13
その執事、一心5
一枚目の用紙は、高杉家と土方家の友好を誓う契約書。
「ここは姓だけでいい。」
晋助様に指を差された場所に、
私は"土方"と姓だけを書いた。
震える手は、あまりにも醜い字を紙に置いて。
それを見た晋助様が小さく低く笑い、その紙を私の前から奪った。
光に透かすように、
その用紙を高く持ち上げて、
「これでいい。」
晋助様が煙管を片手に頷いた。
そしてすぐにもう一枚の用紙を私の前に並べ、
「ここにお前の姓と名を書け。」
トントンと紙面上を叩かれた。
私はそれに声も出さずに頷き、紙の上でペンを握る。
晋助様が満足気に白く濁った息を吐く。
私を取り巻くその煙に、眩暈がした。
「ちゃんと書けよ?こっちの方が大事なんだからよ。」
晋助様がククと笑い、私の右に落ちる髪に触れた。
私はそれを目の端で確認して、また小さく頷いた。
"姓"と書かれているところには"土方"と、
"名"と書かれているところには"紅涙"と書いた。
書き終わってペンを置けば、晋助様は「よし」と言い、朱肉のようなものを出す。
「手、貸せ。」
「手…?」
晋助様は私の疑問を余所に、右手を掴んだ。
そのうち親指だけを朱肉に付け、黙って紙面上に私の指を押し付ける。
「母印…ですか?」
「あァ、…よし。これでいい。」
私に真っ白な布を渡し、「拭いとけ」と顎を差して言った。
気が引けるような真っ白だったけど、それに指を擦り付けるようにして拭いた。
白に映える赤が、鮮やかな血のようで。
『俺に、お前を殺させないでくれよ?』
掻き切られるような感覚が、
また私の身体に走った。
乾かすように並べられた二枚の契約書。
私は、
とんでもないことをしてしまったのかもしれない。
でも。
でもこれで。
土方家の威厳が取り戻せるのなら…。
たとえ…、
もう、トシと一緒に…過ごせなくても。
その契約書から目を逸らすように俯いた時、
―――ドゴォォン!!
「っ?!」
けたたましい爆音とともに、
晋助様の部屋が一瞬で砂煙に塗れた。
あまりの衝撃に私は目を瞑り、身を硬くしていれば、
「紅涙様、」
背後から、
耳元に、
「お迎えに、参りました。」
ずっと呼びたかった声が聞こえた。
「トシっ!」
私はすぐに振り返り、その声の主に抱きついた。
トシは汚れひとつない燕尾服で私を抱き締めて、
「遅くなりました。」
と、まるで助けてほしかったことを知っているかのような言葉を聞いた。
その時、あの低く喉で笑う声が聞こえて、
「よォ、執事さん。」
"相変わらず乱暴な輩だ"
晋助様が砂煙の向こう側に見えた。
トシはすぐに私を背後に隠して、薄い笑みを向けた。
「こんな屋敷ですから、窓よりも壁を壊した方が手堅いかと思いまして。」
"窓はきっと防弾でしょう?"
トシは親指を窓に向けて、鼻で馬鹿にするように笑った。
晋助様は「賢明な判断だな」と同じような笑みを向けた。
「まァいいさ、大事な契約は終わったとこだ。」
"なァ?紅涙"
私に向けて、さっきの契約書をピラピラと靡かせた。
「ククク、こっちは土方家との友好を誓う契約書。」
「えぇ…、それは紅涙様より伺っております。」
「何だ、紅涙。こっちのことは話してなかったのか?」
晋助様は楽しそうに笑い、紅い印の押された契約書を揺らした。
私はトシの服をギュッと掴む。
トシは、この契約の内容を知らない。
でも当然、
トシはそれを見て、
「それは何です?」
目を凝らすように、眉間に皺を寄せた。
私はさらにギュッとトシの服を掴む。
それに気付いたトシが、私の手に白い手袋をした手を重ねた。
「紅涙様、あれは何です?」
私は逸らすしかなかった。
「…っ…、あれは…、」
「紅涙様?」
「ククク。俺が言ってやるよ、紅涙。」
部屋中に散々と散らばる壁の破片を踏みつけ、晋助様が一歩一歩と近付いてくる。
「ト、トシっ…、」
私はそれに比例するようにトシの腕を引っ張って後ろに下がるように促した。
でもトシは拒んだ。
「その契約、確認させていただきます。」
トシは私の腕を掴み、
「ここにいろ」と小声に言って、晋助様へと歩み寄った。
分かってた。
いつかは言わなくちゃいけないことだって。
「それ、見せていただけますか?」
「クク、構わねェさ。」
分かってたのに。
こんな形で、
トシと…、
十四郎様と、
「…。…これは…、」
「見ての通りだ。」
離れるのは…、
「…っ…、や…、」
「…紅涙様?」
嫌だ…。
…私、
私…、
「トシ…っ…、ごめんっ…なさっ…」
「紅涙、謝るこたァねェさ。お前は正しいことをしたんだぜ?」
晋助様は笑う。
私はその声に唇を噛んで、俯いた。
不安なの。
心配なの。
トシがいつ、私を必要としなくなるか。
『お前が俺を必要としなくなっても、一生離れられねェんだよ。』
いくら私と一生の契約をしても、それはただの主従関係の契約。
十四郎様に立場が出来た時、
十四郎様に誰かが出来た時、
私はどこに行けばいい?
だから。
勝手なことだと分かっていても、
こうするしか…、
…なかったの。
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