―七ツ森side―


体育祭の日。
雛田の抱えるトラウマを、また少し教えてもらった。

接触恐怖症と男性恐怖症。二つの恐怖症と闘いながら、俺たちと同じように共学に通っているのはめちゃくちゃ凄いことなんだと思う。先生たちまで含めて何百人と通っている場所に飛び込むだけで、相当なストレスを感じているだろうに。

だからこそ、俺の手で怯えさせてしまったことに酷く後悔した。


(あんな謝り方、もうさせたくなかったのに……)


小波の手を拒絶した時と同じ、自分が全て悪いんだと言っているようなあの表情。低く下げられた頭。震える身体。それを俺に向けられたのは、頭をガツンと殴られたような衝撃だった。

彼女は何も悪いことをしていないし、寧ろトラウマの一部を教えてくれていた。言葉にするのも辛かっただろうに、俺や小波たちを信じて伝えてくれた。

それなのに俺は、あの一瞬で彼女の勇気を踏みにじった。本当に最低だ。

差し出した手は、例えば小波が相手であればそのまま繋いで立たせていたと思う。
でも目の前にいるのは雛田で、触られることが苦手な子。俺にとっては100%善意のつもりでも、彼女にとっては恐怖の塊だ。謝るのは俺だけで良かったのに、頭を上げさせても尚、自分を責め続けている雛田に、己がどれだけ無力なのかを思い知った。

数ヶ月間、他のクラスメートより一緒にいる時間が長かっただけ。他より少し仲が良いだけなのに、俺はトラウマを少し聞いただけで雛田を知った気になっていた。
触られることが怖いなら、それ以外の方法でコミュニケーションをとれば良い。トラウマを教えてもらった時にそう楽観的に考えていたけれど、じゃあ支えるって具体的にどうしたら良いんだと改めて自問すると、答えは何も出てこない。

雛田自身は治そうと毎日頑張って登校して、俺と話す回数も少しずつ増やしていっているのに、俺は何もできない。友達なのに何もしてあげられないのが歯痒くて、悲しい。

なのに、雛田は俺と仲良しでいたいと言ってくれた。ほんの少しのトラウマでも俺に打ち明けてくれたのは、俺と学校で過ごす時間を求めてくれているからで、俺を信頼してくれたからだ。

仲良くなりたいというのは俺の一方的な気持ちだと思っていただけに、嬉しさで顔に熱が集中して、ニヤケが止まらなくてヤバかった。ダーホンが言っていた“仲良し”という言葉をそのまま使っているだけなのに、彼女本人から言われると胸にジワリと染み込んで、思い出すだけで鼓動が速くなる。


「顔が赤くなるほど嫌だったですか……」

「は!? なんでそうなんの!?」

「え? 違うの?」

「違う!」


照れているのが見た目で伝わらなかったのには驚いた。
でも同時に、雛田は他人の抱く負の感情以外には疎いんだと妙に納得してしまった。これもトラウマが原因なのだろう。

一体何をされたらここまで自分を卑下する子に育ってしまうのか。彼女だけがどんなに治そうと努力したところで、周りも協力してやらなきゃこの先プラス思考になることはないだろう。


「何が怖いとか、嫌なこととかあったらちゃんと言って? 俺だってあんたのこと怖がらせたくないし。友達なんだからさ」


どんな行動で相手がどう思うのか。良い感情なのか、悪い感情なのか。その辺りを教えていけば、少しは前向きなことを考えてくれるだろうか。今の俺ができることは、これくらいしか思い付かない。

これ以上怖がらせないようにそう伝えれば、彼女は少しの間の後に赤面して、恥ずかしそうに笑った。


「“友達”って、言葉にして言われたの、初めて。へへっ、嬉しい」


無邪気な笑い方。この上なく嬉しそうな表情に、心臓がドクリと跳ねる。小波に対して笑った時は大人っぽいお淑やかな微笑みだったのに、今はまるで幼い子供が欲しいオモチャを買ってもらった時のような笑顔だ。

全身から嬉しいオーラを放つ雛田の隣で、同じく真っ赤になっているだろう自分の顔を手で覆いながら内心めちゃくちゃ焦った。


(顔あっつ……。雛田ってこんな笑い方もすんのか。もしかして、これが雛田の素の表情?)


