▼ First aid.

「じゃあこれ、みんなの分を集めておいてくれ。放課後までに出してくれたら大丈夫だから、よろしくな如月。」



そう言って、数学教師はノートを集めるようにと私に頼んだ。
なぜ人と関わりを持たない私をチョイスしたのかは解らないが、まあノートを集めるくらいなら別に構わない。
それくらいのことであれば、今までにも何回かこなしたことはあるから…恐らくは平気だろう。

さっさと昼食を食べ終え、目に付く人から数学のノートを集める。
教師は放課後までで良いとは言ったが、部活もあるので放課後にゆっくりノートを集めるのは不可能なことで。
だから、今のこの空いている時間にみんなから集めているのだ。
提出するのは放課後すぐで良いとして、集められるときに集めておいた方が目に見えて効率が良い。

ある程度集め終わったところで購買に行っていたであろう男子生徒が目に付く。
ひとりは…そう、降谷零だ。



「降谷くん。」



申し訳ないことなのだが、彼と親しい間柄の人の名前は覚えられていない。
それほど名前を訊く機会もないので仕方のないことなのかもしれないが、同じクラスなのにと多少の罪悪感はある。

彼に声を掛けたことでもうひとりも気が付いてノートを渡してくれたので、ノートの回収はほぼ終わりだ。
あとは放課後に提出さえしてしまえば、私に任されたものは完全に終わる。

集めたノートは後ろのロッカーの上に置き、5限目の授業の準備に取り掛かる。
アメリカでは既に済まされてた授業内容だが、まあ聞く分には害にもならない。
どうせ別のことを考えているのだから。

5限6限と授業が終わり、部活の道具とクラス分のノートをまとめて持ってから職員室へと向かう。
ノートも量がかさ張ると重みがあるが、これくらいであれば余裕で持てる。



「ありがとう、助かったよ如月。」



愛想の良い笑みを浮かべる数学教師に頭を下げて、私は部活のために道場へとさっさと向かった。







ああ、油断していた。
まさか後輩の弓が下に落ちていたとは思わず、踏んでしまったとき独特の違和感のせいでそれを壊さないようにと体重をかけないようにしたのが間違いだった。

思い切り転けて、足首を捻る。
その弓を置いていた後輩の男子部員はそれを見て慌ててこちらに駆け寄り、泣きそうな表情を浮かべてひたすら私に謝罪の言葉を並べた。
他の部員も心配してくれているらしく、「保健室まで付き添うよ」と申し出てくれたがこれは断らせてもらう。

私はこれでも、弓道部の部長なのだ。
自身の怪我だけで練習を中断させたくはなかったので、副部長に練習メニューを手渡してから保健室へ向かう。
足をすこし捻らせただけだ、すぐに練習も再開出来るだろう。



「あれ?如月さん?」

「…降谷くん。」



保健室に行くと、なぜか降谷くんが保健室の椅子に座っていた。
彼はまだ帰っていなかったのか、とは思ったが、そう言えば確か彼はテニス部に所属していたはず。
それなのにここに居る、ということは、彼もまた、部活で大なり小なり怪我を負ったのかもしれない。

保険医は不在だったので、勝手知ったると言わんばかりに私は湿布とハサミを棚から取り出し、自身の足にあてがう。
思ったよりも捻りは酷かったのか、私の足首は可哀想なほど腫れ上がっていた。



「うわ、痛そう。」



これはまずは冷やすことからするべきなのか、なんて思っていると頭上から「痛そう」という本気の声が。
ここには私と彼しか居ないため、その言葉が誰の口から出て来たか、なんてことはすぐに解った。

痛そう、なんて、痛いに決まっている。
痛くなければここまで腫れ上がらないだろうし、痛みに顔を歪めることだってまずないのだから。

けれど、この足では今日はもう部活どころではないだろう。
部室に戻ったあと今日は早退して、念のために病院にでも行くか。



「俺がやってあげるよ。俺、そういうの得意だからね。」



これでは慣れない人間の応急処置よりも病院での処置に任せた方が得策ではないか、という結論が私の中で出たので湿布とハサミを戻そうとしたのだが。
それは褐色の肌をした男によって遮られてしまった。

なに、と言葉にはせずに彼を見ると、彼はすこし困ったように笑いながら「やってあげるよ」と言う。
そして「そういうの得意だからね」なんて言いながらも負傷部分を見たあと手際よく、湿布をカットしていく。

確かに、彼は手当に慣れていそうだ。
テニス部にマネージャーなんかが居れば手当なんて不必要そうではあるが、彼はそうでもないらしい。
冷やさなければならないことは目に見えているし、慣れている人がやってくれると名乗り出ているのだ、甘えないで悪化させるよりも良いだろう。



「ありがとう、降谷くん。」

「!」



降谷くんは手際よくテキパキと処置を終わらせて、あっという間に私の足はひんやりと冷たさを持ち出した。
まさかここまで手際が良いとは思わず、男にしては器用すぎることに正直驚く。

彼は冷たい目をしているからそれ相応の冷たさを持ち合わせて、それをどこで発揮するのかが気になって興味を持ったけど彼にはちゃんと優しさもあるらしい。
そんな彼にお礼を言わないわけにもいかないので、いつも固めてしまっていた表情を和らげてお礼を告げた。

人前で、家族以外の人間の前で表情を変えたのは…いったい、何年ぶりのことになるのだろう。
些か表情が引き攣っていたような感じがしたが、こればっかりは許してほしい。
これでもがんばった方なのだから。



「…如月さんも、笑うんだ。」

「…降谷くんって、案外おかしな人なのね。私だって人間なんだもの、頻繁ではなくてもそれなりには笑うわ。」



手当が済めばここにはもう用事もない。
さっさと副部長に伝えて早退し、精密検査が行えそうな病院に行かなければ。

足早に保健室から出ようとしたとき、後ろから降谷くんの声が投げ掛けられた。
降谷くんが言ったことは、普段私が陰で言われるようなことに似たもので。
まさか本人に言うとは思わなかったものだから、思わず目を見開いてしまった。

けれどそれもすぐに無表情へと変わり、「私だって人間なんだもの」とすこしだけ冗談ぽく言えば、降谷くんも小さくだけど笑ってくれる。
降谷くんは私のことをああ言うけど、私からしてみたら降谷くんもなかなか普段は笑ったりしていないと思う。

本当に、この人は…。
生き物として、どんどん興味を与えられていったような気がした。


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