16


彼と兄と・トモダチ


銀ちゃんの家で過ごした夜。

一緒の布団に入っても、
『手は出さない』と言われていた通りに何もなかった。

キスも、あの2回だけ。

「それじゃあ銀ちゃん、家に帰るね。」

身支度を整えるため、これから一度家へ戻る。

「え…もうそんな時間か?」

早朝ということもあって、
銀ちゃんはいつも以上の寝ぼけ眼で、壁掛け時計を見上げた。

「なんだよ、まだ早ェじゃねーか。」
「私は登校の準備をしなきゃいけないから。銀ちゃんはあと1時間くらい寝れるんじゃない?」
「んー…2時間は寝れる。」
「それは寝すぎだよ。」

小さく笑って靴を履く。

「遅刻しないようにね、センセイ?」
「余計なこと言ってないで早く行きなさい。」
「はーい。じゃあ、また後で。」
「おう。また後で。」

手を振り合って、玄関を出た。

「あっつ…。」

高く青い空と、朝早くから鳴く蝉の声。
げんなりするほど暑いのに、心はどこか清々しい。

「銀ちゃんがいてくれてよかった…。」

今ならきっとトシに…お兄ちゃんに会っても大丈夫。
笑って、『おはよう』って普段通りに言える。

「…朝練、もう行ったのかな。」

私も今日は早く学校へ行ってみようかな。
ちょっと気分が良いし、やることがなければ野球部を見に行くのもいいかも。

「よしっ。」

元気よく一歩踏み出す。

家へ帰り、制服に着替え、
そのままの流れで学校へ向かった。

登校中の足取りも軽い。
鼻歌でも歌えそうだな、なんて思っていた時だった。

「…えっ…、」

通学路の先で、お兄ちゃんに似た人が女の子と腕を組んでいる。

…違う、似た人じゃない。
あの後ろ姿はお兄ちゃんで、隣の女の子は……黒川さん?

驚きつつも二人に近付く。
向こうは何か話し込んで、足を止めていた。

あ…もしかして、


『十四郎君にも…お弁当を作ろうかなって思ってて』


あれが成功したのかな。
ちょうど今、そういう展開?
なら、どうやって二人をからかおうかな。

そんなことを考えていた私の前で、

チュッ…

黒川さんが、お兄ちゃんにキスをした。

「ぇっ……」

その光景に目を見開く。
胸の中を引っ掻かれたみたいな気分だった。

「テメェいい加減にっ」
「お兄…ちゃん?」
「!?」

よせばいいのに、私はなぜか声をかけて。
お兄ちゃんが驚いた様子で振り返った。

「紅涙、なんでこんな朝早くに…」
「二人はやっぱり…、…付き合ってたんだ…。」
「違っ――」
「昨日から付き合うことになったの。ね?十四郎君。」
「…、…ああ。」

昨日?なんだ…そうなんだ。
私が応援するまでもなかったんだね。

「そっか…。」
「紅涙ちゃん知らなかったの?十四郎君から聞いてないんだね、仲が良いのに。」
「っ…。」

黒川さんの言葉が胸に刺さって、目を伏せる。

知らなかったことが、悲しくて…寂しい。
たった1日では、やはり何も変わらない。

たとえ先生と名のある関係を築いても、
まだ私は…、
こんなにも…どうしていいか分からなくなる。

胸…痛い。
苦しくて…これ以上見たくない。
なのに、なんで?

足が固まってる。
今すぐにでも逃げ出したいのにっ…

「おはよ、早雨。」
「!」

その声に、救われた。
銀ちゃんは私を連れ出してくれた。

お兄ちゃん達には一度も振り返らず、
私は銀ちゃんと二人で、学校までの道のりを歩いた。

「…このまま準備室に行くか?」

優しい言葉に、顔を横に振る。

「教室に行く。」
「平気か?」
「うん。」
「あんま無理すんなよ。」
「…うん、大丈夫。」

微笑むと、銀ちゃんは黙って私の頭を撫でてくれた。

「つらくなったらおいで。」
「ありがとう。…銀ちゃん、」
「ん?」
「大好き。」
「っぅおい!それ嬉しいけど今はヤバイ!」

焦りながら辺りを見渡す。
さっきあれだけ大胆に連れ出してくれた人とは、まるで別人だ。

「ふふっ、」
「いや笑いごとじゃねェから!」

銀ちゃんの傍にいれば、
これからもこんな風に楽しく過ごせるんだろうな。

そう思うのに、
笑っていても、頭の中はお兄ちゃんのことでいっぱいだった。


そして1時間目。
よりによって、隣の組と合同の体育。
隣の組には、黒川さんがいる。

「先生…、」

少し教室を早く出た私は、
体育準備室を覗き、体育の先生を呼んで、

「体調が悪いんで保健室に行きます。」

そう言って授業をサボった。
銀ちゃんのところへ行くか悩んだけど、
今は風に当たりたくて、屋上へ向かうことにした。

いつもお兄ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べた場所だ。
開きづらい古い扉の癖も教えてもらった。
何度か回して押せば、キィィと音が鳴って開く。