別に普段の表情が偽物だとかは思ってないけれど、でもここまで素直に喜ぶ雛田は初めてで、正直とても可愛いと思う。


(メガネを外したら、もっと……)


なんて考え始めたところで、タイミング良くフォークダンスのアナウンスが鳴った。
危なかった。これ以上妄想したら戻れなくなりそうな気がした。

フォークダンスのために一旦離れることに安堵したが、雛田を一人置いて行くことには気が引けた。

全校生徒、男女で手を取り合って踊るのを影から見ているだけ。本当は一緒に混ざりたいだろうことは、胸の前で握り締められた拳を見ればわかる。でも、俺と小波の手を拒絶してしまった彼女には、まだ他人と踊るのは難しいだろう。


「終わったら、一緒に帰ろ」


せめて、体育祭の最後の時間くらいは一人にならないようにと下校に誘った。

別れる間際にもらった葡萄ゼリーは、とても甘くて優しい味がした。



* * *



時は変わって、一学期の期末テストを二週間後に控えたその日。


「野良猫ちゃ〜ん!」

「ん、なに?」

「お願い! 数学のこの問題教えて? 今日当たるんだけど全っ然わかんなくて……。あ、あとここも!」

「えっと……。ああ、これは……」

「あ! ズルイ! あたしも聞く!」

「わたしも教えて?」

(……なんだ、コレ?)


休み時間になる度に、女子たちが雛田に群がる。先週までは遠くから手を振るくらいしかしていなかったのに、まるでずっと友達だったと言わんばかりの交流の多さに、俺は隣で呆気にとられていた。雛田も雛田で普通に勉強を教えているし、理解が追い付かないのは俺だけらしい。いつもなら休み時間に雛田とまったり喋るのに、今は口を挟む隙がどこにも無い。

なんとなく居心地が悪くなって廊下に出る。すると、ちょうど良いところに移動教室から帰ってくるダーホンが俺に駆け寄ってきた。


「ミーくん、何やってんの?」

「ちょっと避難」

「避難? ……あっ、雛田ちゃん今回も捕まってるんだね」

「今回“も”?」


前回があったの?

あれが何かを知っているらしいダーホンが、雛田を見ながら苦笑する。


「あの子たちは、一年の頃にオレや雛田ちゃんと同じクラスだったんだ。来月は期末テストでしょ? 出題範囲が出ると、一部の女の子は雛田ちゃんに教えてもらいに行くんだよね。教えるの上手なんだよ」

「へぇ。雛田って頭良いんだ?」

「すっごいんだよ雛田ちゃん! 去年は三学期とも八位だったんだ!」

「……三学期とも?」

「そ! 逆に凄いよね! 狙ってるわけじゃないらしいけど」


そりゃそうだろう。狙って全部八位だったら凄すぎる。ダーホンみたいに狙わずトップなのも凄いけど。

雛田とは今でもたまに小テストで採点し合っているし、勉強ができる子だとは思っていた。でも、まさか学年八位だったとは。グループの三人が一位から三位にいるせいで、八位と聞いた瞬間は「ふーん」くらいな感じだったけれど、自分の順位を思い出して落ち込んだ。


(なんで俺の周りってみんな頭良いの?)


頭にずっしりと漬け物石を乗せられた気分になる。仕事を理由にはしたくない。あくまで俺の学習能力の問題だ。あの三人だってグループで頻繁に遊んでいるのに、いつ勉強してるのか疑問でしかない。

ダーホンとの立ち話もそこそこに席に戻る。最後に雛田に教わってた子が、ちょうど立ち去っていくところだった。


「……煩かったよね? ごめんなさい」


やっと周りが静かになって、雛田が申し訳なさそうに謝ってくる。休み時間なんだから自由に話してて良いのにと苦笑した。

出会ってから何回雛田の「ごめんなさい」を聞いただろう。だいぶ謝り癖がついてしまっているらしい。


「気にしなくて大丈夫。雛田って期末前はいつもこんな感じ?」

「うん……。なんでだろうね? 私より頭良い子、他にもいるのに……」

「そんだけあんたの教え方が上手いってことなんだろ? ダーホンも言ってた」

「ふふ、本多くんに言われるのはちょっと恐れ多いな」


雛田は口元を押さえてクスッと小さく笑う。隅っこの席だし、先生も来ないから教室はまだ煩い。彼女のこんな様子は他のクラスメートの視界に入らず、まだ俺しか知らない。俺だけに見せてくれているそれが嬉しくて、少し優越感を抱いた。

だが周りに人が多いからか、体育祭の時のあの笑顔には程遠い。普段から無邪気に笑っていられるようになったら、他のクラスメートももっと雛田に話しかけやすくなるだろう。

そこまで考えると、何故か胸の奥がきゅっと苦しくなった。


(……? なんだ?)


