医務室にて、着替えを終えたばかりの憲紀の姿を見たナマエは悲鳴をあげた。

ナマエは重症を負ったという憲紀を心配しつつも、家入の反転術式で綺麗に治っていると思っていた為に、憲紀の頭部や顔の左半分近くが包帯で覆われている姿を見て驚いたのだ。

動揺するナマエを憲紀が抱きしめ、宥めようとするが、ナマエはその憲紀の優しさが無理をしているように感じ、ついに泣き出してしまった。

術師である以上、いつかは憲紀が酷い怪我をすることもあるとはわかっていたのだが、それがあまりにも突然過ぎた。

それにナマエが高専へ入学してから把握している限り、憲紀が任務へ行っても擦り傷以上の怪我をすることが殆どなかった為に感覚が麻痺していて、優秀な憲紀が大きな怪我をするわけがないだろう、とどこか安心しきっていた。

故に人体の要とも言うべき頭部から左頰を通って顎にかけて包帯を巻かれた憲紀の姿を見て、「憲紀さまのお怪我は一生治らないかもしれない」、「今後もまた大きな怪我をしてしまうかもしれない」とナマエは悪いことばかりを考えてしまう。

「だから来るなと言った……ナマエにこんな不甲斐ない姿を見せたくなかった……だが、見た目以上に酷くはない。この包帯はすぐに取れるらしい」

「ほ、本当ですか?」

「ああ。だから泣き止んでくれ」

ナマエの瞳から溢れる大粒の涙を、憲紀は指でそっと拭ってやる。

動作こそ優しいものの、憲紀の声色から困惑していることが伝わり、ナマエは自分が泣いていることで、憲紀に迷惑をかけていると自覚して殊更涙を溢れさせる。

「っ……っく……」

静かな涙から一点、ナマエが嗚咽まで上げ出した為に憲紀も困ったらしく、「何か拭くものを持ってこよう」と、怪我人でありながら甲斐甲斐しくナマエの世話を始めた。



 ◇



憲紀の怪我を見て取り乱したナマエは憲紀の為に温かいコーヒーを淹れるついでに顔を洗ってくると言い、宿舎にある食堂へ向かった。

幸い宿舎の外観と内装は京都校と似ていた為に食堂の場所は簡単にわかった。
いつものように髪を結いあげてエプロンをし、コーヒー作りに取りかかった。メジャースプーンで二杯分のコーヒー豆の量をはかり、持参したコーヒーミルで豆を挽いていると、ナマエのいる厨房に伏黒が現れた。

「伏黒、くん……?怪我をしていらしたのでは……?」

ナマエは近づいてくる伏黒を驚いたように見上げる。

「……どうしてこんなところにいるんだ?さっき、虎杖がミョウジは加茂さんを見舞いに医務室にいると聞いたが」

伏黒はナマエの高く結いあげた髪やエプロンを見つめ、それから手元のコーヒーミルに目をやる。

「はい……えっと、コーヒーを作る為にこっそり食堂へ侵入してしまいました……」

「医務室に水道とコンロなかったか?」

「ございました。ですが、その……やむを得ない事情がありまして……」

伏黒はナマエの歯切れの悪さが気になったのか、正面からナマエの顔を見て、表情の乏しい顔に動揺の色を走らせた。たった今ナマエの瞳が充血していることや、鼻先や頰が薄らと赤く染まっていることに気がついたようだ。

「加茂さんと喧嘩したのか……?」

「違います……!ただ……」

伏黒の問いにナマエは俯いた。憲紀に泣いた顔を見られたくなかった──それが医務室を出た理由であると自分を騙そうとしたが、無理であった。本当は憲紀が怪我をした姿を見るのが辛くてここまで逃げ出したのだ。

加茂家次代当主の許嫁であるならば、どんな時も気丈な振る舞いが求められるのだろうが、ナマエにはそれができなかった。許嫁失格であると思うと、また泣き出しそうになる。

「事情はわからないが、何か手伝うか?というか、豆から挽いてるのか?」

気遣いなのかはわからないが、言い淀んでいたナマエの発言を急かすことなく、話題を変える伏黒にナマエは安堵した。

「はい。憲紀さまはコーヒーがお好きなので、出来る限り美味しいものを提供したくて……」

「加茂さん、コーヒー好きなのか。意外だな」

「わたしも憲紀さまは緑茶などを好まれると思っておりました。伏黒くんも召し上がりますか?少し多めに挽いていますので二杯分は作れます」

数秒の間、伏黒は迷ったように視線を彷徨わせた後、「もらう」と頷いた。

「わかりました。苦味が強いので、お口に合うと良いのですが……」

「苦味なら平気だ。ミョウジは加茂さんに会ったんだよな?怪我はどんな具合だ?」

「……っ……!」

頭部から顎にかけて包帯を巻かれた痛々しい姿の憲紀がナマエの頭を過る。憲紀から離れ、一人で芳しいコーヒーの香りを嗅いで落ち着きつつあった心は、簡単に揺すぶられ、再び大粒の涙がナマエの頰を伝った。

