―七ツ森side―


あのテストの落書き以来、雛田とは一日一回は喋るようになった。
最初は俺から、俺より先に登校している彼女に「おはよ」と挨拶していただけ。数日経つと彼女は教室に入ってくる俺に気づくようになり、小さい声だが「おはよう」と言ってくれるようになった。

目が合うことは少ないけれど、日を追うごとにちょっとずつ顔が上がってきている。それが嬉しくて、話題がある時は一言二言話し掛けた。

雛田はウザがる様子もなく、言葉を詰まらせながらも応えてくれる。“野良猫ちゃん”なんて呼ばれている通り、素っ気なかったにゃんこがちょっとずつ懐いてくれるような感じがして、雛田の側でゆっくり流れていく時間が、なんか良いなと思い始めていた。


* * *


「……七ツ森くんてちゃんと喋る人なんだね」


ある日の昼休み。
今日はグループからのお誘いは無く、生憎の雨。購買でパンを買って教室に戻ると、珍しく雛田も自分の席で弁当を広げていた。いつもなら気配も無くフラッと教室から出ていくのに。

教室にはポツポツと机を寄せたグループが数人いるが、雛田はそこには混ざらない。俺もそっちの男子グループに入る気は起こらなかったため、自分の席に座って今日の戦利品、満点あんパンの袋を開けた。

俺が教室に入ってきたところで雛田は俺に気付いているが、彼女からは特に話し出すことは無い。

パンを齧りながら、なんとなく雛田に「今日はお互い教室飯ですな」なんて、盛り上がりもしない話題を振った。「そうだね」と静かに返答され、次に雛田から投げ掛けられたのが冒頭の言葉だった。


「ちゃんと喋るってなに?」

「最近よく喋るなぁって」

「そうだっけ?」


そんなに喋ってるだろうか? 雛田とは挨拶を除いても一日に一回か二回喋る程度だと思うけど。寧ろ他のクラスの小波たちといる時の方がよく喋ると思う。

不思議に思って首を傾げると、雛田は口の中のものを飲み込んでから理由を話し始めた。


「七ツ森くん、誰かに話し掛けられたら普通に応えてるけど、言葉のキャッチボールは殆どしてないでしょ」

「…………」

「今も自分から向こうの男子のグループに混ざりに行く気は無いみたいだし。喋るの苦手な人なんだと勝手に思ってたけど、私にはよく話し掛けてくれるし。話題があれば自分から喋る人なんだなぁって思った。あくまで私から見える範囲での意見だけど。違う?」


雛田に問われて気づいた。

そういえば、確かに俺は誰かと話す時に話題を振ることはあまりしない。Nanaの話題を出されてドキリとすることはあるが、それとなく誤魔化して距離を取っている。それは俺自身がNanaであり、その事実を隠しているから。学園では“七ツ森実”として生活しているから。下手に話題を振って勘づかれるのが……、Nanaの本当の姿が“七ツ森実”であることを晒け出すのが怖いからだ。

隠すことに緊張感を持っているせいで、交遊関係はだいぶ薄っぺらい。友達だと言えるのは、いつものグループの他にはモデル仲間の花椿ツインズくらいしかいないだろう。あのメンバーは俺がNanaであることを知っているから、時と場所さえ選べば気兼ね無く会話できる。それでも、俺から話し掛けるより相手から声を掛けられて答えることが多く、受け身の体勢でいるのが殆どだ。

なのに、なんで俺は雛田に自分から話し掛けているんだ?


(この子はまだ俺がNanaだって知らないのに……)


思い返せば、雛田と話す時はNanaのことも頭の中から消えていて、極々普通の友達同士のような何気ない会話をしていた。天気の話だとか、宿題がわからないだとか。相手が雛田じゃなくても良い会話なのに、どうしてか雛田とだけ話している。そして雛田も、俺が雛田としかこんなに話さないことに気づいている。

期間にして約二週間ちょっと。ある意味運命的な出会いをして、たまたま隣の席になった子に、普通ここまで気を許すものか?

今更それに自分で気づいて、思わず片手で顔を覆った。あんパンを持つ手に力が入って、餡が押し出される。若干顔が熱い。


「完っ全に無意識デシタ……」

「そうなの?」

「ウン……」

「ふぅん」


大して関心も無さそうに、雛田は残りの弁当をつまむ。何を思って聞いてきたのかわからないが、彼女にとってはそこまで重要な話題ではなかったのだろう。

でも俺にとってはだいぶ重要だ。もし小波やカザマたちと同じ感覚で、無自覚にNanaについて口を滑らせていたらと思うと背筋が凍る。まだ知らないとはいえ気づかせてくれてマジで感謝。また雛田に救われた。

しかし、ここで別の問題に気づく。今この話題を雛田から振られるってことは、もしかして俺ってお喋りな奴だと思われてる?


