──俺、このにゃんこ、なんか可愛くてスキ

──お前が考えてるほど他人の言動を重く受け止める必要は無い


七ツ森くんと御影先生から貰った言葉が、ずっと頭の中をぐるぐると巡っている。言葉の裏に何が潜んでいるのかと怯える自分と、素直に受け止めて信じたい自分が、格闘しては答えも出ずに毎日が終わっていく。

この時点で既に重く受け止めてしまっているのも、ちゃんと自分でわかっている。普通ならどちらも気楽に「ああ、そうなんだ」で流して良いことなんだろう。それでも私にとって、私に与えられた“言葉”というものは、鉛のようにずっしりと重いものだった。


* * *


カーテンから漏れた光が顔に当たって目が覚める……なんてことはなく、ただ自然と睡眠の波が途切れて目を覚ました。

時刻は五時半。私の朝は早い。部活に入っているわけではないし、眠気も多少ある。でも何故か毎朝同じ時間に目が覚めてしまうのだ。二度寝したところで、眠りに落ちる前に目覚ましが鳴るだろう。眠りを妨げられる方が嫌だ。

遅刻するよりは良いかと起き上がり、寝ぼけ眼でトーストを焼いた。


(……あ、また焦がした)


トースターの二分と三分のちょうど間くらいがベストなのだが、いつも加減を誤ってしまう。酷すぎる焦げだけスプーンで削げ落としてバターを塗った。ちょっと苦いトーストをもそもそと食べながら、インスタントコーヒーを飲む。朝食はこれで充分。いい加減、ちょい焦げトーストを卒業したい。

冷蔵庫から昨夜の残りの肉じゃがを取り出し、小さめのタッパーに詰める。ラップで包んだ残りご飯を二つレンチンして、一個は梅干し、もう一個は塩昆布を入れて、簡単なおにぎりを作った。今日のお弁当はこれで良い。
巾着袋にタッパーを入れ、その上に潰れないようにおにぎりをテンテンと置いて閉じる。トートバッグに入れて鞄の隣に置いておけば忘れることは無い。

歯を磨いて顔を洗い、緩く髪を結んでパパッと身支度を整える。鞄とトートバッグを持って家を出たら、忘れず鍵を閉めて内ポケットへ。お気に入りの猫のキーホルダーの小さな鈴がチリリと鳴った。

学校までは徒歩で約二十分。なかなか良い場所にアパートを借りられたと思う。
こっち方面だと住宅地ばかりでどこにも寄り道できないけれど、無駄遣いしない分お金が貯まるから結果良し。「喫茶店寄って帰ろう」なんて言い合う子たちのことはちょっぴり……いや、理想的な女子高生っぽくて凄く羨ましいけれど、遠回りして帰るのは面倒臭いからこれで良い。


* * *


早めに登校した教室には、まだ誰もいない。まっすぐ一番後ろの窓際へ向かい、自分の席でのんびり寛ぐ。
この時間は意外にも静かで好きだ。もちろん外からは運動部の掛け声が聞こえてくるけれど、耳障りな音ではない。無駄な雑音の無い空間が心地良い。


(…………あ、猫)


ぼーっと外を眺めていると、体育館の屋根の上に猫が二匹、日向ぼっこしているのが見えた。もぞもぞ動く三毛猫と白猫。気が済むまで身体を舐め合って、お互いに寄り添って眠る様子がここからでもわかる。


(よくあんなドーム型の屋根の上でバランス良く眠れるなぁ)


私だったら転げ落ちてると思う。猫って凄い。

なんて思ったところで、この間のテストの落書きを思い出した。寝そべる猫とライオンもどき。あの猫たちはまさにそんな感じだ。必然的に、あのライオンもどきを描いてくれた七ツ森くんが思い浮かぶ。

落書きの件があって以来、七ツ森くんは登校すると私に挨拶してくれるようになった。今までは隣に来ても黙って着席していたのに、どういう風の吹き回しだろう。

最初はただの気紛れだと思って、私も小さく「おはよう」と返していた。今日は単純に機嫌が良かっただけなんだろうって。
でもそれが三日、四日と続くと、こちらから一度も声を掛けていないのが居たたまれなくなってきた。七ツ森くんがどうして挨拶するようになったのかはわからない。でも、挨拶すること自体は悪いことではないし、寧ろ生活指導的な意味でも良い行いだ。彼の中では挨拶週間なんだろうか?

