休みボケの頭に容赦なく難しい知識が詰め込まれていく。
いや、殆んど詰まらず溢れている。GWが明けて麻痺した時間感覚が、今の時間はお昼寝だと訴えてくる。先生の話を覚えていられない。落ちた視線の先、随分前から癖になったイラストだらけのノートには、まったく可愛くないミミズのような線が数本。
(これは復習必須だな……)
自分の我が儘で私立校に通わせてもらい、一人暮らしまで許してもらえている身としては、成績を落とすわけにはいかない。何より私のプライドが許さなかった。
* * *
そんなこんなで時々頭を振りながら、なんとか帰りのHRまでこぎ着けた。
「そんじゃ、帰る前にGWのお土産を配るぞ! 男子はこっち。女子はこっちな」
先生が教卓で二つの箱のラッピングをビリビリと破る。ボーッと眺めながら、よくあんなに綺麗な包装紙を破れるなぁと、ちょっと勿体無く思った。
私だったら綺麗に畳んでとっておいてしまうのに。まぁ結局使わないんだけど。
「えー、男女別なんスかぁ?」
「人数合わせのために致し方なくだ。女子のは冷やしといたから、早めに食べた方が良いぞ」
「わーっ、先生やっさしー!」
「うわ、野郎との対応の差が……」
「そうか、男子はいらないか。なら全部女子に配る」
「いるいる! いります!! 嬉しいなぁ!!」
先生と男子のやりとりに、あははと盛り上がるクラスメートたち。今日もみんな楽しそうでなにより。こういう和気藹々とした空気は好きだ。
お土産は廊下側の前から順番に配られてくるため、私は必然的に一番最後に受け取ることになる。前の子から渡された箱の中に、ポツンと一つだけ残ったソレ。空き箱を回収しに来た先生には「ありがとうございます」と、動揺を顔に出さないようにお礼を言った。
「じゃ、今日のHRは終了! 気をつけて帰れよ!」
空き箱を小脇に抱え、先生は清々しい顔で出ていく。それと同時にお土産を鞄に仕舞ったクラスメートたちも、部活に行くだの他のクラスに行くだのと賑やかに立ち上がった。
一部の女子は食べてから帰るらしい。早めに食べろという先生の言葉通り、彼女たちは美味しい美味しいとお土産を頬張る。そんな中、私はどうしたもんかと頬杖をついて悩みの種とにらめっこした。
「雛田?」
「ん、なに?」
「めっちゃ眉間にシワ寄せてんじゃん。どした?」
じーっとソレを眺めていたからだろう、隣から七ツ森くんに声をかけられた。彼は鞄を机に置いて教材を仕舞っているところだった。机の上には先生からの男子へのお土産が置いてある。
彼も食べてから帰るつもりだったのだろうか。潰さないように最後に仕舞おうとしていたのかも。それならばと、自分の机に置いてあるソレを手に持つ。
「七ツ森くん、チーズタルト食べられる人?」
「まぁ食べられるけど」
「じゃあ、あげるから食べてくれる?」
「えっ?」
スッと七ツ森くんの方にチーズタルトの包みを差し出す。反射で彼が受け取ってくれたので、私も漸く横にかけてある鞄を膝に置いて教材を仕舞い始めた。
「良いの? 雛田ってチーズタルト嫌い?」
「うん……。私、チーズがどうしてもダメで……。先生には悪いんだけど、持って帰っても美味しく食べてあげられないから。七ツ森くんが食べてくれるなら貰ってほしい」
物心ついた頃にはもうチーズが嫌いで、それなのに私はよくチーズ味のお菓子を貰っていた。家族は知っているから、私の分は別の味をくれる。でも、それを知らない人からは、甘いお菓子の次に何故かチーズ味のものを貰うのだ。
ご近所のおばさんはチーズ味のスナック菓子だったし、習い事の先生は休憩時間にチーズケーキをお皿で出してくれた。その場で食べなきゃいけなかったから、あまり噛まずに飲み下した。後味をブラックコーヒーで誤魔化そうとしたら、口の中で余計にチーズの味が濃くなったのを覚えている。
「チーズは苦手です」と言えば良かったのだろう。でも、私が幼稚園の頃に正直にそう言った時、「ご厚意を無下にするな」と両親に怒られた。好き嫌いがあるのは仕方ないにしても、相手はそれを知らないのだから自分の好みを押し付けてはいけないと。そう教育されてきた私は、今でも断ることができずに受け取っている。
今なら厚意の意味もわかるけれど、でも貰っておいて誰にも食べられずに捨ててしまうのもどうなんだろうと思う。厚意を受け取ったら返すのが礼儀。この場合は食べるのが礼儀なのだろうが、嫌いな味だとわかっているものは食べたくないのが本音だ。「美味しかったです」なんて、どこが美味しいのかもわからないのだから感想なんか言えない。
