタニアは、約十二年と六ヶ月にわたる摂政権を女王へと返還し、カストラリア議会は恙なくそれを受諾した。

 後頭部に当てられた氷嚢の、刺すような冷たさに、ティラナは小さく身じろぎをした。
「……は、ぁ……う……」
 頭の芯は冷えている。十分に熱を排し、沈静化していた。なにものも静養を阻むものはなく、ただ、深海に長らく置き去りにされていたかのような体を持ち上げる難しさに直面していた。
「……だれ……?」
 呻き声も、自分自身のものではないように聞こえた。
眠りからほどけたばかりの意識は、まだ泥のように重く、すべてが曖昧だった。新体制への移行に伴う過労か、あるいは精神的な緊張の反動か。枢木スザクが、第三皇子クロヴィス殺害の容疑者として連行される映像を観て倒れてしまった身体は、酷く気怠い。
 カーテンの隙間から差し込む光は薄明るく、夕暮れか、あるいは夜明け前の静けさを孕んでいた。ティラナは長い時間をかけて、重い身体をベッドから起こした。誰もいない主寝室の静寂が、妙に肌に寂しい。
 ふらつく足取りのまま、吸い寄せられるように、彼女の足は廊下を隔てた向こうの部屋――。彼が使っていた私室へと向かっていた。
 扉を開けると、そこにはひんやりとした無人の空気が満ちていた。しかし、眠気に濁った視界の先、窓辺の椅子のあたりに、見慣れた背の高い人影が佇んでいるような気がした。

『おや。……怖い夢でもみたのかい?』

 いつものように、柔らかく、すべてを見通すような砕けた口調。
 胸の内で一本の蝋燭の炎がぽっと灯る。
「シュナイゼル……、あ……」
 言いかけて、ティラナはその先の言葉を失った。激しい虚しさが胸を突き上げる。寝惚けていたのだ。
 その部屋には、彼はおろか、彼が愛用していた私物もほとんど残されてはいない。天蓋付きのベッドも寒々しい木枠だけだ。クローゼットも、キャビネットも、愛読書も数冊以外めぼしいものは何もない。ブリタニアの宰相として、戦場のようなペンドラゴンで暮らしている。
 ずっとそこに、当たり前のように彼がいると思って、甘えた何かを口にしかけてしまった。もし本物がそこにいたなら、『そうなの。凄く怖い夢をみたの』と子供のように小さな報告をするだけで、彼は何も言わずに『おいで』と両腕を広げ、その温かいベッドの中へ自分を招き入れてくれただろうに。
残された彼の部屋の冷気が、妙に胃の奥を翻弄した。

 婚約関係は不確かなまま、宙に浮いていた。――それからの日々は、まさに世間のノイズとの戦いだった。
 ブリタニアの宰相へと就任したシュナイゼルの最初の記者会見は、容赦のない追及の嵐だった。カストラリアとの関係、そして事実上の『王配辞退』と『婚約破棄』について、世界中のジャーナリストが言葉の刃を突きつけた。
 カストラリア王宮では、忠実な秘書官たちがティラナの精神的苦痛を慮り、それらの非難や憶測が書かれた新聞を隠し、彼女の目に入らないよう必死にシャットアウトしようと躍起になっていた。だが、どれほど紙面を隠そうとも、ネットやテレビの画面からは、二人の関係を冷笑し、揶揄する話題が止めどなく溢れ出てくる。
 
 ――公式には『友好関係の維持』を謳っているが、要するにブリタニア皇室によるカストラリアの実質的な損切り≠セろう――
 ――当然の帰結だ。いくら歴史ある王家とはいえ、ブリタニアの至宝たるシュナイゼル殿下を、あのような辺境の小国の王配という狭い檻に閉じ込めておけるはずがない――
 ――殿下は十二年もの間、摂政としてカストラリアを十分に潤された。帝国としての義務は果たされたのだ。これ以上、あの国に縛られる謂れはない。皇帝陛下もその実績を買われて、宰相の職を任じられたのであろう――