その先には青い空と、

「ぁっ…。」

お兄ちゃんがいた。

…もし、
もし私がそこでお兄ちゃんと話さなければ、
そもそも私がサボったりしなければ、
きっと、後のことは引き起こされなかったんだと思う。

でもその時は、
ただただ、

「…待ってるよ。」

お兄ちゃんと過ごせた時間を、幸せに感じた。


それから数時間した、お昼休み。

「先生?」
「おー…早雨。」

国語準備室を覗くと、ソファで寝転ぶ銀ちゃんの顔が赤くて。

「どうしたの?」
「んー…何でもない…。」
「何でもなくないよ。だって顔が…」

銀ちゃんの額に手を置く。
薄っすらと掻いた汗が手に付いた。

「熱い…。先生、昨日寒かった?私、布団取っちゃってたかな…。」
「何かヤラシィーね、その会話。」

"ははは"と笑う声にも力がない。
今朝とは大違いだ。

「朝は平気だったの?」
「うん…、あ。さっきちょっと暴れたせいかも…。」
「"暴れた"…?」
「HRで…久しぶりに、はしゃいじゃった。」

銀ちゃんはそう言って目を閉じた。

「先生、帰った方がいいよ。」
「ダメダメ〜…、今日までにプリントを用意しなきゃいけないから。」

珍しく先生っぽいことを口にする。

「そんなこと言うなんて、よっぽど熱が出てるんじゃない?」
「早雨…、それ失礼だから。」

眼鏡を外して、銀ちゃんが目を擦る。

「ちょっと寝たら大丈夫だろ。」
「もう…、じゃぁ今日は帰ってからちゃんと薬を飲もうね。」
「"飲もうね"って早雨、お前まさか」
「当たり前でしょう?こんな先生を放って帰れないよ。」

お兄ちゃんには『帰る』って言ったけど、やっぱり帰れない。

昨日はお世話になったし、
何より私の…、…彼氏なわけだし。

「ダメって言っても、…泊まるからね。」

銀ちゃんはクスっと小さく笑って、

「ありがとな。」

そう言った。
それだけなのに、熱っぽい表情にドキッとする。

「と…当然のことだもん。」
「紅涙…、」
「っ、学校で名前は言わない約束なんじゃ――」
「ん、わかってる。」

銀ちゃんが手を伸びし、私の髪に触れる。

「家に来たら…風邪、うつしちまうかも。」
「…いいよ。」

惹き付けられるように、
銀ちゃんの熱い唇に、自分の唇を寄せた。


なんとか1日をやり過ごし、二人別々に銀ちゃんの家へ帰宅する。
体温を測ると、

「うわ…、すごい熱。」

高熱だった。
よく倒れなかったなと感心するほどに。

「銀ちゃん、保険証は?」
「へ?何すんの。詐欺か何か使う気なら…」
「もうっ、何言ってるの。病院へ行くために決まってるでしょ。」
「!?…いい。」
「?」
「行かない。病院、きらい。」
「なっ…」

子どもみたいなことを言って、ふいっと顔を背ける。
その流れで布団を敷こうとするから、慌てて止めた。

「わっ私がするから!」
「大丈夫大丈夫。」
「全然大丈夫じゃないよ。病院行かないなら、せめて風邪薬だけでも飲んで。ね?」
「ないし。」
「ええ!?」
「風邪とか普段ひかねェじゃん?俺。」
「じゃ…じゃあ身体を冷やせるような物も……」
「その通り。うちにはございません。」

ないんだ…。
…うーん、だからと言って、
このまま自然治癒なんてさせられないくらいの熱だし…

「じゃあ私、買ってくるよ。」
「だーめ。もう外も暗くなってて危ねェから。」
「でも薬を飲まなきゃ治んないでしょう?」
「寝たら治る。任せろ、俺はやれば出来る子だ!とうっ!」

