上空一万メートル。雲上を飛翔する浮遊航空艦アヴァロンのプライベートルームには、重厚な静寂が満ちていた。エンジンの微かな振動だけが、この巨大な鉄の塊が時速数千キロで欧州へ向かっていることを教えている。構想から実現まで約十年。とある天才科学者たちが航空技術へ革命を起こすだろう。フロートシステムは戦場でのイニシアチブをとる。制空権を制するものが、勝負を制する。ブリタニアが戦争を支配する時代を確実のものとする。――だが。
――しかし、目的に過度な戦術≠ェ求められていない。
最終調整を終え、あとは目的地までの余暇の時間となった。シュナイゼルは胸飾りを緩めると、首にひやりとした風をあてた。黒子のように従者が上衣を預かるとさっとガウンを肩に掛けた傍らには、影のように控えるカノン・マルディーニの姿がある。
「お目覚め頃にお茶を淹れましょうか」
低く落ち着いたカノンの問いかけに、シュナイゼルはふっと溜息のような笑みを漏らし、緩やかに振り返った。
「……そうだね。到着後は、落ち着く間もないだろうから。よろしく頼むよ」
「Yes, Your Highness」
恭しく礼を執るカノンに、シュナイゼルはソファの背に軽く身を預け、つるりとした床の光沢に目線を落とした。それから幾ばくかの時間の間、思案に耽った。
「予定通り進むかな?」
「それは……」
カノンは言葉を濁した。主人の言葉に主語はない。宙からいきなりリンゴが現れるような不自然さ。だが、カノンは常にシュナイゼルの物言いに注意を払い、問いの本質を理解していた。他の側近や従者は、その後に予定されているサミットへの憂いであろうと、当てずっぽうで納得するだろう。
「準備を進めてきたものの、話は平行線だろうね。やはり、裏会談が勝負どころかな。……ティラナが上手く取り持ってくれているから勝算は十分ある」
卓上の端末にはサミットに参加国の複雑な情勢データが映し出されていた。表向きの舞台はパリ。だが、百戦錬磨の外交官たちが集う公式サミットなど、結局は互いの面子と建前をぶつけ合う空洞の儀式に過ぎない。
表の首脳会談をパリで終えたあと、すぐさま次の交渉場となるスイスのベルン、レマン湖畔のモントルーへと向かわなければならない。一番最後のモントルーが本命の交渉場である。一足早く現地入りしているカストラリア女王ティラナ・ヴァル・カストリアは、すでに欧州の政財界・聖職者層にまで張り巡らせたその強大な人脈と私財を駆使し、非公式会談の下地を整えつつあった。
「ユーロピアが一枚岩ではないなら、個人戦に持ち込むことが適切です。隙に入り込めば攻略は容易でしょう」
カノンが淡々と分析を重ねる。各国の利害関係は複雑骨折を起こしており、主権国家の連合体という脆弱な構造ゆえに、個別の揺さぶりには極めて脆い。
「ユーロピアが陥落すれば、同盟国への牽制に繋がる。包囲網の完成だ。上手くいけば、武力行使ではなくテーブルゲームで済むかもしれない」
「殿下。それは希望的観測でしょうか」
政治とは、血を流さずに勝利を得るための盤上遊戯である。カノンの鋭い指摘に、シュナイゼルは頷いた。
「そうだね。希望的観測だ。そのために、泥を被ってもらっているのだから。報われて欲しいと願うのは当たり前のことだよ」
シュナイゼルの声には、穏やかさの裏に底知れぬ慈しみが滲んでいた。
二人三脚でここまでやってきた。
爆発的な拡大と台頭を続けるブリタニア帝国。その強権的な覇道に対し、被占領国や周辺国が抱く反発と軋轢――それを間に入って中和し、潤滑油として機能しているのがカストラリア王国である。
さながら、世界中に張り巡らされた『海底通信ケーブル』である。
