搬送先の病院で応急処置を受けたナマエは東京から反転術式のできる術師──家入硝子が来るまで憲紀と共に病室にいた。補助監督から改めて事情を詳しく聞かれ、再度怒られた後であったが、ユウノが適切な処置を受けて一命を取り留めたと聞けた安心感から笑顔を見せていた。

一方憲紀はナマエに何か言いたげな様子で表情を曇らせつつも、背中を庇って横向きにベッドに寝そべるナマエの手を黙って握っていた。
憲紀が助けに現れた時、ナマエに対して怒っていたのは明白だが、家入が来るまでは何も言わないでいてくれるらしい。

それならば、どうして京都から名古屋まであんなに早く駆けつけられたのかくらいは聞きたかった。推測するに、ルノから電話を受けて到着するまでせいぜい二十分程度だろう。京都から名古屋まで新幹線で四十分程。駅からホテルまでの移動時間もあるのだ。間に合いようがない。

「そういえば、憲紀さまはどうして新くんや猪野さんよりも早く助けにいらしてくださったのですか?」

ナマエは理由だけを聞きたかったのだが、ナマエの質問に憲紀は眉根を寄せ、暫し沈黙した。その様子から、相当な怒りを抑えているのが伺える。
五月より、憲紀に嗜められることはあっても、まともに怒られることのなかったナマエはいつもと違う様子の憲紀に不安になり、表情から笑顔を消した。

「……猪野、といったか。ナマエに電話をしたら、彼が出るなりすぐに通話を切られたからナマエに何かあったと思い、来ただけだ。ちょうど任務の帰りで、同行していた補助監督がすぐに新幹線のチケットを手配してくれたから早く来られた。ナマエがこんな怪我をしていたら、『間に合った』とは言い難いが……それでも、迷わずここまで来て本当によかったと思っている」

「まさか、ルノくんに電話をもらう前に、猪野さんがわたしのスマホの電話に出ただけでわたしに何かあったと、そう心配してくださったのですか……?」

「ああ。猪野とやらが電話に出た時、如何にも"間違えて"ナマエのスマホを手に取ったような様子だったからな」

「それはつまり……どういうことでしょうか?」

間違えて他人のスマホを手に取る状況を、ナマエは想像できなかった。てっきり、何か事故にあったなどと憲紀は心配してくれたものだと思ったが、言動からなんとなく違う気がする。

「……私の大事な許嫁の電話に他の男が出たかと思えば即座に切られた。これで伝わるか?」

いつもの温厚な憲紀はどこへやら。憲紀は苛立ちの籠もった声色でナマエへ問いかける。
流石のナマエもこれでなんとなく理解できた為、

「はい、伝わりました……」

と、気まずそうにして口の中でモゴモゴと返事をした。
確かに自分が憲紀の立場になった時──もし憲紀の電話に他の女性が出て電話を切られたら、自分も真っ直ぐ憲紀の元へ駆けつけたかもしれない。ナマエと同じように憲紀も自身のことを想ってくれているのが伝わってきて、胸が温かなもので満たされるのを感じた。
ただ憲紀の表情は相変わらず硬く、ナマエへ対しての怒りのような感情が見て取れるので不安は残る。

「ルノという少年から電話を貰う頃には既に新幹線に乗っていた。そこからすぐに新田に電話を掛けて──担任教師を迎えに行く途中と言っていたがすぐに引き返させて──高専関係者に連絡をして各方面に手配を頼んだ……ルノから無謀にもナマエが一人で少年の弟を助けに行ったと聞いた時は肝が冷えた。本当に無事でよかったと思うが……その怪我が治るまではこれ以上何も言わないでおく」

ちらと、憲紀はナマエの体へ目を向ける。言動から察するに憲紀は何か言いたいことを我慢しているようだ。

「お気遣いありがとうございます。憲紀さま、改めて助けていただきありがとうございました。憲紀さまのお陰でユウノくんを助けることができました。本当に感謝しております」

「私は感謝よりも、二度と無謀な真似はしないという約束が欲しいのだが」

憲紀のやや力の籠った声色に、ナマエは漸く憲紀が何を我慢していたのかわかってきた。いや、憲紀がナマエを助けに駆け付けてくれた時の反応や、補助監督がナマエを酷く怒っていたことから、ナマエは薄々気がついていた。──自分の軽率な行動を怒っていると。
なんとなくわかってはいたのに、それを認めたくはない為に今までナマエは気がつかない振りをしていたのかもしれない。

