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興味心・古き扉・良い兄


総悟に振り上げた拳は、

「トシ、やめろ!」

教室に駆け込んできた近藤さんの声で止まった。

「お前ら、朝から何やってんだよ。」
「近藤さん…」
「見ての通りですぜ。」

総悟は俺の手を払い、襟元を整える。

「土方コノヤローが、ガキみてェに八つ当たりしてるだけでさァ。」
「テメェ…!」
「ひとまず落ち着け。もうすぐ銀八が来る。」

銀、八…


『紅涙を悲しませてるのはお前だ、土方』


「っ、」
「おいおい、何の騒ぎだよコレは。」
「!」

教室の入り口に、気怠そうな銀八の姿を見つける。
目にした直後から、腹の底にドス黒い感情が湧き上がった。

「お前ら予鈴鳴ってんぞ。早く着席しろー。」
「…銀八……」
「土方も早く席に着け。」

出席簿で自分の肩を叩きながら俺の横を通り過ぎる。
まるで何事もなかったように、いけしゃあしゃあと。

「…、…ざけんな。」

涼しい顔しやがって。

「…ふざけんなよ。」
「あァ?何ブツブツ言ってんだ。席戻れつってんだろ。」
「ッ、お前が…っ」
「トシ、よせ!」
「うるせェ!」

俺は近藤さんの制止を無視して、銀八の胸倉を掴み上げた。

「キャアァァァ!」

女子の悲鳴が響く。
俺は銀八を黒板へ押し付けると、締めるように力を加えた。

「何もかも…っ、」
「…放せ、土方。」
「っ、何もかもテメェのせいだ!」

紅涙と距離が出来たのも、
紅涙の傍にいられなくなったのも、

「全部…っ」

銀八のせいだ。

「いい加減、何でもかんでも人のせいにすんなよガキ。」
「っるせェ…!」

…許せなかった。

余裕の態度も、何でも分かってるような素振りも、
紅涙がコイツに懐いてることも。

今の銀八は、
俺にないモノを全て持っていて、許せなかった。

「ッ、銀八ィィィ!!」

拳を握り、その頬を目がけて振り下ろす。
バキッと音がして、手の骨が軋んだ。

けど、

「こらこら。先生に手ェあげちゃダメでしょーが。」

俺の右手は、コイツの頬を捉えられなかった。
出席簿の硬いファイルを盾にされたせいで。

「くっ、」
「お前って極端に感情を出しすぎなんだよ。だから嫌われんの。」
「嫌われる…?」
「何だよ、気付いてなかった?お前、完全に嫌われてるよ。」
“誰よりも大切にしてきたカワイイ妹に”

紅涙が…俺を嫌ってる?
…そうか、そうだろうな。仕方ない。

だが、嫌われていたとしても、
俺がお前を大切に想うことに変わりはない。

だから、

「ようやく妹離れの時だな、オニイちゃん?」

コイツからこんな風に言われる筋合いもねェんだ。

「っるせーんだよ銀八ィィ!」

拳を振り上げる。
でも寸前のところで近藤さんに手を掴まれた。

「もうよせよ。何があったのかは分からんが、あまりにも一方的すぎるぞ。」
「っ、放してくれ!俺はコイツのせいで――」
「トシ、冷静になれ。」

近藤さんが痛いほど手首を握り締めてくる。

「銀八を殴ったら停学処分は免れん。」
「それが何だ!停学くらいどうってことねェんだよッ!」
「お前は、だろ?妹ちゃんはどうなんだ。悲しまないのか?」
「っ、……それは、」

