※番外編
禪院真依は憲紀の許嫁であるミョウジナマエとはあまり接点がなかった。
祭事で加茂家とはそれなりの交流があった為にたまにナマエを目にすることはあったが、実際面と向かって話したのは真依が幼少の頃に数度だけだ。同じ年頃だからというだけで顔合わせをさせられ、どこの学校に通ってるのかという、差し障りの会話を少しした程度で、どんな子かまではわからなかった。
噂を聞く限りは、真依の中でナマエは可哀想な子であるという印象があった。
憲紀のような面倒臭い許婿がいて、何度も破談の話が持ち上がったり、祭事や法事への参加に制限を設けられたり、不義の噂を流されたり、何かと冷遇されていて同情や共感するところがあった。
「御三家に関わると碌なことがない。さっさと破談させちゃって、一般人の良い男見つけちゃえばいいのに」なんてナマエに対して真依は考えていた。
真依が高専一学年目の頃のある日、祭事の為に嫌々帰省すると、従兄の直哉に声を掛けられた。
相変わらず派手な金髪は直哉の不誠実さにぴったりで、「チンピラかよ」と心の中で真依は毒づく。
「真依ちゃん、ナマエちゃんって子おるやんか、加茂家となんか縁のある家の。偶然あの子が雨ん中傘もささずに迷子になっとるとこ拾ってな。家に送り届けようとしたんやけど、家の場所知らんし、会話しながら適当に歩いとったら、いつの間にかこっち連れてきてもうたわ。タクシー呼んどいたんやけど、来るまで時間かかんねん。雨やし濡れへんように客間まで連れていったんやけど、怖がって何も話さなくて困っとるんよ。見つめるだけでもこっちは十分楽しめるんやけど、あの子ばっちし化粧しててな、ええ匂いもするし、妙な色気に当てられて変な気起こしそうやねん。流石に十五そこらの娘に手出されへんから真依ちゃん、少し話し相手になってきてくれへん?」
直哉が臆面もなくベラベラと話すのを、真依は青ざめた顔で聞いていた。
真依は直哉が苦手であった。いや、この男が苦手でない人間、特に女性はいないだろう。
それくらい、この男の人格には問題があった。
ただ真依の顔が青ざめているのは、あの可哀想な女の子が直哉とさっきまでいたことに対する心配によるものだ。
ここに送り届けたということは、邪なことはしていないのかもしれないが、直哉の口から「怖がっている」と聞いた。十五歳という歳頃の子に間違った距離感で接したのだろう。
ナマエは無理に肩や腰でも抱かれでもしたり、体のあちこちを触られたりしたのだろうか。
直哉はナマエが憲紀の許嫁ということもわかっているのかわかっていないのか、悪気のなさそうな軽薄な笑みを口元に浮かべている。いや、ナマエが誰の女であろうが、直哉にとってそれは関係ないのかもしれない。美人と話せてラッキーくらいにしか思っていないのだろう。
直哉は一応禪院家次代当主の候補であり、本人もそれを自覚した行動をすることはあるが、普段の直哉の言動からその可能性は十分にあり得た。
真依は青ざめた顔で頷いて、客間にいるというナマエの様子を見に行った。
「ナマエ?」
「あ、真依さん……お久しぶりでございます。お邪魔させていただいております」
ナマエはテーブルの前の座布団に姿勢よく座っていて、突然客間の戸を開けた真依を見てビクリと肩を揺らした。雨に濡れたのか、顔を片側に傾けて、長い髪をタオルで挟み、水気をとっているところであったようだが、真依を見るなり、タオルを畳んで頭を下げた。
直哉の言う通り、ナマエは化粧をしているようで、十五歳にしては大分大人びて見える。ただ不安気な表情や、自分が入ってきた時の驚きようをみるに、歳相応に直哉を怖がっていたのだろう。
「大丈夫?」
「はい……大丈夫です……真依さんのお顔を見たら、ほっとしました……あ、いえ、直哉さんのことを悪く言っているわけではなくて……」
安堵の笑顔を見せたかと思えば、急に焦って否定し始めた。礼儀を欠いていると思い直したのだろうか。
真依は別に気にしなかった。それどころか歳下の子から「ほっとしました」と好意を示され、何か庇護欲のようなものがそそられた。