表舞台ではブリタニアの圧力をいなし、裏では各国の経済・物流の動脈を握る。インフラとして世界に必要不可欠な国。あるいは、東西の富と情報が交差する現代のシルクロード。ティラナの手で主導された経済特区構想は、当初の予測を遙かに超え、世界のパワーバランスを左右するほどの重要拠点へと発展していた。
シュナイゼルでさえ、ここまでの大成功を収めるとは想像していなかったほどに。
「問題があるとするなら、時間は有限であるということだ。早急に手を打ちたいが……。総督殺しは、テロリズムを加速させるいい刺激になりそうだね」
エリア十一で起きた凄惨な事件――皇族たる総督の死。それは絶対的であったはずの帝国の威信に、致命的な亀裂を入れるだろう。
「トップの首を取ることで、ブリタニアは完全無欠ではないと知られれば……情況も変わる」
次の総督には、同じ轍を踏ませるわけにはいかない。シャルルの子である兄弟の多くは、クロヴィスや長兄のオデュッセウスを含めても内政派である。立て直しを図るには、帝国のイデオロギーに沿う者が適任者である。公爵を総督に任じることもあるが、ここで格下げ人事で送り出せばエリア十一の反乱分子は勢いづく。勝利を、成功体験を与えることになるからだ。
締め上げの段に差し掛かり、武闘派と名高く、シュナイゼルと殆ど年齢の変わらぬ異母妹――コーネリア・リ・ブリタニアに託すこととなった。
「ティラナが極東の件を問題視していないわけはない。内紛のきっかけをつくり――計画の妨げになる。……枢木一等兵には頭が痛くなる思いだよ。……様々な意味でね」
枢木スザク――日本国最後の首相による殺害。事実であろうが、なかろうが、完全な平定に至っていないエリア十一では爆薬になりうるビッグネームである。
含みのある物言いとともに、シュナイゼルは首を竦めた。
「それもまた、仲裁で吸収されるでしょうか」
「パイプはいくつかある。その気にさえなれば、手を回せる位置にいる……。――見せかけを演出し、裏をかくのは、昔から彼女の常套手段だったね」
ふと、シュナイゼルは懐かしむように目を細めた。寄宿学校時代、ノエルとして自身の傍にいた頃から、彼女は大衆や自分自身を欺き、人知れず暗躍していた。カノンは微かに口元を緩めた。
「悪評には慣れぬようですよ」
「そうだろうね。ああ見えて、映り方を気にする方だから」
世間からは『冷酷な高慢ちき』『後継者の責務を捨てた不節操な不貞の女王』『王室の品位をおとしめる奔放な悪女』は、ゴシップ紙や週刊誌の鉄板ワードである。対してシュナイゼルの方は帝国法の不敬罪が効いているのか、手酷い揶揄や皇族批判はない。
むしろ――シュナイゼルを裏切り続ける女とその悪名高さにより、多くの局面で同情を誘い、交渉を有利に進めてきた。
戦略的意図の副産物とはいえ、悪評に無関心を貫いているわけではない。自身の美意識や他者からの見え方に人一倍繊細な少女のような一面を持っていることを、この部屋にいる二人は痛いほど知っていた。
「では殿下、お体を休めてください」
時刻を確認したカノンが出入り口まで退いた。
「おやすみ。カノン」
室内で完全にひとりきりとなる。
シュナイゼルは、徹底的な秘密主義の象徴である手袋をゆっくりと外す。剥き出しになった左手の薬指には、世間の誰も知るはずのない、お揃いのシンプルな金環が淡い光を放っていた。
プライベートルームのベッドに深く腰掛けたシュナイゼルは、サイドテーブルの端末に目を通し、暗記済みの欧州各国の高官たちの個人データをさらりと最後の確認として読み返す。実績や功績、利害関係、派閥、弱み――。首脳ではなく、参謀役を堕とす。頭を支えているのは首を切れば、容易に決着はつく。急所を理解しているからこそ、彼女はシュナイゼルを遠くに配置した。
