18


誰の決意・動き出す・彼女の砦


どうして悪いことは一度に来るのだろう。
どうして悲しいことは、一度に来るのだろう。

せめて、
その度に、私の心が強くなればいいのに――。


「ただいまー…。」

銀ちゃんに送ってもらい、玄関で靴を脱いだ。
ふと、見たことのない靴が目に留まる。

大きくて、男の人の革靴。
こんな時間にお客さん?それはないな。

「お母さーん、あれって誰の――」

話しながらリビングの扉を開ける。
すると、

「紅涙ちゃん、お帰り。」
「お…お父さん!?」

スーツを着て、優しく微笑むお父さんが座っていた。
お母さんも、既にお兄ちゃんもいる。

「遅かったのね、紅涙。十四郎君の方が早かったから心配したわ。」
「う、うん…ごめん。友達といて…遅くなっちゃった。」
「そう。」
「……。」
「……、」

お兄ちゃんの視線が気まずくて、思わず目を伏せた。

「…でも、どうして急にお父さんが?ビックリしたよ。」
「ははっ、そうか。すまなかったね、ようやく少し時間を作れたから帰ってきたんだ。」
「ゆっくりできるの?」
「いや…、そうでもないかな。」

お父さんが苦笑する。
笑うとやっぱりお兄ちゃんと少し似ていた。

背が高くて、自慢の父親。
私の実の親じゃないけど、この優しいお父さんが大好きだった。

前の…いや、
本当のお父さんの顔は、あまり覚えていない。
悪い記憶だから消してしまった、とかではなく、
純粋に、私があまりにも小さい時に別れた親だから。

確か…、
容姿はそれほど背が高くなくて、
生まれもった茶色く明るい髪色が印象的な人だったような…。

「紅涙も元気そうで安心したよ。」

お父さんが私を見て、目を細める。
私は「お父さんも」と言って、お兄ちゃんの隣に座った。

「ねぇ久しぶりに家族が揃ったんだし、今週末は皆でどこかに行こうよ。」
「紅涙…。」
「お兄ちゃんはどこがいいと思う?」
「……。」
「…お兄ちゃん?」

せっかくの一家団欒なのに、お兄ちゃんの表情が険しい。
首を傾げながらお母さんを見ると、同じように眉を弱く寄せていた。

「え…、何?みんな…どうしたの?」
「…実はね、紅涙、」

お母さんが気まずそうに口を開く。
だけどすぐに、お父さんが「待ってくれ」と止めた。

「僕が言おう。」
「あなた…。」

胸元で手を握る。
トシは机に置いているコップをずっと見つめていた。

ほんとに…何があったの?

「紅涙ちゃん、」
「は、はい。」

お父さんが姿勢を正して私を見る。
その視線は力強く、
あまりにもしっかりとした眼差しだったから、なんとなく私も背筋を伸ばした。

お母さんはなぜか隣で悲しそうにしている。

「僕たちね、…。…僕たち、離婚しようと思うんだ。」
「!?」

り、離婚…!?
え…、え……

…え?

「ど…どう…、…して?」

離婚って…なんで?
仲、悪かったっけ?
そりゃあ…あまり会う機会はなかったけど…
いつから…いつからそんな話が……?

「離婚…なんて……、…。」

予想外の言葉に、頭を働かせ過ぎて目が回る。
お父さんはそれに気付いたのか、
「すまない」と謝った後、穏やかな口調で言った。

「少し前から、母さんとは話し合っていたんだ。」
「あなた達の気持ちを聞かずに決めて…ごめんなさいね。」
「……、…。」

お兄ちゃんは…どう思ったんだろう。
驚いた様子もなく黙ってるけど…私より先に聞いてたんだよね?

「離婚の…原因は何?」
「『原因』…、…そうだな、原因になるか。」

お父さんは自問して、私に頷く。

「全て、僕のせいだよ。」

家に帰らない生活を何年もして、
負担ばかりお母さんに掛けてしまったこと。

それがまだこの先も続き、より負担を強いてしまうこと。

何より、
お母さんや私達に、寂しい思いをさせてしまったこと。

お父さんは、
マイナスばかりになってしまった生活を申し訳なく思っていると話した。

「僕は、家族だから…大切な人たちのこれからを守りたい。」
“そう考えた時、一番良い方法が離婚だったんだよ”

お母さんが口元に手を当てる。
悲しいなら、別れなければいいのにと思った。
二人で話し合って決めたはずなのに、なんで?って。

……でも、

『僕は、家族だから…大切な人たちのこれからを守りたい』

今の私には、分からない部分だろうから…

「そう、なんだ…。」

そんな言葉しか言えなかった。

"離婚なんてしないでよ"
"寂しいよ"