「……術師はいつでも無謀なことをしている気がします」

怒られるべきことをしたという自覚はあるが、ナマエはつい感情のままに反論してしまう。

「いや、無謀なことをしない為にこうして組織化している。特に低級の学生術師には気を遣われているのはわかるだろう?緊急事態を除けば調査不十分で派遣されることはめったにない」

「……ユウノくんを助けたのは悪いことでしたか?」

「そんなことは言っていない。しかし、私が来なければ二人とも死んでいたであろう状況であったのだから、愚かな判断であるのは明白だろう。誰か困っている人がいて、その場に自分しかいないからと責任を感じる必要はない。自分に助ける能力がないと判断できる状況であれば、助けを待つべきであった」

「……確かにわたしには人を助けるのに十分な能力はありません……ですが、実際あと少しで自分一人の力でユウノくんを助けられそうでした。それに今ではわたしは自分の行動を悔やんでなどおりません。わたしのしたことを間違いであるかのように言われてしまうのはとても悲しいです……」

絶望の状況になった時には自分のしたことをナマエは後悔していた。それは事実だ。だが、ナマエが助けに行かなければ、ユウノは死んでいた。結果論ではあるが、今では助けにいってよかったと思っているし、ユウノを助けられたことでナマエは術師としてのやりがいを感じてもいた。

術師として人を助けたいと思い、その思いを敬愛する憲紀に否定されたことで、ナマエは胸を痛め、憲紀に握られていた手を引くが、力強く握りしめられて手を引っ込められない。

「放してください」

「放しはしない。私の言いたいことが正しく伝わっていないようだから言葉を変える。私は君を失いたくない。だから、他人を助ける為に自分の命を投げ出さないで欲しい」

「術師は皆自分の命を懸けて戦っております。わたしがしたことと他の術師のしたことに大きな違いはありますか?」

憲紀が自分を想ってくれているのは伝わっている。だが、この件について自分のしたことを否定されるのだけは、ナマエには許しがたいことであった。彼女自身にもわかってはいないのだが、ナマエの頭が、心が、憲紀の否定を強く拒否してしまう。

「あるに決まっている。私達術師と呪霊に階級が振られている意味がわからないのか?安全に呪霊を処理する為だ。どうして急に反抗的になる?一旦落ち着いてよく考えろ」

「わたしは落ち着いております……!だから、放してください……!」

「何故嫌がる?一体どうしたんだ?」

憲紀はナマエの態度に戸惑いつつも、ナマエの手を握り続けた。一方、ナマエは自分を理解してくれないのに憲紀がこうして手を握ってくることを嫌悪して、憲紀から離れようと躍起になった。
そんな時。病室の扉が開き、長い茶髪の女性が颯爽と入って来た。

「──痴話喧嘩中失礼するよ」

垂れ目に泣き黒子──それらの特徴さえ忘れてしまいそうな程に目立つ目の下の隈。白衣を着て医者然としているが、彼女の纏う独特な雰囲気に、ナマエは彼女が高度な反転術式を使いこなすという噂の家入硝子だと一目でわかった。
憲紀もナマエも喧嘩をぴたりと止めると、短く挨拶を済ませ、ユウノの容態を聞く。

「例の少年なら心配はいらない。完全に治したよ。子供を放っておいた両親は警察の聴取を受けていて、少年二人は助けてくれた君たちに礼が言いたいと探している。高専関係者がこの件を表向きにどう処理するか決定するまでは会わない方がいいだろうね。で、君らの関係は知らないけど、この子脱がせるからそっちの君は出て行ったら?」

家入は片手を白衣のポケットに入れ、ナマエの手を握り続ける憲紀を見つめる。

「私は彼女の許婿です。出て行く必要はありません」

「男性の前で素肌を晒すのは恥ずかしいので遠慮していただきたいです」

「……わかった」

憲紀は不服そうではあるが、特に抗う様子も見せずにナマエから手を離して席をたった。
病室をでていく憲紀の背中をナマエは無言で見つめ、憲紀が心配そうにナマエを振り返ると、ナマエはふいと顔を背けた。

家入はそんなナマエたちのぎこちない雰囲気を気に留める様子もなく、ナマエの背中を覗き込むようにして、

「さて。京都の一年の、固定術式とやらの成果をみようか」

と、興味深そうに冷たい美貌を柔らかにした。



 ◇



家入による反転術式により、ナマエの怪我は綺麗に治された。ナマエは補助監督から支給された予備の制服に着替え、憲紀と新と共に車で高専まで送られた。

車の中で、補助監督からあのホテルの別館に呪霊が現れた経緯や、一連の事件が表向きにどう処理される予定なのか説明されたが、ナマエはそんなことよりも、憲紀にどう自分を理解してもらおうか考えることに意識を囚われていた。それに、どうして術師が命を懸けて非術師を助けることについて自分がこんなにも拘っているのか混乱もしていた。