指先で画面を閉じ、ランプの温かな灯りを消すと、彼は静かにベッドへと身を横たえた。
十時間後にはパリだ。総督殺しで慌てふためく本国の動揺と騒乱を悟らせぬように、専用小型機での移動ではなくアヴァロンにしたのは賢明な判断だっただろう。
シュナイゼルは緩やかに瞼を閉じ、束の間の深い眠りへと落ちていった。
a.t.b.二〇一七 May
パリ ブルボン宮殿
セーヌ川左岸に佇む、新古典主義建築の荘厳なる偉容――ブルボン宮殿。
ユーロピア共和国連合の首都、パリに位置するこの旧国民議会議事堂。ヴェルサイユ宮殿を模したカエサル宮殿で主な政治が動くが、ここブルボン宮殿が今回のサミット会場となっている。
かつて王朝の権威を象徴する宮殿でありながら、約二三〇年前のフランス革命を皮切りに欧州全土へ波及した市民革命の嵐を経て、旧王政府を打倒した共和制の聖地へと変貌を遂げた歴史を持つ。
旧王侯貴族が亡命し、絶対君主制の頂点として君臨する神聖ブリタニア帝国とは、存在の根底から相容れぬ宿敵関係にあった。あえて この歴史的象徴の場に帝国の宰相を招き入れたのは、E.U.側が誇る『民衆の正義と対話』という政治的パフォーマンスに他ならない。
「シュナイゼル殿下」
控えの間にて、優雅な仕立てのフロックコートを纏った老政治家が、薄く微笑を浮かべて歩み寄ってきた。E.U.最高評議会議長、ジャン=マルク・デュポンである。
「デュポン議長。いい会談にしましょう」
「ええ。もちろんです」
二人は握手を交わした。掌から伝わるのは、互いの国家の重みと、笑顔の裏に隠された鋭い毒である。デュポン議長はどこか同情するような、しかして嘲りを含んだ眼差しでシュナイゼルを覗き込んだ。
「お噂はいくつか耳に入っておりますが。なかなかに苦労ばかりでございますな」
「お恥ずかしい限りです」
シュナイゼルは穏やかに目元を和ませ、自嘲気味に微笑を返してみせる。
議長が何を指しているかは明白であった。カストラリアの若き女王ティラナ・ヴァル・カストリア――十七年に及ぶ婚約期間を持ちながら未だ挙式に至らず、世間からは『行き遅れ』『不妊の兆候』『不倫疑惑』の三拍子で叩かれ、幾度となくシュナイゼルの立場を翻弄しているとされる悪名高き未婚の妻。
帝国の宰相たる男が、女一人の手綱すら握れず振り回されている――大衆とメディアが好むその醜聞を、デュポン議長もまた外交上の揺さぶりとして利用しようとしていた。
「貴国の要件を吞むには、譲歩が欲しいと私にお話しが回ってきておりまして」
「さようで」
「ええ。ですが……誠実で献身的な殿下がこれ以上、身内の不徳や無理解によって心労を重ねられるのは見るに忍びない。本日の会談が、殿下にとって少しでも報われる形となれば良いのですがね」
社交辞令を装った嫌味を、シュナイゼルは完璧な気品をもって受け流す。裏でその不仲の演劇を仕組んでいるのが当の自分たちであることや、帝国の宰相に手綱を握らせぬ『手に負えない女王』という演出こそが、E.U.諸国に『カストラリアとは個別に取引できる』という致命的な隙を生ませていることなど、目の前の老政治家は知る由もない。
重厚な彫刻が施された大扉が開かれ、全世界の報道陣が集う首脳会談の場へと足を踏み入れる。眩いフラッシュの嵐と無数のレンズが、円卓につく各国の首脳陣とシュナイゼルの姿を一斉に捉えた。
セッションの冒頭、マイクを握ったデュポン議長は、あらかじめ用意していた鋭い先制攻撃を仕掛けた。
「我が連合は、暴力によるいかなるテロリズムも容認しない。……だが、宰相閣下。極東での凄惨な事件は、御国の力による威圧と武力統治が、もはや限界を迎えている証左ではないのかな? 人々の自由を奪い、抑圧で縛り付ければ、反発の芽が生じるのは歴史の必然だ」
