ナマエが別館の最上階でエレベーターを降りると、天井の広いエレベーターホールへ出た。どうやらここだけは電気が灯っており、その先のT字路にある客室廊下は電気が消えているようだ。
改装の為にビニールで覆われているタイルを蹴り、ナマエは呪いの気配を追って暗い客室廊下へと走り出た。本来なら正体もわからない呪霊を警戒して慎重になるべきだが、呪いの気配はまだ遠くに感じることと、焦りから急いでしまう。

そう。ナマエは焦っていた。恐怖も感じていた。たった一人で呪いのいるとわかっている場へ赴くのは、これが初めてであった。

ナマエは呪術界に身を置きながら、今までの人生で呪いを積極的に払ったことなど殆どなかった。ナマエは生来の美しい容姿を磨き、良家の嫡男と婚姻を結び、ミョウジ家を存続させることを常に期待されていて、術師として育てられたことなど一度もなかった。最低限呪力の使い方を習った程度で、あとは教養や芸事を身につけることを求められていた。
実家にいた時はナマエの行く先々に呪霊がいるかを常に事前調査されており、偶発的に出会っても護衛の侍女が即祓除。ナマエが友人と出かけた際に街中で見つけた蠅頭でさえ、本人が祓うべきか考えている間に侍女がすっ飛んできて祓ってしまっていた。

過保護に育てられた故に、入学したての頃の任務で出会った呪いを前に恐怖で動けなくなったことがあった。呪いを見慣れてはいたが、いつも誰かに助けられていた為にまともに呪いと正面から対峙した際には死を予感した。

そして今、再び死を予感している。もしかしたら、と嫌な予感ばかりが頭を過るが、尊い命を助けられるのは自分しかいない。だから、やるしかない。それ以外に理由も何もない。

全ての客室の扉の横には、廊下灯が設けられている。その廊下灯が長い廊下の先の客室でモールス信号のように不規則に点滅している。

よく目を凝らせば、床には呪いの残穢とは別に黒く光る汚れがあり、薄暗い中でもよく見えた。──血だ。

ぞわっ、と背筋に不快な痺れが走り、手からは力が抜け、大腿部は緊張に痺れ、喉はカラカラに渇く。──そんな身体的反応は誰にでも起こり得ることで、ナマエはそれをよく理解していた。「これは当然の身体反応」と自分に言い聞かせ、理論で恐怖と緊張を無理やり抑制しつつ、乱れる息を深い呼吸で整える。

勇気を出す、というよりは「早く助けなくては」という焦りから廊下の先へ進み、灯の点滅する客室の扉に手をかけた。

扉を開いた瞬間、視界に入って来たのは蛍光灯の明滅する部屋の中で、血だらけになって倒れている小さな男の子であった。恐らくルノの弟であるユウノだろう。

駆け寄りたい衝動を抑え、呪霊が部屋の中に見当たらないのを警戒した。出入口から、スイート専用と思われる如何にも高そうな家具や調度品のひっくり返った部屋の中をぐるりと見渡すが、呪いの痕跡の満ちた部屋では居場所がわからない。
罠かもしれないが、一歩踏みださなくては助けられるものも助けられない。

ナマエは警戒しつつユウノと思われる男児へ走り寄り、怪我の具合を確認した。
僅かではあるが呼吸はしている。全身が擦過傷だらけで、主な出血部位は腹部からだ。腹が服ごと切り裂かれ、ピンク色の腸が薄っすらと見えている。その所為で小さな体からは想像もできない程の血液量が漏れ出ている。今すぐ止血しないと死んでしまうだろう。

ナマエは迷わず制服の上着を脱ぎ、ユウノの腹部を圧迫するように包んで抱き上げだ。非術師には効かないかもしれないが、ユウノの体内にある僅かな呪力へ自分の呪力を注ぎ、呪力増幅にしか効果のない反転術式を行使する。反転術式を持続させながらナマエはユウノを抱いて廊下の外へ足を踏み出した──が、突然両脚を何かに捕まれ強い力で引っ張られた。

