―七ツ森side―


二時間ほど勉強会をしてふと外を見ると、青空の奥でだんだんと赤みが増してきていた。

だいぶ日が長くなってきたとはいえ、これ以上雛田を付き合わせるのはダメだ。彼女は一人暮らしなのだから。
送って行こうかとも思ったけれど、まだそこまでは許してくれないだろう。俺だって男だし、彼女の警戒対象なのには変わらない。今のうちに帰らせよう。

今日はそろそろ切り上げようと言うと、雛田も頷いてパタンと教科書を閉じた。


「ノートありがとな。めちゃくちゃ捗った」

「どういたしまして。お役に立てたなら良かった」

「すんごい助かった。雛田様々」

「ふふっ、やったね」


この短時間で照れ臭そうな微笑みまで拝めるとは……。最初の頃のあの無表情な雛田は、すっかり成りを潜めている。

日々慣れていく様子に、親のような兄のような応援したくなる感覚が芽生えた。俺は子供も弟も妹もいないけど。


「じゃ、帰るか」

「うん」

「……あ、ちょっと待って」


荷物を持って立ち上がると、俺のスマホが短くバイブ音を鳴らした。雛田に待ってもらう横でメッセージアプリを開き、たった今送られてきた文字列を眺める。そのお願いの文章を見て、だいぶ今更な事実に気付いた。


「……あのさ」

「ん? 用事でもできた?」

「いや、そうじゃなくて。今のメッセ、小波たちからなんだけど」

「うん」

「今度一緒に遊びたいから雛田の連絡先教えてほしいってさ」

「えっ……」

(あー、そうだよな。雛田ってそういう文面でのやりとりも苦手そうだもんな……)


ほぼ毎日一緒にいるから、連絡先を交換するのをすっかり忘れていた。家に帰ってから彼女に連絡する用事も特に無かったし、そもそも雛田が学校でスマホを弄る姿も見たことが無かった。

良い機会だし今ここで聞いてしまおうかと思ったけれど、この反応は嫌がってる……のか?

俺のスマホから雛田のスマホが入ってるんだろうポケットに、彼女の視線がきょろりと移る。


「小波は俺が知ってると思って聞いてきたんだと思うけど、言われてみたら俺たちもまだ交換してないんだよな。連絡先」

「うん……」

「あー……。雛田が良かったら、交換しない?」

「あ、うん、と……その…………」


雛田は俯き勝ちになって、鞄をぎゅっと握る。どう答えたら良いのかわからないといった感じだ。
これは失敗だったか?


「ゆっくりでいーよ、あんたの気持ち優先で。嫌なら断ってくれて構わないし」

「あっ、そ、そうじゃなくて……っ」


予想に反して、雛田は首を横に振った。
嫌ではないのか?


「交換の前に、七ツ森くんにお願いがありまして……」

「ん。なに?」


なるべく優しく問い掛ける。何気に雛田からお願いされるのなんて初めてかもしれない。チーズタルトの時も学食のシェアも、俺からの提案に乗っただけだったもんな。

何を言われるのかと少しソワソワしていると、彼女はポケットからスマホを取り出して控えめに俺を見上げる。


(な、なに? 何言うの雛田?)


夕日の差し込む教室。赤く染まった頬。上目使いの潤んだ瞳と、下がった眉。

このシチュエーションは、まさか……。


「……っ、と、もだち追加のやり方を……、教えてほしい、です……」

「……………………へっ?」


彼女の口から出た言葉は、俺の予想の斜め上を飛び越えた更に斜め上だった。

何も言わず固まる俺に居心地が悪くなったのか、雛田は視線を下げて眉間にシワを寄せた。


「……笑っても良いよ」

「あ、いや、別に笑ったりしないけど。寧ろ俺が笑われるべきというか……」

「ん?」


なに先走って勘違いしてんだと自分の頭を引っぱたきたくなる。

雛田はそういうんじゃない。気楽につるめる友達。お互いにそれ以上でも以下でもない。
……自分に言い聞かせるのもなんだか虚しい。


「なんでもないス。もしかしてメッセージアプリとか使ったこと無い?」

「んーん。アプリ自体は家族ともやりとりしてるから、文字を打ち込んで送信するのとか、スタンプ買って押すのとかはわかる」

「ん? 家族はどうやって追加したの?」

「実家にいる時に、妹にやってもらった」

「なる」


雛田の家では、妹の方が新しいものに積極的に手を出すらしい。機械音痴とまではいかなくとも、雛田は機能や操作を覚えることが苦手なのだと教えてくれた。


(これも暗記系と一緒なのか……)


