15


始める夜


トシから逃げ出した、あの日。


『学校には内緒で付き合おうぜ、紅涙』


私は、坂田先生の恋人になった。

「飯は食ったのか?」
「…ううん、まだ。」
「じゃぁどっか食いに行くか。つっても、安い店しか無理だけど。」

手を繋ぎ、二人で歩く。
駅前を行き交う人達は、私達をどんな風に見ているんだろう。

「とりあえず先に学校行くぞー。」
「学校?」
「ほら、車を戻さねェと。」

あ、そっか。
学校の車を借りて、駆けつけてくれたんだっけ。

「…先生、」
「ん?」
「来てくれて、本当にありがとうございました。」

もし先生が来てくれてなかったら、私はどうしてたのかな。

家に帰って、同じ生活を繰り返してた?

トシと気まずいながらも、いずれは仲直りして、
また距離を置かなきゃって思う、何も変わらない日々を送ってたのかな。

…でも、
先生が来てくれたから、

「私、…やっと変われそうな気がするよ。」

この足で、トシと離れられそうな気がする。

「早雨…、」
「ありがとう、先生。」
「…、…あのよ、」

坂田先生が足を止める。

「かしこまるのはナシにしねェ?」
「え?」
「そのイーチ。」

唐突に、先生が私の前に人差し指を出した。

「な、何?」
「二人でいる時の決まり事。」
「決まり?」
「おうよ。まずその1、“俺に敬語は使わない”。」
「普段からあんまり使ってないと思うけど…」
「それを全然使わないようにしろって言ってんの。」

突き出した人差し指で私の鼻を押す。

「返事は?」
「は…、…うん。」
「よろしい。じゃぁその2。“先生と呼ばないこと”。」
「何て呼べばいいの?」
「銀時。」
「い、いきなり呼び捨ては…」
「え〜。俺は“紅涙”って呼ぶぞ。」

不満そうに口を尖らせる。
その子供っぽさに、思わず笑った。

「それなら先生はあだ名にしようよ。友達には何て呼ばれてたの?」
「イケメン。」
「うそばっかり。」
「チッ、バレたか。つーか失礼だろ。先生はイケメンですー。」
「先生、自分で『先生』って言ってるじゃん。」
「自分で言うのはいいの。ったく、なら“銀ちゃん”って呼べ。」
「わかった。」
「よし。そしたら最後、その3な。」

銀ちゃんはカウントしていた手を引っ込めると、

「“俺の前では正直でいること”。」

私の頭を優しく撫でた。

「付き合うんだから遠慮はナシだ。いいな?」
「銀ちゃん…、」
「おっ。やっぱ名前で呼ばれるとプライベート感が出てイイねェ。」

ニッと笑顔を見せられると、私も頬が緩む。
こういう優しさが、今はとても心地よかった。

「誰にもバレないように気を付けなきゃいけないね。」
「だな。なんか不服だけど仕方ねェか。」
「不服?」
「俺達、悪いことしてるわけじゃねーじゃん?想い合ってるだけなんだし。」
「そう…だね、」

『想い合ってる』
銀ちゃんは、私が好き。
私は、銀ちゃんが好き。

違わない。
何も間違ってない…のに。

「……、」

わだかまりを感じるのは、なぜだろう。

「…紅涙。」
「っは、はい…何?」
「…いや、呼んだだけ。あと、『はい』じゃなくて『うん』な。」
「あっ、う…うん。」
「行くぞ。」

銀ちゃんが私の手を引いて歩き出す。
不意に、


『帰んぞ』


耳の中で、声がした。

「っ…、」
「どした?」
「…ううん、何でもない。」

繋がる手に力をこめる。
思い出が、少しだけ薄れたような気がした。


その後、
学校に車を返した私達は、定食屋さんで夕飯を済ませる。

「あー、腹いっぱい。」
「ごちそうさまでした。」

店を出て、夏の夜空の下を歩いた。
あと3時間もすれば、もう明日だ。

「そろそろ帰るか。」
「……。」

帰宅を促されるのは、容易に想像できていた。

「…まだ、帰りたくないな。」

正確には、"帰りづらい"。

「ンなこと言っても、行くとこねェしなァ…。あ、カラオケでオールとかはナシだから。」
「どうして?」
「明日の学校に差し支える。俺、不眠で仕事とかムリなタイプなの。」

そう言って、銀ちゃんがアクビした。

「この時間なら親も帰ってきてんだろ?送ってやるよ。」
「…いい。」
「いいって…」
「送らなくていいよ。ここでバイバイしよう?」

微笑み、手を振る。
銀ちゃんは細く息を吐き、私の手を掴んだ。

「ダメだ、帰るぞ。」

『帰るぞ』

「っ、帰らない!」

手を振り払った。

トシのことが嫌いになったわけじゃない。
会いたくないわけじゃない。

会いたいし、好き。
すごく…すごく好き。

だからこそ、

「まだ…っ帰りたくない、っ」

帰れないの。

「落ち着け、紅涙。」

銀ちゃんが肩を掴む。
やや腰を屈め、私と目の高さを合わせた。

「そこまで言うなら、送って行かねェから。」
「銀ちゃん…、」
「でも帰るぞ。」
「…どこに?」
「俺ん家。」
「えっ…、」


そして辿り着いたのは、
お世辞にも綺麗とは言えないアパートの一室だった。

「ここが、銀ちゃんの家…?」
「おう。ちょっと散らかってるけど気にすんな。」

話しながら、畳の上を手早く片付けていく。
私は靴を脱ぎ、

「お…お邪魔します。」

少しの緊張と共に部屋へ入った。
振り返ると、銀ちゃんと目が合う。

「どうしたの?」
「さすがの銀さんも、やっぱマズイ気がしてきた。」
「何が?」
「あー……、…色々?」

首の辺りを擦りながら視線を逸らす。

「そりゃァ部屋に連れてきちゃった俺が悪ィんだけど。」
「迷惑…?」
「そうじゃねーよ。けど何つーか、ちょーっと早すぎ…みてェな?」
“大人の階段をエレベーターで上がっちゃうみたいな”

…っえ!?