腕から前のめりに体が倒れたが、なんとか呪力でガードして床との衝突を避け、片手でユウノを抱え直し、床にしがみつこうと爪を立てた。後ろを振り向けば、大きな頭に不釣り合いな小さな手足を持った、全身が不健康に青白い呪霊がいた。目と思われるパーツはなく、口と思わしき箇所に丸い穴が三つ並んで空いている。

呪霊は腕が細い割には引く力が強く、ナマエは徐々に引きずられて部屋の奥へと引き込まれてしまう。

ナマエは一旦抱えていたユウノを離し、体を捩じり、練り上げた呪力の塊を呪霊へとぶつけた。呪霊から高音楽器の音のような悲鳴が一つあがるが、ナマエを引っ張る力は衰えない。ナマエは死に物狂いで、床に転がる電話機やら額縁やらを掴んでは呪力を込めて呪霊に投げつけた。すると、最後に投げたテーブルランプが運よく悪いところに当たったのか、呪霊が怯んだ。
その一瞬の隙をナマエは見逃さなかった。すぐさま跳び起きて呪力で強化した脚で床を蹴り、ユウノを再び抱え上げて客室を抜け出した。
ナマエは全速力で廊下を走り、エレベーターホールへ向かう。

今は呪霊を祓う必要がなく、ユウノの保護が優先される。エレベーターに乗りさえすれば、あとはなんとかなるだろう。
しかし、そう簡単に上手くはいかなかった。エレベーターホールのある角を曲がろうとした瞬間、追ってきた呪霊の筒のような口から呪力の塊が放出され、ナマエは背中を撃たれた。肉体を貫かれることはなかったが、衝撃が凄まじく、後ろから突き飛ばされたように胸部が圧迫され、数メートル先へ体が吹き飛んだ。

「いたっ……!」

あまりの痛さに思わず声もでてしまう。床にぶつかった衝撃は呪力で緩和できたが、背中から焼けるような痛みがする。何か液体のようなものが肌の上を伝う感覚がすることから、恐らく裂傷で出血している。
痛みを意識の外へ追いやり、来た道を振り向いて体勢を立て直し、今度こそエレベーターホールのある角を曲がろうとするが、呪霊はもうすぐそこまで来ていて、再び口から呪力の塊を放出しようと、頭を大きく仰け反る。

避けるのは瀕死のユウノの負担になるだろう。呪力でガードするしかないが、それでも常に呪力で覆っていた体を吹き飛ばされたのだ。今度もまた吹き飛ばされる。次吹き飛ばされでもしたら、その衝撃だけでユウノは死ぬかもしれない。──詰みだ。

ペタリ、とナマエは膝を折って床に座り込み、血だらけの小さな体を抱きしめて、懸命に呪力を注ぎ続けた。非術師にもあるという僅かな呪力に自分の呪力を掛けて、対象の体内で完結する反転術式。傷は癒すことも進行を遅らせることもできない。ただ対象に余力を与え、呪力を増やすだけの術師向けの気休めの力。あまりにも弱く、殆ど役に立たない。

「憲紀さま……っ」

真っ先に思い浮かんだ人の名前が勝手に口から出てしまう。
何故弱いくせに「絶対助ける」なんて言って、こんなところに来てしまったのだろう。そもそも何故何もできないくせに高専に来てしまったのだろう。何もできないくせに、誰も助けられないくせに、自分の立場に求められることを無視して、「一人前の術師になる」なんて到達できもしない目標を掲げてしまったのだろう。ずっと守られる環境に身を置いておけば、こんなことにはならなかった。目の前で小さな命が消えていくのを見ずに済んだ。自分が傷つくこともなかった。実家にいて好きな人に愛される為だけに生きていた方がずっと幸せでいられただろう。──後悔ばかりが、ナマエの胸の中を渦巻く。

「おねえちゃん……だれ……?」

腕の中で、掠れかけた声が、血に染まった唇から発せられた。重そうな瞼が薄く開かれ、黒目がちな瞳に光が宿っているのが見える。まだ生きている。体は生命活動を続けている。生きようとしている。
しかし次の呪霊の攻撃を自分の呪力で護っても、この子の体はきっと耐えきれずに死ぬ。自分は辛うじて生き残れるかもしれないが、無事ではすまないだろう。──ナマエは絶望的な状況に下唇を噛み締めた。

