六月。湿気を帯びた空気が肌にじんわりと纏わりつき、季節は春から夏へと移り変わろうとしている。登校中、道沿いにある紫陽花は青やピンクに色付いていて、昨夜の雨の滴が朝日でキラキラと輝いていた。

今日は雲ひとつ無い晴天。はばたき学園の体育祭は、今年も延期することなく開催された。


「天気の神様は私の敵だ」

「プフッ、何言ってんの雛田」


グラウンドが見える木陰に入り、カンカン照りの太陽を睨みながらぼやく。すると、同じく隣の木陰で汗を拭っていた七ツ森くんが吹き出した。

運動嫌いな私は、ゲリラ雷雨でも来ないかなぁなんて午前中から少しの期待をしていたのだ。


(昨夜は降ったんだから雨粒の残りくらいあっても良いじゃん?)


だが、残念ながら午後になっても雲の形はどこにも現れない。念願の雨粒が降ってくる気配は無く、お天気アプリからは「今夜は綺麗な流れ星が見えるでしょう」なんて通知が入っていた。不要な通知はいらない。即切った。


「天気の神様は神様のフリした天の邪鬼なんだよ、きっと」

「あんたたまに突然面白いこと言うよな。その気持ちはわからんでもないけど」

「雨降ってほしい時って全然降らないじゃない。逆もそうだけどさ。だから天の邪鬼」

「あ〜、わかる。俺も出掛ける時に限って雨とかよくある。雛田の晴れてほしい日ってどんな日?」

「荷物多い日」

「は? 荷物?」

「重い手提げの時に傘差すと腕に食い込むじゃん」

「フフッ、そういうことね」

「たまに内出血するし」

「それは荷物詰め込みすぎ」


そんなこと無いと思うけど。学校帰りにスーパー寄ると色んな物が目について、ついつい手を伸ばしてしまうのだ。トイレットペーパーなんて買った日にはすぐ両手が塞がるし、洗剤類も嵩張ると結構重い。そうだ、今日はシャンプーを買わねば。

頭の中で買い物リストを作成しながらグラウンドを眺める。

今は一年生の障害物競争が行われており、後輩を応援する声が四方八方から鼓膜を揺さぶる。私と七ツ森くんは大声を張り上げることはなく、応援するみんなとは離れた場所で涼むことに徹していた。彼もインドア派らしい


「あんた、席には戻んなくて良いの?」

「だって暑いし、お手洗い行ってる間に席とられてたんだもの。戻りづらい」

「……あ〜、あそこか」


私の応援席には他クラスの女の子が座っていて、今は隣の子と一緒に駄弁っている。どうやら一年生で気になっている男の子がいるらしく、その子が走る番になるとキャーキャーとテンション高く応援していた。恋する女の子って凄い。

その興奮が冷めやらず、「凄かった!」「カッコ良かった!」という感想を何度も言い合っていて、入り込む余地は無い。まずもって、ここで口を挟んだら間違いなく馬に蹴られる。ボッコボコに。その辺の空気は私でも読めたし、楽しく話しているところに水をさすつもりは無い。戻ったところで涼しくもないから私にはデメリットしか無い。こっそりタオルと水筒だけ拝借して、今ここにいるというわけだ。


「そう言う七ツ森くんは戻らないの? 男子の席ガラ空きだよ? 座り放題じゃん」

「ヤダ。日陰無いし熱中症で倒れる」


男子の席には現状誰も座っていない。女子の後部席には若干の木陰があるのだが、男子の方は影を作ってくれるものは何もなく、椅子の金属部分がギラリと太陽光を反射している。
あれは絶対熱い。座る気にはなれない。他の男子もそう思ったからどこかへ避難してるのだろう。


「七ツ森くんは人一倍太陽に近いから大変だね」

「そーそー」

「巨◯兵だもんね」

「そーそ……、って、巨◯兵ほどデカくないです。あんた俺のことずっと巨◯兵だと思ってたの?」

「んーん、最初はロボット兵だと思ってた」

「大きさグレードアップしてんじゃん。そこまでデカくないです」

「七ツ森くんほど大きい人初めてだったから、つい」


「第一印象でしたごめんなさい」と謝ると、七ツ森くんは苦笑しながらペットボトルを傾けた。


「ま、あんたよりデカいのは事実だし、許してあげましょ。……はぁ、スポドリ温い」

「お許し頂きありがとうございます。お詫びにヒンヤリフルーツゼリーは如何で」

「ちょうだい」

「即答だね。待ってて」


よっこいしょと腰を上げて自分の席に向かう。

女の子たちは未だ恋話に花を咲かせていて、私が後ろに立っても気にもとめない。それを良いことに椅子の下に放置していたトートバッグをそろっと持って、七ツ森くんの隣に戻った。