だったら美味しく食べられる人に食べてもらおう。そう思って、七ツ森くんに聞いたのだ。
(いらないって言われたらどうしようかな……。頑張って何かで味を誤魔化して食べようかな)
ぼんやりと考えていた時、右側からカサッという音がして視界の片隅に小さな包みが映った。やっぱりいらなかったかなと思って見れば、それは私が渡したのとは違うパッケージだった。
「じゃあさ、俺のと交換しよ」
七ツ森くんの持っているそれは、個包装されたアラレ煎餅。男子用に配られていたものだ。中身は小さいエビ煎や醤油煎餅、揚げ煎などなど種類は豊富に入っているようだ。
しかし、これはぶっちゃけお土産じゃなくてもその辺のスーパーで買えそうだ。あの男子が言っていた通り、だいぶ女子贔屓なお土産だったらしい。というのはとりあえず黙っておいた。
「煎餅ならいける? 煎餅もイヤ?」
「お煎餅は好きだけど……、良いの?」
「モチロン。俺はチーズタルトとか甘いものの方がスキだし、これならあんたも美味しく食べられるでしょ」
はい、と伸ばされた手から両手でそれを受け取る。
交換じゃなくても良かったのにとか、どっちも七ツ森くんが食べて良いよとか、他にも色々考えていた言い訳は飲み込んだ。だって、これは七ツ森くんからのご厚意であって、拒否する理由も無い。彼の言う通り、これなら私も先生のお土産を美味しく戴けるのだから。
「……じゃあ、貰います。ありがとう」
「どーいたしまして。雛田ももう帰るんだろ? 校門まで一緒に行こ」
「……!」
初めて七ツ森くんから下校に誘われた。途端に心臓の音が速まる。
帰り道が逆方向だから「校門まで」と言ってくれたのだろうが、数分しか歩かないけれど良いのだろうか?
少し前の私なら、裏があるんじゃないかと怖くて疑っていた。でも単純なことに、今の私は恐怖ではなく喜びを感じている。誰かと一緒に下校なんて何年ぶりだろう?
せっかくのお誘いだし、七ツ森くんなら変なことはしてこない……ハズ。完全に信じきれてはいないけれど、あんまり臆病になっていても彼の気を悪くさせてしまうだけだ。それこそ、ご厚意を無碍にしては罰が当たる。
頷いて帰り仕度を済ませ、七ツ森くんと一緒に教室を出た。
* * *
七ツ森くんと並んで廊下を歩く。真横に並ぶのはまだ少し怖いから、違和感の無いくらいに半人分くらいの間隔を空けている。こうして並ぶと本当に背が高いなぁと実感した。
クラスメートになって一ヶ月と少し経った今では、彼が隣の席に座ることへの恐怖はほぼなくなってきた。よく話しかけてくれるし、私も応えられるようになったのが理由だろう。
たった一ヶ月で自分でも驚くほど変化している。周りからすれば、何てことないちっぽけなことだと笑われるかもしれない。でも、当たり前を当たり前としてできない私からすれば、この変化は本当に凄いことだった。
「お土産、好きな方選べって言ってくれたら良かったのにな」
「ほんと。なんで女子はチーズ好きって思われてるのか意味不明。チーズ嫌いの私は女子じゃないって言われてるみたいでイヤ」
「あー、確かになんでだろ? 性別で偏見持たれて嫌になる感覚は俺にもちょっとわかるかも」
「……七ツ森くんにもあるの? そういうの」
「まぁね」
男の子でも偏見持たれることってあるのか。いや、こういうのは性別とか関係なしにあるのだろう。
自分は好きでも相手は嫌い。その逆も然り。人それぞれ感覚が違うのは当然のことなのだから、相手をよく知るのは大事なことだ。
とはいえ、七ツ森くんの偏見とやらは、苦笑して斜め下を見ている様子からして、話したくはなさそうだ。たぶんそこは触れられたくないのだろう。話題にされたくないことなら無理に聞く必要はない。
「お互い苦労しますな」
「そうですなぁ」
「プッ!」
語尾を真似てみたら、七ツ森くんはプハッと吹き出してケラケラと笑った。顔を背けて、大きな肩が小刻みに震えている。
(こんな笑い方もするんだ……)
なんて、大人っぽい七ツ森くんの年相応な一面が見えて驚くと同時に何故か安心した。本当に同い年なんだと、身長も雰囲気も大人びてるから余計にそう思った。
それはさておき、どこでそんなにツボに入ったのだろう?
「そんなおかしいこと言った?」
「ははっ。いや、あんたもそういうノリするんだなって思って。いつも真面目な返ししかしないじゃん」
「まぁ……。なんとなく乗ってみた」
乗った……というか、家族とはこんな感じで、私の素の喋り方なのだが。
……あれ?
(なんで素が出たんだろう?)