「なんだ。思った通り良い子そうじゃない」と、真依は思った。
御三家に不信感を持つ真依は、ナマエの悪い噂はどうせ嘘だろうと最初から信じていなかったのもあり、ナマエのことをすんなりと受け入れられた。
「大丈夫よ。私もあの人苦手だし……ねえ、変なことされてない?」
真依はそっとナマエの隣に座り、距離を詰めて声をかける。
「……えっと、わたしはあんまり男の人を怖いと思ったことがなくて、なので、大丈夫でした……」
「全然大丈夫そうじゃないんだけど」
「……その、はしたないことを申し上げるようですが、男の人を苦手と思ったことはありませんし、歳が離れる程異性として見ることができません……でも、あんなに男の人に触れられたのは初めてなのも事実でして……」
「どこを触られたの?まさか胸とかお尻とか?」
「い、いえ。肩とか腰とか……脇とか……」
「脇は殆ど胸と一緒よ!あの野郎っ」
突然口の悪くなる真依にナマエは目を見開き、顔を青くする。
「あの、わたしは大丈夫です。一つの傘を共有していたので、触られたというのは自意識過剰かもしれません。わたしの勘違いってこともあります。直哉さんのおかげで家に帰ることができますし」
「いや、間違いなく下心で触られてるわよ?」
「……どうしましょう」
ナマエは耳を赤くして両手で胸元を覆った。やはり、ベタベタと触られていたのだろう。
真依はナマエの、他人からの下心丸見えの好意を怖がりながらも前向きに捉えようとしていたところを危うく感じた。
恐らくずっと女学校に通い、許婿がいる為に碌な男性経験がないのだろう。
そんなナマエを見ていると、歳上として色々教えてあげたくなってしまう。──自分も言うほど恋愛経験はないが。
「ね、スマホ持ってる?」
「はい。キッズスマホですけど……」
「まぁ、スマホ持ってるだけマシかしら」
「あの、GPSで居場所を見張られている為に今電源を落としているのですが……」
「一体どういうこと?家出でもしたわけ?」
「あっ……これは誰にも言わないと約束いただけますか……?特に高専の方には……」
「ええ。別に言わないわよ。約束するわ」
高専生でナマエと共通の知り合いがいるとすれば、約一名しか知らず、わざわざその人と会話をしようとも思わない為に真依は簡単に約束できた。
「実は──」
ナマエが言うには、毎年行われる祭事の為に憲紀が高専から帰ってくるのではないかと考え、憲紀を一目見ようとこっそり加茂家周辺を彷徨こうとしていたらしい。
ところが一度も車以外の移動手段を使って加茂家に行ったことがない為に、途中で迷子になってしまったという。おまけに雨に降られて困っていたところを直哉に見つかり、あれよあれよと禪院家まで連れてこられたらしい。
そんなことを、照れたように耳を赤くさせ、伏し目がちに言うものだから、真依はナマエのことを可愛らしく思えた。
それと同時に、許嫁がこんなに一途に憲紀を想っているというのに、当の本人がそれに気づかず、加茂家がナマエを冷遇しても何も言わないことに腹が立った。
真依はそのことを顔には出さないが、ナマエの顔やそこそこに膨らむ胸元に目を遣り、ナマエが美人であることと、女性らしい体のラインを持っていることを認め、「憲紀には勿体ない」と更に腹が立った。
「憲紀のことがそんなに好きなのね」
「はい……憲紀さまが大好きです。あの方のことを想うだけで胸が張り裂けそうになります」
「はぁ」と胸元を押さえて溜息をつくさまは正に"恋する乙女"である。
真依にとって「これはこうだ」、「あれはこうだ」と、物事を杓子定規で考え、それを押し付けてくる憲紀は"面倒くさい男"であり、彼の良さがイマイチわからないが、一途な女の子を目の前にすると応援したくなるものである。
「憲紀なら今頃高専から帰ってきてるだろうし、会いに行く?呼び出すけど」
「それはいけません……突然会いに行きでもしたら、更に嫌われてしまうかもしれません」
「憲紀がアナタを?」
