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壊れた・大切な


泣き疲れた紅涙は、長椅子で横になって寝息を立てた。

そんな紅涙を見ながら、

「…お前、部活行けよ。」

銀八が言う。
俺は紅涙の腫れぼったい瞼を見ながら、

「…行けるかよ。」

そう言った。

「部活なんて、どうでもいい。」
「まァ分からなくもねーけど。」

銀八はフンと笑い、短くなった煙草を灰皿に押し潰す。

「ほんと、美術室に駆け付けた時は肝が冷えたわ。未遂で済んで良かったよ。」
「…アンタは総悟から聞いて美術室へ向かったのか?」
「いや違う。通りがかった無関係の生徒から聞いた。」
「総悟じゃなかったのか…?」
「ああ。」

懐から新しい煙草を取り出し、火を点ける。

「俺が美術室へ行った時には、もう沖田は他の奴らをボッコボコにしてたよ。」
“早雨は部屋の隅で震えてた”

ふぅと窓の外へ煙を吐く。
夏の空には、夕暮れの赤みが射し始めていた。

「…銀八、」
「んー?」
「そいつらは…今どこにいる?」
「お前も殴りに行くってか。」
「当たり前だろ。俺は殴るなんてもんじゃ済まねェがな。」

どうするかは考えてない。
そいつらに会って、感情のままにぶちまける。

「止めんなよ。」
「止めねェよ。だがまァ捜しても無駄足になるぞ。」
「…どういう意味だ。」
「今頃、全員ベッドの上でお寝んねよ。沖田のおかげで病院送りだから。」

総悟のヤツ…。
これじゃあ不完全燃焼じゃねーか。

けど紅涙を助けてくれたことには感謝しねェとな。

…つか。

「総悟はどうして美術室にいたんだ…?」
「偶然だってよ。たまたま見かけて、違和感を覚えたから追ったらしい。」
「違和感?」
「お前、紅涙の話を聞いて引っ掛かったことはなかったか?」
「…なんだよ、急に。」
「紅涙は“友達の忘れ物を取りに”美術室へ戻ったんだぞ。気になんねェか?その“友達”。」

…そうか。
そう言えば、おかしいな。

「大丈夫だったのか?そいつは。」
「そこなんだよ。」

銀八は頷きながら灰を落とす。

「俺が美術室へ駆けつけた時には、いなかったんだ。」
「先に紅涙が逃がしてたのか。」
「普通そう思うよな。でも違うみてェだわ。」
「違うって…じゃあ……、」
「そうだよ。」

煙草を咥えながら、銀八が紅涙の髪を撫でる。

「コイツは、はめられたんだ。その“友達”ってヤツに。」
「っ!」
「沖田は、“早雨の友達に見えなかった”から、違和感を覚えたんだ。」
「…ちょっと…待ってくれ。」

頭が追い付かない。
『友達に見えない』って何だ。

「どうして総悟が、その女を見て『友達じゃねェ』なんて思えるんだよ。」
“紅涙の交友関係を把握してるわけでもあるめェし”

誰が友達かなんて俺だって分からない。
それを見て、違和感を覚えただと?

「総悟のヤツ…、本当はもっと別の理由で見てたんじゃねェのか?」
「他の理由って?」
「それは…、…俺には分かんねェけど。」

口ごもる俺に、銀八は吐息だけで笑った。

「お前が何の可能性を考えてるのかは知らねェが、俺が見ても意外だと思う相手だ。」
「…誰だよ。」
「まァ聞け。」

窓の外に煙を吐く。

「俺達がそれくらい引っ掛かる相手を、早雨は“友達”だと言い張った。」
「……、」
「なら早雨が大変な時にその友達はどこ行ったんだよって聞いたら、『遅いから先に帰ったんじゃないかな』って言ったんだ。」
「…そんなのおかしいだろ。紅涙は、そいつの忘れ物を探して中へ入ってんのに。」
「だよな。誰が聞いても変な話だ。」