言いたいことは山ほどあったけど、言えることは何もなかった。

私がもう少し…あとほんの少し、
"子ども"なら素直に言えていたのかもしれない。

お母さんの涙は、お父さんの優しさに対する涙で、
お父さんの迷いのない目は、お母さんをずっと守り抜く決意。
二人はまだ、お互いを大切に思い合っている――

そんなことに気付かない"子ども"なら…よかったのに。

…けれど、

「形だけ…だよね…?」
「紅涙ちゃん…。」

"離婚"というのは形の問題で、

「これからも…ずっと"家族"なんだよね?」

今までと何も変わらないんだよね?

「…ああ。」

お父さんが微笑んで頷く。


「どれだけ遠く離れていても、僕たちはずっと家族だよ。」


…え?
何…その言い方。

「紅涙…。お父さんね、海外へ行くのよ。」

お母さんが胸の前で手を握り締めて言う。

そして、


「…十四郎君と一緒に。」


震え疲れたはずの胸を、また小さく揺らした。

「ちょ…ちょっと待って。海外に…、…お兄ちゃんと?」

お父さんが頷く。
隣に座るお兄ちゃんを見ると、浅く溜め息を吐いて私を見た。

「悪ィな、紅涙。俺、行くわ。」
「お…兄ちゃん…、」

"すぐそこまで"みたいに軽く言う。
いよいよ頭が追いつかなくて、真っ白になった。

「僕の会社が海外に営業所を構えることになってね。急な話だから、十四郎には残れと言ったんだが…」
「俺のことは俺が決める。勝手に決めつけんな。」
「こう言われてね。」

お父さんが困ったように笑う。

「一緒に来てくれるのは嬉しいが…正直、意外な答えにビックリしたよ。」
「……。」
「…十四郎君、いいの?本当に。」

お兄ちゃんは静かに、かつ大きく頷き、

「はい、行きます。」

お母さんに優しく笑った。


「俺、べつに日本に残りたい理由もありませんから。」


その言葉が、厭に私に突き刺さる。

まるで今ある全ての環境に興味がないとでも言う言葉。

その中には黒川さんも入っているだろうし、
今まで一生懸命にやっていた部活も入っているんだろうけど、

私まで、含まれているようで。

気がつけば、

「紅涙ちゃん…、…すまない…。」
「っ、…。」

知らぬ間に、泣いていた。
顔を両手で覆い、背を丸める。

いつもなら慰めてくれるお兄ちゃんが、隣にいるのに…いない。

「っ…、っ。」

"兄妹"を必要としていのは、私だけだった。

ならお兄ちゃんにとって、
この十数年はどんな時間だったんだろうな…。


お父さんとお兄ちゃんが発つのは、10日後らしい。

今月中に移動しなければいけないお父さんの予定に合わせ、
急遽お兄ちゃんも準備することになった。

家の中が慌しくなる。

お母さんは学校へ話しに行ったり、ややこしい手続きをして。
お兄ちゃんはパスポートを申請したり、英語の勉強を始めたりした。

「こんな短期間で何も覚えられねェだろうけどな。」

そう言って笑っていたけど、
たぶん、頭のいいお兄ちゃんなら大丈夫だと思う。

皆が忙しく動く中、私だけ何もすることがない。

銀ちゃんから、

「あの時の傷は治ったのか?」

そう聞かれて、
そんなこともあったなと思い出すほど、
私は毎日、お兄ちゃんのことばかりを考えていた。

あれだけ怖い体験をしたのに、忘れてしまうなんておかしい。

でも、何をしても、何をしてても、
本当に、ただお兄ちゃんのことだけを考えていて…。

「お前、大丈夫か?」

国語準備室へ行く度に、銀ちゃんから心配された。
私が決まって「大丈夫」と返せば、銀ちゃんも決まって「そうか」と返す。

いつもそれ以上聞かないのは、分かっていたからだと思う。

銀ちゃんは何でも知ってるから。
私のこと、何でも分かってるから。

ずっと私が誰のことを考えて、
ここまでぼんやりしてしまっていたのか、

全部、知ってたんだよね。


「聞いたよ、紅涙!」

お兄ちゃんの話はすぐに広まった。
当然、3年生の間だけでなく、私のクラスの友達にまで。

「紅涙のお兄ちゃんのことホント!?」
「うん…。」
「紅涙も行っちゃうの!?」
「私は行かないよ。お父さんと…お兄ちゃんだけ。」
「なんで!?なんで海外なの!?」

