嫉妬による怒りに任せてナマエを抱いた憲紀は、自分の部屋に戻り、一人思案していた。

『憲紀さまぁっ』

『あいして、いますっ』

甘ったるい、自分を求めるようなナマエの声と柔らかな肌の感触、鼻腔を擽るような、湯上りの甘やかな匂いを思い出す。

自分の腕の中にいたナマエはどうしようもない程に可愛らしく、手加減できずに強く抱いてしまった。口づけをしても、ナマエが抵抗する様子をみせなかったとはいえ、殆ど無理やりだった。

だが、これもナマエの望んだことであろう。ナマエが加茂家の身代を狙っているのなら、なんとしてでも自分の寵愛が必要になる。

「私がそれをくれてやっただけだ……」

憲紀は自分へ言い聞かせるようにするが、どうにも後味が悪く感じた。ナマエの身の安全を考慮して実家に帰す為ともいえるが、嫉妬に耐えかねて暴挙に出てしまったのも事実。抱くまでは彼女が本当に処女であるかも疑っていたが、いざ蓋を開けてみれば、何も知らない真っ新な体であった。──わかりやすい出血はなかったが、彼女が初めてであることはなんとなくわかった。

暴挙に出たおかげで他の男に穢される前にナマエを手に入れることができたのだが、嫉妬に渦巻く胸の不快感は未だ消えていない。それは恐らく、ナマエの心が純粋に自分へ向いているかわからないからだろう。

『あいして、いますっ』

耳にこびりついたように、ナマエの声が、言葉が、忘れられない。
あのナマエの言葉は本心から出たものなのか。それとも、行為中にそういうことを言えと教育されたのか。
気持ちを伝えられたり、初な反応を見せられたりする度に憲紀の脳裏に不義の噂が過り、ナマエを信じきれない。

憲紀はナマエが何を考えているかはわからないが、ナマエの身を守る為にも高専から追い出すべきであるのは確かだと思った。初任務でナマエが怪我をしたことも考えれば当然だ。

自分が冷たく振る舞うことでナマエが居心地の悪さを感じ、ここにいる意味を見出せなくなればいい。或いは自分の子を懐妊すれば、ナマエは実家に帰らざるを得なくなり、更にはミョウジ家をよく思わない加茂家側の人間も今に掌を返し、ミョウジ家への待遇を改めるであろう。それに懐妊は正式に婚姻を結ぶ理由にもなる。自分を加茂家の嫡男と偽ったように、体裁の為にすぐ様ナマエと婚姻を結ばせ、初夜でできた子と偽るだろう。──かといって、ナマエを妊娠させる為に何度も抱くわけにもいかない。あくまで冷たくして追い出す方が得策であろう。

憲紀は今一度そう結論づけたわけだが、翌日にいざ食堂でナマエを目にすると、息が詰まった。昨晩腕の中に抱いたナマエの美しい肢体や淫らな嬌声を思い出して顔が熱くなる。

憲紀はなんとか気持ちを押し込めて渋面を作り、ナマエのいる席へまっすぐ向かう。

ナマエは真依の隣に座っていて、近づく憲紀を視線で追い、頬を赤らめて惚ける一方で、真依は顔を歪めていった。

真依がにらみを利かせているなか、憲紀は堂々と女子グループのいるテーブルの前で立ち止まり、ナマエを見下ろす。

「何故まだいる?」

「っ……」

高圧的な憲紀の態度にナマエはハッと息を詰めて黙り込んだ。

「は?逆になんでアンタがこっちくんのよ?ナマエを虐めるのも大概にしなさいよ」

真依がナマエを守るように肩を抱き、口ごもるナマエに代わるようにキツい言葉で言い返す。

「これは私とナマエの問題だ。部外者が口を出すものではない」

「あら、私に何度かナマエのことを聞いてきたのはどちらさまでしたっけ?もうアンタたちの関係に踝くらいまで浸かっているのよ?」

「憲紀さまがわたしのこと……?」

憲紀が真依にナマエについて聞いたことを知らないらしく、ナマエは首を傾げる。
その向かいで「踝までなんですね……」と、三輪が真依につっこむが、それを拾う者はいなかった。

「……場所が悪いようだ。ナマエ、ついてきなさい」

憲紀がナマエを気にかけていることをナマエに知られるのは悪いことではないが、ナマエを追い出す為に冷たくしている今、そういう情報はナマエには伏せるべきであろう。
憲紀はあえて真依の言ったことには触れず、踵を返して食堂を出た。その後をナマエが小走りに追う。

話し合いの場を自分の部屋へ場所を移すと、昨夜のことが思い出されるようだった。実際はナマエの部屋でおこなったことであるが、狭い空間で二人になるだけであの時の感覚や感情が憲紀の胸に蘇る。
そんな想いを押し殺して、憲紀はナマエと向き合った。