さすがにこのままずっと受け身でいてはダメだ。それだといつまで経っても、私は言われなければ何もできないダメな人間になってしまう。トラウマだらけの過去の自分に負けるなんて、絶対に嫌だ。

挨拶してもらったら挨拶を返す。それはできる。なのに、どうして私から「おはよう」の一つすら先に言えないのだろう。七ツ森くんが教室に入ってくるタイミングは私の席から見えるから、先に挨拶できるハズなのに。


(…………あれ? はば学で私から誰かに挨拶したことあったっけ?)


そこまで考えた時、私はもう暫く自分から挨拶していないことに気付いた。

いつから? 子供の頃は私から挨拶することだってあった。子供らしく、元気よく「おはよう!」って、何も考えずに挨拶していた。

ただ挨拶の言葉を言うだけ。それだけなのに、なんで今の私はこんなにも緊張しているんだろう。
なんで……。


(…………ああ、そうだ。挨拶しても無視されるようになったから、喋るのをやめたんだった)



* * *



何がきっかけだったかは、もう覚えていない。小学校中学年の頃からだったと思う。気付いたら悪口陰口、靴に画ビョウ、ノートは切り破って捨てられ、給食は一皿足りないのが当たり前になっていた。「おはよう」って言っても聞こえないふりをされ、「気持ち悪い」「声聞いてゾワゾワした」と、わざと私に聞こえるような陰口を言われてから、挨拶するのが怖くなってやめた。

きっと私が何か気に障るようなことをしてしまったんだろう。そう思って、当時一緒にいる時間が一番多い親友だと思っていた女の子に相談したら、クラスの女子だけ全員参加の話し合いの場が設けられた。

女子会なんて生易しいものではない。そこで言われたのは、言葉だけは優しいものをかき集めた私への文句だった。

最初に言われたのは、他の子より発達の早かった私の身体つきについて。


「身体のこと自慢してるよね」


特に胸や初潮についてを指摘され、自分でもどうしようもない生理現象を僻まれた。

得意な美術で、初めて絵画の賞をとったこともそうだ。


「絵なんかより他の勉強頑張った方が良いと思う」


なんて、アドバイスでも何でもないことを言われた。通信簿の成績はその子より私の方が良かったのだが、暇さえあれば絵を描く私が気に入らなかったらしい。私にとって絵を描いている時が一番楽しくて、賞をとれて嬉しかったのに、“絵なんか”で片付けられたことがショックだった。

更に、私が靴の画ビョウやノートを破かれたことについて報告した時。


「そういえば、ゆずちゃん気づくのが遅いから“カメ”ってアダ名がついてたんだよね」

「そうそう。あと、太ってきたから男子は“ブタちゃん”とか呼んでたよね」


耳を疑った。悪びれもなく新事実を聞かされて、頭が真っ白になった。“気づくのが遅い”って、つまり彼女たちは気づいていながら止めてくれなかったということだ。

自分の靴を画ビョウだらけにされたり、頑張って勉強したノートを破かれたら、誰だって嫌なものだとわからないのだろうか?
本人の知らないところで変なアダ名をつけるのは普通のこと?
私は嫌だよ。私の感覚がおかしいの?