アイツなら、きっと自分のせいだと責める。
責めて、苦しんで…悲しむのは目に見えている。

「…、…くそっ、」

銀八の胸倉から手を放した。
近藤さんはホッと息を吐き、俺の肩に手をのせる。

「席に着こう、トシ。」
「……。」

俺は銀八に背を向け、教室の出入口へ向かった。

「おっおいトシ!どこに…」
「放っとけ、近藤。土方は頭を冷やしたいんだよ。なァ?」
「……。」

背中越しに声を聞き、俺は振り返ることなく教室を出る。
すると扉の前に総悟がいた。

「安心しなせェ。」
「…何の話だ。」
「アンタの大事な妹は俺が守ってやりまさァ。」

…守る?
なんでお前が守るんだよ。
紅涙を守るのは俺だ。

俺の……、
…妹なんだから。

「…いらねェよ。」

誰も、紅涙に手を出さないでくれ。


――キーンコーンカーンコーン…

本鈴が鳴る。
気にも留めず、校舎の端の階段を目指した。
そこにだけ、屋上へ出られる扉があるから。

「…ツイてるな。」

運良く見回りの教師はいない。
腐食したドアノブを回すと、鍵がかかっていた。

しかしそれも想定内。
左右に何度か回せば開く癖を知っている。

なぜならここは、いつも紅涙と昼飯を食う場所だからだ。
アイツと何度も開けた鍵だから、よく知ってる。

「……、」

カチャンと鳴り、鍵が開く。
一歩中へ入れば、夏の湿った風が頬を撫でた。

「…あっつ。」

太陽が近い。
貯水タンクの影に座り、煙草に火を点けた。

「ふぅ…、」

煙が風に攫われる。
ぼんやり目で追っていると、

―――ギィィ…

扉の開く音がした。

やべ、見回りか?
とりあえず火ィ消して誤魔化すしか…

「ぁっ、」
「?」

小さく発せられた声に顔を上げる。
そこにいた人物に、思わず息を呑んだ。

「お兄…ちゃん、」

紅涙がいる。


『何だよ、気付いてなかった?お前、完全に嫌われてるよ。』
“誰よりも大切にしてきたカワイイ妹に”


「っ…、」

どうすればいい?
先に出て行った方がいいのか?
…俺と一緒にいたくねェよな。

「…悪ィ。」
「え?」
「出て行くから。」

地面に煙草を押し付ける。
立ち上がり、歩いて行こうとしたら、

「行かないで!」

紅涙が俺の服を掴んだ。

「行かないで…お兄ちゃん。」
「……。」
「私といるのは嫌かもしれないけど…行かないで。」
「…嫌なわけねェだろ。」

お前が望むなら、ここにいる。

「ちょっと気ィ遣っただけだ。」
「…ふふっ。そんなの兄妹に必要ないよ。」
「…、…だな。」

お前が望むなら、俺は兄でいる。
それで、いいんだよな。

「煙草、ごめんね?」
「ん?」
「点けたばかりだったんでしょ?まだ長かったみたいだし。」

潰れた煙草に目を落とす。

「別に構やしねェよ。最後の1本てわけでもねーし。」
「そっか。」
「…、…。」

間を空けると居心地の悪い空気が漂う。
必死に当たり障ない話題を探した。

「…お前は、よくここでサボるのか?」
「ううん、たまたまだよ。ト…お兄ちゃんは?」
「俺もたまたま。なんか、屋上に行きたくなって。」
「私も。…ちょっと不思議だね。」
「不思議?」
「考えた場所が二人とも同じって、ちょっと凄くない?」
「…そうだな。」

制服が風に揺れる。
紅涙は髪を押さえて俺を見た。

「あの、ね……、」
「ん?」
「……やっぱりなんでもない。」
「…そうか。」
「……。」
「……。」

二人の間に風が吹く。

たぶん紅涙も、
聞きたいことはあるのに、言葉にするのをためらっていた。

だったら、
俺から少し、道を開いた方がいいんだろうか。

「…紅涙、」
「うん?」
「……、…昨日は、」

“銀八といたのか"
“銀八と何があったんだ"
“銀八とどういう関係なんだ"

聞きたいのに、

「昨日は…、…心配した。」

聞けない。
情けねェが、聞くのが怖い。

「…家には、帰ったのか?」
「…うん、朝に帰ったよ。心配かけてごめんね。」
「いや…謝るのは俺の方だから。」

紅涙の顔を見ないまま、頭を下げる。

「変なことして、悪かった。」
「…、大丈夫だよ。」


『私は大丈夫だよ。先生が…いるから』


「…そうか。」

顔を上げる。
紅涙は弱く笑って、目を伏せた。

「聞きたいことがあるんだけど…いいかな。」
「…何だ?」
「…、…いつから、なの?」

それは、紅涙を好きになったのはいつからかってことか?

「…わかんねェ。」
「え…」
「気付いたら好きになってた。」
「っ…そう、なんだ。」

紅涙が自分の手を握る。
その表情は今にも泣きそうで。

「…ごめんな。」

迷惑であろう俺の想いに、謝るしかなかった。

「謝ることじゃないよ…。私は…その、知らなかったからビックリしちゃっただけだし。」
「…そうか。」
「お似合い…だと思う。」

…お似合い?