雛田の笑える日が増えれば、雛田の友達も増える。男子にだって声を掛けられることもあるかもしれない。今は難しくても、いずれは男と付き合うことだって……。


(それは……なんかヤだな……)

「七ツ森くん?」

「へっ? な、なに?」


ヤバい、ずっと考え事してた。
雛田の声で我に返ると、隣で教科書を開く彼女がメガネの奥から俺の顔色を窺うような眼差しを向けていた。


(笑ってほしいのに不安にさせてどうする、俺!)

「体調悪い? 難しい顔してる」

「いや、大丈夫。ゴメン」

「なら良いけど……」

「……なあ。もし放課後時間あったらさ、俺にも教えてくんない? 勉強」

「えっ?」


返事を聞く前に教室の扉がガラリと開き、同時に本鈴が鳴った。次の授業は数学だ。来るの早すぎでしょ先生。

仕方なく教科書とノートを開くと、クラス委員の号令で授業が始まる。
まずは宿題の答え合わせからだと話しながら、先生はカツカツと黒板に問題を書いていった。


(……さっき雛田が教えてたやつだ)


「今日当たるから」と言っていた女子は、開いたノートを両手で持ちながら緊張の面持ちで身構えている。この先生は生徒に答えを書かせるタイプだから、余計に緊張しているんだろう。その気持ちは凄くよくわかる。

他にも数人、隣前後と答えを確認するクラスメートたちを眺めていると、左側からコツコツと乾いた音が聞こえた。見ると、雛田が二つ折りにしたメモ用紙を差し出している。今のはシャーペンで机を叩いた音だったようだ。

俺宛かという意味を込めて自分を指差すと、彼女はコクリと小さく頷く。受け取って開けば、細く流麗な字で先程の返事が綴られていた。


“さっきの、テスト勉強ってことで良いのかな?
数学くらいしか上手く教えられないけど、それでも良い?”


その文字の下に、瓶底メガネをかけてハチマキを巻いたにゃんこが描いてある。キリッとした表情のわりに、勉強は不出来そうなにゃんこ。このジワジワくる感じが久しぶり過ぎて、なんだか笑えてきた。


(ほんと、この絵良いな)


放課後の勉強会はOKってことだと都合良く解釈し、手帳のメモを一枚破って俺も“お願いします”と返事を書く。雛田のメモに書いて返そうと思ったが、それは勿体無くてやめた。貰ったメモはこっそりノートに挟んで持ち帰ろう。

放課後の約束が楽しみ過ぎて顔に出ていたのか、その後の授業では何故か俺が指名されることが多かった。
放課後が待ち遠しい……。



* * *



「本当に私で良かったの? 本多くんの方が頭良いのに……」


放課後。俺にとってはお待ちかねの雛田との勉強会の時間になった。

他のクラスメートがいなくなったところでテスト勉強の準備をしていると、冒頭のように彼女が自分では役不足だと言葉を漏らす。役不足であれば女子からあんなに頼られないでしょうに。


「ダーホンは九割話が脱線するからダメ」

「教えてもらったことあるの?」

「去年の三学期な。一回だけあのグループで勉強会した時に経験済み。雑学は普段の会話だけでお腹いっぱい」

「ふふ、本多くんらしいね」

「それに、あんたから教えてもらう方が確実に身に付く」

「それはどうだか……」


クスクスと控えめに笑いながら、雛田も教科書とノートを取り出す。

そういえば、ダーホンが雛田のノートはイラストが凄いと言っていたのを思い出した。ノートは窓側の方に開かれてしまったから、残念ながらよく見えない。

正直物凄く見たいのだが、言ったら避けられるだろう。雛田の気分を害してまで見る気にはなれず、ひとまず自分の欲求は頭から追い払った。


「どこから始めようか? 七ツ森くんのわからないとこってどれ?」

「あー……。俺、暗記系とか公式覚えるの苦手でさ。良い覚え方とか無い?」

「公式か……。私も暗記系は全部苦手」

「えっ?」


数学は公式を覚えてなんぼみたいなとこがある。数学が得意らしい雛田からの返答は、完全に予想外だった。小テストでもあれだけ良い点とれてるのに。


「なんか意外」

「計算するのは好きだよ。理数系の方が得意ではあると思う。でも覚えるまでは嫌いなんだよね。覚えちゃえば数字入れるだけで答え出るから楽しいんだけど」

「そこで楽しさ見出だせんのが凄いわ……」


でも、彼女の言っている理屈はわかる。公式に代入する数字さえ間違えなければ、あとは単純に計算していくだけで自ずと答えが導き出せる。
……と、数学教師も小波やカザマも言っていた。だが、それを覚えるまでが大変だから困っているのだ。