理解した時、胸の奥が熟れた果物みたいにジクジクしてきて、流石に泣いた。嗚咽はなく、ただただ涙が止まらなかった。だって今聞かされた内容は、全部“私だけが知らなかった”のだ。悪口を言ってない子も、私以上に大人しい子も、親友のあの子も。みんな驚きもせず私を見ていて、誰も私への嫌がらせを悪いことだと咎めることもしない。


「泣かないで」


誰かが言った。そんなこと言われたって、涙は簡単に止められない。もうみんなのどの言葉も凶器にしかならなくて、一瞬にして彼女たちへの信頼は砕け散った。

その後はどうやって解散して帰ったのかも覚えていない。次の日から、挨拶どころか友達だと思っていた子たちの輪に入ることさえもしなくなった。同級生を友達だなんて思えなくなっていた。

あの頃の同級生の日々のストレスの発散の的は、たまたま私という存在で、あれ以来嫌がらせはエスカレートした。
先生の前では普通に仲良しアピールするくせに、いなくなった途端にわざとらしく私から離れていく。


「うへー、臭かった」


なんて男子の一人が吐き出す真似をやり始めると、周りも次々に同じ行動を起こすようになる。しかも、“病原菌が移る”とかいう最低な理由が後付けされた。


「菌をばら蒔いてやる〜」


わざと私に触れては他の子たちと身体をタッチし合ってふざけ合う。やられた私は堪ったものじゃない。私自身は健康体だし、毎日お風呂にだって入っているのに、私そのものが菌の塊だと言われるのだ。それが私が男女問わず接触恐怖症になった原因で、触れられることも、自分から触れることも怖くなった。

抗議したところで私の味方は一人もいないのだと、あの話し合いでわかっている。悪口を言わない大人しい子も、私を庇えば私と同じ目に合うとわかっているから、誰も助けてくれるはずもない。目が合えばすぐにそらされる。言葉はなくても「こっちに来るな」という意味だと悟った。もう誰も信じられなくて、「助けて」なんて言えなかった。

世間ではそういうのを“いじめ”って言うんだろう。でも私は自分がいじめられていると認めたくなくて、あんな子たちに負けたくなくて、学校には毎日通った。よくあの空間で皆勤賞とってたなぁと、自分でも呆れるくらい酷い状況で過ごしていたと思う。

当然、笑って過ごせる日なんか無くなった。日に日に内気になって孤立していく私に、先生は「もっと頑張って自分からコミュニケーションをとりに行きなさい」なんて言ったけれど、あの子たちと仲良くする気はもう起こらない。なんで私を嫌いな人たちと仲良くしなきゃいけないのか、訳がわからなかった。
なのに、先生はHRでも授業でも変に私を名指しするから、余計に悪目立ちする羽目になった。先生に悪気がなかったのは理解している。だけど、みんなからの嫌がらせは悪化するし、まともに人と喋れなくなった。先生という立場上、私を放っておいてはくれなくて、状況は悪くなるだけ。最悪だ。

友達はゼロ。卒業して近くの中学校に入学しても、顔ぶれも中身も小学生と変わらない。他の小学校から来た子まで一緒に嫌がらせするようになるし、気づいた先生の対応も全く一緒。「放っておいてください」と言っても「大丈夫ですよ。卒業するまで頑張ろう」と返される。

勉強は頑張っているし、嫌がらせにも堪えているのに、これ以上何を頑張れと?
あんな子たちとまた友達になれと?
絶対に嫌だ。

本当、中学を卒業するまで散々だった。私が喋ると、近づくと、周りが不快な思いをする。そう思ったら、家族も、面識の無い赤の他人も、全てが怖くなった。


* * *


(そんなこともあったなぁ……)


時計を見れば、そろそろ七ツ森くんが来る時間だ。
考え事をしている間に、いつの間にか他のクラスメートもちらほらと登校していたらしい。

はばたき学園は名門の私立校。頭もそれなりに良いから受験で苦労した。私を知らない人たちが大勢いる中でなら、これ以上恐怖症を悪化させずに済む。社会人になるまでには、人並みに人付き合いできるようにならなければ。そう考えて、なるべくあの子たちが選べない学校を探し、はば学を受験した。そのお陰で私はあの頃の同級生の殆どと縁が切れた。数人だけ同じように外部入学しているけれど、傍観者だった男子だし、二年生になるまで運良く同じクラスにはなっていない。