「ユウノくん、大丈夫です。ルノお兄ちゃんが頑張って助けを呼んでくれています……もう少ししたら、助けが来るはずです……」

ナマエはユウノを安心させるように嘘をついた。そもそも数時間前に連絡のつかなかった憲紀と連絡が取れているかはわからない。担任の教師を迎えに行った新もいつ戻ってくるかはわからない。助けが来るとしても、今すぐには無理だろう。

ナマエは諦めてはいたが、自分のできる最良の選択として、ギリギリまで呪力の層を男の子に集中させて護りを固くしつつ、男の子に呪力を注ぎ続けた。

非術師相手にはどうやっても役に立たないタイプの反転術式。もし、完璧な反転術式が使えたら──いや、もし自分の中でも呪力を掛け合わせて正のエネルギーを作れたら……?
ユウノを助けたい一心で、ナマエは自分の中で呪力を掛け合わせ、自分の術式へ正のエネルギーを流し込んだ。その時だった。

呪霊が仰け反った頭を前に突き出し、三つの口から呪力を放出した。先ほどナマエを痛めつけたものよりも、明らかに強い呪力が目の前まで迫る。が、それはナマエもユウノも傷つけることはなく、ナマエの鼻の先で弾けるように四散して消え去った。

目の前で呪力の塊が散ったのを見てナマエは驚いたが、焦った呪霊が次々に呪力をぶつけてくるので、ユウノへ術式を流し込むのをやめなかった。よくわからないが攻撃を防げているのなら、ユウノを助けられるかもしれない。

呪霊の放つどの呪力の塊もナマエにぶつかる寸前で弾ける。何か見えない壁に阻まれているようだ。しかし暫くすると、慣れない術式行使で呪力のロスが多かったのか、ナマエの呪力が枯渇してきて、ユウノへ注ぐ術式も不完全なものとなりつつあった。ついに一つの呪力の塊がナマエに当たった。弱い力であったが、それでもナマエを痛めつけるだけの殺傷力はあった。

土壇場で手にした一縷の望みはその攻撃であっさりと消え去った。理解しないまま防げていた力はもう使えない。
呪霊が嘲笑うように高らかな音をしんとした廊下に鳴り響かせ、再び大きな頭を仰け反らせた。

自分が生き残らなければ、腕の中の子は死ぬとはわかっているが、ナマエはユウノを抱えたまま呪霊に背を向け、僅かに残った呪力を注ぎ続けた。

「大丈夫です……助けはきっと来ます」

呪霊が勢いよく頭を突き出し、最後の一撃と言わんばかりの大きな呪力の塊を放つ──瞬間、その呪力は木っ端微塵に消え去り、数秒の間も持たずして呪霊本体も破裂するように消失した。

「ナマエ!」

すぐ後ろで低く響く、あまり聞きなれない声。いつもより低くて怒りの籠ったものでも、その人本人のものだと、すぐにわかった。

「憲紀さま……?」

振り向くと憲紀がいて、床に座り込むナマエの横に片膝をついて剥き出しの肩を抱いてきた。

最も安心のできる人の登場なのだが、どう考えてもルノから電話を受け取ってから着くような距離ではなく、ナマエは驚いて放心していた。

「何故一人でこんなところにいる!?怪我は大丈夫なのか!?」

憲紀の声からは心配の色が見えるが、何より怒っているのがナマエには伝わって来た。
憲紀の怒りようにナマエは戸惑いつつも、腕の中にいるユウノを憲紀に見せるように体を捻る。

「大丈夫ではないです!この子、腹部の肉を裂かれて内蔵が見えてしまっています!」

「反転術式の行える者の手配は済んでいる!私が聞いているのはナマエの怪我の具合だ!制服を脱いでは呪力を防げないだろう!」

「そんなことをお話している暇はございません!この子を助けないと……!」

「わかった。その前に……これを着るといい」

「そんなお時間もございません!」

ナマエの無防備な姿を見とがめて、制服を脱ごうとする憲紀にナマエは首を横に振った。
ナマエはユウノを抱えて立ち上がろうとすると、ふらりと立ち眩みし、倒れそうになったところを憲紀が支えた。