「可愛くて明るくて、お料理も出来るんでしょう?私も見習わなきゃいけないね。」
「…紅涙、」
「なに?」
「お前…今、何の話をしてるんだ?」

話が噛み合ってない気がする。
案の定、紅涙は「黒川さんのことだよ」と言った。

「朝も仲が良さそうで…」
「違う。あれは」
「いいの。もう隠さなくていいよ。」
「…え?」

紅涙が困ったように笑った。

「私のために、嘘をついてくれてたんでしょう?」
「紅涙…、」

何言ってるんだ、

「私が頼ってばかりだから、付き合ってることも話しづらかったんだよね。」
「…そうじゃない、」

話がまた噛み合ってない。

「俺は黒川のことなんて好きじゃねェんだ。」
「…え?でも付き合ってるって、」
「あれには訳があるんだ。形としては付き合ってるけど、気持ちは…」
「もう隠さなくていいってば。」
「違ェよ!そうじゃなくて」
「ごめん…、」
「…紅涙?」
「ここまで言わせて、ごめんね。」

ダメだ。
訂正するほど、伝わらない。

…いや、訂正する必要はあるのか?
この先も紅涙の傍にいたいなら、
黒川を想っていると勘違いさせた方が都合良いはずだ。

兄としてでも傍に居たいなら、今の状況を利用すればいい…

はずなのに。

「違ェんだよ…、紅涙。」

俺はやっぱり、欲張りで。
僅かなりとも希望を残せるなら、そちらに賭けちまう。

「…戻りてェな。」
「戻る?」
「ああ。何も考えなくて良かった頃に…戻りてェ。」
「…そうだね。私も思うよ。」

いつから面倒くせェもんが絡みつくようになったんだろうな。
もしこれが大人になるってことなら、俺は一生、大人にならなくていいよ。

「お前だけがいれば、それでいいのに…。」
「……。」

紅涙が悲しげに眉を寄せ、うつむく。

「私達…今まで一緒に居過ぎちゃったんだね。」

…それはつまり、

「後悔、してるのか?」

これまで俺と過ごした日々を。

「少し…してる。」
「紅涙…、」
「だって…ね、」

紅涙が顔を上げる。
その瞳は潤んでいた。

「ずっと一緒にいたから、少し離れるだけで…寂しいんだもん。」
「っ……、」
「黒川さんとのことも、妹の私は祝福しなきゃいけないのに、心から応援できなくて、っ…」

耐えるように唇を噛む。

「これから、っ、寂しいんだろうなってことばかり、っ、考えちゃうの……っ」

紅涙の頬に涙が伝う。
雑に手の甲で拭うから、それを掴んで止めた。

「俺も、寂しいよ。」
「…ト…、お兄ちゃんも?」
「それとかな。」
「?」

真っ赤な目で見上げる紅涙に、小さく笑う。

「お前が俺を名前で呼んでくれなくなって、寂しい。」
「そ、れは……ごめん。」
「謝んなよ。お前なりに、色々あってのことなんだろ?」
「…、うん。」

紅涙が視線をそらす。

銀八のせいか?
なんて思ってても聞けやしねェけど、

「あんま、一人で考えすぎんなよ。」

忘れないでほしいんだ。


「お前には、俺がいる。」


どんな風に俺達の環境が変わろうとも、
変わらないこともあるってこと、忘れないでくれ。

「っ、ありがとう…っ、お兄ちゃん…!」

『お兄ちゃん』

「…ああ。」
「もう少しだけっ、…待ってて、」

待つ?

「何を?」
「私、っ、いい妹になる、から…っ、」
「…いい妹って――」
「がんばる、からっ、」

紅涙の瞳から涙が溢れる。

「また、っ、今まで通り、二人で楽しくいられるようにっ、頑張るから…っ、」
「紅涙…」

いい妹って何だよ。
そんなこと、どうでもいいじゃねーか。

そう、言いたかったのに、

「…わかった、」

必死に涙を拭うお前には、

「待ってるよ。」

それしか言えなくて。

「…、…紅涙、」
「うん?」
「抱き締めても…いいか?」
「…うん。」

今こうしてお前に触れられたことが、
ただただ、嬉しかった。


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