因みに、昨年は他人と同じ空間で落ち着いて過ごせるようになることが目標だった。欲を言えば友達を作りたかったけれど、そう簡単に他人への恐怖は薄れない。頭が痛くなって、休み時間に廊下やトイレで休むなんてこともしていた。

私の前の席だった本多くんだけは、何故か私に興味を持ったらしい。


「ねね! きみの静かな行動の仕方、観察しても良い?」


なんて言われたのは想定外だった。どうやら私が物音を立てずに席を立つのが、彼の好奇心をつついてしまったようだ。
本多くんが天然に好奇心旺盛な人だというのはすぐにわかったし、嫌がらせをするような人にも思えない。


「良いけど……。将来犯罪者にならないようにね」


と、一応それだけ言っておいた。観察対象の私は普通に過ごしているだけで良かったし、さすがにトイレの中や家まではついて来なくてほっとしたのは記憶に新しい。帰り道も逆方向だったし、プライバシーは守ってくれる人で安心した。触れることはなくても、手を伸ばせば触れられる距離に人がいて、頭痛が和らいできたのは本多くんの人柄のお陰かもしれない。

二年生になった今。この調子なら、今年こそはもう少しマシな対人関係を作れるだろうか?

扉の方を見ると数人のグループが和気藹々と話していて、ちょうど登校してきた子とも挨拶を交わしている。気兼ねなく「おはよう」と言い合える彼、彼女たちが羨ましい。みんなができる当たり前のことを、私もできるようになりたい。

今のところ私が挨拶できるのは、七ツ森くんから「おはよう」と言われた時だけ。初めこそ背の高い七ツ森くんにビクビクしていた私だけれど、一週間二週間と過ごしていくと少しずつ慣れてきた……、と思う。


(克復、したいな……)


そんな気持ちはあるのに、現実ではウジウジと惨めな自分が口を噤む。普通に会話できるレベルにはなりたいと思っている。トラウマのせいにはしたくないのに、怖くなって縮こまってしまう自分が情けない。

でも、七ツ森くんはあの頃の私を知らない人だ。この教室にいるみんなも、私に嫌がらせをしていたあの子たちとは違う。まずは一人。七ツ森くんになら、自分から挨拶できるんじゃないか? だって、落とし物を拾った時は私から声を掛けることができたんだから。


(実験台みたいにして申し訳ないけど、今日は自主的に挨拶を……っ)


覚悟を決めて机の下で拳を握るのと、七ツ森くんが教室に入ってくるのはほぼ同時だった。

後ろの扉から、一直線に私の隣へ。足の長い彼は数歩で到着してしまう。いつもは私が少し顔を上げたタイミングで七ツ森くんが先に挨拶をするけれど、今日は私から言うんだ。

カタ、と鞄を机に置く音が聞こえて顔を向ける。口を開けて、喉に全神経を集中させた。


「ぉ……、お、はよぅ……」

「……! おはよ、雛田」


とても小さな声だけれど、言えた。
七ツ森くんに一瞬驚いたような間ができて、でも昨日までと同じように挨拶してくれた。心なしかいつもより穏やかな声音に聞こえた気がする。


(……っ、良かった。できた)


ほぅっと大きく息を吐く。握り締めた手は冷たくて、ドッドッと速い鼓動が耳の奥から聞こえる。
まだまだ気軽にやるには程遠いし視線も合わせられない。でも、私にしては大きな一歩を踏み出せた。


(また明日も頑張ろう)


今日は始まったばかりだというのに、もう私の気持ちは明日の自分を応援していた。



* * *



そんなことがあって更に数日。私は挨拶に加えて少しずつ顔を上げられるようになって、七ツ森くんも挨拶以外にちょくちょく話し掛けてくれる。数学の宿題がわからないとか、さっきは天気の話を振られ、大して続かない話題でも気まずくならない会話に、私もちょっとずつ答えられるようになってきた。

話していくと、七ツ森くんの人柄がよくわかる。凄く優しくて温かい人だ。私が言葉に詰まっても、笑わずに私のペースを守って待っていてくれる。安心して会話できるのなんて、家族以外では久しぶりだ。