前のめりになって友達が聞いてくる。
私は苦笑いして、「お父さんの仕事の都合」と言った。

「ならお兄ちゃんは行かなくていいじゃん!」
「!……そうだよね。」
「どうして行っちゃうの!?」
「それは…、…、…どうしてだろう。」

"日本に居たい理由もないから、ただ単に行きたいんじゃないかな"
…なんてことは言えなかった。

私が…、
お兄ちゃんがそんな風に考えていたと、まだ信じたくなかった。

「ね、海外ってどこ?やっぱLAとか?」
「どこかな…、わかんない…。」

細かいことを聞かれても、何一つ答えられない。

私自身、詳しく知らないから。
聞けば教えてくれるだろうけど、
聞くと、より現実味を増す気がして…踏み込めない。

…何もしなくても、
遠くない未来に、その日は必ず来るんだけど。

「珍しいね、紅涙。」
「…え?」

友達が不思議そうに私を見る。

「お兄ちゃんの話で『知らない分からない』って言ったこと、今まであまりなかったから。」
「そう…かな。」
「うん。最近は一緒に帰ってないみたいだし。ケンカでもしたの?」
「…ううん、してないよ。普通。」

普通…そう、これが普通の兄妹の距離感だ。

「何も教えてあげられなくてごめんね。」
「いやそれはいいんだけど…、やっぱ彼女の存在って大きいんだねー。」

彼女…。

「黒川さんって家に来たりするの?」
「…しないよ。」
「どう思ってるんだろうね、海外に行くこと。」
「そうだね…。」

どう思ってるんだろう。
きっと寂しがってるよね…。

やっぱり先にお兄ちゃんから色々聞いてたのかな。
お兄ちゃんは、なんて言ったんだろう。

どんな風に、黒川さんを慰めたのかな…。

「紅涙?大丈夫?」
「あ…うん、大丈――」
「紅涙ちゃん!」

私を呼ぶ大きな声に心臓が跳ねる。
見れば、廊下で黒川さんが手招きしていた。

「噂をすれば〜。」
「…ちょっと行ってくるね。」

重い腰を上げ、黒川さんの元へ向かう。
彼女とはあの一件以来、会ってなかった。

「紅涙ちゃん、十四郎君のこと聞いた?」
「…うん。」
「私、聞いてなくてビックリしたんだけど。」
「えっ…?」

はぁ、と苛立った様子で黒川さんが短い溜め息を吐く。

「海外って、どこ?どこに行くの?」
「さぁ…。私も行き先は聞いてないから。」
「そんなわけないじゃない。嘘つかないで。」

口調に攻撃的なものを感じる。
私は伏し目がちに答えた。

「嘘じゃないよ。本当に…知らないの。」
「…あっそ。じゃあ知ってることを全部話して。」
「そ、そんなこと言われても…」
「そもそもどうして海外なんて話になったのよ。」

あの日の事件のこと、一言も話さないんだな…。

「…父親の転勤だよ。親が離婚することになって…お兄ちゃんはお父さんと行くって。」
「ふーん、なるほどね。」

黒川さんが腕を組み、小さく笑う。

「またアナタのせいってわけ。」
「…え…?」
「またアナタのせいで、十四郎君は海外へ行くのね。」
「ど…どうして私のせいで……?」
「わからないの?」

呆れたといった様子で顔を歪ませる。

「信じられないわ。いい加減、もうやめてくれない?」
「な、何を?」
「これ以上、十四郎君を困らせないで。」

お兄ちゃんを…困らせる?
私が…お兄ちゃんを…?

「あなたのせいで、どれだけ彼が苦しんでると思ってるの?」
「私の…何が……」
「存在よ。」
「!」
「存在してること自体が迷惑なの。」
「っ、」

どうして…、
どうして黒川さんにそこまで言われなきゃいけないの?

「自分の身勝手な行動、考えたことなんてないんでしょ。」
「身勝手な…行動…?」

私達の周りに生徒が集まり始める。
もうすぐ休憩時間も終わるのに、騒がしさが増していく。

「紅涙ちゃん、思い当たらないの?」

黒川さんが薄く笑う。
その顔で、ひどく不安になった。

「あの日よ。」

…どうすれば、

「私とコンビニで会った、あの日。」

どうすれば、抜け出せる?
この子から…今までの、私の行いから。

「泊まったんでしょ?」
「っ!!」

お兄ちゃん…、

「彼の家に、」

私、どうすればいいの…?

「彼の…、坂――」
「紅涙!!」

黒川さんの言葉が、大きな声に掻き消された。


「離れろ、黒川。」


力強い、お兄ちゃんの声で。


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