伏黒が大きく目を見開き、ナマエの頰へ手を伸ばしかけ──下ろした。

「悪い……何か顔を拭くもの持ってくる」

「……気を遣わせて、しまって、すみませんっ……!タオルなら、持っていますっ……」

ナマエは厨房を出て、食堂においていた手荷物から取り出したタオルで涙を拭っていると、ふと強い呪力の存在を察知してその源へ顔を向けた。

そこにいたのは腹部の白い、黒毛の玉犬であった。その隣にいる、成人男性といっても差し支えのない程の体格である伏黒よりも大きな玉犬の姿にナマエは唖然とした。

「式神……?」

「渾だ。確か犬、好きだろ?犬って表現するには大き過ぎるが。興味なかったら悪い……」

首元に手をやり、そっぽを向く伏黒の言動に、ナマエは何か引っかかるものがあり、脳内で記憶を探りつつ、毛色を確かめるように赤くなった瞳で渾の巨躯をじっと見つめる。
この間にナマエの涙はすっかり止まっていて、悲しい気持ちも薄れつつあった。

「……白と黒……白黒くん……?伏黒くんって白黒くんだったのですか……?」

いつだったか。ナマエが呪霊封じの祭で自分を助けてくれた玉犬の白と黒、それから狐面を被った男の子をふと思い出した。

「あの時訂正したのになんでそっちで覚えてんだ……」

伏黒の声色は呆れているようなものの、口元が微かに弛緩する。

「すみません。玉犬のお名前で記憶が上書かれてしまったみたいです。ですが、思い出しました。あの時、大事なリボンを探してくださりありがとうございました。触ってもいいですか?」

ナマエは昔に触れた黒と白のことを懐かしみ、あの二匹のようにふさふさと長い毛を纏う渾に触れたくて堪らなくなっていた。

「好きにしていい」

「ありがとうございます」

ナマエは自分よりもずっと大きな渾の頰へと手を伸ばし、優しく毛並みにそって撫で始めた。
鋭い渾の金色の瞳が穏やかにすっと細くなるのを見て、ナマエは思わず微笑んだ。

「犬、好きなのか?それとも猫派か?」

「動物は皆好きですが、黒ちゃんと白ちゃんはお祭りの時にわたしを助けてくれたので特別です。渾ちゃんもたった今から特別です。黒ちゃんと白ちゃんも同時に出せたりするのですか?」

「……白は死んだ。そいつは黒が白の力と術式を受け継いだ姿だ」

「……っ」

ナマエは下唇を噛み、小さく肩を震わせた。せっかく癒えつつあった心があっという間に傷つき、綻びていく。やはり、引きずっていた負の感情が短時間で収まるわけもなく、再び涙が目に滲む。

「ごめんなさい……」

「お、おい……」

伏黒が慌てたように手を持ち上げると、同時に渾も慌てたようにナマエの顔を覗き込み、その巨躯をナマエの体へと擦り付ける。

そんな折に両手に大きなピザの箱を抱えた釘崎が食堂へ入ってきた。

「伏黒ォっ!さっさとジュース持ってこんかい!ピザが冷めちゃったじゃないのよ!」

まるでチンピラのように怒鳴り散らかす釘崎の姿を振り返り、ナマエは驚いた。ナマエの知っている釘崎は優しくて、頼れて、親切で、身だしなみのきちんとした女の子らしい女の子だと思っていたからだ。こんな鬼のような形相をして、荒っぽい言葉遣いをする釘崎をナマエは知らなかったが、もしかしたら快活が過ぎるだけかもしれない、と釘崎を慕う気持ちから彼女の荒っぽい面を簡単に受け入れた。

「あ、ナマエじゃない。え?ちょっと、なんでエプロン付けて泣いてるの?てか、なんで玉犬いんの?は?伏黒、ナマエを泣かしたの?」

釘崎はピザの箱を片手に持ち替え、心配そうな顔をしてナマエの腕を摩ると、伏黒を睨みつける。

「……ある意味俺が泣かせた気がする。つか、病み上がりの俺パシった上にキレんなよ」

「ナマエ、ホント?コイツは私がとっちめてやるから泣き止んで?」

「野薔薇さん……すみません……わたしが勝手に泣いているだけなので、大丈夫です……」

「大丈夫じゃないでしょ。まさか伏黒に変なことされたの?」

「んなことするか」

いつも淡々と話す伏黒が声を張って否定する。
その横でナマエは頭を左右に振って否定した。

「憲紀さまが酷い怪我を……わたし、怖くて……不安で……憲紀さまがっ、死んじゃうかもしれないと思って……!」

「加茂家の人ね……」

釘崎は眉根を寄せる。憲紀がナマエの許婿であると知りながら、「加茂家の人」と表現することは不自然であり、ナマエも少し引っかかるところがあったが、今はそれどころではなく、憲紀の怪我とどう向き合えばいいのかで頭がいっぱいである。