でも、七ツ森くんは誰にでもそういう態度なわけではない。ここ数日、七ツ森くんが他の人とどんな会話をしているのか、共通の話題があればと思って時々耳を傾けていてわかった。彼もまた、気を張って過ごしている。そしてクラスメートとは深く関係を持とうとしていないように見えたのだ。

昼休みは他のクラスの人と学食に行っているみたいだから知らないけれど、教室にいる時は殆どが受け身の姿勢だ。男子から話題を振られてもそれとなく受け流しているし、女子からはそもそもそんなに話し掛けられていない。


(……というか、私にしか話振ってない?)


自惚れかもしれないけれど、私への話し掛け方と男子から声を掛けられた時では、彼の纏う空気も違う気がする。

男子へのその態度は緊張から来るものなのか、話したくないのか、ほんの少し声が強張っているように聞こえる。
私が女子だから柔らかい声音で話してくれているのだろうか。それとも、この優しさはただの見せ掛けで、本当は私の反応を面白がっているだけ……とか?


(上げて落とすタイプには見えないけど……。でも、見た目で判断したら痛い目見るのは自分だもんな。いや、疑うのは良くない)


何でも疑ってかかるのは私の悪い癖だ。疑うことを知らなかったせいで信頼していた全員から嫌がらせされ、それがトラウマになって今の自分の悪癖になっている。直さなければいけないのに、勝手に信じて裏切られるのが怖い。

七ツ森くんの意図がわからない。仲良くするのに理由は必要なくとも、臆病者の私はどうしても疑ってしまう。もちろん私は仲良くしたいけれど、笑顔も見せない私と一緒にいたって、面白くも何ともないだろうに。

せめて、私との会話が七ツ森くんにとってどういうものなのか、何か理由があるのかを知りたくなった。



* * *



「……七ツ森くんてちゃんと喋る人なんだね」


雨の日の昼休み。たまたま教室でご飯を食べていたら、購買でパンを買ってきた七ツ森くんが戻って来たから聞いてみた。「そうだっけ?」と聞き返す彼に惚けている様子はない。


「七ツ森くん、誰かに話し掛けられたら普通に応えてるけど、言葉のキャッチボールは殆どしてないでしょ」

「…………」

「今も自分から向こうの男子のグループに混ざりに行く気は無いみたいだし。喋るの苦手な人なんだと勝手に思ってたけど、私にはよく話し掛けてくれるし。話題があれば自分から喋る人なんだなぁって思った」


七ツ森くんは最初はどういう意味かと首を捻っていた。でも、私がその結論に至った理由を言うと、数秒固まった後に片手で顔を押さえた。耳が赤い。
ぎゅっと握られたあんパンから、あんこがはみ出て溢れそうだ。


「完っ全に無意識デシタ……」

「そうなの?」

「ウン……」

「ふぅん」


そうか、無意識だったのか。
嘘を吐いているようには見えないし、たぶんそれは本当のことなんだと思う。

無意識に、私と話してくれていた。その事実がわかっただけで充分。安心した。
胸の蟠りが小さくなった感じがして、残りのお弁当のおかずを口に入れる。同じものを食べているのに、さっきまでより美味しい気がした。気持ちって不思議。


「……なあ」

「ん?」

「イヤだった? 話し掛けられるの」


そう聞かれるとは思わず、パチパチと瞬きをする。七ツ森くんは斜め下を向いていて、身体は大きいのになんだか小さくなったように見える。しゅん……、なんて効果音が聞こえそうだ。

何故そんなことを? と、自分の言動を思い返し、言葉の選択を誤った気がして後悔した。


(嫌味っぽく聞こえちゃったかな……)


「最近よく喋る」を「お喋り過ぎる」とか「煩わしい」と捉えられてしまったのかもしれない。もし私だったら裏を読んでそう思う。

もしかすると七ツ森くんも、私ほどではなくても、他人の言葉を慎重に受け止めてしまう人なのかも。だとしたら、今の彼の気持ちはよくわかる。言葉で伝えるのは難しいと改めて実感した。


