※番外編
七月の末日。交流会打ち合わせに同行してきたらしいナマエと再会した伏黒は、成長したナマエの容姿に動揺していた。
約八年振りの再会なのだが、今のナマエはあまりにも大人っぽく、動作の度に立ち香るような色気を纏わせていた。
最初は驚いて成長した姿を見つめていたのだが、少ししたらナマエのことをまともに見られなくなる程に緊張していた。視界に入れるだけでも、存在を感じるだけでも、胸が騒つくような感覚に襲われていた。
釘崎がいる手前、伏黒はできるだけいつも通りでいたつもりであったが、何度も茶化され、医務室前でナマエと別れた後も揶揄われていた。
「久しぶりの再会。そして、初恋の人は自分を忘れているわ他の男のものになっているわで心はズタボロ──訓練はやめてふて寝してもいいのよ?」
「ガキの頃一度会ったきりじゃ忘れても仕方ないだろ。それに俺が出会った時からミョウジは既に加茂さんの許嫁だった。だから、初恋も何もねぇんだよ」
「ふーん?でも、女子の顔まともに見られない思春期の男子って感じしてたわよ?」
「昔と雰囲気が違っていたから驚いていただけだ」
「のわりには、一瞬でナマエってわかってたじゃない」
「面影が残っていたからな。それに京都校に入学したことは五条先生から聞いていたから、すぐに結びついたってだけだろ」
釘崎に言われてみれば、すぐに気がつくのもおかしな話だが、そもそも京都校の生徒──東堂葵と禪院真依と接触した時にナマエのことを一瞬でも思い出さなかったとは言い難い。記憶に残っているナマエと似た少女が高専内を彷徨いていたらすぐにナマエと結びついても不自然ではないはずだ。
別に好きだったとかではなく、伏黒にとってナマエは思い出の少女であるだけだ。毎年立春を迎えたり、桜を見ると懐かしく思うだけ──伏黒の中での認識はそれだけで他意はないつもりである。
「へぇ、そう……にしても、綺麗な子だったわね。あっ、どこのリップ使ってるのか聞いとけばよかった。髪もトゥルトゥルだったし、整髪料とかどうしてるんだろ。睫毛はマツエクかしら」
「連絡先交換したんだろ?連絡して聞けばいいだろ」
「いちいちスマホでコスメ関連全部聞くの面倒でしょ。あの子丁寧過ぎて文字打つの時間かかりそうだから、なんか可哀想だし」
「全部聞く気なのかよ」
「もち。だって遺伝子レベルで綺麗な子だって何かしら人とは違うことしてるもんだし、あの子の場合特に何かやってそうだし。打倒京都校に燃えてなかったら一緒に買い物とか行きたかったかな」
「ミョウジのこと気に入ったのか?」
釘崎とはタイプが真逆のようであるのに、ナマエに対して好意的であることに伏黒は驚いていた。釘崎からナマエに連絡先を聞いた時はナマエが迷った時の為の親切心からだと思っていたが、目的が交友となると事情が違ってくる。
「気に入ったというか、やっぱこういう界隈で女の友達って貴重じゃない?女同士でしかできない会話とか買い物とかしたいし。彼氏の話聞くのも面白そうだし」
「だから、彼氏じゃなくて許婿な」
伏黒は呆れたように訂正する。
「同じようなもんでしょ」
「同じでたまるか」
許婚とは、当人たちの意思とは関係なく、将来夫婦となることを定められた関係だ。互いの意思だけで結びつく恋人などという不確かな関係とは大きな違いがある。
約束の強固さにおいて、この二つの絶対的な差は、当人たちの意思によっても更に広がる。
ナマエが憲紀のことを心から慕っていることを当時から知っていた伏黒は、当人たちの強い結びつきをあやふやな形で表現されることを嫌った。
「しつこいわねぇ。しつこい男はモテないわよ?」
「……そうかもな」
モテるモテないの話になると、今は恋愛よりも唯一の家族を大切にしたいと思う伏黒にとっては、その家族への執着がモテないことに繋がってもおかしくないと思い、同意した。
ただそれだけの理由であるにも関わらず、釘崎は変に気を遣って「えっ。なんかごめん……」と謝り出してそれが伏黒を苛立たせた。
といっても、信頼のおける大切な仲間との他愛ないやり取りである。
少し歩けば苛立ちはあっという間に消え、意識は再びナマエのことへ向く。ミョウジナマエ──約八年振りに会う彼女はどうして自分のことを忘れてしまったのだろう、と想いを馳せる。
◇
二〇一〇年二月三日夜半──京都北西の山中にある社にて。当時七歳の伏黒恵は、一時的に保護者となった五条悟に連れられて加茂家主催の呪霊封じの祭に参加していた。