日陰に入るだけでだいぶ体感温度が変わる。もう日向には出たくない。溶ける。


「あんなとこ置いてたならゼリー温まってんじゃない?」

「んーん、さっき持ってきたばかり」

「さっき? どっから?」

「生物準備室の冷蔵庫。御影先生に頼んで朝から隅っこに置かせてもらってたんだ」


朝たまたま遭遇した御影先生に、眉間のシワを指摘されて愚痴ったのだ。

運動嫌いが仮病も使わず体育祭に出席するのは凄いことなんだぞ。炎天下で頑張る自分へ、冷たいご褒美くらいあっても良いじゃないか。先生たちだけ帽子被ってテントにいるのズルイ。

……というニュアンスのことを、もう少し丁寧な言葉に置き換えて御影先生に言った。先生は豪快に笑いながら冷蔵庫の一角を、「氷室教頭には内緒だぞ?」と人差し指を立てて貸してくれた。教頭先生とはほぼ接点が無いから大丈夫だと頷き、有り難く置かせてもらったというわけだ。

ついでに冷凍庫に保冷剤も入れて凍らせておいたから、今もまだキンキンに冷えている。トートバッグから取り出したゼリーは、指先から気持ちよく熱を奪っていった。


「クク……ッ、大人しい顔してあんたはホント……、マジで想像つかないことすんね」

「……それは誉めてる? 貶してる?」

「めちゃくちゃ誉めてる。誉めてますからゼリーをおひとつくださいな」

「貴方が欲しいのは、この甘酸っぱい蜜柑ゼリーですか? それとも食感が楽しい葡萄ゼリーですか?」

「雛田様のお好きな方をお先にお選びください。俺はどっちもスキです」

「あ、私さっき林檎ゼリー食べたからどっちでも良いよ」


暑い中で食べるヒンヤリゼリーは大変美味でございました。この感覚はきっと七ツ森くんと共有できるという謎の確信がある。甘いもの好きだもんね。

茶番を途中で終わると七ツ森くんはゼリーに視線を落としたまま、さっきよりも肩を震わせて口許を押さえた。笑いを堪えているらしい。


「なんで三個もゼリー持ってきてんの?」

「気分」

「きぶんかぁ」

「因みに持ってきたのは四個だよ。御影先生にはミックスゼリーあげたの」

「四個……」

「喜んでくれてたけど、次にお礼する時はクロワッサンが良いよね。御影先生もクロワッサン好きだって言ってた。美味しいよね」

「……んっ、フフッ」

「……七ツ森くんて意外と笑い上戸だよね」

「ははっ! 笑わせてんのあんただから!」


心底面白いという風に、七ツ森くんがメガネを少しズラして目尻を拭う。
涙が出るほど面白いですかね?
笑いのツボが浅いぞ?

最近では七ツ森くんともだいぶ打ち解けてきて、軽口もそこそこ言えるようになってきている。時々ここまでふざけた会話しても大丈夫かなと心配になるけれど、彼は嫌がらずに話を続けてくれるし、彼からも冗談混じりに話してくれる。それがこの上なく嬉しい。


(次の目標は“七ツ森くん一日一笑かし”にしよう)


一人でそんなことを考えていると、七ツ森くんは悩んだ末に蜜柑ゼリーをチョイスした。


「おおっ、マジで冷え冷えじゃん」

「保冷剤いる? タオルで巻いて首冷やすと気持ち良いよ」

「あんたがやれば……ってもうやってるし」

「おふこーす。はい、スプーン」

「ははっ、発音ザツすぎ。サンキュ」


使い捨てのスプーンを七ツ森くんに渡し、保冷剤をタオルでくるくる巻く。思った通り気持ち良い。二つあるから一つは七ツ森くんにあげよう。


「野良猫ちゃ〜ん!」


遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきた。自分でも“野良猫=私”が定着しているのはどうなんだろう? このアダ名は嫌いじゃないから良いけれど。