「……なあ」

「ん?」

「イヤだった? 話し掛けられるの」


遠回しに「煩い」とか「話し掛けるな」とか、そういう意味で言ってるのだとしたら、雛田にとって俺は超迷惑な嫌がらせ野郎だ。一緒に話してて楽しいと思ってるのが俺だけなら、雛田が嫌がっているのならもう話さない方が良い。

そう思って雛田を窺い見ると、彼女は俺の方を向いてきょとんと目を瞬かせた。


「そうは言ってない。ただ、私が社交性無いから、もし気遣わせてるなら申し訳ないなって思っただけ」

「それは無い。俺は雛田と話すの、なんか落ち着くから良いなって思ってるし」

「……そう。私も、私から話題提供できること少ないから有り難い、とは、思ってる……」


視線は落ちてしまったけれど、俺の方を向いたままそう言う雛田は頬が少し赤み掛かっていた。照れているらしいその様子に、安心してふっと笑みが溢れる。


「そっか。これからも話し掛けて良い?」

「……七ツ森くんが楽しいなら」

「ん。あんたと話すの楽しい。サンキュ」

「……私も、楽しい。ありがとう」


小声で感謝の言葉を送り合う。なにせ教室には他の奴等もいるもんで、普通のトーンで話すには気恥ずかしい。

ほんのちょっぴりだけど、お礼を言う雛田の表情は前より柔らかくなった気がした。


* * *


HR終了後。

教師が出ていったところでスマホがバイブを鳴らし、グループトーク画面を開くと小波から「放課後に喫茶店に寄らない?」と誘われていた。今日は昼に一緒に過ごせなかったからだろう。カザマはもちろん行くと即答しているし、ダーホンも親指を立てたスタンプで答えている。俺も今日は仕事も無いからOKと返答し、校門で待ち合わせて喫茶店に向かった。

帰宅途中にある喫茶店の団体席に座り、各々が注文したものが届くと、他愛もない会話が続く。大抵は小波からの質問コーナーだったり、それにダーホンの雑学トークが重なるって感じ。更にカザマが突っ込みを入れたりして、俺も口数は少ないながらも受け答えする。
前まではそういう会話も鬱陶しく感じることが多かったけれど、なんだかんだ言ってこのグループは居心地が良い。


「そうそう。ミーくん、最近雛田ちゃんとよく話してるみたいだね」


会話が途切れたところで、ダーホンから俺への質問が飛んできた。
なんでダーホンがそんなこと知ってんの?


「“雛田ちゃん”って?」

「誰だ?」

「あ、そっか。小波ちゃんとリョウくんは知らないよね。一年生の時にオレと同じクラスだった子だよ。大人しい女の子」

「へぇ。七ツ森くん、仲良いの?」

「仲良いってほどでもないけど……」


どうなんだろう?
他の女子よりは仲良いとは思ってるけど、小波ほどでもないと思う。雛田の方はどう思っているか知らないが、少なくとも俺と同じく他の男子よりはって感じだろう。


「どんな子なの?」


同性として興味を持ったらしい小波が身を乗り出して聞いてくる。改めてどんな子って考えると返答に困った。

小波の場合は勉強も運動もできて、流行にも敏感でおしゃれ上手。何にでも真っ直ぐ前向きに取り組む子だと、知人に紹介するならそう言うだろう。

でも雛田はどうだ?
どう紹介するのが正解なんだろう?


(勉強できる子? いや、数学の小テストの結果しか知らないし。運動……は、確かこの間の体育で転んでたな。あ、落書きが上手い! って、テストに描いた落書きじゃ印象悪くするだけか?)


うんうんと唸っていても、小波の好奇心旺盛なキラキラした瞳を見ては黙ってるわけにもいかない。仕方がない、ダーホンにバトンを回そう。


「俺も雛田のことはそんなに知らないんだけど。にゃんこ好きってことくらいしか。ダーホンの方が知ってんじゃない?」

「そうかな? オレは猫好きってことも知らなかったよ」

「は?」


嘘でしょ?
アダ名でもキーホルダーでも落書きでもあんなににゃんこを主張してんのに?

疑問符を浮かべる俺に何故かダーホンはふふっと微笑み、アイスコーヒーの氷をストローでカラリと回した。


「一年生の頃はね、オレの後ろが雛田ちゃんの席だったんだ。最初はオレもクラスメートの一人って認識だったんだけど、雛田ちゃんって気づいたらいたりいなかったりするんだよねー」

「いたりいなかったり?」


カザマも興味が出てきたのか訝しげに問い掛ける。

ダーホンのその言葉で、俺は雛田が昼休みに気配も無く出ていく様子が思い浮かんだ。


「神出鬼没というか。とにかくオレが休み時間に振り向いた時には既に席からいなくなってるの。んで、授業が始まる一分前に振り向いたら教科書とノート開いて待ってるって感じ! 凄くない!?」