会場のカメラと記者たちが一斉にシュナイゼルの表情を追う。皇族たるクロヴィス総督の殺害――エリア十一で起きた帝国の不祥事を公の場で突きつけることで、E.U.側は『帝国の正当性の揺らぎ』をアピールし、政治的優位に立とうと画策していた。
静寂が満ちる会談場。シュナイゼルは傷ついた素振りも、不快感すらも見せず、ただ深く痛むように緩やかに目を伏せた。
「弟を失った私個人としては、議長のお言葉にある痛みに深く同意いたします。……ですが、政治に携わる者として、客観的な事実を見落とすわけにはいきません」
シュナイゼルは静かに顔を上げ、円卓を囲むE.U.各国の首脳陣を緩やかに見渡した。その青紫の瞳には、冷ややかな理知の光が宿っている。
「抑圧がテロを生むとおっしゃる。……では、貴連合の東部国境付近で多発している大規模な暴動や、加盟国間で押し付け合っている難民問題、そして失業率は、どのような『自由の必然』とお答えになるおつもりですか?」
議長の顔から笑みが消える。記者たちのペンを走らせる音が激しくなった。理念の正当性を誇るE.U.の足元にある、現実の歪みを一言で射抜いたのだ。
さらに、シュナイゼルは追い打ちをかけるように、穏やかな声のまま決定的な切り札を盤上に提示した。
「我が国は、至らぬ点があれば常に改める準備があります。……例えば、カストラリア王国が主導する『経済特区』に対し、我が国が提供している物流優遇措置やエネルギー資源の共同配分計画。これらを全面的に見直すことで、貴連合の理念に沿う形へ再構築することも吝かではありません」
その瞬間、円卓の空気が目に見えて凍りついた。
円卓の一角に座していたドイツ宰相、オランダ首相、スカンディナビア諸国やデンマークの首脳たちの顔色が劇的に変わる。彼らは、君主制度を維持、あるいは実利を最優先とする、または行ってきた国家群であり、カストラリア王国――すなわちティラナ主導の経済特区と私財基金がもたらす巨大な市場・エネルギーインフラの恩恵を最も深く受けている当事者たちであった。
――……正気を疑うぞ、デュポン議長! ――
――余計なパフォーマンスでブリタニアを煽り、カストラリアの経済パイプを止められたら、我が国の産業はどうなる!? ――
実利派の首脳たちから議長へ向けられたのは、もはや味方のそれではなく、露骨な動揺と激怒を含んだ視線であった。E.U.という連合体の一枚岩ではない脆弱さが、シュナイゼルの一言によって一瞬にして暴かれた。
記者たちのフラッシュが激しく焚かれ、ペンが狂ったように紙を走る。『E.U.への経済制裁の示唆』――デュポンがパフォーマンスのために招き入れた報道陣のカメラが、自国の首脳陣が見せた露骨な狼狽を全世界へリアルタイムで送信していた。
その混乱の輪の中で、ただ一人、静かな笑みを浮かべている男がいた。
カストラリア王国首相、ロンハードである。
ティラナの忠実な手足としてこのサミットに参加していた彼は、議長たちの動揺を冷ややかに見つめながら、シュナイゼルとほんのわずかに視線を交わした。報道に乗るよりも先に情報を入手するための窓口でもある。
表はやはり平行線をたどる。舌戦は不毛な諍いを生むだけである。擦り付けあいの寄り合いに加えて、四〇人委員会は事実上政治的不能に陥っているときく。この曝露を皮切りに、E.U.構成国との『個人単位での交渉』が水面下で始まるはずだ。
既に協力国となっているドイツがこの会談後に噂を流すことも想定済みであり、裏会談の本命は明日のモントルーだ。仕掛けた網に掛かった国家首脳たちとの密約を交わせば、今回のE.U.サミットにおけるシュナイゼルの仕事は完了する。