「どうやら憲紀さまに好かれていないようで……毎月送っていた手紙に返事が来たことは数回だけで……直接家にいらしたこともありませんし……あっ、これも憲紀さまには仰らないでくださいますか?このことを聞いて更に嫌われてしまうのだけは嫌です」
真依は憲紀からナマエのことを聞かされたことがない。だから、憲紀がナマエのことをどう思っているか真依は知らなかった。
それだけに手紙のことを憲紀に言った時、どうなるか想像がつかない。ここはナマエの言う通り、余計な世話を焼いて問い詰めない方がいいだろう。
「それは困ったものね……あ、そうだ。この前友達と撮った写真に変なの──憲紀が入り込んじゃったんだけどいる?」
「憲紀さまの写真ですか……!?」
ふと、消そうか悩んでいた写真に憲紀が写っていたことを思い出してなんとなしに提案してみただけだが、今までにない程の興奮を見せるナマエに、真依は若干引いた。
ナマエから熱い視線を受けながら、真依はスマホを取り出して写真フォルダから一個上の先輩である西宮とのツーショット写真を見つけ、テーブルへ置く。
「これよ。紅葉が綺麗で撮ったんだけど、縁側を歩いていた憲紀が入っちゃってて……あと地味に東堂先輩も見切れてて気味の悪い心霊写真みたいで嫌なんだけど、なまじ写りがいいから」
真依は悪気はなく一個上の先輩たちの悪口を言うが、都合よくナマエの耳には入っていかなかったようで、ナマエは瞳を輝かせて写真に写る憲紀を見つめる。
「こちらは拡大できますか?」
「……仕方ないわね」
「きしょいから無理」とは流石に言えず、真依はナマエの為にスマホの画面にニ本の指をあて広げ、憲紀の写る箇所を拡大する。
「とってもかっこいいです。背がすらりと高くて、スタイルがよく、お上品なお顔立ちです。この輪郭から首筋にかけての男性らしいラインが素晴らしいですね。細身のようで身長に合った横幅の広さ、首から肩のラインの、女性にはないがっしりとした感じも堪らないです」
「……アナタ、桃と仲良くなれそうね」
ナマエが胸を押さながら早口に捲したてるさまは、西宮が以前よだれを垂らしながらセバスチャン・スタンの画像を漁っていたことを真依に思い出させた。
「桃?」
「私の一個上、憲紀の同級生に桃って子がいるの。彼女の画像フォルダ、体格の良い男ばかりよ」
「……憲紀さまの同級生に女性の方がいらっしゃるのですか?」
「憲紀を狙う女はアナタだけだから気にしないでいいわよ」
真依は"天性の煽リスト"とよく揶揄されるだけあり、つい歯に衣着せぬものいいをしてしまったが、ナマエは頭が都合よくできているのか「よかったです」と、真依の含みのある言葉に気がつかずに安堵したように笑う。
「憲紀の見た目が好きなわけ?」
「成長されたお姿をこんなにじっくりと拝見できる機会は今までになかったので、見た目が好きとは軽々しく申せません。ただ気がついたら好きになっておりました」
「ふーん。ま、許婚ってそういうものなのかしらね」
ナマエがあの面倒な男にどうしてここまで惚れ込むのかを理解できず、真依は無理に理由をつけて自分を納得させた。
「──で、写真送りたいんだけど何か連絡アプリはあるの?」
「ごめんなさい。このスマホ、特定のアプリを入れていただかないと写真を受け取れないみたいで……この写真を直接撮ってもいいですか?」
「……いいわよ。写真撮ったら、電話番号くらいは教えなさいよ。SMSくらいはできるでしょ?」
「はい!」
ナマエは満面の笑みで頷くと、「位置情報をお目付役に見られませんように」と呟きながら、スマホの電源を入れ、真依のスマホに写る憲紀の写真を撮り始めた。
真依はナマエが憲紀の写真を何枚も撮るのを引きながら見守った後、電話番号を交換した。その後呼び寄せたタクシーが到着するまでお互いの学校の話をして盛り上がった。
「案外、普通の子なのね」
と、真依はナマエの話を聞きながら思ったが、よくよく考えれば憲紀を一目見る為だけに碌に計画もせずに歩き回って迷子になるのは普通とは言えない気がした。
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