やって来たその子はうちのクラス委員の山本さんで、私の前でパンッと手を合わせた。


「ゴメン、野良猫ちゃん! この後の綱引き、佐藤さんの代わりに出てくれないかな?」

「え?」

「佐藤さん、さっき二人三脚で転んで膝擦りむいちゃって……。今テントで消毒してもらってるの」


そういえば佐藤さん、さっき派手な転び方してたなぁと思い出す。膝を気にしながらラストにゴールインして、パートナーの子に謝っていた。

さすがに怪我人をまた出場させるのは私でも気が引ける。力になれるとは思えないけれど、綱引きくらいなら出ても良いかと立ち上がった。


「……わかった。佐藤さんにお大事にって伝えておいて?」

「ありがとう! 私も綱引き出るから、また後でね!」


山本さんはほっとした顔で医療テントに戻っていく。クラス委員は忙しいね。


「良かったの?」

「え?」


斜め下から聞こえた低い声。七ツ森くんが未だにゼリーも開けずに私を見上げていた。メガネでよくわからないけれど、先程までの楽しそうな顔はしていない。


「綱引き。前後の人とだいぶ身体接触するけど?」

「……大丈夫。女の子だけだし、故意に触られるわけじゃないから」


触れてしまうことへの恐怖が無いわけではない。でも、こういうので慣れていかなければ、一生克服なんてできやしない。まずは女の子から挑戦だ。


「頑張ってくる。大丈夫。大丈夫……」

「自己暗示かけてんじゃん」

「気を抜いてまた美奈子ちゃんみたいなことしたくないから。あ、荷物預かっててくれる? こっちの保冷剤とタオルも使って良いよ。あと三枚あるし」

「タオルもそんなに持ってんの?」


クスッと苦笑する七ツ森くんに、トートバッグとタオルを預かってもらって日向に出る。既に溶けそうな熱気だけれど、綱引きが終われば後はずっと涼んでいられる。嫌なことは考えるなと自分に言い聞かせた。


「無理はすんなよ?」

「うん。ありがとう」

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」



* * *



綱引きは三回戦やって、ギリギリ勝利した。最初は乗り気じゃなかった女の子たちも、勝てばテンションは上がるものらしい。ニコニコ笑顔で応援席に戻るみんなから然り気無く抜けさせてもらって、今私は校舎横の水道にいる。

参加する前は、女の子たちと身体が触れてしまうことと代理参加の緊張が凄かった。佐藤さんの代わりに私が入ることで、力が及ばなかったらどうしようとか。気にしてもしょうがないことなのはわかっているのに、何故か考えてしまう。

だが、綱引きの最中は女の子たちの気合いでもみくちゃになって、接触を気にするどころではなかったというのが正直な感想だった。

スターターピストルが鳴ると同時に、綱を引く方向へと夢中で身体を倒すみんなと一緒に、私も足を踏ん張って思いっきり引っ張った。その結果、勝ち、負け、勝ちと二対一で終わって勝利を得られたから、代理としての役目は果たせたと思って良いのだろう。

喜びを分かち合う子たちに紛れて、私も勝てた喜びと終わったことにほっと安堵したのも束の間。もう綱は持っていないのに二の腕が痛いことに気付き、腕を持ち上げてみたら見事に綱で擦った痕がついていた。


「ぅ、痛い……」


自覚するとジワジワと痛みが増してくる。綱引き中はわからなかったけれど、みんなの腕や身体が密着した時に擦ってしまったのだろう。掠れたところからツプツプと小さく血も出ていたため、とりあえず洗おうと水道まで来たというわけだ。


(んー、この体勢も辛い……)


低い水道で二の腕なんてどうやって洗うべきかと考えて、膝をついて腕を伸ばす他思い付かなかった。少し体操着が濡れたけれど、この日差しならすぐ乾くだろう。


(冷たくて気持ち良い……)


ちょうど校舎の影になっているから、ここの水道は温まっていない。腕から掌まで伝っていく水が程よく冷たくて、もう体育祭が終わるまでずっとこのままでも良いような気がしてきた。