「ナマエ、許嫁としての自覚があるのなら、今日中にここを出て行け」

「……わ、わたしは……出て行きません!許嫁であるから、憲紀さまの隣にいたいのです!」

「ナマエ、ここにいる者たちは皆それ相応の覚悟をしている。それを理解しているのか?」

「それは西宮さんに教えて頂きました。死なずとも、顔や体の傷は女性にとって致命的なものになります……それによって婚約が破棄されるならば、仕方ありません……ですが、わたしの目的は憲紀さまに愛していただくことです。それだけは譲れません」

光の宿る強い眼差し、力強い語気──ナマエの様子から、意志の固さが伺える。

『愛していただく』──つまり、寵愛を受けることだと憲紀は考えた。とすると、それを叶えてしまえばナマエは高専に留まる必要がなくなるということだ。

「君がどんなに酷い傷を負おうとも、私は婚約を破棄しない。腕が失くなろうと、脚を失おうともな……ここに来なくとも、私は君と婚姻を結ぶつもりだ」

「ほんとう、ですか……?」

「ああ、本当だ。これで帰る気になったか?」

「……いえ、先程申し上げたように、目的は憲紀さまに愛していただくことです」

「……どういう意味だ?」

憲紀はナマエの意図がわからずに混乱した。
ナマエの望む婚姻を口語ではあるが、はっきりと約束した。それでおのずと寵愛が約束されたようなものだ。婚姻以上に何を望むというのか。

「わたしはずっと我慢しておりました。憲紀さまへの気持ちを押し込めて、生きてまいりました……愛されていないのはわかります。わたしを嫌っているという噂は、昨晩のことで真実だとわかりました……毎月送り続けていたお手紙も碌に読まれていないのでしょう。読んでいたら、昨晩のような酷いことは仰らないでしょうから……これから毎日お手紙を書きます。毎日お話をしにまいります。だから……どうか、本当のわたしを見る努力をしてくださいませんか……?わたしはふしだらでも男好きでもありませんっ……憲紀さましかお慕いしておりませんっ……!」

「ちょっ……と待て。私がナマエを嫌っている?手紙とはなんのことだ?」

認識の違う事柄を幾つもあげられ、憲紀は珍しく動揺を隠しきれなかった。
憲紀には確かに酷いことを言った自覚はあるが、ナマエを想うが故の言葉であった為に一切悪気はなかった。それに加茂家次代当主の許嫁であることを自覚せずに他の男と仲睦まじくしていたナマエに非がある。その上、手紙を読んでいないのはナマエの方だ。憲紀は十二歳くらいの頃までは毎月、その後は返事がこないこともあって年に一度に控えてナマエに手紙を送っていた。ナマエから一度も返事はなくとも、気持ちを籠めて書いていた。

「わたしが毎月お送りしておりましたお手紙のことですが……?」

「私は知らないぞ」

「ご存知ない……?やはり、おかしいと思っておりました。憲紀さまから届く手紙は数年に一度で、それもわたしの手紙へのお返事ではなく、季節の話のみ……字も憲紀さまのとは違う気もしておりました。恐らく、体裁として代わりの者がわたしへお返事していたのでしょうね……」

「そういうことだろうな」

ナマエと同様に憲紀にも思い当たる節が幾つかあった。
なんとなくそんな気はしていた。
ミョウジ家に対する冷遇を思えば、手紙が届かないことにも納得がいく。加茂家宛てや高専にいる自分へ宛てたナマエからの手紙もどこかで回収されてしまったのだろう。

「手紙は毎月書いてくれていたのか?」

「はい。憲紀さまを想ってしたためておりました」

「いつからだ?」

「……お会いになる機会が減ってしまってからです」

そうすると、十年以上、百通以上もの手紙を書いていたということになる。

よくもそこまでできたものだと感心する。それ程加茂家に気に入られようと必死なのか、それとも、本当に自分を慕っているのか。本心であるなら、その手紙は一つずつ目を通し、全てに自分の言葉で気持ちを返してやりたい。

憲紀は目の前のナマエを正面から見下ろす。
憲紀を見つめ返すナマエの頬は赤く、瞳は涙に濡れたように光っている。

昨晩の腕の中にいたナマエの顔を思い出す。
甘い声で啼きよがり、自分を見つめ、愛おしげに名前を呼び、愛をしきりに叫んでいた。

あれがナマエの本心であるのだろうか。
手紙についての誤解が解けた今、ナマエの悪い噂も自分たちの婚姻を邪魔しようとするヤツらの仕業であることは容易に想像できる。
それならば本人に聞くのも手であろう。

「ナマエの不義の噂をよく聞く。禪院直哉と仲睦まじく歩いていたとか……」

「それは……」

ナマエは瞳を見開き、憲紀から視線を逸らした。
反応から、噂が真実であったことは明らかである。
憲紀の胸の奥に不快な感情が重く渦巻く。

「……本当なのだな。他にも一緒に出歩く男がいるのだろう。やはり、穢れた女だったようだな。だが男遊びをやめるならば、婚姻は必ず結ぶことを約束する。だから今すぐ高専から出て行きなさい」