呪霊封じの祭とは、楽士が音曲を奏でる中、狐面で顔を隠した術師が呪力、または生得ではない術式によって呪霊を祓うことで平和の世を願う祭事である。音曲を奏でるのは非術師の恐れや穢れを鎮める為、定められた範囲で呪霊を祓う行為は、生得術式の情報を保全しつつ、生得術式なしでも呪霊を祓える能力を高める為である。
この祭事を行う目的の真意は加茂家が呪術界での存在感を示すことであり、二月二日、三日のそれぞれの晩、禪院家と五条家を招待して執り行っている。
今宵、五条に連れられてきた伏黒は五条家参加の日であったが、伏黒は禪院の血筋を引く者であった。今は諸々の手続きの為に一時的に京都にいるだけで、いずれ東京の方へ戻る予定である。
五条は「ちょっと気になる人に会いに行くだけだけど、来る?」と伏黒を祭りに呼び、「やっぱ、加茂家が気を遣って禪院家と日分けてくれてるし、顔隠しておこっか」と、どこからともなく白い狐面を取り出し、無理矢理伏黒の顔に被せた。
狐面で視界は少し狭まるが、慣れれば悪くはなかった。五条家の中に禪院の血を引く自分がいるのは目立つ。特に五条悟に連れ回されているせいで、周りがちらちらと自分たちを窺っているのがわかっていた。
「おっ。会いたい人は見あたんないけど、その子供の方はいたね。ほら、恵。あのナマエって子めっちゃ琴うまいんだよ。てか激しくてウケる。琴爪がピックに見えるんだけど。一人だけロック弾いてるのかな?」
祭囃子はよく聴こえていたが、演奏家たちの姿はまだ背丈の低い伏黒には人混みで見えなかった。
「いや、見えないんだけど。音よく聴こえないですし」
「肩車する?」
「目立つの嫌なんで」
「遠慮しなくていいよ。ほらほら。あんな可愛い子見れないのは損だよ?」
「そういうのいらないんで」
どうせ見るなら、式神使いが呪霊を祓うのを伏黒は見たかった。自分の式神は玉犬であるのだが、他の式神使いは猫でも顕現させるのか、と興味があった。
祭りの様子がよく見えるようにと、五条から離れて人混みを縫っていくと、術式により満開となった桜の花弁が舞う中、篝火の灯された社の中央で、狐面を被った何人もの呪術師が呪霊を祓っているところであった。そのうちの一人は式神使いらしく、式神を顕現させていた。──式神は犬だった。
玉犬よりも小さくて弱そうな様子から、伏黒はがっかりして術師たちから離れて祭囃子を演奏する楽士たちに目を向けた。楽士は若い男女で構成され、横笛は少年、琴やその他の楽器を奏でているのは全員少女である。
その中で、一人だけ手の動きが速くて目立っている少女がいて、それが五条の言っていたナマエであることがわかった。確かに琴爪がピックに見えなくもないのだが、この瞬間伏黒はその少女の姿に惹かれていて、手元など気にする意識は一瞬で消え失せていた。
ナマエが身に付けているのは真っ赤な着物に金色の帯、さらに帯締めは着物と同じ赤色の花飾りが付いたもので、結い上げられた髪には大きな赤いリボンの髪飾りが付けられている。あまりにも派手だ。
目立つことだけを追求したような格好ではあるが、赤と金の二色を基調としている為にバランス自体は悪くなく、着ている本人が華やかな顔立ちをしている為に違和感はなかった。
伏黒はなんとなく惹かれてナマエの顔を見つめていると、ナマエだけ彼女とよく似た若い女性に無理やり手を引かれて退場し、人混みの中へ消えていった。
ナマエがいなくなっても祭囃子の演奏は途切れることなく続いていた。まるで初めから存在していなかったかのように他の若い楽士たちは演奏を続け、周りの人たちは最初から最後まで術師ばかりを目で追っていた。
子供ながらに伏黒は違和感を覚えていると、五条が人混みから現れた。
「祭りの様子どう?びっくりする程つまんないっしょ。ナマエのお母さん見つからないから余計に退屈だよ。一目見るだけでもいいのに、一瞬も見えないってなに?加茂家当主もいないし」
「俺に聞かれても知らないですよ。そのナマエって子のお姉さんっぽい人ならさっき彼女の手を引いていなくなりましたけど」
「ああ、多分それがナマエのお母さんだよ。あれで二十四歳って色々ヤバいよね。んで、どこ行ったの?」
「人混みに消えていったので知りませんよ」
「んじゃあ、ちょっと探しにいってくるから恵はその辺うろうろしといて」