煙草を揉み消し、銀八は紅涙の傍に腰かける。

「それでも早雨は、『彼女も襲われなくて良かった』って笑いやがった。」
「どうしてそこまで…」
「庇うのか、だろ?俺も最初は思ったよ。けど、紅涙の笑みを見て分かった。」

銀八が、眠る紅涙の髪を撫でる。

「コイツさ、笑ってるようで笑ってなかったんだ。悲しそうで…ツラそうだった。」
「……、」
「早雨がそんな顔すんのは、お前の話をする時だけだ。土方。」
「!そ、れって…、……」
「ああ。その“友達”は、黒川だ。」
「っ、」

息が、止まった。

「おそらく早雨は、自分の友達だから庇ったんじゃない。」

心臓がドクドクと音を立てる。
息苦しいのに、息ができない。

「大切な“お兄ちゃん”の彼女だから、黒川を庇い続けたんだよ。」

どうして…
どうしてこうなった?
俺は紅涙を守るために黒川と付き合ったのに。

「俺の…せいだ。」

紅涙を傷つけることになったのは、俺のせいだ。

「俺のせいで…こんなことに…っ、」
「反省するなら心の中でしろ。コイツに聞かせないでくれ。」
「どういう…意味だ…、」
「早雨を助けた時、一番気に掛けたことは何だと思う?『お兄ちゃんに言わないで』だ。」
“こうなったのを自分のせいだと責めてほしくなかったんだろ”

…紅涙……。

「正直、そこまで想われてるお前が羨ましいよ。」

銀八が紅涙の頬に触れる。
俺は…、

「…俺は、お前が羨ましい。」
「どの辺りが?」
「紅涙の…傍にいれるだろ。」
「それを言うならお前の方が傍にいるじゃねーか。」
「…いねェよ、全然。」

俺はもう、その頬にも触れられない。
俺のせいで傷ついたお前に触れることなんて、とても出来ない。

兄として傍で見守ることも、もう出来ないんだ。

「…銀八、」

今さら、遅いかもしれないけど、


「紅涙を……頼む。」


これ以上、傷つけたくねェから、
お前を壊したくねェから、

「俺はもう…紅涙に近寄らないようにする。」

距離を置こう。
他人のように。

「お前…、」
「アレだけ騒いどいて都合いいかもしんねェけど…銀八くらいしか頼める奴がいねェんだ。」
“俺の知る中で、一番大人だし”

紅涙…ごめんな。
今まで、ごめん。

「お前なァ、勝手なこと言ってんなよ。そんな態度を取れば、早雨が悲しむことくらい…」
「わかってる。でも今回みたいなことを考えたら、その程度の悲しさの方がマシだろ。」
「土方…、」
「紅涙が泣いたら、…また泊めてやってくれ。」
「おまっ、そういうことをココで言うなよ!バレたら謹慎どころの騒ぎじゃ済まねェんだぞ!?」

小声ながらも焦る銀八を小さく笑う。

「まァ身内の公認だからいいんじゃね?」
「そういう話じゃねーの!」
「問題ねェって。親には俺から上手く言っとくし…って、それも出来なくなるんだったな。」

すっかり忘れてた。

「どういうことだよ。」
「うちの両親、離婚するんだってよ。」
「なっ…、」
「でもまだ紅涙は知らねェんだ。明日、父さんが帰ってきてから話すらしい。」

そうなると、
“他人のように”なんて意識しなくても、他人になるのか。

なんだ、
思ってたより簡単なことかもしれねェな。

「…だから、銀八。」

俺は、これ以上紅涙を傷つけない。
俺のせいで、誰かに傷つけられるようなこともないようにする。

「早雨 紅涙を…頼んだぞ。」

紅涙、
長い間、付き合わせてすまなかったな。

お前を苦しめて、
お前ばかりを泣かせて、すまなかった。

「土方は…それでいいのかよ。」

良いも悪いもない。

「…じゃあな。」
「っおい!ちょっと待て土方!!」

デカイ声で呼ぶなよ。
紅涙が起きるだろ?