やはり繰り返し問題を解いて、頭と身体で覚えていくしか無いのだろう。はぁ、と一つため息を吐く。


「あの、七ツ森くん……」

「あ、悪い。別にあんたに対して溜め息吐いたわけじゃ……」

「私のノート、見る?」

「へっ?」


ノート見る?
見せたくないんじゃなかったの?
俺まさかそんなに見たいオーラ出してた?
めちゃくちゃ見たい。

混乱して何度も瞬きを繰り返す。
そんな俺を置いて、雛田は自分のノートへと視線を落とした。


「私も公式とか暗記するものをどう覚えたら良いのかわかんなくて、今のやり方に落ち着くまで苦労したんだ。私と同じ方法で覚えられる保証は無いけど……」

「俺が見て良いの?」

「良いよ。あくまで覚え方の参考の一つとして見てくれるなら。それに……」

「……? それに?」

「…………なんでもない。はい、どうぞ」


何か言葉を飲み込んだようだが、そこはあえて突っ込まないようにしてノートを受け取った。

お礼を言ってからそっと開いてみる。そこには、俺の予想以上の世界が広がっていて、瞬きも忘れて目を見開いた。


(やば……。コレ全部雛田が描いたの?)


一頁開くだけでびっしりと描かれたイラストが、俺の脳内に記録されていく。
教師のように解説を喋る先生にゃんこ。生徒らしきネズミやウサギ。言い回しもキャラごとに変えていて、脳内で勝手にアテレコされ、まるで漫画を読んでいる感覚だ。

公式も教科書に書いてあるような記号的な式を、漫画で例題を作って噛み砕いて説明している。板書しているだけの俺のノートより断然覚えやすい。


「すげー……。めちゃくちゃわかりやすい。これは覚えるわ……」

「う……、嬉しいけど、恥ずかしいな……。できれば、他の人には言わないでほしい、です……」

「ん。それは約束する。でもなんで隠すの? 俺はコレ、見せても良いレベルだと思うけど」


それこそ、先生に見せれば絶対誉められるし、評価されるべきものだと思う。俺としては授業でもこれくらいわかりやすい説明をしてほしいくらいだ。

そう言うと、雛田は眉を下げて寂し気に微笑した。


「誉めてくれて嬉しいけど、やっぱりダメだよ。あまり見せびらかすものじゃない」

「……理由、聞いても良い? あ、嫌なら別に良いけど」

「んー、なんて説明したら良いかな……」


深掘りしない方が良かっただろうか。だが、今の表情からしてずっと抱え込ませていて良いものではない気がした。

言いたくないなら彼女は謝ってくるだろう。でもそうはせず、頭の中で話すべきことを整理してくれているようだ。


(……葛藤してる?)


ぎゅっと握る両手を見つめている雛田の目は、いつだったかガールズショップの前で悩んでいた時のそれと同じようにも見える。

トラウマがあると知った今では、この悩みの時間は彼女にとって大事なものなんだと思う。物事を他人よりも敏感に感じ取って、一つの発言で相手がどんな感情を抱くのか。彼女は過去に嫌な思いをしてきた分、相手に同じ思いをさせないようにと常に気を配っている。

トラウマの話を聞いてしまえば、俺は間違いなく雛田と同じ目線に立った場合を考えるだろう。同情と言えば言葉は軽く聞こえるが、全くしないでいることは出来ない。雛田と俺は別の人間で、違う人生を歩んできたのだ。自分より酷い境遇を聞かされてしまえば、思わず同情してしまうのもやむを得ない。

でも、雛田を“可哀想”だなんて思ってはいけない。雛田の過去を哀れんだって、彼女にとっては余計なお世話というものだ。こうして他人の俺を思いやって考えてくれている時点で、彼女は誰よりも強い心を持って生きている。その気持ちが折れてしまわないように寄り添うことが、俺が唯一雛田にしてやれることだと思う。