ともあれ、高専へ戻るとナマエは軽くシャワーをして自室へ戻った。寝間着の浴衣を脱ぎ、姿見鏡で全身に痣や傷跡がないか確認をする。殆ど毎日やっている習慣で、実家にいた頃は侍女に全身を隈なくチェックされていた。

家入の反転術式は完璧であった。傷跡一つない肌をみてナマエは安心した。憲紀と言い合ってぎくしゃくした関係になってはいるが、憲紀に愛される為に磨いている肌だ。傷はおろか痣すらつけたくない。術師である以上、それは難しいことではあるし、もしまたユウノのような子が現れたら、助けに行ってしまうだろうが。

夜着を羽織って布団へ入り、ナマエはユウノを助けられた喜びよりも、憲紀から言われた悲しいことばかりを考えてしまい、不安に胸を締め付けられるままに眠りについた。

翌朝、目が覚めるとナマエは泣いていた。何か悲しい夢を見た気がするがそれがなんであるかはわからず、混乱した。
目が腫れないうちに顔を洗い、身支度を整えた。朝食は摂らず、今日は授業も教室での自習もない為に部屋でテスト勉強をしていると、憲紀が部屋を訪ねてきた。

「昨日のことを話しに来たのだが」

「はい」

今朝の憲紀はあまり怒っている様子は見られないが、少し緊張しているような様子からナマエはなんとなく嫌な予感を察知していた。

「私がナマエを想っているのは伝わっているか?」

「はい」

「私がナマエに危ないことをして欲しくないのはわかるか?」

「はい。術師をやめろということですか?」

「違う。自分の身を投げ出すようなことをしないで欲しいだけだ。ナマエができる範囲で人を助けたいという気持ちは尊重したい」

「では、今日も変わらず昨日のことは間違っていたと仰るのですか?」

憲紀は昨日よりもずっと優しい口調ではあるが、ナマエはやはり自分のしたことを否定されているような気がしてならず、憲紀の意図を確認するように聞いた。

「……私は一晩中、何故君がそのことについて拘るのかを考えていた。一つ思い当たることがある。口にしづらいことであるからあまり言いたくはないのだが……」

「なんでしょうか?わたしは構わないです」

「君のご父君についてだ……非術師を庇って亡くなったと聞いている」

「……」

ナマエは息を詰め、目を瞬かせた。憲紀の口から亡くなったナマエの父親のことが出たこと、それをナマエがこの件について絡めて考えているという見解を憲紀が提示してきたことに動揺が隠せない。

ナマエの父はナマエが物心つく前に非術師を助けて亡くなっていたことを、ナマエはあまり深く考えたことはなかったつもりであったが、皆が皆立派な人であったと話していたからナマエは亡くなった父のことを尊敬していた。
もしかしたら、心のどこかで父のように術師として誰かを助けたいという気持ちがあったのかもしれない。だから、危険を顧みずに当然のようにユウノを助けたのも納得がいく。
そのことから、命を懸けて非術師を助けたことを他でもない、自分の愛する人から否定され、ナマエはそれに過敏に反応してしまったのだろう。

「ご立派な方だ。もし私が君のしたことへの非難を君のご父君への侮辱と捉えたのなら謝る。申し訳ない」

「あ、謝らないでください!わたしはそんな風に捉えてなど……」

最後まで言葉が継げなかった。確かに自分のしたことへの否定を父への否定と心のどこかで捉えてしまっていたのかもしれないと思ったからだ。

「もしナマエがそう捉えていなくとも、一人の少年の命を救おうとしたナマエの頑張りを否定したことは申し訳ないと思う」

「憲紀さま……わたしも感情的になってしまったことを深くお詫び申し上げます。今までの数々の非礼をお許しください」

「許すも何もない。ナマエが何を大事に考えているかを理解できたからな。むしろ、それを隠されなくてよかった。君を知らず知らずのうちに傷つけたくはないからな」

憲紀にこれ程想われているというのに、ナマエは自分の感情を優先にして憲紀へ酷い態度を取ったことを反省した。どうして憲紀が自分を怒ったのか、今ならナマエは素直に憲紀の思いを汲みとることができた。