「へぇ、不思議な子なんだね。今もそうなの?」

「……確かに今でもそういうとこはあるカモ」

「でね、放課後も挨拶が終わったらすぐに鞄持って出ていっちゃうんだ。オレが話し掛ける暇さえ与えてくれないの」


あの子ダーホンの目を掻い潜ってたのか。そりゃ確かに凄いわ。

ダーホンから出てくる雛田の情報に思い当たる節がありすぎて、なんか笑えてくる。一年生の頃からそんな感じなのね。


「オレすっごく気になっちゃってさ! 暫く観察してたんだよね」

「こらこら、女の子を観察対象にするんじゃないの」

「大丈夫だよ! 雛田ちゃんにも許可もらってたし!」

「本人にそんな許可もらったのかよ……。よくOKされたな」


流石にカザマも呆れているし、俺も同意だ。


「雛田ちゃんは「何も知らずに観察されるよりは事前に言ってくれた方が安心する」って言ってたよ」


そういうモンか?
俺なら観察されるのって何か嫌だと思うけど。ダーホンの興味は底無しだし。

しかし、そこで雛田に同意したのは小波だった。


「それは何かちょっとわかるかも。黙ったまま観察されるのは怖いし、ストーカーと勘違いしちゃいそう」

「なる。言われてみたら確かにそうだわ」

「だーっ、やっぱり? 雛田ちゃんにも「将来犯罪者にならないようにね」なんて言われたよ」

「そりゃまたズバッと言われたなぁ」

「ふふっ」

「で? 本多は観察した成果はあったのか?」

「んー、残念ながらあんまり」

「え? そうなの?」


ダーホンにしては珍しい。いつだったか、玄関の傘立てに置いてある傘の持ち主が誰なのか、ずっと張り込んで観察していることがあった。そんな好奇心の塊みたいなダーホンが情報を得られないなんてことがあるのか?

三人揃って驚いていると、ダーホンは肘をついて口を尖らせた。


「学校にいる間は観察できたけど、帰り道は逆方向だから今みたいに寄り道できなくてさ。できたら喫茶店でいっぱい質問したのに」

「本多、お前の“いっぱい”はその雛田って奴にはキャパオーバーになるだろうからやめろ」


質問する側がダーホンだとしても、雛田の返答によっては雑学トークへ発展する恐れがある。一年生の時は運良くそれが無かったみたいだが、今後も無いとも限らない。カザマはすかさずダーホンに釘をさした。


「で、オレが調べてわかったのは、雛田ちゃんは何をするにしても物音が立たないように癖がついてることと、団体より一人で行動するのが好きってこと。あと、ノートの取り方が独特ってことくらいかな」

「ノートの取り方?」


物音とか一人行動は見ててわかったけど、ノートは俺も初耳。さすがにノートの中身までは知らない。


「普通はみんな先生が書いたものをそのまま板書してるでしょ? でもね、雛田ちゃんのノートってイラストだらけなんだ」

「イラスト?」

「そそ! ミーくん、この間のテストに猫描いてもらってたでしょ? ああいうのがいっぱい描いてあるの」

「天国じゃん」


なにそのにゃんこパラダイス。見たいんだけど。雛田、隣でそんなの描いてんの?


「それ、授業中に落書きして遊んでるんじゃないのか?」

「そう思うよね? でもね、例えば歴史だと武将のキャラクターと部下のキャラクターで、物語性を持たせて描いてたんだよ。コマの無い歴史漫画みたいな感じ」

「わぁ! すっごく楽しそう! 見てみたいなぁ」

「それがさぁ、オレも歴史の授業で一回だけ偶然見れただけで、雛田ちゃんに「恥ずかしいから見ちゃダメ」って言われちゃったんだ。もっとよく見たかったのに……」

「あらら、残念」

「見せてはくれなかったけど、他のノートも同じみたい。板書するだけだとつまらなくて頭に入ってこないんだって言ってた。独自に編み出した勉強法なんだって。凄いよね!」

「へぇ、そういう勉強のし方もあるのか」


ダーホンの雛田自慢に揃って感心する。

学校の授業なんて余程勉強が好きな奴じゃなきゃ楽しさも見出だせないと思っていたが、雛田の場合はそれを自ら作り出しているのか。クリエイター思考な感じが俺の好奇心も刺激する。

物静かで発言が少ないのにテストはできるし、あのメガネもあって正直ガリ勉なイメージだった。でもそうじゃない。雛田には雛田の良さがあって、それがなかなか表に見えてこないだけ。ミステリアスな彼女の一面をまた一つ知れて、いつもなら半分以上聞き流すダーホンの雑学トークも、今日は充実したものとして聞き入れた。


「わたしも雛田さんとお友達になれるかな? あ、でも一人の方が好きな子なんだっけ……」

「一人が好きでもたまにクラスの女の子たちとは話してたよ。小波ちゃんが友達になったらきっと喜ぶと思う!」

「そう? じゃあ今度話しに行ってみようかな」

「あんまり馴れ馴れしく行くんじゃないぞ。聞いてる限り、おまえとは絶対違うタイプだから」

「もう! さすがに初対面で馴れ馴れしくしないよ!」


どうだか、と笑いながらコーヒーを啜るカザマの腕を小波がポカポカと叩く。膨れっ面の小波だったが、また別の話題を思い付いては俺たちに話を振った。小波のコロコロと表情が変わるところは雛田とは大違いだ。

当たり前なんだけど、同じ女の子でもこんなにも違う。
雛田と小波が友達になったらどんな会話をするんだろう?
雛田、少しは笑ったりするんだろうか?

次の話題を耳に入れながら、俺はここにはいない雛田の見たことの無い表情を思い浮かべていた。