―七ツ森side―


二年生に進学して、俺は相変わらず忙しない毎日を送っている。高校生になってから、学園生活にモデル業、家では時々趣味の時間を満喫して、忙しいながらも充実した日々を過ごしていた。

それもこれも入学前のあの日、あの子が俺のパスケースを拾ってくれなかったら有り得なかったことだ。


* * *


このパスケースの中には電子マネーに学生証、モデル事務所の入館証まで入れてある。あの日も外部生説明会の後に打ち合わせに行くところだったから、コレが無かったら怒られるどころの話じゃなかった。Nanaが世に出る前に切られててもおかしくない案件だったし、それを考えると未だにゾッとする。走って届けに来てくれたあの子にマジ感謝。

小刻みに震える手で俺にパスケースを手渡したあの子は早々に逆方向へと帰ってしまって、俺と目すら合わせなかった。人見知りなんだろうと思って、俺も打ち合わせがあったからそのまま事務所に向かった。入学したらまた会えるだろうし、その時に改めてお礼を言おうと決めて。

大袈裟に思われるかもしれないけど、七ツ森実とNanaを両方救ってくれた恩人だ。身バレしたら嫌だけど、ちゃんと感謝の気持ちは伝えたい。


* * *


で、結局一年生の時には擦れ違うことすら無かった……と、思う。小波やカザマにダーホンと次々に身バレして、内心ハラハラすることも多くて。あの子との出会いも忘れていた。

二年生になって自分の席に向かうと、隣の席にあの子がいて思い出した。分厚いメガネに、背中まで伸ばした髪はヘアゴムで緩く縛っている。そのヘアゴムもただの黒いゴムで飾りも無い。静かに座って窓の外を眺めている彼女は、化粧っけも無くて地味な印象だった。

やっと見つけたと思って呼び掛けると、彼女は俺を見上げてビクッとした。驚いただけかと思えば、握った両手はぷるぷるしていて、せっかく上げられた視線をそらされた。


(……もしかして俺、怖がらせてる?)


俺は平均より身長が高いし、今この子は座っているから当然か。ひとまず落ち着いて話せるようにと席に座ると、彼女は心なしか安心してくれたようだ。読みは当たったらしい。


「……えっと。ごめんなさい、どちら様でしたっけ?」


初対面の俺のことは完全に記憶の彼方だったらしい。俺もだったけど。
パスケースを見せて漸く思い出してくれた彼女にやっとお礼が言えた。「どういたしまして」と静かに機械的に言った彼女は、俺から顔までそらして考え事を始めてしまった。

俺と同じくらい分厚いメガネを掛けていて、横顔だとその奥で瞳が揺れているのが見えた。また少し表情が堅くなった気がする。俺ってそんなに怖いの?

放っておけば良いのだろうが、訳もわからず怖がられるのは何だかなぁ。ただの人見知りかと思っていたが、男が怖いとかだろうか。だとしたら、あんまり話しかけたりしない方が良いのか。まぁ、俺もこれ以上の身バレは避けたいし、必要以上に仲良くするつもりは無いけれど。

そんなことを考えていると、担任が入ってきて新学年恒例の自己紹介コーナーになる。この時、隣のあの子の名前を知った。

“雛田ゆず”ね。お隣さんで恩人だし、覚えておこう。



* * *



四月半ば、ある日の四限目。
数学の小テストで、雛田と採点し合うことになった。

初日以来、特に話題も無くて会話すらしていなかった俺たちは、教師に言われた通りにテストを交換する。

途中式まできっちり書かれた雛田の解答用紙。これ一枚で彼女が真面目な子だとわかる。俺のなんか途中式飛ばしてたり、わかんなくて当てずっぽうで答え書いてたりしてるのに。


(……マル。次もマル。マルばっかじゃん。……あ、凡ミス発見)


スラスラと最後まで採点して点数を書く。95点。あの凡ミスさえ無ければ満点だったのに、めっちゃ惜しい。というか、どんな勉強したら数学でこんな点数叩き出せんだよ?

マルだらけの解答を眺めていると、ふと左下隅っこに描いてあるものに目がいった。シャーペンで薄く描かれているそれは、ぐでーっと寝そべっているデフォルメされたにゃんこだった。恐らく彼女のオリジナルだろう。


(なんか……ツボだわ、この何とも言えない顔)


不細工とは違う、眉間にシワを寄せた糸目のにゃんこ。口は3みたいなやつで、吹き出しで「はらへり」と書いてある。


(お腹すいてるのか、雛田。なにもテストに描かなくても良いだろうに)


笑いそうになる口許を手で覆い、ちらっと彼女の方を見る。机の横にかけられた鞄にも、緩い顔したにゃんこのキーホルダーが付いていた。


「にゃんこ好きなの?」

「え……?」


まだ俺のテストの採点をしている彼女だったが、問い掛けるとゆっくりこっちを向いた。
俺の指差す落書きを見て小さく頷く。


「ぁ……、うん……」

「そっか」


少し頬が赤くなった。恥ずかしいのか、雛田の視線は採点に戻ろうと手元に移る。


「俺、このにゃんこ、なんか可愛くてスキ」


雛田の手がピクリと跳ねる。再び俺に向けられた瞳が、やっと俺を映して初めて目が合った。


(……驚き? 動揺してる?)


