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向う側・不謹慎


屋上で抱き締め合う俺達に、風が吹く。
ずっとこうしていたいのに、

「…紅涙、」
「ん?」
「…熱ィな。」
「だね。」

熱せられた地面のせいで、吹き付ける風すら熱かった。
内心、名残惜しく思いつつ腕を解く。

「はぁー、なんだかさっきより涼しく感じるかも。」

紅涙が苦笑する。
その目尻に光るものを見つけ、親指で拭ってやった。

「何か付いてた?」
「…いや、」

濡れた指から視線を逸らし、紅涙に微笑む。

「気のせいだった。」
「そっか。…あの、ね、お兄ちゃん。」
「…ん?」
「私…今日はちゃんと帰るから、心配しないで。」
「…ああ、わかった。」

当たり前のことが随分と特別に思える。

「俺も部活終わったら急いで帰るから、母さんと3人で飯食おうな。」
「うん。」

紅涙は微笑み、頷いた。


…なのに。


「あの子、今夜も友達の家にお泊まりするんだってね。」

早雨さんが机に料理を並べながら言った。

「今日も、ですか?」
「ええ、さっき電話があったの。十四郎君も聞いてなかったのね。」
「……はい。」

紅涙が今夜も帰らない?
帰るって言ってたのに。

「なんでも、そのお友達が風邪を引いたらしいわ。今夜はご両親がいないから看病するって。」
「……。」

おそらくその友達は、俺や早雨さんが思っているような奴じゃない。
もし"普通"の友達なら、今朝は一緒に登校していたはずだ。

だが紅涙の傍にいたヤツは、


『朝っぱらからおニイちゃんにイジメられてんのか?』
“かわいそうに”


「銀八の野郎…、」
「何か言った?」
「…いえ。」

紅涙が一緒にいる奴は、アイツだ。
つまり今夜も、紅涙はアイツのところに…。

「…いただきます。」

俺は掻き込むように飯を食い、部屋へ戻った。
携帯を取り出し、すぐに電話する。

もちろん、紅涙に。

――プルル…

呼び出し音が鳴る度、気が焦る。

もしかしたら、紅涙は帰れないんじゃないんだろうか。

何かあったのかもしれない。
何かされたのかもしれない。

「くそっ、何で出ないんだ…!」

銀八の家を探した方が早いか?
確か、猿飛が知ってるって言ってたような…

―――プツッ

繋がった!

「もしもし、紅涙?お前一体何して…」
『こんばんは、多串君。』
「!!」

鼓膜を通り抜けた声に、目を見開く。

「銀…八…ッ!!」
『お前さァ、せめて“銀八先生”って言えないわけ?』
「っるせェ!!」
『うわ。今、耳がキーンってなった。』

わかってた。
コイツのとこに紅涙がいるって分かってたのに、
実際に突きつけられると、キツイ。

「紅涙に代われ!」
『それは無理。』
「ッ、テメェ…!紅涙に何しやがった!!」
『失礼だねェ。俺はどっかのオニイちゃんみてェに野蛮な男じゃねーから。』
「くっ…!」
『安心しろ、“手”は出してねェよ。』

含みのある言い方に胸が焼けて、息苦しい。
落ち着かせようと目を閉じると、瞼の裏に紅涙とアイツの姿が映った。

「返、せ…ッ、」

頭の中が、熱い。

「紅涙を返しやがれ!!」
『ギャーギャーうるせェよ。お前、いつも口ばっかだな。』
“単純な兄貴と違って、紅涙は頑張ってんのに”

…テメェに、何が分かる。
アイツの何が分かるっつーんだよ…ッ!

「知ったような口利くんじゃねェ!!」
『バーカ。知ってるから言ってんだよ。少なくとも、お前の知らない紅涙を知ってる。』
「っ、」
『お前だって本当は悩んでんだろ?紅涙のために、“兄”として見守ってやることが一番じゃねーかって。』

うるせェ…、

『俺はそれでいいと思うぜ。』
「…っるせェ…ッ」

偉そうに言うな。

テメェに言われなくても、
何が必要で、何が不必要なものかくらい分かってる。

『ややこしいことなんてねェよ。これからも仲良く兄妹していけばいい話じゃねーか。』
「黙れ!俺だって…分かってんだよッ!」
『分かってんなら自制しろ。』
「くっ、…」
『…ま、それが出来たら今の状態はねェか。』