 ワイドショーは連日ゴシップを取り上げ、こねくり回し、慎ましやかに事情を拝察しているかのように装い、面白おかしく揶揄った。風化していくのを待つのは、果てが無いように思えた。誰も彼もが、安寧の揺りかごに肌触りのよいベビー毛布に包まれていると気づかずにいる。

 ――女王陛下は何を考えておいでなんだ? 完璧な代理人であった殿下を国賓席に追いやるなど、王室の身勝手なプライドで国を滅ぼす気か――
 ――あのお熱い姿はすべてただの政治的パフォーマンスだったわけだ。結局、私たちはブリタニアの皇子に良いように利用され、用済みになって捨てられたんだよ――
 ――先王、セイル国王の遺言である公爵位の授与すら拒んだというじゃないか。女王の我が儘か、それとも最初からブリタニア側にその気がなかったのか……どちらにせよ、我が国の未来は暗い――

 ブリタニア側も、カストラリア側も、それぞれネガティブな反応を示した。
 戴冠式の祝賀ムードも、その次にあった結婚の期待を裏切ったことで半年のうちに消えてしまった。隣国、中華連邦の大宦官はこう零したという。――シュナイゼル・エル・ブリタニアという男の底知れぬ冷酷さを表す好例だ。十二年かけてカストラリアを完全に手懐け、周辺の中華連邦に対する防波堤として機能させた。そして自分が本国の宰相に上り詰めるや否や、婚約という名の鎖を鮮やかに断ち切った。稀代の策略家である――、と。
 その他、E.U.では――カストラリア王室は完全に梯子を外された形だ。これからはブリタニアの直接的な庇護なしで、中華連邦の圧力と向き合わねばならない。若き女王の手腕とやらの見せ所だが、前途は多難だろう――との見方を強めた。
 
 『人の噂も七十五日、とは言うがね』
 かつてシュナイゼルが笑っていた通り、大衆の好奇心は無責任に燃え上がる。
 ――たかが一国の王配の座と、神聖ブリタニア帝国の次期皇帝の座。天秤にかけるまでもない――
 ――事実上の破棄だろう。表立って婚約解消などと言えば角が立つし、世界に対して世間体が悪いからな――
 ――万が一、ブリタニアでの権力闘争に失敗したときのために、カストラリアという保険を残しておきたいのだろう。さすがは、抜け目のないシュナイゼル殿下だ――

 浅はかな、あまりにも浅はかな邪推の数々。
 世界を欺くための狂言は完璧に機能している証拠だが、それでも、愛する男を『野心のために女を捨てた冷酷な男』と評されるのは、決して気分の良いものではなかった。

『なーにが、女王様、博士号三つもあるのに男を引き留める学問は修めてなかったみたいですね≠諱I 癪に障るわ!』
 端末で巷の情報をチェックしていると、侍女のルイーゼが顔を青くして控えめに囁いた。
『へ……陛下、あまりご覧にならないほうが……』
『報道の自由、表現の自由を謳っているのよ? いかにして民衆の心の内を知るかが王の務めでは?』
『ですが……』
 出所不明の匿名のネットの書き込み、なにげのないコメントにこそ、剥き出しの本音が詰まっている。

 ――人工血液とか作る前に、男の心を繋ぎ止める薬でも開発すればよかったのに――
 ――これでシュナイゼル殿下も、ようやく本国の家柄も顔も良いブリタニア貴族の美女と結婚できるね! 殿下、本当におめでとうございます!――
 ――元中立国とかプライド高そうに言ってるけど、結局はブリタニアが軍事も経済も回してくれなきゃ何もできない国じゃん。殿下が去った今、中華連邦の防波堤として使い潰されるのがお似合いだよ――

『むきーっ!』
 耐えがたい屈辱。
 我慢ならないと叫ぶティラナの視線が、さらに悪質なテキストの一列へと注がれる。

 ――シュナイゼル殿下がボランティア精神旺盛な聖人すぎただけ。十二年も寝たきりのお荷物を押し付けられて、国政まで代わりに回させられて……。今回の宰相就任は、殿下にとって長すぎる介護からの解放でしょ。ぶっちゃけ清々してそう――