俺の感想に喜んでいるような気もしたけれど、怯えや恐怖心で震えているようにも見える。
メガネの奥で複雑な色で揺れる雛田の瞳。そこから感情を読み取ろうにも、視線はすぐにまた手元に落ちてしまった。
ごめん、そっちはまだ採点中なんだった。

これ以上話しかけても困らせるだけだろう。気づかれないようにふぅっと息を吐いて、俺はまた雛田の落書きを眺めた。


(……何だろう、このジワジワくる感じ)


ただの落書きだと言ってしまえば確かにそうなんだけど。コレ見たら誰でも真似して描けるくらいに緩い落書きなんだけど。でも、テスト用紙の端っこに絵を描く奴なんて、俺は一度も見たこと無い。いや、頭悪いくせにバカな落書きして怒られてるやつは見たことあったけど、女の子で雛田ほどの点数をとれる子の落書きなんて初めて見た。生真面目ってわけでもないのか。雛田の性格がいまいち掴めない。

コレ、もし教師に回収されてたらどうしたんだろう。怒られないように消してたんだろうか。それともこのまま残して提出したのかな。どっちにしても、彼女のちょっとした心情が表れているこの落書きが、凄く良いなと思った。


(……ちょっと試してみよう)


雛田のにゃんこの隣にシャーペンで落書きする。向かい合わせに寝そべるにゃんこ。同じような糸目で、眉間にシワ。3みたいな口。そのままだと丸パクリしたみたいになったから、にゃんこはやめて顔の周りにギザギザのタテガミを追加した。彼女ほどバランス良くないけど、初めてにしては上手く描けたのでは? このライオン。
ついでに吹き出しで「ねみー」って書いておく。昨夜はゲームのイベント走ってたから寝不足なんだよね。

雛田がこういうコミュニケーションを気に入るタイプかはわからないけれど、これで少しは緊張ほぐれてくれたら良いなと思う。初めて会ってからずっと怯えさせてるみたいだし。

テストを返すと雛田はまだ俺のを採点してくれていて、遅くてごめんと謝ってきた。焦らなくて良いと伝えると目に見えてほっと息を吐き、早速俺の落書きに気づいてくれた。
横顔で見える目がぱちぱちと瞬く。しかし、彼女は何事も無かったかのように採点に戻ってしまった。


(あー……無反応ですか、そうですか。……ん?)


何か一言くらい言ってくれるかと期待していた自分がいたことに驚く。

俺は彼女に反応してほしかったのか? 勝手に落書きしただけなのに? 必要以上の交流はしないんじゃなかったか? というか、そもそも雛田は自分の解答用紙だから落書きしてただけであって……。

そこまで考えて自己嫌悪。なに他人のテストに落書きしてんだ、俺は。今更気づくとか阿呆か。嫌がられただろうな。


「……はい、お待たせ」

「あ、うん。どうも」


雛田からテストが返ってくる。受け取って見た点数は70点。まぁそれくらいだよなと予想はしていた。ご丁寧に惜しい解答には途中式まで含めて正解を書いてくれている。そりゃ俺より採点時間かかるわけだわ。

ふと赤ペンで書かれた点数の横に目がいった。シャーペンで薄く描かれたそれは、さっき見たのとは違うにゃんこ。ふにゃりととろけるような表情で、吹き出しには「ありがとう」と書いてある。あの落書きをスキって言ったことに対しての感謝の言葉だと悟った。


(落書きし返してくれたってことは、ライオン気に入ってくれたってことで良いですかね?)


さっきまでの不安はどこへやら。落書きしてくれたことが嬉しいなんて、俺って単純だなと思う。
自然に口角が上がった俺の隣で、雛田の肩が安心したように下がった気がした。


* * *


チャイムが鳴って、数学教師が出ていくと途端に教室がざわめく。弁当持参の奴は机を寄せて集まり、学食に向かう奴は財布を持って立ち上がる。俺も今日は何を食べようか。

ペンケースを仕舞ったところで、スマホのバイブが短く鳴った。確認すると、ダーホンから「迎えに行くね!」とのメッセージと走るスタンプが押されていた。一年の後半から仲良くしている四人グループ。今日もそのメンバーからランチに誘われていた。


「ミーくん!」

「はや。今メッセ見たとこなんだけど」


ダーホンが髪をぴょこぴょこ跳ねさせながら俺のとこまで走ってくる。まるで仔犬。口を開けばお喋りインコだけど。
ダーホンが来たということは、そろそろ小波とカザマも教室から出てくる頃だろう。

