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その執事、一心6


私が俯いて目を擦ったとき、

「…ったく、うちのお嬢様は手が掛かる。」

ふぅと溜め息を吐くトシの声が聞こえて。
私はそれに顔を上げた。

トシは少し離れたところで晋助様の前に立ち、契約書に触れた。

「…高杉様。」
「何だ?」

晋助様はニタりと厭味に笑う。
トシの顔は見えない。

「この二枚目の契約は無効です。」

その言葉とともに、トシはクルリと私の方へ向きなおした。

私はトシの言葉に唖然として、
それを見たトシが私にまた溜め息を吐いた。

そして私の方へと足を進める。

「おい、待て。」

晋助様が声を上げた。
トシは足を止め、「何です?」と顔を向けずに言う。

「"無効"たァどういう意味だ?」
「無効は無効です。」
「それはお前の勝手な願望か?」

晋助様はクツクツと笑う。
トシは鼻で笑って「お気づきでないんですか?」とまた私の方へ足を進めた。

「その署名、間違いがありますよ?」

そう言って私の傍に立ち、ポンと頭に触れた。

「紅涙様の名前、違います。」
「どういう意味だ?土方 紅涙…、合ってるじゃねェか。」

その言葉に、今度はトシが喉で笑う。

「おや?晋助様は我が土方家の裏をご存知かと思っておりましたが?」
「"裏"…?」
「えぇ、主従関係の裏を。」

トシは私に手を差し出して、「手袋外せ」と言った。
一瞬驚いたけど、私は頷いてトシの白い手袋を外した。

「ククク、あぁ知ってるぜ?」
"なんせお前との付き合いはウザェほどに長いからな"

私はその晋助様の言葉に目を丸くした。

「トシ…、」
「はい?」
「ど、どういうことですか?」
「何が?」
「晋助様と…付き合いが長い…?」

トシは私の言葉に平然と「あァ」と返事をして、胸ポケットから煙草を取り出す。

「親父が居た頃、外に出てた時の連れだ。」

"親父が居た頃"というのは、つまりは家に帰って来ていない頃。
手が付けられない時からの…知り合いだなんて…、

「き、聞いてません!」
「言う必要があったか?」
「だ、だって知ってれば…っ…、わざわざ友好を交わす契約なんてしなくても!」
「それは違ェよ、コイツと俺は犬猿の仲だ。」

トシはそう言って「自分で言うのも気持ち悪ィな」とフッと笑った。

「だからお前が組んでくれなかったら、土方家との友好は有り得なかった。」
「…そう…、ですか…。」
「そういう意味じゃいいことをしてくれたんだがなァ。」

トシは煙草を持っていない空いた左手で私の頭を小さく叩いた。

「まだ分かんねェのか?高杉。」
「…ククク…、」

晋助様が契約書を見て、肩を震わせる。
煙管を咥え、「あーそういうことか」と私たちを見下げるように見て笑んだ。

「姓か。やられちまったなァ。」
「ご名答。土方 紅涙なんて、この世に存在しねェ。」

そのトシの言葉に声を上げたのは私だった。

「それは…どういうことですか?」
"私は…、私は存在しないと…?"

トシがその言葉に小さく笑い、「まァ聞け」と言った。

「紅涙は土方家に養子縁組をしたわけじゃねェ。」
「…はい…、」
「つまり、紅涙の苗字は"土方"じゃねェってことだ。」
「…、」
「お前は俺の代わりとして、"土方"と名乗り、役目を果たしてきた。」
「ぁっ…、」

そうだ…。
私の名前は"土方"として存在しない。

「だからその二枚目の署名は無効だ。」

トシは吸っていた煙草を晋助様に向けて、右の口角を上げて笑った。

「残念だったなァ、高杉。」
"紅涙はやれねェわ"

さらに反対側のポケットから、トシは小さなビンを取り出した。
中に入っていた液体を、雑に自分の近くに撒く。

「残念ついでに忠告しといてやるよ。」

トシは咥え煙草で私の腕を引っ張り、
そのまま抱きかかえられてしまった。


「紅涙をお前にやるぐらいなら、俺が紅涙を殺すさ。」


その言葉は、
晋助様とそう違わなかったのに。

「トシ…っ…、」

私はその言葉を聞いて、
トシの首に撒きつく自分の手をさらに強めた。

「それじゃァ、高杉様。これからは"友好"な関係を期待していますので。」

厭味にトシが笑って、吸っていた煙草を液体の上に投げ捨てた。
ボッという小さな音とともに、煙草の火は液体に伸びるように広がった。

「これは紅涙様が世話になったお礼です。」

トシは晋助様にそう言って、私を抱えたまま部屋を後にする。

部屋を出る時、

「反吐が出るほど似てやがる。」
"俺も、お前も"

晋助様が広がる火を見て笑って言った。


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