五条はそう言うと、人混みをかけ分けて行ってしまった。
祭りへの興味が失せていた伏黒は、美しく咲き誇る夜桜でも見ていようと祭事の会場から離れていった。
一人で桜の花弁で埋め尽くされている道を歩いていると、木々の重なりが濃い場所で先程の派手な少女──ナマエが蹲っているのが見えた。親と離れてしまったのだろうか。
何かと思い近づいてみると、ナマエはしゃがんで泣いているのがわかった。
伏黒の気配に気がついたのか、ナマエはパッと顔を上げ、期待するような顔で伏黒を見たかと思えば、立ち上がって後退する。
「だ、誰……?」
「……伏黒。五条悟の連れとして来た」
ナマエの怯えたような様子から、伏黒は自分が狐面を付けたままであることに気がつき、ナマエを安心させる為にとりあえず苗字を名乗り、知り合いの名を出した。
「悟さんの知り合い?伏黒って最近禪院家をごたつかせてる例の子?」
ナマエはそっと涙を拭い、伏黒を不思議そうに見つめる。
「……そうだよ。なんで泣いてるんだ?母親はどうした?」
「悟さんに呼び止められたところで逃げ出したの!お母さまったらなんだかすごく怒ってて、まだ演奏中のわたしを連れていこうとしたの!」
「じゃあ、楽士のところへ戻ればいいだろ。迷子……ではないよな?明るい方に行けば着くし」
「迷子じゃないけど……髪飾りをどこかで落として見当たらなくて……大切なものなのに……見つからなくて……!」
あの馬鹿でかいリボンか、と伏黒は理解して、式神である玉犬の白と黒を顕現させた。
「この子のリボン、見つけてこい」
ナマエは朱に塗った唇をぽかん、とだらしなく開けたまま、木々の間を縫って消えていく白と黒の背を目で追っていた。
「式神使い……?凄い!あんなにおっきい犬初めて見た!かっこいい!後で触っていい?」
先程の泣き顔はどこへやら。ナマエは興奮した様子で、ペット感覚で式神への興味を見せる。
かっこいい、と言われた伏黒は悪い気はしなく、それでも何て返したらいいかわからずに黙っていた。
先に白がナマエのリボンを咥えて戻ってきた。ナマエは大袈裟なくらいに喜んで、白の毛並みをぐしゃぐしゃにして撫でたり、口づけたり、抱きついたり、やりたい放題にした。続いて戻ってきた黒にもナマエは同様にするが、二匹とも特に嫌な反応は見せなかった。
「式神使いならお祭りに参加できるよ!今からでも呪霊祓いにいったら?」
「確か生得の術式は使用禁止だろ?それに俺の黒と白は大人の式神より──」
「あ!早くお祭りに戻らなくちゃ!憲紀さまがもうすぐ出るの!リボン、付けて!」
ナマエは白と黒から離れると、伏黒にリボンを押し付けた。
感情の起伏が激しい上に、人の話よりも自分を優先するナマエに伏黒は「なんなんだ」と思いつつ、髪飾りを付けてやった。
「可愛い?」
ナマエは少し赤く潤んだ瞳を細め、真っ赤な唇で整った笑みを形作り、小首を傾げる。──自分が可愛いとわかっていて聞いているのだろう。
伏黒はこの手のタイプが苦手であったが、ただ可愛いのは事実である為に反応に困った。
何も言えずに黙っていると、ナマエは「可愛くない?お化粧崩れちゃってる?」と心配そうに眉を落とす。形のいい眉で作られる困り顔まで可愛らしく、伏黒はなんだか胸の辺りが騒つくのを感じていた。
「別に……崩れてない」
「よかった!泣いちゃったから崩れたかと思った!じゃあ、一緒に憲紀さまを見に行こ!」
ナマエは伏黒の手を取り、グイグイ引っ張っていく。
突然手を握られた伏黒は積極的なナマエにどぎまぎしつつ、先程からナマエのいう「憲紀」という人物が気になっていた。
「憲紀って加茂家の嫡男か?オマエのいとこか何かか?」
「嫡男だけど、いとこじゃなくてわたしの許婿!とってもかっこよくて、頭がよくて、優しいの!呪力だけでも呪霊を払っちゃうくらい強いの!」
「……」
頰を紅潮させ、つぶらな瞳を輝かせるナマエに伏黒は自分の中で何かが冷たく凍っていくのを感じた。
反抗するように握られる手を振り解き、その場に立ち止まった。
「どうしたの?お腹痛いの?」
「……腹は痛くねぇよ。俺、五条さん探さなくちゃだし。ここでお別れだ」
「憲紀さま見ないの?」
「興味ねぇ。足元暗いから転ばないようにな」
「……悟さん一緒に探すの手伝うよ?一人で大丈夫?」
そういうナマエの足は会場の方へ向いていて、今にも走って行きたそうにしている。
