きっかけは随分と些細なことだったと思う。
必修と必修の間にぽっかりと空いたコマを埋めるために適当に選んだ授業。受講者が少ないからか、はたまた懐古趣味の教授が気に入っていたのか、旧校舎の埃っぽくて狭い教室で仕方なく座った席が、君のとなりだったから。
うっすらと薫る煙草の匂いと、それをかき消すように重ねられた甘い香水の匂い。
本当は、つまらなさそうにスマホをスクロールしながら頬杖をついていた君のとなりに座るのが初めは苦手だった。だって怖かったから、自分を痛めつけるようにたくさん開けられたピアスとか、陽に透けると綺麗に輝くことに気づく前の派手な髪色とか。
明確に私が君を意識するようになったあの日を、忘れることが出来ない。
多分、ずっと、脳裏に焼き付いて離れないのだと思う。私が死ぬまで。
その日は朝から体調が悪くて、大学に行くこと自体をやめようかと思っていた。だけれど、必修の授業で早いうちから欠席を使うことにリスキーさを感じたし、そもそも私はサボるという行為が大の苦手だった。要領が悪いというのか、そもそも人に弱みを見せられないので友達を頼ることもできず、全てを自分で処理しないと不安になってしまう。
気持ち悪さをこらえながらどうにか必修の授業をやり過ごし、出席も取らないいわゆる楽単の講義は本来サボってしまうべきなのだと思ってはいたものの、午後の授業も必修だし、結局残るならひとつもふたつも変わらないだろうと理由付けして旧校舎の指定席へと向かう。
いつもは私の方が先に座っていた最後列には、先客の姿があった。ちょうど傾きかけた陽の光が当たってきらきらと光る金色が眩しくて、思わず目を細めると私が来たことに気づいた君は席を詰める。
変わらず体調は最悪で、いつもは隣に座るのが少し怖くて居心地が悪かったけど、そんなことを考える余力がなかった。霞む視界にふと何かが入り込んできたことでようやく何が起こっているのか把握した。
目の前に差し出されたのはミネラルウォーターのボトルで、横を向けばこちらを覗き込む君。
「体調悪そうだけど、大丈夫?」
あ、これはまだ蓋開けてないからよかったら。と言って半ば押し付けるようにペットボトルを渡すと、居心地悪そうにスマホへと視線を落とす。「ありがとう」と咄嗟にいえばどういたしまして、と小さく返ってきた。
気づいたら目で追うようになっていた。
何回か授業を重ねるうちに言葉を交わす仲になって、冗談を言い合えるようになって。隣にいるのが楽しくなった。
彼もまた次の授業との繋ぎのサボり場所としてこの授業を使っていると聞いた。自習スペースや図書館よりも余程人が少なく、さらに単位もついてくる。サボるには好都合なのだと、悪戯そうに笑う姿が印象的だった。
今日は君が来ているかもしれないから、と退屈な授業に毎回出席していたなんて知れたら、どんな風に思われただろう。
ほんとはね、少しだけ、ほんの少しだけ、もしかしたら君も私と同じ気持ちでいたりしたんじゃないかなって思っていたの。ばかみたいでしょう?
でも、やっぱり私じゃなかったね。君の世界を変えられるのは、私じゃなかった。
棘が刺さったみたいにずっと忘れられないままで、それでも新しいきっかけを作らずに逃げていた自分にバチが当たったのだと思った。何度も綺麗な思い出に昇華しようとして失敗した私のどろどろとした片思いは、驚くほど呆気なく煮詰まって蒸発した。
「久しぶりだね」
言葉通り、久しぶりに顔を合わせた君の姿は1年以上会わないうちにびっくりするくらいに変わってしまったように感じる。
たくさん開いていたピアスのほとんどが塞がれて、遠くからでもよく目立ったあの髪色は暗めの茶色に。
私の知っていた面影はすっかりなくなって、君が目の前で柔らかく笑うから、誰なのかわからなかったよ。なんて、嘘だけど。
だって、私の鼓膜をふるわせるその声が、あの日と変わらないから。
「あー、実は俺、転科したんだよね」
言葉に関心を寄せるようになったこと、付き合っている彼女がきっかけをくれたこと、大学院に進もうと思っていること。照れくさそうにその経緯を話す君のすがたが、あの日私の隣でつまらなそうに話を聞いていた君とは似ても似つかなくて。
君が女の子の影響を受ける男の子だなんて知りたくなかった。失望した。人を寄せつけないように自分の世界を守るのが君だと思ってた。私だけが君と笑い合えると。そう思っていたかった。
私じゃない女の子の隣で笑うような君なんて見たくなかった。
鼻を掠めた清涼感のある匂いに、思わず顔を顰めた。私の好きだった甘ったるいバニラはそこにはもうなくて。
そんなのは私の知っている君じゃないでしょ、そんな子よりも先にその横顔を見ていたのは私だったはずなのに、どうして私じゃダメなのって、溢れてくる言葉を必死に押しとどめる。
「そんなに思ってもらえて、朝凪くんの彼女がうらやましいなぁ」
「はは、そんなこと言ってくれんの佐伯さんだけだよ」
嘘だ、と思う。朝凪くんの話を聞くだけで、どれだけ彼がその子を大切にしてるか、誰だってわかってしまうから。
でも、久々に授業被るなんて運命的だよな?なんていつかみたいな顔で笑う君を見て泣きそうになる。こんなに脆い繋がりが運命なら、君と彼女の繋がりはきっと言葉にもできないものなんだろうね。
「また、よろしく」
「うん、よろしくね」
さて、来週の授業に出るべきか出ないべきか。必修でもなんでもない授業でよかった、と思ってしまった時点でどうするかは決まっている。
ずっと好きだったよ。多分、まだ好き。