単純に物覚えが他人よりも遅いのかもしれない。理屈を噛み砕いて、繰り返し読み込んで、やっと理解して覚える。だから彼女のノートはあんな凄い作品として出来上がっているのだろう。

それと同じで、アプリ内の簡単な操作だとしても、“友達追加”という機能を今まで使って来なかったのだとしたら、彼女の頭で理解する以前の問題だったということだ。


「ごめん。こういうの疎くて……」

「謝んなくていーの。やったこと無いなら覚えれば良いだけなんだからさ。俺が数学覚えるのと一緒」

「……そっか。ありがとう」

「ん。そんじゃ、俺を練習台にやってみましょ。あ、俺が追加されるのはOK?」

「うん、OKだよ。お願いします」


邪魔にならないように鞄は前の席に置かせてもらい、雛田は再び自分の席に座る。俺は椅子だけ雛田の方に寄せて、二人のスマホを彼女の机に並べた。

早速アプリを起動する。ロゴマークの後に開かれた雛田の友達一覧の画面には、アイコンが四つのみ。


「これ、家族?」

「そう。父さんと母さんと、弟と妹。両親もスマホ得意じゃないから、専らきょうだいとしか連絡とってないけど」


まさかとは思ったが、本当に家族としかやりとりしてないのか。普段の彼女を見ていれば、連絡を取り合う友人がいるとも思えないけれど。

というか俺がその友人であるべきだったんだよな。ゆったりと仲良くなっていく時間が心地よくてうっかりしていた。

それはさておき、俺のスマホも同じようにアプリを開いて早速教えることにする。


「じゃあ、ホームの一番上にある友達追加のマークを押して」

「ホームの、一番上……これ?」

「そ。ヒトガタにプラスマークで友達追加ね」

「はい」

「そしたら……」


雛田は人差し指でぽちぽちと、ぎこちない手付きで操作する。彼女のスマホと俺のスマホで視線を行き来させていて、まるで小物でジャレてるにゃんこみたいだ。“野良猫ちゃん”というアダ名で呼ばれる意味がよくわかる。
つい口元が緩みそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。


(本当に知らないんだな……)


友達との連絡手段を持っていなかったということは、彼女は誰かと遊び歩いたことも無いということだ。今やこのアプリはスマホ同様に必需品だし、学校内でもよく待ち合わせする時に使用している。

俺たちが私生活で当たり前にしていることは、雛田にとっては当たり前ではなかった。彼女は環境に慣れるのに必死だし、これからはこういう新しいことも俺から教えてみよう。


「できた……!」

「ん、ちゃんと追加されたな。よくできました」

「ありがとう。助かりました」

「いえいえ、どーいたしまして。小波たちのはどうする? 俺が送ろうか?」

「せっかく教えてもらったから、直接追加させてもらいに行く」

「そ? じゃ、そう伝えとく」


雛田のアプリに俺のアイコンが追加されたのを確認し、小波たちにも今の内容を伝える。すぐに「楽しみに待ってる!」と親指を立てたスタンプと一緒に返事が来た。女の子友達が増えて小波も嬉しそうだ。


「……えへへ」

「……! どした?」


雛田が声を出して笑うのが貴重過ぎて即座に反応してしまった。どんだけこの子の笑顔が見たいんだと自分で自分に呆れる。

家族からメッセージでも来たのだろうか。
画面を見詰めて微笑む彼女に首を傾げて問い掛けると、柔らかい眼差しがそのまま俺を見上げてきて、思わず息を飲んだ。


「家族のアイコンだけが並んでた中に、七ツ森くんがいる。友達一覧に初めて友達入った」

「えっと……、嬉しいの?」

「嬉しい。すっごく嬉しい。友達、嬉しい」

(やば。喜びすぎでしょ。俺までニヤける……)