内心そんな悪態をつきながら、俺は生徒指導室を後にした。

その足で向かったのは、家…ではなく。

「遅かったね、十四郎君。」

野球部の部室だ。
外からは部員の掛け声が聞こえる。

「早く来てって言ったのに、今まで何してたの?」
「テメェ…」

腹の底からドス黒い感情が湧き上がった。

殴りたい。
だがまだ、黒川が仕組んだという確証がない。

「どうかした?」
「とぼけんな。お前が紅涙にしたことは分かってんだよ。」
「そんなこと言われても私は分かんない。」

黒川が肩をすくめて微笑んだ。

「でも大変なことがあったんだろうなぁってことは、ここから見てて分かったよ。」

“ここから見てて”?
まさか…!

部室の小窓に目を向ける。
少し離れた場所に、美術室が見えた。

「ッ!!」
「たぶらかす紅涙ちゃんが悪いんだよ。」
「…それは、テメェが仕組んだってことだよなァ…?」
「そうだよ。」

悪びれる様子もなく頷く。
俺は理性を飛び越して、黒川の胸倉を掴み上げた。

「っ、痛いよ十四郎君。」
「黙れ…」
「悪いのは私だけじゃないのにひどい。」
「黙れっつってんだよ!!」

胸倉を掴んだまま、黒川の背を壁にぶつける。
だけど黒川は薄く笑みを浮かべた。

「ふふっ。やっぱり優しいね、十四郎君。」
“ここまで怒ってても、まだ手加減してくれるんだ”

掴み上げる俺の手に、黒川が手を添わせてくる。

「殴らないの?何があっても女には手を上げないって、本当だったんだね。」
「くっ、」

我慢できねェ…いっそ殴るか?
殴ったところで、紅涙に遭った時間は消えない。

それでも、
平然と笑うこの女は許せるものじゃない。

「殴んねェと思ってたら痛い目みるぞ…。」
「それはどうかな。」
「ッ、」

苛立ちが限界に達する。

「十四郎君は私を殴れないよ。」
「なめんじゃねェ…!」

俺は拳を握り締めて振り上げた。

が、

「だって、また紅涙ちゃんに何かあったら嫌でしょう?」
「!!」

黒川のその言葉で、振り上げた拳を動かせなくなった。

「次は“未遂”で済まないかもしれないもんね。」
「っ…」
「それでも私のこと、殴れる?」
「……、…っくそ!!」

行き場を失った怒りは、壁に打ち付けた。

「紅涙に…っ、もう近づくな…っ!」
「それは十四郎君次第だよ。私ね、二人でいるのを見るだけでも妬いちゃうんだ。」
「っ、だったら…これから二度と見ることなんてねェよ。」
「どういうこと?」
「……、」

開いた口を一度閉じる。
気持ちは決まっているのに、本能が拒んだ。

「十四郎君?」
「…、…俺は、」

決めただろ。

「俺は金輪際…、」

アイツの寝顔に、腹をくくっただろ。

「紅涙に…近付いたりしねェ。」

終わりにするって、決めただろ。

「…本当かな。信じられないよ。」
「別にお前に信じてもらう必要はない。」
「そう?私が信じないと、紅涙ちゃんにイジワルしちゃうかもしれないのに。」
「テメェ…」
「証明してよ、十四郎君。」

黒川が小首を傾げる。

「私のこと、好きって言って。」
「っ…。」
「言えるよね?」

言えばいい。
嘘なんて簡単に吐ける。

「…、…好きだ。」
「誰が?」
「……お前が。」
「ちゃんと名前で言って?下の名前。」
「…。…、…ひなたが、好きだ。」

言葉が音になって、
自分の耳に届いて、
俺の中で、何かが一つ剥がれ落ちる。

「じゃぁキスして。」
「何言って…」
「できるよね。それとも全部その場しのぎの嘘だから出来ない?」
「……。」
「沈黙は肯定だよ。私、ガッカリしちゃったな。」
「……黙ってろ。」

黒川の肩を掴み、引き寄せる。
お前しか知らない唇で、俺は黒川にキスをした。

「ふふ…大好き、十四郎君。」

身体に巻き付く腕。
俺の中でまた一つ、何かが剥がれ落ちた。


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