「大丈夫よ。あの人のことよく知らないけど、特級に殴られて生きてるくらいだからそうそう死なないわよ」

「……そう、ですよね……憲紀さまは強くて優秀で賢くてかっこいいですもの……」

「かっこいいは関係ないけど、そうね。彼氏の強さを信じてあげればいいんじゃない?」

「強さを信じる……?」

「そ。せっかく生きてて回復してんのに、死んじゃうかも、なんて不安になってちゃ可哀想でしょ。特級と対峙して生きてんのは強さの証。ナマエは彼氏の強さを信じてみれば?」

ナマエは釘崎の言葉を脳内で反芻し、理解を深めていく。
今後の憲紀の怪我や生死について不安でしかたがなかったが、それは裏を返せば、彼の強さを信じていないことにもなる。つまり、彼の強さを信じることが、その不安を打ち消す方法にもなる、とナマエは釘崎の言うことに納得した。

「確かに、それはとても大切なことです……わたしは憲紀さまの強さを信じたいです」

「そう」

漸く泣き止み、落ち着いた声で話すナマエに、釘崎は安堵したような笑みを口元に刻む。
それから思い出したようにナマエの結いあげられた髪やエプロンに目をやり、首を傾げる。

「なんでエプロン付けてるのよ?」

「憲紀さまの為にコーヒー豆を挽いていたので」

「彼氏の為にバリスタになるとは流石ナマエね。私も豆から挽いたコーヒー飲んでみたいわ。牛乳あるし、カフェオレがいいわね」

「ミョウジは顔を洗ってきた方がいい。豆は俺が挽いとく」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……メジャースプーンで八グラム分豆を追加して、やや細挽きよりの中細挽きでお願いします。回すスピードは必ず一定でゆっくりめに」

「……わかった」

「アンタその反応わかってないでしょ」

「調べればわかる」

「先にやり方をお伝えしてから顔を洗ってくることにします。ですがその前に渾ちゃんをもう少しだけ堪能したいです」

ナマエは渾に抱きつき、ふさふさとした毛の中に顔を埋めた。渾の大きな体や温かな体温、微かな息遣いに上下する体から伝わる鼓動──それらを全身で感じ取り、伏黒や釘崎が慰めてくれたことを思うと、胸が温かなもので満たされた。



 ◇



数十分後。ナマエが晴れやかな顔で医務室へと戻った。
憲紀は部屋の端にあるテーブルに着いて本を読んでいる。病み上がりでまだ寝ていた方がいいと思われる程の怪我だ。無理をしているのではないか、とナマエは心配になる。

だが釘崎の言葉を胸に抱いた今、憲紀の頭部や顔の半分を覆う包帯を見ても、ナマエは動じる様子を見せなかった。

「憲紀さま、お待たせしました。先程伏黒くんと野薔薇さんがいらして、コーヒー作りを手伝ってくれました。伏黒くんが豆を挽いて野薔薇さんがお湯を注いだものです」

保温マグをテーブルの中央に置き、ナマエは憲紀の向かいの椅子へ座った。

「ありがとう。目がまだ少し赤いが落ち着いたか?」

憲紀の包帯で覆われていない片目がナマエの表情を観察するように見つめる。

「はい。先程は取り乱して申し訳ありませんでした。大切な人が傷ついた姿を見ることがこんなにも悲しくて辛いことだとは知らなくて……」

「気持ちはわかる……名古屋で傷ついたナマエの姿を見た時、私もそうだったよ」

今から二ヶ月以上も前の話だ。ナマエがとある少年を助ける為に背中に怪我を負った時のことを憲紀は言っているのだろう。

あの時、ナマエが無理をして少年を助けたことを憲紀は怒っていた。最初は憲紀のそんな態度をナマエは受け入れられなかったが、話し合いの末、そのことについてナマエは一定の理解は示すことができた。それでもその理解が浅かったことが今回のことでよくわかった。

憲紀が傷ついたことがどんなに辛くて悲しいことか──ナマエが怪我をした時の憲紀もそんな気持ちだったのだろうと思うと、如何に憲紀の気持ちを顧みることができなかったのか思い知らされる。

