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その境地・固い意思・繋がる心


「離れろ、黒川。」

どこかで聞きつけ、
駆けつけてくれたお兄ちゃんが、黒川さんを強く睨みつける。

「お前が紅涙と話すと、紅涙まで汚れちまうだろうが。」
「…ひどいなぁ。私にそんなこと言っていいの?彼女なのに。」
「彼女?正気か。俺は言わざるを得なかったから、そう言ってやったまでだ。」
“お前の気持ちに応えたつもりなんてねェよ”

お兄ちゃんが私達の方へ歩み寄る。

「来い、紅涙。」

私の手を取り、歩き出そうとする。
けれどその背に黒川さんが叫んだ。

「十四郎君のバカ!キスまでしておきながら、私にこんな酷いことを…っ」
「ハッ、無理やりさせておいてよく言うよ。とことん残念なヤツだな、お前。」
「っ…、」

黒川さんが唇を食いしばる。
私は訳もわからず、お兄ちゃんに手を握られていた。

「ね、ねぇ…お兄ちゃん、どういうこと?」
「あとで話す。とりあえず、ここを離れて――」
「知らないから、十四郎君。」
「…あァ?」
「どうなっても、っ、もう知らないから!」

目に涙を溜め、黒川さんが言う。

「私は十四郎君のためを思って言ってあげてるのにっ!」
「っるせェんだよ!」
「!」
「何が俺のためだ!全部テメェのためだろうが!」
「っ、」
「お、お兄ちゃん…、」
「二度と俺達に関わんじゃねェ!!」

ここまで怒る姿を見たことがない。
私は半ば混乱しながら、お兄ちゃんの袖を引っ張った。

「も、もういいよ。…行こう?」
「紅涙、これからは我慢すんなよ。」
「え?」

お兄ちゃんは黒川さんを睨みつけたまま、

「俺はもう、我慢なんてしねェから。」

そう言った。

「何を…我慢しないの?」

首を傾げると、お兄ちゃんが私を見る。
繋いでいる手にギュッと力をこめ、少し微笑んだ。

「お前だ。」
「…私?」
「あはは!何それ。」

突然、黒川さんが笑い声をあげる。

「もしかして十四郎君、自分が海外へ行けば丸く収まるとでも思ってるの?」
「黒川さん…、」
「紅涙、相手にすんな。」
「バカね。アナタがここからいなくなっても、その子はあと2年いるのよ?私と一緒に。」

ゾッとするような笑みを浮かべて私を指さす。
こんな顔が出来る子だったんだと思うと、
恐怖を覚えるのと同時に、今までの記憶が全て薄っぺらく感じた。

「十四郎君がいなくなったら、今度は私が紅涙ちゃんを可愛がってあげるわ。私の"妹"みたいに。」
「…フッ。」

お兄ちゃんが鼻で笑った。

「馬鹿はテメェだよ、黒川。紅涙が2年になっても、お前が2年になるとは限らねェだろーが。」
「…は?なるに決まってるじゃない。」

黒川さんが怪訝な顔をした。

「私は出席日数も成績も、文句のつけどころがないんだから――」
「黒川〜。黒川ひなたァー。」
「…?」

私達を取り囲む生徒の後方で、間延びした声が聞こえる。
ペタペタと足音を鳴らし、
「教室へ戻りなさい」と注意しながら歩いてくるのは、銀ちゃんだった。

「あーいたいた、黒川。」
「…何の用ですか。」
「せ…先生?」

私の声に、銀ちゃんがニコリと笑う。

「お前はもう大丈夫だぞ。」
「え?」
「話があるのは黒川だから。」

銀ちゃんは黒川さんを見て、


「今すぐ校長室まで来なさい。鞄を持って。」


そう告げた。
途端に、周囲がザワつく。

…当然だ。
校長室への呼び出しは、厳しい指導が入る時だし、
鞄を持って行くということは、その後に教室へ戻れないことを意味している。

つまり…
停学か、退学を言い渡される前触れ。

「っ、そんな…っ、」

黒川さんは動揺した。

「先生っどうして!?どうして私が!?」
「ここで言っていいんなら理由を説明してやるけど?」

肩をすくめる先生に、
黒川さんは腰を抜かしたみたいに座り込んだ。

…もしかして、あの一件で呼び出されることになったのかな。

「紅涙、」

お兄ちゃんが私を呼ぶ。
その瞳は、先程までが嘘のように優しかった。

「行こう。お前と少し話したい。」
「う、うん…。」

私の手を引き、歩き出す。
途中、銀ちゃんとすれ違う時、

「ありがとな、銀八。」

お兄ちゃんが小さく頭を下げた。
振り返り見ると、
銀ちゃんは後ろ手にヒラヒラと手を振り、うなだれる黒川さんが準備するのを退屈そうに待っていた。


「…ねぇ、お兄ちゃん。」
「ん?」

二人で階段を上がる。
目指しているのは屋上…だろうけど、

「授業、始まっちゃうよ?」

じきに本鈴が鳴る。

「この辺りで話さないと、時間までに教室へ戻れないんじゃ――」
「サボるからいい。」
「っえ!?つ…つまり、私もサボる…ってこと?」
「何言ってんだ、当たり前だろ。」