――予定通り、上手くいきそうだ。
シュナイゼルは心の内で、そっと評価を下した。
凍てつく北風を送り込み、太陽の暖かさを求め彷徨うように。すべては仕組まれている。
a.t.b.二〇一七 May
スイス ベルン郊外
アーレ川のせせらぎを遠くに臨む、ベルン郊外の静謐なる森。
深い夜の静寂を切り裂くように、重たく白い霧が古木の間を立ちこめてゆく。街灯の光さえも淡く濡れたヴェールに包まれるその場所は、かつて欧州諸国の王侯貴族が浮世の喧騒を逃れるために築いた、選ばれし者のための密林の聖域であった。
美を体現した重厚な館――ポニャトフスキの所有する別荘の車寄せに、一台の黒塗りのリムジンが静かに滑り込む。
「いい屋敷だ」
車から降り立ち、霧の立つ天井を仰いだシュナイゼル・エル・ブリタニアに、出迎えた老貴族が深く頭を下げた。カジミェシュ・アウグストゥス・ポニャトフスキ。ティラナの母方の親族であり、この歴史ある館の主である。最後に会ったのは、三年前、クイーン・マザー・カタジナの葬儀だった。
「お久しぶりです。シュナイゼル殿下」
「息災そうで何よりだよ、カジミェシュ」
「陛下がお待ちかねですよ。……これをどうぞ」
壮年の紳士は銀のトレイに載せた小瓶を恭しく差し出した。赤みの強い琥珀色の液体が、館の灯りを反射して妖しく揺れる。
「これは?」
「五〇年物のコニャックです。陛下のお気に入りの……。モントルーの古い醸造所から特別に寄せさせた品でございます。お使いになる部屋は、三階の奥にご用意してございます」
カジェミシュはボトルをシュナイゼルに預け、にこやかな佇まいを崩さず小広間の扉へ続く動線から逸れた。
「配慮に感謝するよ」
シュナイゼルがエントランスのホールへ歩みを進めると、重厚な階段の上から不規則的な、だらしない足音が響いた。
現れたのは、フロックコートを脱ぎ捨て、刺繍の施されたベストとズボンというあまりにラフな姿の男――ヴィルヘルム皇太子であった。片手に太い葉巻を挟み、紫煙を燻らせながら、一服のためにホールへ出てきたところだったらしい。
「やあ、ヴィム。いい夜だね」
「悪い夜だ。待ちくたびれたよ。こちらへ着いてから五時間はチェス漬けだ。あの女王の相手も容易ではないな……いい加減休みたいと思っていたところだ。丁度良かった」
そう吐き捨てるヴィルヘルムの目元には、確かに『我が儘な女王の遊び相手に疲れ果てた』と言いたげな、疲弊と不満が色濃く刻まれていた。
シュナイゼルが穏やかな微笑を浮かべたままその横を押し通ろうとすると、ヴィルヘルムは長い脚を一歩前へ踏み出し、行く手を阻んだ。
「おっとっと。この先に進むには、セキュリティチェックにご協力を」
「セキュリティチェックかい……?」
「きわめてプライベートな場だからな。蟻一匹通したくない。関係者以外立ち入り禁止だ」
シュナイゼルは小さく一笑すると、手袋を脱ぎ捨てた左手をヴィルヘルムの目の前に静かに掲げてみせた。金色の指輪が、鈍い輝きを放つ。
「これでいいかい」
「……けっ。どうぞ」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、ヴィルヘルムは素直に道を空けた。
ホール奥の小サロン。幾人かの親族や親しい貴族たちが静かに歓談する空間の最奥で、ティラナはチェス盤を睨みつけていた。
シュナイゼルは給仕から銀のトレーとブランデーのボトルを自然な動作で借り受けると、気配を消して彼女の後ろへと歩み寄る。
「ちょっと、ヴィム! らしくないわこんなの。この対局をうやむやにして逃げ切ろうっていう魂胆が明け透けよ。あと三手でチェックメイトしちゃうわ……っ?」