嬉しいって三回も言われた。
不自然にならないように肘をつきながら、口元を押さえて誤魔化す。ここまで素直に喜ばれるとこっちが照れるんだけど? 俺まで“嬉しい”が移ってヤバい。

ブブッとバイブが鳴って、たった今追加した新しいアイコンに着信のマークが付く。トーク画面を開くと、「にゃいすちゅーみーちゅー」なんて喋っているにゃんことネズミのスタンプが押されていた。


「早速送ってみた」

「おお。スタンプ押すのは手慣れてますな」

「友達にこのスタンプ送ったの初めて。ドキドキした」

(ン゛っ! これくらいでドキドキしちゃうんですね……)


顔の熱が冷める前に上がっていく。教室ってこんなにサウナだったっけ?

思考回路までヤバいことになる前に、改めて雛田が送ってくれたスタンプを観察してみた。ほわほわした花が舞うユルキャラのスタンプ。和むけれど、一部に和んじゃいけないものが見えた気がして瞬きを繰り返した。
……だが、見えてるものは変わらない。


(ほんわかした顔のにゃんこは可愛い。可愛いけども!)


口から垂れたヨダレが抱っこしているネズミの頭にかかっている。身の危険が及ぶ状況なのに、ネズミも何故か笑って抱かれている。なにこのシュールなスタンプ。


(ヤバい。雛田のこのセンス、スキだわ)

「そろそろ帰る?」

「あ、うん。そうだな」


いけない。もう夕方だった。眺めるのは家に帰ってからにしよう。

鞄を持って教室を出ると、巡回の先生に「気をつけて帰れよ」と声を掛けられる。軽く会釈をして擦れ違い隣に並ぶ雛田を見下ろすと、先程までの嬉しいオーラは見事に引っ込んでいつもの彼女に戻っていた。ポーカーフェイス上手すぎだし、なんだか勿体無い。
でも、俺だけに見せてくれた表情だと思うとこれで良いような気もしてきて、膨れてきた独占欲に苦笑した。


「じゃ、また明日ね」

「ん。またな」


校門に着くのはあっという間で、帰り道で隣に雛田がいなくなるのが少し寂しい。


「雛田」

「ん?」


背を向けた雛田を呼び止める。なんで呼んだのかなんて、自分でもわからない。

もう少し一緒にいたい。
もっと話したい。
色んな欲求が沸いてくるけれど、そんなこと言っても彼女を困らせるだけだ。

でも、これだけは今日の内に伝えたい。


「さっき雛田が言ってた話。あんたが一人オリジナルってやつ」

「……うん」

「中には「なんで合わせないのか」って疑問に思う奴、文句言ってくる奴、色んな奴がいる」

「…………」

「でも俺は、しっかり自分を持って頑張ってる雛田の方がカッコいいって思う」

「え……?」

「俺はあんたのそういうとこ、凄い尊敬する」


雛田の絵がスキだって言ったけれど、それだけじゃない。周囲から理不尽に拒まれても尚、負けずに自分の心のままに表現するところは、俺も見習うべきだと思ったのだ。

こうして本人に直接伝えるのは恥ずかしいけれど、彼女にはちゃんと俺の抱いた気持ちが伝わってほしい。その願いが通じたのか、雛田の頬はみるみる内に赤くなっていった。


「あ……、う、ん。ありがと。面と向かって言われたのは初めて。なんか照れる」

「はは、俺も。じゃ、また明日な」

「うん。今日もありがとう。また明日」


手を振って背を向ける雛田を見送り、俺も振り返って家路へと足を進める。今日も夕日が綺麗だなぁなんて在り来たりな感想を抱きながら、思い出すのは雛田の笑顔だった。


(また明日も見られますように)



* * *



帰宅後。

夕飯と風呂、スキンケアまで済ませて、あとは寝るだけの状態になり、ベッドに横になってメッセージアプリを開いた。


(やっぱ良いな、このスタンプ。さすが雛田というか……)


初めて貰ったあのにゃんことネズミのスタンプが頭から離れない。雛田の初友達として送られたからだろうか。俺も内心めちゃくちゃ嬉しかったらしい。

スタンプをタップして購入画面を開き、他にどんな種類があるのかを調べてみる。
スタンプ名は“ねこにネズミ”。猫に小判から来ているらしい。

いってきにゃす
ただいにゃ
にゃりがとう
ごめんにょ
にゃっはっはー
にゃりーん

等々、使い勝手の良いスタンプがズラリと出てきた。スクロールして下の方にいくと、他にも個性的なセリフを発してるにゃんことネズミが出てくる。


(…………ん?)