「やはり、ナマエも診てもらわないとな」

「ええ。ですが、わたしは後回しです……ユウノくんを助けないと」

「私が預かる」

「お願いします……」

そっとユウノを憲紀にたくし、ナマエは急いでエレベーターホールへ向かった。タイミングよく、階下から上がって来たエレベーターから新と何故か猪野まで現れた。状況からして憲紀から情報を聞いて駆けつけてくれたのだろう。

「ナマエさん大丈夫ですか!?」

「うわっ、ちょっと!お、俺は何も見てないぞ!」

ナマエのリブ編みのキャミソール姿を見て、目元を手で覆い隠す猪野を無視してナマエは新の方へ駆け寄った。

「新くん、男の子への応急措置をお願いします」

「この子に頼む」

憲紀は腕に抱えたユウノを新に見せるようにしつつ、警戒するような視線を猪野に注ぐ。

「わかりました。下にもう救急車が来てはって高専関係者の病院まで行ってくらはるそうです。エレベーターの中で応急処置を済ませましょう」

その場にいた全員はエレベーターへ乗り込み、階下へ移動している間に新は瀕死のユウノへ反転術式を施した。

「わかってはるとは思いますが、これ以上は酷くならないだけです。この子は既に痛みすら感じていなかったでしょうし……ナマエさんは大丈夫ですか?」

「大丈夫ではない。ナマエにも頼む」

ナマエが口を開く前に憲紀が新を急かす。ユウノに応急処置を施されたことで少し心の余裕がでてきたナマエは背中の痛みに気が付き、今更自分の恰好を気にして、胸元を両手で覆い、頬を赤く染め上げた。
そんなナマエの反応に新まで頬を紅潮させ、目を閉じてナマエの体に触れて術式を施した。

「あ、あの俺のジャケットどうぞ」

新は憲紀の反応を気にしつつ、ナマエの肩にジャケットを掛ける。

「ありがとうございます」

ナマエは憲紀の後ろに隠れるように引っ込んで、ジャケットの前を掻き合わせた。自分よりもずっと大きな憲紀の背中を見上げて、焦りのあまりに憲紀が駆けつけてくれたお礼もまだ言えていないことを思い出し、あまりにも失礼な態度を取っていたことを反省した。

「憲紀さま、後でお話があります……」

「私からも話したいことが山程ある。後でゆっくり話そう」

「はい」

最近の二人からは感じられない程の刺々しい空気を感じたのか、新は気まずそうにエレベーターの表示灯をじっと見上げ、憲紀と面識のない猪野は「いったい誰なんだ」とでも言うように憲紀の方を不思議そうに見て首を捻った。

エレベーターを降りると連日お世話になっていた補助監督と救急隊員が待機していて、その場で男児を引き渡した。ナマエは勝手な行動にでたことを補助監督に叱り飛ばされたが、すぐに憲紀がとりなそうとしてナマエも怪我をしていることを伝えれば、何故か更に怒られた。憲紀に加えて、補助監督にまで怒られたことにナマエは落ち込んだが、それでもユウノさえ生きていれば、ナマエにとってはそれでよかった。

ナマエは補助監督の車で病院へ行くことになり、憲紀と共に後部座席に乗り込んだ。救急車ではユウノとその兄であるルノ、それから二人の両親が付き添うらしい。

出発前、猪野から「ナマエちゃん、これ!」と、失くしたはずのスマホを渡された。
聞くと、補助監督の車の中に置き忘れたスマホを、一緒に乗っていた猪野が自分のものだと勘違いしてポケットに入れたままにしていたらしい。それで憲紀から電話が来て漸くナマエのスマホだと気がつき、ホテルまでスマホを届けにきてくれたらしい。

ホテルのロータリーから車を出すと、再び補助監督が「死ななかったから良かったものを」とブツブツナマエに文句を言いつつ、高専関係者に電話で事の顛末を報告し始めた。

呪力消費が激しく、疲労の溜まっていたナマエは少しでも疲れを取ろうと目を閉じた。憲紀の横で眠るのは憚られるので目を閉じるだけのつもりであったのだが、あっという間に意識を落とした。
まどろみの中、ナマエは膝の上に置いていた手が握られるのをなんとなく感じ取ったが、握り返すことができる程の力は殆ど残っていなかった。



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