戻ってきたヴィルヘルムだと思い込んで顔を上げたティラナは、そこに立つ男の顔を見て言葉を詰まらせた。青紫の瞳が、至近距離で優しく自分を見下ろしている。
「……おかわりは如何ですか? マイレディ」
シュナイゼルは給仕の見よう見まねの仕草でボトルを傾け、彼女のグラスに赤褐色の液体を注いだ。
先刻までチェス盤に向けられていたティラナの琥珀色の瞳が、みるみるうちに歓喜と潤みを帯びて輝き出す。彼女は呆気にとられた表情を隠すように、ふいと軽く顎を上げた。
「……美酒に酔いしれる時が来たみたいね」
照れ隠しの台詞を口にしながら、彼女は注がれたブランデーを一口、喉へ滑らせた。芳醇な香りが胸を満たしていく。
身内だけの社交場。気利かせた給仕の手によって、室内にはゆったりとした新しい曲が流れ始めた。中央の小さなダンスフロアが、ふたりを静かに誘う。
「お相手してくださる?」
「喜んで」
シュナイゼルはティラナの手からそっとグラスを抜き取り、近くのサイドテーブルへ置いた。そのまま彼女の細い腰を引き寄せ、身体を密着させるようにして、緩やかなチークダンスに興じ始める。
「遅くなってしまったね。寂しかったかい?」
「不貞腐れて寝てしまうところだったわ」
一年と三ヶ月ぶりの逢瀬。
暗号通信や極秘の回線を通じ、ほんの数日前にも声を交わした相手だというのに、肌の温もりと鼓動を伴う対面は、言葉になり得ない深い感動を胸に引き起こしていた。
音楽が遠のき、動力不足のオルゴールの模型が、余韻を長引かせて静止していく。
ティラナはシュナイゼルの両肩にそっと手を置き、ほんの少し背伸びをして、彼の唇を奪った。
この場に、彼らを牽制する者も、揶揄する者も、嘲笑する者もいない。ダンスの旋律は緩やかに流れてゆく。フロアの中央、夜の太陽が照らす下。まるで大輪の花芯のような位置で、ふたりが深く接吻に溺れていようとも、誰もそれを咎めはしなかった。
「本夫と愛人の邂逅だな」
フロアの端で葉巻を燻らせていたヴィルヘルムが、楽しそうに喉を鳴らした。
「ゴシップの受け売りはやめて」
離れ際にティラナが睨みを利かせるが、ヴィルヘルムは意に介さず肩をすくめる。
「世の中の大半はそれを信じ込んでいるじゃないか。大衆の総意さ。ここに悪質な“切り売り屋”の自動筆記ペンが加われば、最高のゴシップ紙が出来上がる」
大衆は常に刺激的なスキャンダルを欲している。ブリタニアの第二皇子であり宰相を務める男と、過渡期にあるカストラリアの女王。二人の間に横たわる政治的協定や暗闘など、ゴシップ紙の読者にとっては退屈な雑音に過ぎない。世間が求めているのはいつだって、甘美な不義密行の物語なのだ。
「世間が勝手に騒ぎ立てて、勝手に納得しているだけよ」
「ははっ、さすがはマザー・カタジナの血筋だ。女の価値を政治的武器として最大限に活用している。あっぱれだよ」
「この間なんて、リムジンに石を投げつけられたわ。簡単な衝突実験で済んでよかったわね」
『帝国に与する裏切り者の王女』として、あるいは『ブリタニアの皇子を誘惑した毒婦』として。投げつけられた石の数は、彼女が被っている仮面の重さそのものであった。だが、ティラナはそれを眉ひとつ動かさずに『実験』と言い捨てる。自らの身に降る危険すらも計算の範疇へと組み込むその姿は、確かにかつて欧州を裏で揺るがした祖母カタジナの凄烈な血の宿命を感じさせた。
「私たちの野蛮な血を誇ろうじゃないか。天国でおばあ様も喜んでおられるだろう。――改めて、ふたりに乾杯!」
ヴィルヘルムは掲げたグラスを傾けると、悪戯っぽく目を細めた。
「いい部屋を用意してもらっているよ。若い夫婦のためにね」