「何やってんの?」

「え……?」


体育祭で盛り上がる声が遠くから聞こえる中、すぐ近くで響いてきた低音。振り向くと、七ツ森くんが私の方まで歩いてくるところだった。


「七ツ森くん、なんでここに?」

「あんただけ戻ってこなかったから、どうしたのかと思って。向こうも煩くなってきたしさ。で、怪我でもした?」

「あ、うん。綱でちょっと擦っちゃったみたいで。ごめん、荷物預けてたんだったね」

「それは大丈夫。あんたの席に置いといた。……うわ、痛そう。よりによって二の腕の柔いとこじゃん」

「掠り傷だしすぐ治るよ」

「それでも消毒くらいした方が良いでしょ。洗い終わってるなら医療テント行こ?」


善意からなのはわかっていた。私が膝をついているから、立たせるために手を差し出してくれたのだと。

なのに、その迫りくる大きな手を見て私の身体は大袈裟なほどに反応し、私の意識に反してギュッと目を瞑った。

少しの間の後、ハッと気づいた時既に遅し。目を開けて見上げた七ツ森くんは、何とも言えない顔で固まっていた。


「あ……、悪い」

「……ぁ、ご、ごめんなさい……っ」


立ち上がって頭を下げる。暑いのとは別の汗が背中を伝い、心臓が嫌なくらい鼓動を速めた。


(なに、やってるんだろう……)


七ツ森くんなら大丈夫だと、無意識に思っていた。今までに無いくらい話せる男の子なら、学園で一番仲の良い人なら、もう触られても大丈夫なんじゃないかって、頭の中では楽観的に考えられるようになっていたのに。それでも私の身体はまだ受け入れられないらしい。

せっかく仲良くなれたのに、七ツ森くんにまで拒絶反応起こすなんて最低だ。


(嫌われる……)


絶対に傷つけた。
ギュッと握り締めた手に爪が食い込む。掌よりも、二の腕の傷よりも、ずっと胸が痛い。


「や、今のは俺が悪い。ゴメン」

「七ツ森くんは何も悪くない。私が……」

「触られるの怖いって教えてもらってたのに忘れてた俺が悪いの。何も悪くないのはあんた。ほら、頭上げて。大丈夫だから。な?」


ゆっくりと頭を上げるけれど、七ツ森くんと目を合わせるのは怖い。

「大丈夫」って、本当に大丈夫?
面倒で失礼な奴だって思ってない?

優しい言葉をかけてくれて嬉しいのに、怖がりの自分がそれ以上顔を上げることを躊躇った。……のに。


「泣いてはないよな?」

「……っ!? な、んで、下から覗き込むの?」

「だってあんた、俺のこと苦手でしょ」

「ぇ……」

「俺っていうか……、背ぇ高い奴」


ギクッと身体が強張り、反射的に上げた私の目としゃがんでいる七ツ森くんの目が合った。確信を持っているらしい強い瞳に射抜かれて、何を言えば良いのかわからない。

「苦手じゃないよ」とは言えない。現にたった今拒絶して、話している間もずっと距離はそこそこ開いたまま。大丈夫だなんてどの口が言えるだろう。


「そこのベンチ、座って待ってて」


何も言わない私にそう言うと、立ち上がった七ツ森くんは長い足でスタスタとグラウンドの方へ戻っていった。あっという間にその背中は見えなくなり、漸く息を吐いた。呼吸まで止めていたらしい。


(……待ってた方が良いんだよね?)


会わせる顔が無くて逃げてしまおうかとも考えた。だって私は七ツ森くんを二重に傷つけていたことになるのだ。手を差し出されたことによる恐怖と、高身長の男の子に対する恐怖。


(わざわざしゃがんでくれた……)


あれだけ毎日隣にいて話していたのだ。気づかない方がおかしい。

彼の優しさに甘えて逃げたら、来週から会うのが辛くなる。教室の端っこで、気まずい空気の中で過ごすのは嫌だ。何より、七ツ森くんとそんなギクシャクした関係にはなりたくない。

言われた通りにベンチに座り、幾度となく吐いてきた重たい溜め息を吐く。


「はぁ……。ダメだな、私……」

「何が?」

「……っ!?」


悲鳴を上げなかった自分を誉めたい。
戻ってくるの速すぎる。何なのその足?