「そうは言ってない。ただ、私が社交性無いから、もし気遣わせてるなら申し訳ないなって思っただけ」


七ツ森くんが善意から私に話し掛けてくれているのなら、面白いことの一つも言えない私なんてただの面倒臭い奴だろう。そもそも、嫌だったならあんなに勇気を出して挨拶していない。

私みたいなタイプの人間は、その言葉に裏がないことを知れば安心する。それでも勘繰ってしまうこともあるが、それは相手の為人がわからない場合や、いかにも怪しい言動の時だ。

もし七ツ森くんが同じタイプなら、彼の目に私がどう映っているのかによって、今後の態度が変わるだろう。変わらず雑談してくれるか、一言も話さないただのクラスメートに成り下がる。そうなるのは怖いけれど、私は彼に不安を与えたままでいたくはない。

自分が今思っている正直な気持ちを吐露すると、彼は首を振って否定した。


「それは無い。俺は雛田と話すの、なんか落ち着くから良いなって思ってるし」

(……落ち着くんだ。そっか……)


真剣に言う彼の言葉を聞いてほっとした。嫌な人間相手なら嘘でも“落ち着く”なんて言葉は出てこないだろう。嘘だったら相当自分を隠すことが上手い悪役者だ。


「……そう。私も、私から話題提供できること少ないから有り難い、とは、思ってる……」


言いながら、なんだか恥ずかしくなってきて顔が熱くなった。

なんでこんな気持ちを晒け出しているんだろう?
たった数週間、土日を除いても十日そこらしか会ってない人なのに信用し過ぎじゃないか?


(こんなこと今まで無かった……)


信じたいと思っても、心から信じられる人なんていなかった。中には信じるに値する人だっていた筈なのに、私は信じられなかった。疑いまくった。他人からの私への評価は落ちる一方だっただろうし、今みたいに気持ちを口に出すこともできなかった。

でも今。私は確かに七ツ森くんを信用していて、彼からの評価を落としたくないと思っている。

“気の合うクラスメート”の一人として、彼の心の片隅にいられたら良いな。なんて、烏滸がましい願いは胸の奥に閉じ込める。それを決めるのは七ツ森くん本人なのだから、私が口にして良いものではない。


「そっか。これからも話し掛けて良い?」

「……七ツ森くんが楽しいなら」

「ん。あんたと話すの楽しい。サンキュ」

(ほ、ほんとに楽しい……の?)


自分で聞いておいて驚いた。
七ツ森くん、たったあれだけの会話で楽しさ見出だしてたの?

“楽しい”ってどんな感情だったっけ?
例えば私が絵を描いたりビーズアクセを作っている時みたいな、あんな感じだろうか?

没頭して、ついつい夢中になって、終わらなければいけない時間になると、ちょっぴり残念に思う。そんな感じだとしたら、七ツ森くんと話している時の私の感情は……。


「……私も、楽しい。ありがとう」


小声で感謝の言葉を送り合う。

七ツ森くんに話し掛けられるのは、最初は怖かった。だって男の子だし、大きいし、ロボット兵だし、巨○兵だし……。ライオンもどきはちょっと和んだけれど。

でも最近は話し掛けられると少しだけ胸が高鳴って、チャイムに中断させられるとちょっぴり名残惜しく思う。私の中のその感情が“楽しい”ということならば、誰かといて“楽しい”と思えたのも本当に久しぶりだ。まだまだ気兼ねなく話すなんてことはできないけれど、彼と一緒に話す時間は嫌いじゃない。


(七ツ森くんとは、いつか、ちゃんと目を見ながら話せるようになりたい)


恐怖症になって、男の子に対してそんなことを思えたのは初めてだ。数日話しただけなのに、絆されてきている自分がいる。友達以上の存在にはなれなくても、楽しかった思い出の一つとして記憶に残しておきたいな……、なんて。こんな単純な自分に呆れながらも、隣で微笑んでいる彼を見ると、今感じた思いを手放すことは出来なかった。