「もう新婚じゃないわ」
「では、麗しい宰相閣下には『若いツバメ』か、あるいは好みの淑女を……夜のお供に宛がうとしようか? なんでもラブレターもラブコールも絶えないそうじゃないか」
ティラナはむっとしてシュナイゼルの腕を固く抱きかかえると、ヴィルヘルムに厳しい視線を差し向けた。
「貴方……まったくもっていじわるね」
狙い通りの反応を堪能したヴィルヘルムは肩を震わせて可笑しそうに笑い、出口の方へ長い脚を振った。彼の宿泊場所は、この近隣にあるグラフェンリート邸であった。
「それではごゆっくり。これから先は完全なプライベートだ。ああ、安心しろ、悪趣味な盗撮カメラなんぞ仕掛けていないから!」
ティラナは控えの侍従に「今のチェスの棋譜を正しく記録しておいて」と命じると、シュナイゼルの腕にしっかりと手を絡めたままサロンを抜け出し、静まり返った廊下へ出た。
「食事は終えられた?」
「簡単なものをすこしだけ」
「そう。それじゃあ、部屋に着いたら用意させるわ。夜遅いから、軽いメニューに限られてしまうけれど……」
三階の奥、あてがわれた重厚な扉を開け、中に足を踏み入れた瞬間のことだった。
カチリと錠が下りる音と同時に、シュナイゼルはティラナの身体を扉の木肌へと押しつけ、言葉を遮るように唇を塞いだ。
「んむ……っ、シュ……シュナイゼル――」
荒々しいほどの熱量で執拗に貪り、求める接吻。一年三ヶ月の空白を一瞬で埋め尽くすような力強い抱擁に、ティラナは息を呑んだ。
「そんなに驚くことかい? ……貴女ほどのひとが、こうなることを想像だにしていない筈がないだろう?」
「……し、食事の話をしていたのよ。今は」
「これも食事のひとつだよ」
そう言って、シュナイゼルは彼女のうなじに顔を埋め、柔らかな肌に吸いつくように食らいついた。ティラナは背筋を戦慄かせ、彼の金髪に指を絡めながら身を捩る。
「……あ、あともう少し……っ。洗練された前菜にありつくには、しっかりと野菜を洗う時間が要るわ……!」
まずは簡単なシャワーを浴びさせてほしい――という彼女なりの切実な懇願であったが、シュナイゼルにその要求を聞き届ける気など毛頭なかった。
「これが、前菜だというのかい?」
囁く声は低く、酷く甘やかに濡れていた。ティラナは、酒に灼かれた喉が渇くような感覚に陥った。シュナイゼルの手がティラナのワンピースの背のファスナーを容赦なく引き下ろし、滑らかな肌を露わにしてゆく。
「あ――、待って……っ!」
かすれた制止の声は、密室の夜気に優しく溶けて消えた。アラベスク模様を描く壁紙も、二人の熱気を受け止めるばかりで助けてはくれない。
理性を保ち、世界の盤面を支配する完璧な宰相と女王。その仮面を完全に脱ぎ捨てるには、あまりにも情熱的で、どこか幼いほどに貪欲な求愛であった。
「待てるわけがない。一年以上も乾き切っていた男に、目の前の果実を前にしてお預けを命じるなんて、それこそ酷というものだ」
普段の穏やかで社交的な笑みは微塵もなく、そこにあるのはただ、眼前の存在を貪り尽くさんとする男の本能と漆黒の独占欲だった。常に世界のバランスを冷静に計り続けてきた男が、この密室の中でのみ見せる剥き出しの飢餓。背中からすべり落とされた布地が床に重い音を立てて落ちるのと同時に、互いの肌から立ち上る熱気が一気に交じり合っていく。
「……横暴な宰相閣下だこと。……政治の場だけでなく、私生活でもそんな風に力尽くで押し通すつもり?」
「貴女に対してだけだよ。……さあ、一年分、私を満たしてくれ」
もう言葉を忘れてしまった。重ね合わされる肌の熱さと、互いの存在をたしかめる深い吐息だけが、静寂の刻まれた部屋を満たしていった。