「ち、違います!違うのです!わたしの話を聞いてくださいませ!わたしが迷子になっている時に直哉さんに助けられてそのまま禪院家まで送っていただいただけで……!」

「何故迷子になっていた?」

「……それは……その、憲紀さまが祭事の為に帰省すると聞いたので……帰宅なさるところを一目でも見ようと……でも、一人でたどり着くことができなくて……」

ナマエは耳を真っ赤にさせ、段々縮こまっていきしどろもどろに話す。恥ずかしがっている様子だ。

ここまで来ると、疑り深い憲紀もナマエからの好意を素直に受け取ることができた。

「私に会いに来てくれようとしたのか?」

「はい……!あ、せ、正確には遠くからでも一目見たくて……」

わざわざ自分を見るためだけに加茂家まで来ようとしていたということは、ナマエは憲紀が思う以上に自分を好いているようだ。
ということは、不義の噂は根も葉もないもので、直哉についての噂には誤解があったといえる。

「ナマエ、信じてやれなくてすまなかった……」

「いえ!憲紀さまが謝ることではございません……!わたしが至らなかった為です……」

「君の至らないところは迷子になり、禪院直哉に捕まったことと、新田やメカ丸とベタベタしていたことだ。それ以外は私が悪かった。ナマエの気持ちに気がつかなかったことを謝ろう」

「ベタベタ……?しておりました……?」

「していた」

「はい……?」

ナマエは納得できないのか首を傾げるが、憲紀からすると、メカ丸との戯れはともかく、新とのやりとりは明らかにベタベタしていたように思えた。

「私の許嫁としての自覚があるならば、あまり他の男と触れ合うのは好ましくないとわからないのか?」

「申し訳ありません……浅はかなわたしをお許しください……」

ナマエは頭を下げ、体を震わせる。
憲紀としては強く言い過ぎたつもりはない為にナマエが自分を怖がっているような反応は理解できなかった。

「頭を上げていい。求めているのは謝罪ではない。以後振る舞いに気をつければいい」

「ご寛容な御慈悲に感謝致します」

ナマエは再度頭を下げる。

「……」

せっかく互いの誤解が解けた後だというのに、なんとも味気ない事務的なやり取りである。

『憲紀さまぁっ』

『あいして、いますっ』

目の前のナマエがあれ程に乱れ、自分を切なげに呼んでいたことを憲紀は忘れられず、自分を想って好意を示してくれた分、それを返してやりたいと思った。

「ナマエ、私は……」

愛している──とは、口に出すにはあまりにも羞恥の伴う言葉だ。だから、

「──いつも、君を想っている」

と、本心のまま憲紀はナマエへ気持ちを伝えた。

「わ、わたしもです!わたしも憲紀さまを想っております……!」

ナマエは目からぽろぽろと大粒の涙を流し、顔を伏せてしまった。

まさかナマエが泣き出すとは思わず、「これは何の涙なんだ?」と憲紀は焦る。
とりあえず、ナマエを抱きしめて背中を撫でてみた。

「っうぇっく……ぁぁぅ……」

困ったことに、更に嗚咽を漏らしてナマエは泣き続ける。

女の涙は武器とはよく言ったものである。
ナマエが何も言わずとも、泣くだけで憲紀は自分が責められている気になり、何が至らなかったのかと考えさせられてしまう──思い当たる節が幾つかあるが、どれについて泣いているのか判断がつかない。

「すまなかった……」

憲紀は漠然と謝罪の言葉を述べて暫くの間ナマエの頭や背中を撫で続け、ナマエが泣きやんだところで手をとめ、ナマエを見下ろした。

ナマエは瞳を赤く充血させ、頬や鼻の頭にも血の色を浮かべている。容貌が美しいだけに涙に濡れた顔も艶やかだが、憲紀は好きな女性の泣き顔を見たいなどとは思っていなかった。

「大丈夫か?」

「は、はい……取り乱して申し訳ありませんでした……」

まだ少し声が震えている。
ナマエの幼少の頃を思えば、繊細な印象は受けなかったが、もしかしたら傷つきやすい女性なのかもしれない。

いかなる状況であろうと、常に冷静で厳しい決断を躊躇いなくする憲紀であるが、ナマエをこれ以上泣かせたくはなかった。

ナマエが自分を想ってくれているのなら、なおさらナマエを守る為に高専から出て行くように伝えるつもりでいたが、「高専から出ていきなさい」と言えば、また泣かせてしまう気もする。

泣かれるくらいなら、いっそナマエが怪我をしないよう任務を控えさせて欲しいと学長やナマエの担任教師に強く言うしかない。
それならば、ナマエの身の安全が確保され、更に今までナマエと過ごせなかった分の時間を取り戻すことができる。
それに昨晩したことで妊娠がわかれば、ナマエは実家に帰らざるを得なくなる。
つまり、実家に帰るように急いで言う必要はない。暫く様子を見ればいい。

「ナマエ、暫くはここに居てもいいが妊娠がわかれば、実家に帰るといい」

「居てもいいのですか……?ありがとうございます……!憲紀さま、本当にありがとうございます……!憲紀さまのお心の広さに感謝いたします……!」

顔を輝かせ、しきりに感謝の言葉を述べるナマエの様子に、憲紀は自分の言ったことが果たして正しく伝わったのか心配になったが、今は何も言わないでおくことにした。



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