「俺はもう七歳だ。一人でも問題ねぇし、玉犬に頼めばすぐに見つかる」
「……そう。じゃあ、本当にわたしいっちゃうよ?」
「ああ」
「リボン見つけてくれてありがとう。白黒くん、優しいね」
「伏黒だ」
「伏黒くん、また来年もくる?」
「……東京の方へ戻るし、もうこっちくる用ねぇし。もう会えねぇだろうな」
「……そう。じゃあ、悟さんによろしく言っておいて。あと、お母さまはずっとお父さまのものだからちょっかい出さないでって伝えておいて」
「……わかった」
少し信頼を置いている相手が人妻に手を出していると聞いたら普通は動揺するものだが、今の伏黒はそれどころではなく、早くナマエから離れたい一心でいた。
ナマエは結い上げた髪とリボンを揺らしながら走って行く。何度かこちらを振り向いては手を振ってくる様子が可愛らしく、伏黒はすぐに背を向けようと思っていたが結局ナマエの姿が見えなくなるまでその場に突っ立っていた。
ナマエがいなくなると、少しは胸の辺りの重みが取れると思っていたが、そんなことはなかった。
「甘酸っぱいねぇ」
突然ひょっこり姿を現す五条に伏黒は肩を跳ねさせて距離を取った。
「いつからいたんですか……?」
「少し前から。フラれたもの同士、慰めあおうか」
「別にフラれるも何も、アイツのこと好きでもなんでもないんで」
そういう伏黒の声は低く、語尾が震えかけていた。好きではなかったとは思うが、なんだか胸の辺りがもやもやしているのも事実。きっぱりと否定出来る程の自信はなく、自分でも意地を張っているのがわかっていた。
「そ。まぁ、僕もフラれるも何も、ちょっかいかけたかっただけだし。にしても、相変わらずお美しかったなぁ。怒った顔が凄くいいんだよねぇ」
「アイツのお願い聞きました?」
「だって、僕ナマエのお母さんの再婚相手になりたいとか思ってないし。不純な動機でちょっかいだしてるわけじゃないし」
「再婚?よくわからないですけど、もう疲れたんで帰りたいです」
「んじゃあ、帰ろっか」
伏黒は一瞬だけ、祭囃子の聞こえてくる方を振り返ったが、すぐに前を向いて先へ行く五条の跡を追った。
◇
八年程前の記憶を細部まで遡った伏黒は、何故ナマエが自分を忘れていたのかに気がついた。おまけに当時感じていた胸の辺りのもやもやまで思い出してきた。
「そういや、狐面付けたままだったな……」
「えっ、なに?」
隣を歩く釘崎が、先程から黙っていた伏黒が突然脈絡のないことを話すので引いたように聞き返す。
「狐面を付けていたから俺のことを覚えていないのは当然だな」
「狐面?なんの話か見えなくて怖いんだけど」
「あと、そんなに好きじゃなかったな。あざとかったし」
手を握られた時に高鳴る心臓の鼓動は、恐らく意識していた相手に触れられたからだ。別に好きでなくとも、その時だけ心が動かされるのはおかしいことではない。
結局好きという感覚に陥る前に冷めた気がする。良くて、"気になる"程度だ。今の思考力が当時にあれば、「気になりはしたけど、好きまではいってない」と、からかってきた五条に言い返せただろう。
「一体なんの話よ。自分のことばかり話す男はモテないわよ?」
「女もな」
昔のナマエが自分の話を遮って、他のことを話し始めた時のことを思い出し、付け加えるように同意した。
気を持たせるような行動ばかりするナマエはその時だけは確実にモテるだろうが、許婿のことで興奮したようにベラベラ話すのはモテないだろう。隙がなさ過ぎる上に冷める。
「自分のこと話さない女っている?」
「いくらでもいるだろ」
「あ、ふみは割とそうかも」
「誰だよ」
伏黒は呆れたように言うと、医務室のある校舎を振り返った。
ナマエは御転婆な雰囲気から一転落ち着きのある女性に成長していた。
もし昔のように触れられでもしたら、一時的に気の迷いは起こすかもしれない。それだけの魅力がナマエにはある。だが、そのまま簡単に好きになりはしないだろう。
「やっぱ、気になるんじゃないの」
「少し気にかかる程度だな。それ以上の意識に上るような人じゃない」
「どの面がそれ言ってんのよ?」
「あ?」
貶してきた釘崎に挨拶程度のガンを飛ばし、伏黒は正面に向き直った。少し軽くなった足取りで訓練場へ赴き、二年の先輩相手に組手をしている間にナマエのことは頭から薄らいでいった。
← | →
noveltop/sitetop