「ま、待って!」

銀ちゃんが言わんとしていることに気付いた。

恋人になったわけだし、
時間が時間なわけだし、
そういう流れは当然…なのかもしれないけど、

「わっ私そんなつもりで来たんじゃないよ!?」

さすがに、まだそこまで親密な関係を望んでいない。

「いやっ、俺もそういうつもりで入れたわけじゃ…なくねェけど」
「なくないの!?」
「俺だって男だからな!!」
「そ、そんな大声で言わなくても…」
「悪ィ、つい勢いで…」
「……。」
「……。」

静まり返る部屋に、クーラーの音が響く。
気恥ずかしさを感じつつ、こっそり銀ちゃんを窺うと、

「「!」」

タイミングよく目が合った。
二人してビックリした顔になって、

「くくっ…、」
「ふふっ、」

二人して、小さく笑った。

「ヤバイな。このいうのが久しぶりで、なんかくすぐってェわ。」
「久しぶりなんだ。」
「コラ、そこは掘り下げない。」

ツンと額を押される。

「でもまァ見ての通り、快適とは言えねェ部屋だ。こんな場所で本当にいいのか?」
「うん。泊めてくれるだけでも、ありがたいです。」
「快適じゃない部分は否定しねェのな。」
「え、違っ、そんなつもりはっ」
「わかってるって。焦りすぎだ、お前。」

笑いながら、襖を開ける。
そこから出したのは、一組の布団だった。

「今日はコレで寝ろよ。」
「銀ちゃんは?」
「俺はゴロ寝。」
「ゴロ寝って…」

そっか、
布団は1つしかないんだ。

「安心しろ。ちゃんと理性はあるから。」
「どういう意味?」
「手は出さねェって意味。」
「あ…う、うん。」

フッと鼻で笑い、私の頭を撫でる。

「布団、もう敷くか?俺はこの辺りで寝るから、敷くなら右寄りに…」
「あの…銀ちゃん。」
「ん?」
「お布団、二人でも大丈夫だと思うよ。」
「……、…はァァ!?」

口元に手を当てて後ずさりする。

「ちょ、おまっ、何言ってくれちゃってんの!」

私、そこまで凄いこと言ったのかな?
…言ったか。

「だって、風邪引いたら大変だし…。」
「それなら心配すんな。身体っつーのは、そこまでヤワに出来てねェから。」
「じゃあ私もゴロ寝する。」
「待て待て、悪かった。主語を訂正する。"俺の身体は"ヤワに出来てねェの。」
「もう遅いよ。ゴロ寝するって決めたもん。」
「ガキか!」
「ガキだよ、銀ちゃんよりね。」

ツンと顔を背け、布団を端に寄せた。

「………〜っ、ったく。わァったよ。」

やれやれと首を振る。

「ゴロ寝はやめて、紅涙と一緒に寝させていただきます。」
「約束だよ?」
「へいへい。」

銀ちゃんが布団を敷く。
その横顔は、教師である姿とあまり変わらなかった。

「……あの…さ、銀ちゃん。」

本当のところ…私のことをどう思ってるんだろう。

「何だ?まさか風呂まで一緒に入れとか言うんじゃねーだろうな。」
「なっ何言ってるの!?そんなこと言わないよ!」
「そりゃよかった。さすがに俺も自信ねェわ。」
「……。」
「ンな目で見んな。で、何だよ。」
「あ…うん、その、ね。」

視線を落とす。

「好きって…本気で言った?」
「…どうして急にそんな話を?」
「ちょっと、聞きたくなって。」
「……。」

銀ちゃんは少しの間を空けて、

「言ったよ。」

私の頬に手を添えた。


「俺は、紅涙のことが好きだ。」


真面目な顔と、真剣な声に胸が鳴る。

「銀ちゃん…」
「冗談だと思ってた?」
「そうじゃない…けど、本気かどうか分からなくて。」
「そうか?こんな分かり易い男はいねェだろ。」

フッと目を伏せて笑う。
艶のある仕草に、息を呑んだ。

「紅涙は冗談だった?」
「わ、私は…、…。」

トシの顔が頭をよぎる。

…どうして?
トシは“お兄ちゃん”なんだから。
今思浮かべるのは…間違ってるよ。

「紅涙?」
「私も…銀ちゃんが好きだよ。」
「……無理すんな。」
「してない。…どうしてそんなこと言うの?」
「そう見えたから。でも、今はそれでいいのかもな。」
「?」

銀ちゃんは頬にある手を滑らせ、やんわりと私の唇に触れた。

「紅涙、俺はお前が好きだから、軽い気持ちで手を出さねェ。けど――」

チュッ

「!」
「出さないのは"手"だけだから。」

唇に残る感触と僅かな余熱。
私、銀ちゃんと…キスした。

「嫌だった?」
「っ、…嫌じゃない…よ。」
「なら、もう1回していい?」
「えっ、…う、うん。」

困惑しつつ頷く。
自分でも困惑する理由がわからない。

だって私は銀ちゃんが好きなのに。
好きなら、キスは嬉しいはずなのに。

「…ごめんな、紅涙。」

銀ちゃんが呟く。
どうして謝るのか聞こうとしたけど、それは2度目のキスに消えた。


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