七ツ森くんはいつ戻ってきたのかというくらい気配も無く佇んでいて、知人じゃなければとっくにスマホで110番していたと思う。


「ぉ……」

「お?」

「おかえ、り?」

「ンフッ、ただいま。ここでその言葉をチョイスしますか」

「だって……」


おかえり以外に何を言えば良いのかわからなかったのだ、仕方ないじゃないか。

ふと七ツ森くんが何かを持っているのに気付き、ベンチの端っこに座り直すと彼は抱えているそれらを置いた。


「消毒液と脱脂綿?」

「そ。あとガーゼとテーピング」


医療テントから救急箱ごと持ってくるのは気が引けたらしく、必要そうなものだけ持ってきてくれたらしい。ご丁寧に脱脂綿は二つほど小さな袋に入れてくれている。


「あんた、手当てで触られるのは平気? 正直に言って」

「う……。平気くない、です……」

「はは、平気くないよな」

「……持ってきてくれてありがとう。自分でやるよ」

「片手でやんのは難しいだろ。潔癖症ってわけじゃない?」

「ぁ、うん。潔癖ではない」

「じゃ、待ってて」


七ツ森くんはガーゼと脱脂綿を取り出して重ね、テープを長めに貼り付けて消毒液を数滴染み込ませた。

器用にテキパキと作業する手は見ていて面白い。こうして見ているのは大丈夫なのに、何故さっきはあんな反応をしてしまったんだろう。本当に申し訳ない。そう思うと同時に、未だに私から離れていかない彼が不思議でならなかった。


「……七ツ森くんって優しいね」

「は? なに、藪から棒に」

「なんかそう思った。散々失礼な態度とってるのに、懲りずに構ってくれるから」

「……普通じゃない?」

(…………ふつう……かなぁ?)


普通ならとっくに見限られている。そう思うけれど、私の普通と七ツ森くんの普通は違う。彼にとってはこれが普通なのだと思うと、胸の奥がじんわりと暖かくなった気がした。


「……はい、コレ貼って」

「ありがとう」


言われた通りに患部の上に貼り付ける。少し染みたのは仕方ない。ちょうど良い大きさに作られていたから傷は見えなくなり、簡単には剥がれたりもしなさそうだ。

本当に、感謝しかない。



* * *



その後、二人で道具を片付けてから再びベンチに腰を落ち着けた。気を遣ってくれたようで、間は少し空けてくれている。

お互いにもう出場する種目は無いから、この時間は気楽で良い。


「さっきの続き、聞いても良い?」

「うん、どうぞ」

「俺、あんたからそこまで嫌な態度とられてたっけ?」

「初めて会ってからずっと、七ツ森くんに対してだいぶビクビクしてるでしょ。さっきもそうだし……。あっ、でも背が高い人が苦手ってだけで、七ツ森くんが苦手なわけじゃ……」

「わかってる。そうだろうなとは思ってた」

「……やっぱりバレてた」


予想はしていた。接触が苦手なのはもう話していたし、毎日のように隣にいたら自ずと気づいてしまうだろう。

ここまで知られていて、トラウマの全てを黙っているのも感じが悪い気がする。これ以上、事情も話さずに失礼なことをしたくはない。

トラウマだから仕方ないとは思っていないし、寧ろトラウマを理由に拒絶反応を許してもらうなんてしたくない。

許してもらえなくても良いから、七ツ森くんには私のことを知ってほしい。彼なら言いふらしたりはしない。そう信じたくて、信じても良い気がして、ほんの少しだけ話すことにした。


「小学一年生の頃に、男の子とちょっと……、いざこざがあってね。相手は五年生だったから30cmくらい身長差があって、私がしゃがんでた時には余計に身長差が広がってさ。それ以来、そういう状況が苦手で……」

「……なる。じゃあさっきのは余計怖かったよな」

「ううん。七ツ森くんが心配してくれたのは素直に嬉しいし、私が過剰反応してるだけなのはわかってる」


でも、その手を取って本当に大丈夫なのか、その手に何をされるのか、頭の中で恐怖心の方が勝ってしまう。優しい手なのに優しいと思えない。素直に受け入れられない。


「謝るのは私の方。ごめんなさい」


話してみると、すんなりと謝罪の言葉が出てきた。話したのは良いけれど、本当に話して良かったのかと不安になる。

重い奴だと、今度こそ見限られるだろうか。もう話してくれなくなる?
それは嫌だ。

でも、私みたいな面倒臭い人間に、七ツ森くんを付き合わせるのも恐縮してしまう。私と一緒にいることで不快感を与えてしまったらどうしよう。

七ツ森くんがこうして隣にいてくれる時点で、信頼して良い人なのは充分に理解しているのに、私の心と身体に根付いた人間不信が、心臓の辺りをキシキシと締め付ける。安心したいのに、本当に厄介なトラウマだ。