七ツ森くんは家族でもない、ただのクラスメートなのに。
いや、“ただの”と言うのは少し違う気がする。だって、他のクラスメートと七ツ森くんとでは、明らかに喋る頻度も空気感も違う気がするのだ。
何故?
浮かんだ疑問に首を捻ったが、とりあえず今は頭の隅っこに追いやった。答えは半分くらいわかっているが、私だけがそう思っている可能性もある。その答えを口に出すのは少しだけ怖い気がした。
「そんなノリできるなら、もっと社交的になれるんじゃない?」
「他の子と話せるほど話題が無いから……。今は必要最低限の人と話せたら十分」
「じゃあ、俺はその“必要最低限”に入れてくれてるわけだ?」
「…………」
「……ごめん、調子乗った」
「ぇあっ、いや、謝んなくても。即答できなくてごめん。誰がとかまで考えたこと無かったから……」
黙ってしまったせいで、七ツ森くんが気まずそうに視線をそらす。眼鏡の奥のペリドットが曇ってしまった気がして焦った。謝るのは私の方だ。
「ちょっと待って、考える」
「え、今?」
立ち止まり、はば学で関わってきた人たちを思い返す。
(一年生の時は……本多くん)
彼と話すことが多かったと思う。でも、ほぼ聞き手に回っていたから、相槌を打つ程度のことしかしていない。一度質問された時に短く返答したら、それが五十倍くらいになって返ってきたのだ。真面目に聞いていたら頭がパンクしそうになったから、あれ以来難し過ぎるところは聞き流している。本多くん、ごめんなさい。私にはレベルが高いです。
(あとは、御影先生)
私に限らず、生徒のことを一番気に掛けてくれている先生だと思う。目上の人に対してあんまり軽いノリで話すのも気が引けて、軽口は叩けない。でも、週に一度は話しているから、私のコミュニケーションのリハビリという意味でも必要最低限のお喋り相手だ。
(今は……七ツ森くんが一番多いかも……)
彼の場合は、挨拶とちょっとした雑談。真面目に受け取らなくても良い会話が多くて話しやすい。聞き手に回ることもあれば、今では時々私から話し掛けたりもできるようになってきている。私が受け答えできる間を読んでいるのかというくらい落ち着いて会話できるから、彼との雑談は日常の楽しみの一つになっていた。
男性恐怖症なのに男性ばかりが頭に浮かんできて、なんか変な感じだ。女の子ならこんなに悶々と考えなくても話せるのだから、結局のところ男性には恐怖と疑いを持っていることに変わりはないのだけれど。触れることはできなくても、本多くん、御影先生、七ツ森くん相手なら少しずつ警戒が薄れてきているのがわかる。
「……うん、そうだね。七ツ森くんは“必要最低限”の内の一人」
「……! そっか」
「だから調子乗って良いよ? ちょっとだけ」
「ブフッ、“ちょっとだけ”ね。りょーかい」
七ツ森くんはまたクツクツと笑う。私と会話して笑ってくれるなんて、ちょっと感動した。
そんなことを話している間に昇降口まで辿り着き、お互いに靴を履き替えて校門まで向かう。この先は逆方向だから一緒には帰れない。
不思議だ。初めてこの門を潜って会った時は、落とし物を渡して早く帰ろうと必死になっていたのに。今では一緒に話すのが楽しくて、もう帰らなければいけないのかと残念に思っている。
(この感覚も、久しぶり……)
嘗て楽しく過ごしていた小学校時代。友達と夕暮れ時まで遊んで、町のチャイムが鳴ると名残惜しく思いながら手を振って帰った。あの時の感覚と同じだと気付き、また訪れてきた自分の変化に嬉しくなった。
「七ツ森くん」
「ん?」
「今日もありがと。また明日ね」
「……! はい、また明日」
バイバイと手を振り合って背を向ける。この道を一人で帰るのはいつもと同じなのに、何故か今日はちょっとだけ寂しい。それだけ私もさっきの会話が楽しかったということなのだろう。
七ツ森くんが何を思って話し掛けてくれているのかは、今でもわからない。“ただのクラスメートの一人”というポジションなのかもしれない。
でも、私にとって七ツ森くんへのこの感覚は、その他大勢のクラスメートとは違う。
(七ツ森くんは……“友達”、なのかな?)
立ち止まり、今歩いてきた道を振り返る。あの大きな背中はもう見えなくて、やっぱりちょっと寂しい。
誰かに「七ツ森くんは友達ですか?」と聞かれたら「友達です」と答えられるだろうか?
私のことだから、恥ずかしくて即答はできないかもしれない。でも、恥ずかしくてもちゃんと「大事な友達です」と言いたい。そう言える関係でありたいと思う自分がいて、胸の奥が暖かくなる感じがした。
(また明日。今度は私も、もう少し軽く話せると良いなぁ)