最後に出てきたスタンプが目に留まる。にゃんことネズミが重なって寝そべっているイラスト。物凄く見覚えがある。

糸目、3みたいな口、誰でも描けそうな簡単な絵。よくよく見れば他のイラストの顔も、どこか既視感を覚えるものばかり。

もしやと思って起き上がり、ノートに挟んで持ち帰ったメモ用紙と、ファイリングしていた四月の小テストを引っ張り出す。シワも寄らずピンと畳んであったそれを開き、雛田に描いてもらったにゃんことスマホ画面を見比べた。

寝そべっているにゃんこはあの子の解答用紙にしか描いてないからわからないが、でも似ている。「にゃりがとう」スタンプはまさに、小テストに描いて貰ったイラストと酷似していた。
このスタンプのイラストを真似て描いてたのか。


(完全なオリジナルってわけじゃなかったんだな。…………あ゛!?)


再び寝転がって上の方にスクロールし、タイトル上に小さく載っている製作者名に思わず二度見して飛び起きた。見覚えどころか毎日のように口にしている苗字がそこにあったのだ。


(“雛田”って……。は? コレあの子の自作スタンプ!?)


字もまったく同じ。イラストもそっくり。他人のそら似でもここまで一致するものか?


(いや、目立ちたくないって言ってたあの子がこんな大々的にイラスト晒す? 誰彼構わず見られるスタンプショップに?)


だが、これなら顔写真を載せる必要はないし、この世に同じ苗字の人間なんてたくさんいる。自分から名乗り出なければ隠していられるものだろう。

現に俺もまだ半信半疑だ。偶然製作者と苗字が同じだっただけなのか、それとも彼女本人なのか。物凄く気になる。

気になりすぎて、製作者名を押して別のスタンプも確認してみた。“ねこにネズミ”以外にも数種類売られている。中には“我が家の洗濯事情”なんて、タイトルからしてシュールなスタンプまであった。これは見ないと損だと直感的にタップして、その中身に思わず吹き出して笑った。


(なにこれ、感性ヤバ……っ)


ただのピンチハンガーにかけられた家族のパンツ。見た目と大きさからして父親、息子、娘、母親の順でぶら下がっている。その脇にあるセリフがまぁ面白い。

「天気予報見たか?」と言う、どんよりとした雲を背景に風に揺れるパンツ。

「飛ばされるぅ〜!あぁ〜!」と、一番外側で不運にも飛んでった父親パンツ。外はどしゃ降り。

「辱しめを受けるのはお前ぞ?」と、通りすがりのワンコに匂いを嗅がれる水溜まりに落ちた父親パンツ。

他にも、隣のベランダに干してある洗濯物同士の会話とか。顔は描いてないしキャラクターでもないのだが、日常でもたまに見かける一面と、喋るならこんなことを言いそうってセリフがなんかツボだ。


(使うかはともかくコレ買おう。見てるだけで面白い)


別にまだこれが雛田作なのかはわからないけれど。でもそうだったら良いなぁなんて希望もある。電話して聞いてみるのも有りだが、こんなことでわざわざ電話するのも彼女を緊張させるだけだろう。


(そういえばスタンプ返してなかったな)


今更だが、せっかく雛田が初スタンプをくれたのだ。俺も返そう。

どれが良いかなぁとスタンプ一覧を一通り眺め、明日の反応に期待してとびきりのやつをポチッと押した。


(はぁ〜〜、今日も良い一日だった)


興奮して眠れる気はしないが、明日を楽しみにもう寝よう。

そう思いつつ、電気を消しても雛田のスタンプをじーっと眺めているだけで日付が越え、結局いつもと変わらぬ夜更かしをするのだった。