さっきのテストはクシャクシャにならないようにノートに挟んでおこう。すると、ダーホンが目敏くあの落書きに反応してテストを取り上げた。


「あ! この猫!」

「はいはい、仕舞いますよ」

「ねね! もしかしてコレ、雛田ちゃんに描いてもらった?」

「は?」


まさかの雛田と知り合いらしい発言に驚く。ダーホンと雛田じゃ正反対の性格してると思うけど。寧ろ雛田ってダーホンみたいなタイプこそ苦手な感じするのに。

雛田の席を見れば、既に本人の姿はどこにも無くて更に驚く。嘘でしょ。いついなくなったの? 立ち上がる物音も俺の後ろ通ってく感じも、何一つなかったんだけど?


「あ。この猫のキーホルダー、雛田ちゃんのだ。ミーくんと雛田ちゃんお隣の席なんだね」

「ダーホン、雛田と知り合い?」

「うん。一年生の時に同じクラスでね、オレの後ろに座ってた子」

「なる」

そんだけ近い席にいたなら知っててもおかしくないか。もしかして一年の時にもこうして他の奴に落書きしてあげたりしてたんだろうか。ダーホンが反応するんだから有名だったのかもなぁなんて、テストを返してもらいながら思った。

その後、テストはしっかりとノートに挟んで仕舞い、小波とカザマを迎えに行って食堂に向かった。今日は大好物メニューが無かったし、テストで頭使ったからフルーツサンドにした。クリームの甘さとフルーツの酸味がちょうど良いバランスで美味い。これで午後も頑張れそうだ。


* * *


四人で他愛もない話をしながらのランチは、あっという間に終わる。まぁ、喋ってるの殆どダーホンだけど。

次は移動教室だからと小波とカザマは先に戻っていき、俺はダーホンの話を聞きながらのんびり戻る。どこからそんなに話題が出てくるんだか。ダーホンの話術の源が何なのかいつも不思議で堪らない。


「あ、雛田ちゃん!」


教室の前まで来ると、前方から雛田が歩いてきた。片手には弁当箱が入ってるんだろうトートバッグ。食堂にはいなかったし、どこか別のとこで食べてきたのか。

彼女はダーホンの声に反応すると数歩手前で立ち止まり、俺たち二人を見比べた。


「……本多くんと七ツ森くん、知り合い?」


初めて名前呼ばれた。苗字だけど。“くん”付けしてくれるのね。


「うん! 仲良しなんだ!」

「へぇ、二人が仲良し……」

「待った。なんか変な誤解を生んでる気がする」

「えっ? でも、オレたち仲良しだよね? いっぱい遊んでるし」

「ダーホン、それ以上言わないで。今その同意を求めてこないで」


ここに小波とカザマがいる状況でなら頷いても良かったが、さすがに男二人の仲良しはちょっと気まずい。雛田はそういうので騒ぎ立てるような子じゃないと思うけど、なんか嫌だ。


「仲良しか……」

「いや、あんたも間に受けなくて良いから」

「うん。でも、なんか良いなって思った」

「えっ?」

「……なんでもない」


そう言うと、雛田は先に教室に入って自分の席に戻っていった。
なんか良いなって何?

そういえば、あの子はいつも一人でいる気がする。授業でグループ作る時は自然と溶け込むようにそこにいるけれど、終わればまた一人で静かに座っている。今だってどこで誰と昼飯食べてきたんだ?

でも、たまに他の女子たちから“野良猫ちゃん”なんて呼ばれているのは耳にするし、あの子も手を振って応えているのは何度か見た。いじめられているとかでは無さそうだし、友達がゼロというわけでもないハズ。今思えば、あの子が笑った顔は一度も見たことが無かった。


「……良かった。前よりは慣れてきたのかな」


呟くように言ったダーホンは、雛田を見てほっとしているようだった。その目にはなんだか成長を見守っている兄のような、親のような温もりがあるようにも見える。


「ダーホン?」

「なんでもない! ミーくん、雛田ちゃんとも仲良くしてあげてね!」


二人して「なんでもない」って何?
何かあるでしょ?

モヤモヤしつつもダーホンと別れて俺も席に着く。最初の頃は俺が近づいてくだけでビクビクしていた雛田も、最近はちょっとずつ慣れてきたようで、身体の震えは無くなってきた。ダーホンの言ってた「慣れてきた」ってこのこと?

雛田の目は俺が立っているとまだ少し怯えてる感じがするけれど、座るとほっとしてくれる。もしかして、雛田が座っていて俺が立っている時の身長差が怖いんだろうか? だとしたら、それは本人に頑張って慣れてもらうしか無い。さすがに身長は縮められないんで。

ダーホンの言葉はそういう意味だったんだろうなと納得し、俺は次の授業の準備に取り掛かった。