銀八が溜め息を吐く。
反して俺は感情的で、つくづくガキだと痛感した。

そんな時、

『あれ?』

受話口の向こうに別の声が聞こえる。

『先生、それって私の携帯…』

この声…っ、

「紅涙っ!!」

届くはずなんてないのに、とっさに名前を呼んだ。
銀八のフッと笑う息が聞こえる。

『おかえり、紅涙。』

――プツッ

電話は、そこで切れた。

「くそっ、」

すぐにリダイヤルする。
だが、『お客様のお掛けになった電話は…』と繋がらない。

「アイツ…ッ!」

意図的に電源を切りやがった。

どうする?
やはり猿飛に聞いて、銀八の家へ乗り込むか。

「猿飛の番号……」

アドレス帳の中を探す。
しかし見当たらない。

そりゃそうだ。聞いた覚えがない。

「チッ…!」

こうなったら猿飛の番号を知るとこから始めるか。
志村弟の番号はある。
そこから志村姉に聞いて、猿飛の番号を――

……いや。

「…もういいか。」

受話口の紅涙を思い返す。
あの時の声に悲壮感はなかった。

つまり…、
今夜の泊まりが、強制されたものじゃないってことだ。

「それなら…紅涙の自由…、…だろ。」

握り締めていた携帯から手を放す。
ベッドに座り、目を閉じた。

「紅涙…、」

お前は今、笑ってるのか?
たとえアイツの傍でも、お前が楽しいと思えているなら、

俺も、…、…嬉しいよ。


それからどれくらいかして、

――コンコン…

「十四郎君、ちょっといいかしら。」

早雨さんの声に、目を開けた。
いつの間にか眠っていたらしい。

「はい…、今開けます。」

扉の方へ向かいながら時計を見る。

23時。
いつもの早雨さんなら、寝室に入っている時間だ。

…何かあったのか。

「どうしました?」

扉を開けると、早雨さんが気まずそうな顔をする。

「十四郎君に話しておきたいことがあるの。…少しいいかしら。」

下の階を指す。
俺は「わかりました」と頷き、リビングへ向かった。


「ごめんなさいね、こんな時間に。」
「いえ。」

ソファに座ると、早雨さんがお茶を出してくれる。

「ありがとうございます。」
「…アナタには、本当に気を遣わせてばかりだったわね。」
「?」

不思議な言い回しが引っ掛かる。
早雨さんはお茶をひと口飲んで、苦笑した。

「十四郎君と暮らし始めて、もう10年くらい経つかしら。」
「そう…ですね。」
「いくら月日が流れても、アナタの母親として未熟だったことを申し訳なく思ってるわ。」

早雨さんは俯き、「ごめんなさい」と言う。
俺は全く話についていけてなかった。

「あの、何の話を…」
「私、嬉しかったのよ。十四郎君が紅涙と仲良くしてくれて。」
「…え?」
「紅涙のこと、ずっと守ってくれたでしょう?本当の兄妹みたいに大切にしてくれて…嬉しかった。」
「…早雨さん?」

なんだ、この言い方は。

「私の息子になってくれて、ありがとう。」

これだとまるで…、

「アナタには“お母さん”と呼んでもらえなかったけど、私はとても素敵な家族を持てて幸せだったわ。」

まるで……、
『終わる』みたいじゃねーか。

「どういう…意味ですか。」

心臓の脈打つ音が聞こえる。
本能が何かを予感していた。

「私…、いいえ。私達ね、」

早雨さんは言いづらそうに視線をさ迷わせた後、


「離婚…することになったの。」


そう言った。

「離婚…?」
「ええ。詳しくは、あの人が帰ってきてから話すけれど…」

この先、
一生を共にする家族だと思っていた。

「親権も、元に戻すことになるわ。」
「そう…ですか…、」

ずっと…
ずっと俺とお前は兄妹なんだと思っていた。

けど、

「早雨さんと父さんが…離婚……。」

俺とお前は他人に戻る…
いや、戻れるそうだ。

「こんなことになってごめんなさい…、十四郎君。」

早雨さんが申し訳なさそうに吐く。

俺は不謹慎にも、
内心、飛び上がりたいほど喜んでいた。


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