漸く考えが纏まったのか、雛田は手を組み直して俺の持つノートを見詰めた。


「……私ね、何でもかんでも先生とか親の言う通りにするのが嫌というか……。自分で考えたことを試したくなるんだよね」

「試したく?」

「そう。そのノートもさ、七ツ森くんはそんな落書きだらけのノート見たこと無かったでしょ?」

「……うん。ここまで膨大な大作は初めて見た」

「あはは、それはそうだよね」


“先生の教え通りにすることが絶対”と思ってる人は多い。幼稚園や小学校から「先生のいうことをよく聞いて」と言われてきたことが、意識しなくても身に付いている。子供も大人もみんなそうだと、雛田は淋しそうに語った。


「私みたいにオリジナルで……、他の人と違うことやってるとさ、「どうしてみんなと同じことができないの?」って言われるの。怒られたくないから、あんまり知られたくない」

「……あるんだな。怒られたこと」

「もう過去のことだよ」


ノートをとることはみんなと同じでも、その中身が違っただけで指摘されるらしい。俺のように誉める奴ばかりじゃないのはわかるけど、そこまで邪険にされるものなのかと胸が痛んだ。


「私の前でだけニコニコ誉めてても裏では……とかね。中学の頃だったかな。偶然、私の不満言ってるの聞いちゃったこともあるんだ。そういうのがあったから、何でも疑ってかかっちゃうの。この癖、本当にどうにかしたいんだけどね」

「……そっか。ごめんな、嫌なこと喋らせて」

「話したのは私の意思だから大丈夫」


“大丈夫”と言うが、本当に大丈夫なんだろうか。辛い記憶ほど胸に刻み付けられて永遠に残ってしまうものだろうに。

俺だって過去の記憶で楽しかったり嬉しかったものよりも、辛く苦しい後悔の方がより強く思い浮かぶ。トラウマはそういうものの塊なのに、こうして俺に語ってくれる雛田はとても強い子だ。


「でもね、私は間違ったことはしてないって思ってる。みんなには“授業中に落書きしてる”と思われても、これは私なりに考えた勉強の覚え方」


過程がみんなと違うだけで、結果は一緒だ。現に雛田は学年八位の座にいるわけで、どれだけ努力しているのかはこのノートを見れば一発でわかる。


「このノートを見直してテストで良い点取れたら、結果オーライでしょ? 実際、中学の期末のクラス順位は二十位から一桁まで上がったんだよ」

「そんな上がったの!?」

「ふふ、ちょっとした自慢」


ちょっとどころじゃないでしょ。俺なんて順位一つ上がるか下がるか維持するのに必死なのに。

やり方一つ変えるだけで、ここまで成果が出るものなのか。雛田って凄い。


「もしもこういう自分勝手なことで誰かに迷惑をかけちゃうなら、もちろん頑張って合わせるよ。でも、そうじゃないじゃん? ノートは自分のためにとるんだから、何やったって私の自由。でも、世間の“普通”はそうじゃない。目立ちたくないから秘密で良いの」

「……なる。確かにあんたの言う通り、結果良ければ全て良しって俺も思う」


誰かに見せるためのノートではなく、あくまで雛田が自分のために作ったノートだ。それをわざわざ他人に見せびらかす必要は無い。

雛田のノートを見下ろして、イラストを指でなぞる。何時間もかけて描かれたそれが、とても愛おしく思えた。


「あんたの絵、俺はスキ」

「……! へへっ、ありがとう」

(その笑い方もスキ)


言葉にしたら消えてしまいそうだから、あえて心の中で呟いた。ノートも、この笑顔も、俺に見せてくれているのは、雛田が俺を信頼してくれている証拠。

赤らんだ頬と柔らかく弧を描いた口角、メガネの奥に見える目と目が合って、心臓がトクリと鳴った。


「俺も、見せてくれてサンキュ。ちゃんと秘密にするから安心して。って言っても、すぐには難しいか」

「……ううん。七ツ森くんのこと信じる。信じたい」

「はは、そっか」

「でも、疑っちゃったらごめんね」

「だいじょぶ。ちゃんとわかってるから」


人一人信頼するにも慎重になる分、雛田はたくさん考えてくれる。俺が信じるに値する人間になって、彼女が心から信じてくれるまで待てば良いだけのことだ。

焦らなくて良い。時々休憩させながら、のんびり待ちましょ。


「だいぶ話し込んじゃったね。じゃあ、始めようか」

「はい、お願いします」