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停止した空間
夢路屋までの道は遠くなかった。
屯所を出る時、
過去のような哀しみに襲われるかと思っていたが、
自分が想像していた以上にあっさりと足は進んだ。
それはやっぱり、
「私…甘えてるのかな…。」
帰れる場所があると思っているから。
彼らのために。
彼のために。
「私の…ために…。」
存在意義を成す為に。
夢路屋は、
遠くなかった。
「へい!いらっしゃいま…、…紅涙…かい?」
夢路屋の仕切を越えれば、番頭さんが私を見て目を丸くした。
私は済まなそうに笑い、
「お久しぶりです」と声を掛けた。
「紅涙っ…!帰ってくるなんてどうしたんでい?!」
番頭さんは他の客も横にして、私に向かって走ってきた。
私は困ったように笑んで、
「皆さんの顔が見たくなって。」
"それだけです"
そう話せば、番頭さんは「そうかい!」と笑ってくれた。
「女将を呼ぶから、そこで待ってな!」
番頭さんが賑やかな足音で駆け出していって。
私はどれぐらいかぶりの夢路屋を見回した。
何も変わらない場所。
何も変わらない人。
それでも私は確実にこの場から去った身で。
受け入れてくれるか、
ここに来て不安になった。
「ほんまに紅涙やないの!」
「女将さん…、ご無沙汰しております。」
頭を下げれば「やめておくれ」と肩を叩かれた。
「もちろん上がっていくんやね?」
"いっぱい聞きたいことあるんよ"
女将さんが嬉しそうに笑って、私も「はい」と笑った。
「お邪魔します」と跨いだ仕切は、思っていたよりも低かった。
「ここでえぇわ。」
"入ってちょうだい"
そう言われて立った部屋は、
「ここ…、」
「そうや、あんたの部屋や。」
当時の私の部屋だった。
「本当に…、置いててくださったんですか…?」
「当たり前やないの。あんたはいつまでもうちの子やさかいね。」
頭を撫でてくれた女将さんに、鼻がツンとした。
私は「失礼します」と部屋の障子を開けた。
「あんたの部屋やねんから」と女将さんは笑った。
開けた部屋は、
「…綺麗…。」
淀みのない部屋。
文入れにしていた小さな漆黒の棚も、くすみがなく。
埃ひとつない状態。
むしろ、
使っていた時よりも綺麗かもしれない。
「週一ではあるけどね、掃除してもらってるんよ。」
「そんな…。ほんとに…すみません。」
私は頭を下げた。
何から何までよくしてくれる。
いつ来るかも分からない私のために。
この場を去った私のために。
申し訳なくて。
「何言うてんの、この部屋はうちらにもなくてはならん部屋なんよ?」
「…え…?」
女将さんは座り、
「あんたも座りなさいな」と向かいをトントンと叩いた。
「この部屋はね、皆と繋がってるんよ。」
「"皆"?」
私の言葉に女将さんは「そうや」と言って微笑んだ。
「うちもそうやし、あんたと関わった人みんなや。」
女将さんは立ち上がって窓まで歩いた。
窓辺に腰を凭れ掛けさせて、「ここのもね、」と言葉を続けた。
「ここの掃除も、"やりたい"言うた人が居てたんよ?」
「掃除…を…?」
「せやよ。"掃除出来るんやったら報酬はいらん"言うてやったけど、それは出来へん言うてね。」
女将さんは着物で口元を隠して、クスクスと笑った。
「せやけど"どうしても自分に"言うもんやから、お金は出すさかい掃除お願いしてるんよ。」
「そんな人が…。どちらの方なんですか?」
"私、お礼に…"
少し腰を浮かせて、女将さんに身を乗り出す。
でも女将さんは顔を横に振って、「その必要はないわ」と笑った。
「今日は丁度、その日やったんよ。」
「"その日"?」
「そう、今日は週に一度の掃除の日。」
「え?!じゃあ…、」
女将さんは窓の外を見て、「あ、来はったわ」と言った。
私も駆け寄って、窓の外を見下げた。
でも、もうそこには誰の姿もなくて。
「時機に上がってくるわ」と女将さんは言った。
そして急に「紅涙、」と私の名前を呼んで、
「あんたがまたここに来た理由は何やの?」
少し、真剣な顔つきになった。
私はハッとして、その場に正座する。
「私、十四郎さんと入籍いたしました。」
"そのご報告をと思いまして…"
そう言って、三つ指を立てて頭を下げた。
頭の上では「まぁ!」と女将さんの声がした。
「おめでとう、紅涙!」
女将さんが私の手を掴んだので、必然的に顔を上げた。
「あ、ありがとうございます。」
こんなに喜ばれたのは今が始めてで。
あぁそうか、
おめでたいことだったんだよね、って。
今、思い出した気がした。
「何やの、紅涙。嬉しいことやないの?」
"えらい暗い顔して"
女将さんは不思議そうな顔で私を見た。
私はその視線を一旦逸らして、
「あの…、お願いしたいことが…あります。」
断られることを恐れて、
歯を食いしばって言葉にした。
「今日からしばらくの間…、また夢路屋で働かせていただけませんか?」
「…何でやの?」
女将さんは驚くといった表情は見せなかった。
私を気遣って、
話やすい場を提供するため。
「…どうしても…お金がいるんです。」
「…働かんでも、うちが貸すよ。」
私は顔を横に振った。
「借りたお金じゃ駄目なんです。…私が働いたお金で…支えたいんです。」
「そう…。」
女将さんは口を瞑った。
しばらくして、「そうやね、」と頷いた。
「うちで良かったら必要な分が貯まるまで働いていきなはれ。」
「あっありがとうございます!」
「まぁうちにとっても、天神が戻って来てくれるんは美味しいことやさかいね。」
"よろしくお願いするわ"
女将さんはどこまでも優しくて。
私は「ありがとうございます」とまた深く頭を下げた。
「そしたらまた後の話は、夜にでもしに来るわね。」
「あ、はい。お願いします。」
「そろそろ掃除の人が入ってくる頃やと思うから、まぁ挨拶したってね。」
"部屋の主がおるん見たら、驚くやろねぇ。"
私は「はい!」と返事をして、部屋から去っていく女将を見送った。
そして。
廊下が軋む音がして、
ゴトリと廊下にバケツらしきものを置く音が聞こえる。
私の部屋の前にある影。
私の胸は、
まだ見ぬその人に、
今までここを掃除してくれた心優しき人に、胸が騒がしくて。
正座をして、部屋へ入るのを待った。
その姿を見た私は、
これほどまで心を震わせたことはなかったと思う。
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