銀ちゃんが勢いよく布団の上へ寝転がる。
けれど、すぐに先週のジャンプを手に取った。

「…寝るんじゃなかったの?」
「俺、読書しないと寝れないタイプ。」
「……。」

このままだと、ほんとに薬を飲まなさそうだなぁ…。

…あ、そうだ。

「ジャンプ、買ってくるよ。」
「えっ。」
「今週号、もう発売してるんでしょ?薬と一緒に買ってくる。だから行ってくるね。」
「……う、うん、じゃあお願い…しよっかな。」

銀ちゃんの返事に笑い、私はすぐさま買い物へ出た。

ドラッグストアで薬を買い、
コンビニでジャンプとアイスと氷を買う。

それほど時間を掛けず足早に帰宅したら、
部屋の中から銀ちゃんの声が聞こえてきた。

「…まァそれが出来たら今の状態はねェか。」

仕事の電話?
そろりと玄関の扉を閉め、静かに廊下を歩く。

でも銀ちゃんが手にしていた携帯を見て、

「先生?それ私の電話?」

とっさに問いかけてしまった。
私に気付いた銀ちゃんはニコッと笑い、

「おかえり、紅涙。」

そう言って電話を切る。

「て言うか、今は"先生"じゃないでしょーが。」
「あ…ごめん、つい。…それよりも私の携帯、鳴ってたの?」
「ああ、何か同じ番号からずっと掛かってきててよ。気持ち悪ィから出た。」

そうだったんだ…。

「登録してない番号なんて…、イタズラ電話かな…。」
「だろうな。気持ち悪ィから消しててやるよ。」
「うん、お願い。」

銀ちゃんが手早く操作する。
私は冷やしタオルの準備をして、布団の傍に座った。

「アイスも買って来たんだよ、食べる?」
「気が利く〜、食べる食べる。」
「じゃあ食べた後で薬ね。」
「うげっ。」
「『うげっ』て…ふふ、ほんとに子どもみたい。」

いつもと違う姿に笑いながら、私は夜通し銀ちゃんを介抱した。


その次の日、
私は昨日と同じように、一度家へ帰ってからの登校。
銀ちゃんは「回復した!」と言い張り、気怠そうな顔で先生をしていた。
まぁ…いつもと同じと言えば同じなんだけど。

午後の2時間は特別授業の日で、隣のクラスと合同で行う。
私は美術を選んでいたから、美術室へ移動だ。

教科書を持って廊下に出ると、

「紅涙ちゃん!」

声を掛けられた。
振り向けば、パタパタと女の子が走ってくる。

黒川さんだ。

「紅涙ちゃんも美術だったんだね!」
「う、うん…。」
「不思議〜。私達ずっと同じ授業を受けてたのに、どうして気付かなかったんだろう。」

「変ね」と黒川さんが笑う。
私は何を話していいのか分からず、相づちのような笑いを返した。

そのまま美術室へ入り、
席が自由なこともあって、私の隣には黒川さんが座る。

なんとなく息苦しい…、
なんて思ってしまうと、どんどん息苦しくなって、
出来るだけ考えないようにしようと、授業に集中した。

「紅涙ちゃん、絵が上手いねー。」
「そ、そうかな。模写は苦手じゃないかもしれないけど…。」
「羨ましいな〜。私、絵は全然ダメなの。」

そう言って見せてくれたのは、本当に笑ってしまうほどで。
失礼だとは思ったけど、我慢できずにププっと笑いをこぼしてしまった。

「あー!今、紅涙ちゃん笑った!?」

そう言う黒川さんも笑っている。

「ごめんね。ちょっと想像以上で…」
「もーっ。でも、自分でも何を描いたか分かんないかも。」
「あははっ。」

この時はじめて、
黒川さんと"友達"になれるかもしれないと思った。

ねぇ、…お兄ちゃん。
私、乗り越えてきてる。
黒川さんと楽しく話せてるよ。

きっといい友達になれるよね。
お兄ちゃんのことを話し合えるような友達に…

なれるよ。

そう、思っていた。


気付けばいつもより楽しい美術の授業が終わり、黒川さんと一緒に教室へ戻る。

その途中、

「あっ!ごめん、紅涙ちゃん。」
「どうしたの?」

黒川さんが、ハッとした様子で口元に手を当てた。

「私、忘れ物っしちゃった!…一緒に戻ってもらってもいい?」

手を合わせて申し訳なさそうに言う彼女は可愛らしくて、

「うん、いいよ。」
「ありがとう!」

私も笑った。

黒川さんを…お兄ちゃんの彼女を、
私は"受け入れられた"。

そんな気がしたのが、美術室の前だった。


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