「その件については、漸く憲紀さまのお気持ちを正しく理解できた気がします」

「それはなによりだが、私のことについては心配いらない」

「はい。過度な心配はいたしません。わたしは憲紀さまを信じていますので」

「この短時間で心境が大きく変わったようだが、何かあったのか?」

「野薔薇さんがとても良いことを言ってくださったお陰です」

「……良い友人を持ったようだな」

「はい。それと伏黒くんや虎杖くんともお友達になりました……といいましょうか、以前お会いしたことがある方が虎杖悠仁くんでした……」

ナマエは少し話しづらそうにして身じろぐ。地下で会った少年のことは話す必要がないと思っていたのだが、彼の正体が虎杖であるとわかった今は憲紀に事情を伝えるより他はない。"宿儺の器"を殺すべきだと考える憲紀にはとても言いづらいことであるが。

「一体どういうことだ?虎杖悠仁といつ会ったというのだ?」

「お話すると長くなるのですが──」

ナマエは交流会の打ち合わせに同行した際、偶然見つけてしまった地下室のこと、そこにいた少年が虎杖だとは知らずに仲良くなったこと、後から来た恩人の五条から虎杖のことを黙っているように言われたことを話した。

「つまり……私に嘘をついていたということか?」

ナマエの予期していた通り、憲紀は思うところがあるのか訝しげに眉を上げる。

「嘘はついておりません。ただ悟さんに言いつけられた通りに黙っていただけです」

「……罪悪感はなかったのか?」

「男の子が地下に隠されていることについて特に気にならなかったからです。あの時彼が虎杖くんだと気がついていましたら、悟さんとの約束を破って憲紀さまにお話しました」

ナマエの頭の中では、今回の場合は結果的に虎杖のことを黙っていたから憲紀が問題視しているのだろう、と考えている為に罪悪感がそれ程なく、淀みなくありのままの事実を言えた。

そんなナマエの悪気の無さが憲紀に伝わったのか、憲紀の硬い表情が僅かに和らぐ。

「それを聞けて安心はしたが……次からは私には全て話して欲しい」

「はい。憲紀さまがそう望まれるのなら仰る通りにします」

「……五条悟が私に言うな、と言ってもか?」

「悟さんにお願いしてなんとかしていただきます」

「幾らナマエが懇願してもあの五条悟には通じないだろう。だが、私もナマエのことは信じるから一連の話は終わりにしよう」

「虎杖くんのことは良いのですか?」

「……話に聞くと、特級を退けたらしい。彼には術師として人を助ける力がある。まだ一考の余地はある」

「憲紀さま……」

憲紀は虎杖を呪いとしてしか見ていなかったはずであるが、今回の事件で見方を変えたらしい。時折柔軟性に欠けるところのある憲紀だが、こうして彼が思考の変化を見せたことにナマエは感心して、益々憲紀への想いを募らせた。

「それで──伏黒君と釘崎が淹れたコーヒーか?」

「はい。お二人とも憲紀さまに『よろしく』と仰っておりました」

「……私は彼らの同級生を殺そうとした。伏黒君はともかく、あの不良娘のことだ。毒でも入っているのではないか?」

「……はい?」

伏黒たちの同級生とは、つまり虎杖のことだろう。術師としての研鑽や仲間を知る為の交流会で憲紀が虎杖を殺そうとしたこと、仲の良い友達を『不良娘』と表現した上に毒を入れたなどと疑いをかけたことでナマエは言葉を失った。

「学長の命令により、京都の交流会参加メンバー全員で虎杖を襲撃した。聞いていないのか?」

「聞いておりません!ああ、どうしましょう……虎杖くんはそんなことおくびにも出しませんでした!それどころか、憲紀さまの怪我の心配までしていただきました!」

「鈍いのかお人好しなのか……」

「虎杖くんは優しくて、純粋無垢で素朴な子なのです。野薔薇さんも元気いっぱいなだけで不良ではありません」

「……虎杖については話したことがないからなんとも言えないが、あれは元気いっぱいですむのか……?初対面で頭の天辺から足の爪先までじろじろ見られた上にガンを飛ばされたのだが」

「野薔薇さんがそのようなことを?……憲紀さまがどんな容姿なのか気になされていたのでじっくり観察していただけだと思います。それに交流会が京都開催だと勘違いしていらしたのでショックで怖い表情になってしまっただけかもしれないです」

「……もう彼らは本当にナマエの友人なのだな」

「はい。同級生のお友達がいっぱい出来て嬉しいです」

襲撃されたのにも関わらず憲紀のことを心配してくれる虎杖に、二度も式神を使って自分を助けてくれた伏黒、そして心優しい釘崎。
ナマエはそんな三人と知り合えて心から良かったと思えた。

未だ薄らと赤くなった瞳を細めて笑うナマエへ憲紀も穏やかな笑みを返し、

「それなら、私から言うことは何もない。ナマエが私を信じてくれるように、私もナマエを信じるよ」

保温マグカップを手に取り、躊躇いなく口をつけた。



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