「なあ。俺が言うのもなんだけど、女子高に行こうとかは思わなかったの?」

「それは無い。本当に失礼な話だけど、“女の子なら大丈夫”とも思えないから」

「え?」

「前に美奈子ちゃんの手を振り払っちゃったことあったでしょ。接触が怖いのと男の子が怖いのは別のトラウマだから、性別は関係ない」

「べつ……なの?」

「お医者さんには、“接触恐怖症”と“男性恐怖症”って言われた。その時はピンとこなかったよ」


恐怖症だと診断されて、「なんで?」って思った。私のこの感覚は異常なんだと、それを理解してはいるけれど、否定したい気持ちもあった。だって、私は嫌なことをされたから、同じ目に合いたくなくて拒絶してしまうだけ。病気と同じ扱いなんて受けたくなかった。

再び嫌なことが自分の身に起こらないように、防衛本能が働いているだけだと、お医者さんも私が考えていることと同じことを言っていた。でも、やはり“病気”の類いからは外されず、最初に処方されたのは精神安定剤だった。


「病気扱いされて辛かった。私は病気じゃないって思いたかった。でも、実際に触られると嫌悪感が凄くて、酷い時には過呼吸を起こしてたの。恐怖症だって認めざるを得なかった」


男性恐怖症になる事件が起こって以来、私は父と顔を合わせるのが辛くなった。私の一番身近にいる男性は父だったから。
唯一、男性で大丈夫だったのは弟だけ。今はもう私の身長を越えているけれど、一緒に育ったからか男性恐怖症の拒絶反応は出なかった。

でも、接触恐怖症の方は全員ダメだった。
何もされない。大丈夫。家にいてもずっとそうやって自己暗示をかけて、やっとの思いで過ごしていた。中学三年生になる頃に、やっと家族だけなら触れることもできるようになったけれど、それは家族限定の話。家から一歩でも外に出た世界は、まだ怖い。


「このまま卒業したら、社会に出てもまともに生きていけないってこともわかってる。だから、はば学を卒業するまでに、できる限り克服したい」


ちょっとずつしか治せないのが自分でももどかしい。
でも、この話を七ツ森くんにしている時点で、私は前より変わってきていると実感がある。以前の私なら、トラウマの話なんて誰にもできなかったのだから。


「お隣の席だし、きっとまた七ツ森くんには失礼なことしちゃうと思う。でも、できれば今まで通り話し掛けてくれると嬉しい。七ツ森くんとは、その……仲良しでいたいって思ってます……」


どんな言葉で表現したら、この気持ちを伝えられるのかわからない。学食の時に言っていた“仲良し”という言葉が、今の私の精一杯だ。

最初は男の子に慣れたくて話している節があったけれど、今は克服のためだけに七ツ森くんと話しているわけじゃない。一緒にいると楽しいし、こういう感覚が自分にもまだあるってわかって嬉しかった。これから先も、七ツ森くんと自然と隣にいられる関係でありたいと思う。


(……? 何も喋らない)


素直な気持ちを吐露したは良いけれど、反応が何も返ってこない。静かすぎて、膝に落としていた視線を七ツ森くんに向ける。


(もしや、いつの間にかいなくなってたり? やだ、私ってば大胆な独り言を……)


なんてことはなく、彼は口元を手で覆って顔をそらしていた。

何だろう、この反応。もしかして嫌だったとか?
まさか“仲良し”と思ってるのは私だけだった?


「あ、あの……、重いって感じるなら撤回……」

「それは無い!」

「え……?」


全力で否定された。まだ最後まで言ってないのに。

手を退けた七ツ森くんはまっすぐに私を見ていて、その頬はちょっぴり赤い。


「だいじょぶ。重いなんて思ってない。今のはちょっと、ストレートに“仲良し”って言われたのが……な」


ストレートに“仲良し”と言われて困ったのか。悩んで考えている内に頭に血が昇ったってこと? ああ、その感覚はわかる。知恵熱出ちゃうやつだ。納得。


「顔が赤くなるほど嫌だったですか……」

「は!? なんでそうなんの!?」

「え? 違うの?」

「違う! 俺、嫌だと思う相手とこんなに会話しないし、わざわざ自分から話し掛けたりしない。……“仲良し”って思ってんの俺だけじゃなくて良かったって、照れてました」

「……!」


断言すると、彼は恥ずかしそうに視線を斜め下に向けて頬を掻いた。


(七ツ森くんも“仲良し”って思ってくれてた?)