「憲紀さま、お約束はできませんが、極力危ない真似は致しません」

「確約が欲しいが、それが君の妥協点なのだろうから仕方ないな」

憲紀は呆れたように短く息を吐く。
思えば憲紀には妥協させてばかりであることにナマエは気がつき、ナマエの中で罪悪感ばかりが膨らんでいく。

「わたしの我儘を聞いてくださる憲紀さまにお詫びがしたいです」

「いや、詫びなどいらないよ。ナマエが素直に甘えてくれていると思えば、私はナマエの全てを許容できる」

「では、憲紀さまの寛容さに感謝の気持ちを伝えたいです。それに助けてくださった御礼もしたいです。何かご所望のものはございますか?」

「そう言われても、見返りなど求めていないからね。気持ちだけ受け取っておくよ」

「そうですか……」

とはいえ、償いや御礼をしなくてはナマエの気は済まず、何かないかと考えを巡らせた。
憲紀の好きなものと言えばコーヒーであるが、既に憲紀は誕生日の翌々日という、誕生日プレゼントなのか差し入れなのかわからないタイミングで西宮や真依、三輪の三人から数ヶ月分のコーヒーギフトを貰っていた。コーヒーのプレゼントはもういらないだろう。

「どうしても、気持ちを何かにして表したいなら、少しの間抱かせてくれないか?」

「……お好きになさってください」

ナマエは憲紀の大胆な発言に驚いたが、体を求められるのは嬉しいことであった。迷うことなく、制服のボタンを外すと、「いや、違う」と手を握って止められた。

「その抱くではなく、抱きしめるの方だ」

「勘違いしてしまいました……恥ずかしいです」

ナマエは慌ててボタンを留め直した。
決まりが悪くて俯くと、距離を詰めてきた憲紀に抱きしめられた。
すっぽりと憲紀の腕の中に閉じ込められ、大好きな匂いと感触に満たされて胸の内に温かなものが広がっていく。

腕に力を込められてぎゅうっと抱きしめられると、少し体を離され、背を屈めて唇へ口づけられた。
上下の唇をそれぞれ食むようなキスをされたかと思えば、舌を差し込まれ、内頰を舐められ、口蓋を舌先でそっとなぞられる。
それを背面へ回された手で腰を撫でられながらされるのだから堪らない。

抱かないと言ったのに、とナマエは混乱した。これはナマエにとってはほぼ性交渉のようなものであった。

混乱の中で唇や舌での交わりが時間をかけて繰り返されるうちにナマエの体は淫熱に浸食され、体の芯がじん、と疼く。
もっと、とせがむ様に憲紀の体にしがみつき、柔い体を胸が押し潰れる程に憲紀に押し付けると、唇を離されてしまった。

ナマエは寂しい気持ちになり、憲紀を上目で見つめ、甘えるような声で「憲紀さま」と呼びかける。

「私はこれから授業だ。続きは夜にしようか」

頰に優しいキスを落とされ大きな手で頭を撫でられる。
まるでむずかる子供を宥めるような行為であるが、ナマエには効いていて、従順に頷いた。

憲紀は穏やかな笑みを浮かべると、ふと教科書やプリント用紙の散らばった机の上に目線を移す。

「一年は休みのはずだが、勉強をしていたのか?科目は化学か」

「はい。元素の周期表を覚えておりました」

「……カリウムとカルシウムが逆なのだが?」

プリント用紙に印刷されている元素記号の下に、手書きで元素名が書かれているのだが、それが憲紀の言う通り、元素記号に対して元素名が逆に書かれていた。

ナマエは単純なミスをしたのだと気がつき、「間違えてメモしてしまったみたいです」と誤りを認めたのだが、憲紀はそれを流すつもりはないらしく、プリント用紙を手に取って紙面の隅々まで目を走らせる。

「見たところ他に間違いはないようだが……また中学生レベルのものを間違えるなどナマエの学力が心配になるよ」

中学で良い成績を修めていたナマエは、いつかと同じように憲紀に貶され、恥ずかしくなった。本当はテストでいつも高得点を取っていたことを憲紀に知って欲しい。

「ミスが多いだけで、学力に問題はございません。中学の成績はとてもよかったのでわたしは大丈夫です。毎日勉強していますし」

「間違った周期表でか?期末テストはもう再来週だぞ。今夜は私が勉強を見よう」

「見ていただくのは勉強だけですか……?」

「他に何を見るというのだ?」

「なんでもございません……」

心底ナマエの学力を心配しているのか、憲紀はナマエのアピールに気づかず、首を傾げる。

先程の続きは当分引き延ばされてしまうことを察したナマエは憲紀が部屋から出た後、少しでも憲紀から勉強を見てもらう時間を減らそうと、テスト勉強に全力を注いだ。



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