『――ッ、な、にが長すぎる介護からの解放≠諱c…! 誰がお荷物ですって……!?』
 激昂したかと思えば、次の瞬間には大粒の涙が琥珀色の瞳にじわりと浮かんでいた。かつてないほどに情緒が不安定だった。怒りと、悔しさと、そして彼に十二年半もの時間を費やさせ変幻の足跡を追わせたという切ない負い目が、胸の奥でぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
 ルイーゼがオロオロしながらお茶を淹れ直したり、『陛下、もう端末は没収いたします!』と言って、半ば強引に画面を取り上げた。
『ちょっと風にあたってくるついでに、馬にでも乗ってくるわ』
 身体を動かして、この鬱屈としたこのノイズを振り払おうと、そう言った直後だった。
 突如、激しい不快感が胸の奥底から突き上げた。
 ここ数日、頭痛による気分の優れなさだと思っていたそれは、前触れもなく強烈な吐き気へと変わる。ティラナは口元を押さえ、ワンピースの裾を翻して洗面台へと駆け込んだ。
 胃の中のものをすべて絞り出すようにして、激しく吐く。水道の冷たい水を流し、乱れた息を整えながら、ティラナは鏡に映る自身の青白い顔を見つめた。痛々しい悲壮感は色だけで、その顔の輪郭は、まるで空気の入った柔らかなパンのように僅かに浮腫んでいた。
ただの過労や、心労による胃のむかつき。そう思い込もうとしたが、博士号を三つ持つ彼女の優秀な頭脳は、自身の身体が発している別のシグナル≠フ可能性を、冷静に、そして確信を持って導き出していた。
 
 厳重に口止めされた侍医が、緊張に震える面持ちで、しかし最大級の敬意を込めてソファに腰掛ける女王に頭を下げた。
『まことにお慶び申し上げます。陛下。……お身体の中に、新しき命の息吹が宿っております、ご懐妊でございます』
 静まり返る部屋の中で、ティラナは自身のまだ平らなお腹に、そっと手をやった。
 世界は彼を、野心のために婚約者を棄てた男と呼ぶ。
 世界は自分を、ブリタニアに棄てられた哀れな孤独の女王と蔑む。
 だが、彼らがどれほど浅薄な言葉でふたりを嘲弄しようとも、このお腹の中に宿った命こそが、誰にも踏み込めない二人だけの絶対的な絆の証だ。この子が成人するとき、世界はシュナイゼルがダウンサイジングした、完璧に安全な盤面となっている。
 ティラナは愛おしそうに自身の腹を撫で、まだ見ぬ我が子へ、そして遥か彼方のペンドラゴンにいる共謀者へと、勝利を確信する微笑みを向けた。
暗い世間のノイズをすべて叩き潰す、これ以上ない最高の一手。
『――福音よ。シュナイゼル』