そうか。そうなのか。
頭の中で今くれた言葉が反響する。

私だけじゃなかった。頬がだんだんと熱くなってきて、ちょっぴり恥ずかしい。七ツ森くんもこういう感覚だった?


「だからさ、何が怖いとか、嫌なこととかあったらちゃんと言って? 俺だってあんたのこと怖がらせたくないし。友達なんだからさ」

(……ともだち……)

「え、ソコ黙るの?」

「あ、ごめっ、じゃなくて……あの……」

「ん?」

「“友達”って、言葉にして言われたの、初めて。へへっ、嬉しい」

「……!」


凄く嬉しい。どうしよう、七ツ森くんといると嬉しいが溢れてそれ以上の言葉が出てこない。嬉しいは最上級の言葉だった?

くふふっと口元を隠して笑う。こんな笑い方をするのも初めてかもしれない。

嘘だったらとか、今この時だけとか、後ろ向きな思考も無いわけじゃない。だけど、七ツ森くんの照れている様子から嘘偽りの無い言葉なんだと、不思議と信じられた。


〈最後は、全校生徒によるフォークダンスです〉


ちょうど良いタイミングで、最後のアナウンスが聞こえてきた。この時間が名残惜しいけれど、そろそろ終わりにしよう。この後まで七ツ森くんを付き合わせたら、それは私の我が儘だ。


「フォークダンスだってさ。行ってきて良いよ、七ツ森くん」

「あんたはどうすんの?」

「私は不参加。先生たちには事情話してあるから、去年も影でこっそり見てたんだ」


私のこの手では、みんなに迷惑しかかけない。踊るなんてもっての他だ。

私が先に立ち上がると、七ツ森くんもベンチから腰を上げる。こういう然り気無い気遣いにも、胸が熱くなって涙が出そうだ。

グラウンドのざわめきが大きくなる中、七ツ森くんはなんとも言えない顔で私を見下ろしている。フォークダンスが恥ずかしいのだろうか?

背中を押すことはできないけれど、促すために彼の背中側に回った。


「ほら、七ツ森くんは行かなきゃ。サボったら体育の成績減点されちゃうよ?」

「あー……、それは嫌だな」

「知ってる? フォークダンスの成績って意外と大きいんだよ?」

「……マジで?」

「去年は五段階評価の三しか貰えなかったもの」

「ふはっ! それフォークダンスのせいだけじゃないっしょ!」

「ふふっ、さぁどうでしょうか?」


二人で笑い合っていると、BGMを切り替える音が聞こえてくる。ラストで飛び入るのは嫌みたいで、七ツ森くんは少し焦りながらグラウンドの方へ向かっていった。


「あっ、雛田」

「ん?」

「終わったら、一緒に帰ろ」

「……! うん、待ってる。行ってらっしゃい」

「行ってきます」


今度こそ、彼はみんなの輪の中へと入っていく。


(一緒に帰るって校門までなのに……)


最後の数分間を一緒に過ごすだけ。ほぼ毎日のように繰り返している下校が、最近の私の楽しみだった。誘ってくれるのだから、七ツ森くんもそう思ってくれていると考えて良いのだろうか?


(そうだといいなぁ。あ、終わったら葡萄ゼリーあげよう)


もう温くなってしまっただろうけれど、今日ほぼ一緒に過ごしてくれたお礼だ。

彼の姿は完全に見えなくなってしまい、女子と男子で気恥ずかしそうに踊っているみんなを眺める。本多くん、美奈子ちゃん、風真くん、先生たちも人数合わせのために入り交じって楽しそうだ。


(……羨ましい、な)


来年の今頃までには、私もあそこに入れるようになれるかな?
踊るのは恥ずかしいけれど、同じ場所に立てるように、みんなと同じことができるようになりたい。踊ってみたい。未だに手すら繋げない私には、だいぶハードルが高いけれど。

体育祭の最後にちょっぴり淋しくなって、スンと鼻を啜った。