 どれくらい、そうして過去の記憶の海に浸っていただろう。
 二〇一三年のあの甘やかな勝利の予感は、激しいフラッシュバックの衝撃とともに、今に引き戻される。窓の外、ヒマラヤの鋭い稜線が明るい闇の中に控えている。
 エリア十一で起きた、総督殺害。枢木スザク逮捕の電撃速報。あの凄惨な過去の足跡を呼び覚ますニュースを見た衝撃で、ティラナの身体は限界を迎え、その場に倒れ伏してしまった。
血が染まるような光がパッと頭の中に広がる。名状しがたい感覚と、違和感。酷い耳鳴りが、けたたましい鐘の音が、意識を奪っていく。
「……はあ」
 肺に溜まる空気は重い。頭痛の気配。増幅する血流。不安と焦燥感からくる動悸。額がまたじんわりと熱を持ち始めていた。
 ――枢木スザク。初対面ではないのに。どうして……?
 五年前の十月。日本視察で少年と顔を合わせている。皇家の屋敷で十二歳の枢木スザクと面識があった――。
 あの見た目に反する大人の眼差し。抱えるものを隠すために、妥協と諦めを知った落ち着きすぎた翠緑。
「彼に会えば、なにかを思い出せる?」
 会うだけで思い出せるだろうか。枢木スザクと、ティラナは初対面だった。スザクと会っていたのは――過去の、ティラナではなかった頃の誰か≠セ。
「……シュナイゼルに聞いても、はぐらかされるだけよ」
 口の中で小さく呟く。この手の過去に係わる記憶の話になった途端、上手く躱されるか今≠フ話で気を逸らそうとする。思い出すことなど、無駄だと。他者であった時代は無そのものであると、封じ込めるように。
 しかし、それでも、ティラナの空白の十二年の記憶に関して、よき理解者であるのはシュナイゼルだろう。
 ――あのときも、なにかを思い出したはず。
 思い出して、それから――彼の姿を久々に観るまで忘れていたことは、不可解だ。
「やっぱり、記憶を消されている……?」
 どこで?
 あの、神根島で。
 主のいないシュナイゼルの私室に漂うひんやりとした静けさの中で、ようやく呼吸を整えたティラナは、重い身体を引きずるようにして、自身の寝室へと戻った。薄暗い部屋の中、サイドテーブルに置かれた携帯端末が、ひっそりと青いインジケーターのランプを灯らせているのが目に留まる。
 規則的に明滅するその光を見た瞬間、胸の奥が確信に突き動かされた。
 ――彼からだ。
 世界中がエリア十一の政情に目を奪われ、チェス盤の急激な変動に揺れているこの最中であっても、あの男が真っ先に向ける視線の先は決まっている。ティラナは迷わず端末を手に取り、その手袋越しに冷たい画面を滑らせてコールバックした。
電子音が二回、静寂を刻む。三回目が鳴る前に、回線は滑らかに繋がった。
 スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、世界の命運を握るブリタニア宰相の声ではなかった。ただ一人、彼女の前でだけ見せる、どこまでも穏やかで、深く響く砕けたトーンの音色だった。
『倒れたと聞いたから。心配していたんだよ、ティラナ』
 その声音に含まれた絶対的な労りと優しさに、張り詰めていたティラナの肩の力が、目に見えて抜けていく。ペンドラゴンにいながらにして、カストラリアの王宮で自分が昏倒した事実をすでに把握しているのは、側近であるカノンに連絡が行ったからだろう。従者らの手回しの良さに呆れつつも、その過保護なまでの執着が、今はたまらなく愛おしかった。
「……何のこれしき。あなたほど忙しいわけではないわ」
 ティラナはあえていつもの調子を取り戻し、強がるように、余裕を声に滲ませた。
『おや、相変わらず手厳しいね。だが、私と君の忙しさは質が違う。君が背負う重圧は、私のそれよりもずっと繊細で、尊いものだ。替わりの利かない、ね。……無理をしてはいけないよ。そして――』
「わかっているわ。ただの貧血よ」
 シュナイゼルは一度言葉を引き延ばし、まるで彼女のすぐ隣で髪を撫でるかのような、極上の甘やかさを孕んだ吐息を漏らした。
『私のために、どうか健やかでいておくれ。君の身に何かあれば、私は世界のすべてを壊してしまうかもしれない』
 微笑みを湛えたまま投げ込まれた、相変わらずの途方もない本音の爆弾に、ティラナは小さく吹き出した。世間がどれほど、ふたりの関係を大きく誤解しようとも。彼の、その内側にあるこの一途な狂気こそが、彼女を救う唯一の錨なのだ。
「ふふ、脅迫めいた冗句ね! 恐ろしい宰相殿下だこと。……ええ、約束するわ。あなたの用意する完璧なチェックメイトを、特等席で見届けるまでは、絶対に倒れたりしないわよ」



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午前四時の異邦人
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