小さく笑い、お兄ちゃんは私の手を引いたまま階段を上り続けた。


――キィィ…

古くて重い扉を開け、屋上に出る。
相変わらず湿り気のある夏の熱風が、一瞬で私達の肌にまとわりついた。

「あつーい…。」
「だなー…。」

声音も急激に気怠くなる。
手はどちらともなく、自然と離れた。

「でも誰にも邪魔されないところって、他に思いつかねェんだよなー…。」

お兄ちゃんは奥の方へ歩き、転落防止のフェンスに寄りかかる。

「ここ、俺の好きな場所でもあるしよ。」
「…うん。私も好きだよ、ここ。」

学校の中で、一番好き。

「お兄ちゃんと過ごした場所だから…好き。」
「…、……悪かったな。」
「え…?……何…が?」
「いろいろ。…あと、」

フェンスから背を離す。

「今まで、…ありがとう。」
「お兄ちゃん…、…。」

…やっぱり、

「本当に…行くの?」
「行く。」
「っ、…そっか。」

お兄ちゃんを引き留めるものは、本当に何もないんだな…。
"彼女"の存在が少しくらいは離れ難さを残してくれるのかと思ったけど…

黒川さんは、"彼女"とは少し違ったみたいだし。

「…もう変わらないの?お兄ちゃんの気持ち。」
「あァ…、変わらねェな。」
「……そっか。」

意思の固さが目に見えて、
私は、同じ相づちで頷くしかなかった。

「…そんな顔するなよ。」
「だって…、…、……ごめん。」
「いや…、…。」
「……。」
「…俺の方こそ、ごめんな。どうしても…、行く前にお前とゆっくり話したかったんだ。」
“最近、あまり話せてなかったから”

ポケットに手を突っ込み、申し訳なさそうに笑う。

「家だと、ちゃんと話す自信がなくてよ。」
“暑いけど、ここしかなかった”

お兄ちゃん…、…。

「…、やだな…。」
「ん?」
「やっぱり…、…やだよ…。」
「……。」

頭のどこかで、
『実は行かないことにした』って、
『これからも一緒だ』って、言ってくれるのを期待していた。

少し前までみたいに、


『俺はお前の傍にいる』


そう言ってくれるんじゃないかって、
お兄ちゃんなら…トシなら言ってくれると思ってたのに…。

「行かないで…、トシ。」
「紅涙…、」

戸籍が抜けて、遠く離れるなら、
たとえずっと"家族"を続けても、ほとんど意味なんてない。

おまけに行き先が海外なんて…遠すぎるよ。

「お願い…、ずっと…傍にいてっ。」

私の傍で、
私の我がまま、聞いてよ…。

「私…っ…、トシがいないと…っ」
「紅涙。」

泣き出しそうになった時、優しく私を抱きしめくれた。

もう…、
こんな風に甘えることも、

「紅涙…、」

こうして、名前を呼ばれることも、

「トシ…っ」

私が大きな背中に腕を巻きつけることも…

出来なくなるんだね。

せっかく、
"いい妹"にこだわらず、今まで通りの私達に戻れるようになったのに…。

「っ…、やっと…、一緒にっ…いられるのにっ」
「…そうだな…。」

トシが私の背中を撫でる。
いくら慰めてくれても、絶対に「行かない」とは言わなかった。

「……、」

私はトシの制服を握り締め、ゆっくりと身体を離す。

「どうして…行くの?」

海外を選んだ理由は何…?

「……もっと学ぶためだ。」
「"学ぶ"?」
「そう。もっと…力が欲しいから。」
「力って…強くなりたいの?」
「色んな意味でな。」

曖昧に答えをにごす。

「…わかんないよ、トシ。」
「いいんだよ、それで。俺の話なんだから。」

そう…だけど……、
私には関係なくても…知りたかったな。

「……。」
「帰って来たら話してやる。」
「……うん。」

不満げな私に、トシが苦笑した。

「…なァ、紅涙。」
「なに?」
「前に俺が、"お前を妹なんて思ったことはない"って言ったこと…覚えてるか?」
「…、…覚えてるよ。」

あの時は本当にビックリした。
でも…思い返せば、あの時に感じた怖さは、少し違った。

怖かったのは、二人の関係が変わってしまう怖さ。
これからも"家族"は続くのに、
私達のこれまでを…、
お母さんやお父さんの気持ちを、
全て台無しにしてしまうかもしれない怖さだった。

「いきなりあんなことしちまって…悪かったな。」
"怖い思いさせて…"

目を伏せるトシに、私は顔を横に振る。

「あの時、…トシが怖くて逃げたんじゃないよ。」
「え?じゃあ…なんで。」
「私の中のトシが…トシじゃなくなってしまいそうだったから…かな。」
「そ、…そう、なのか。」

トシが分からないなりに頷いてくれる。
私は小さく笑い、「伝わらないよね」と謝った。

「ようはね、…嫌じゃなかったの。」

そう…、嫌じゃなかったから逃げた。
先にあるものを知ったら、
普通に、なんでもない顔をして過ごせなくなると思ったから。

それってつまりは…

「私…、…トシのことが好きだよ。」
「!」

…銀ちゃん、ごめん。
私の気持ち…やっぱり消せなかった。
トシを"お兄ちゃん"に…できなかった。

ごめん…、
……ごめんね。

「……、」
「紅涙……、…フッ。」

私の言葉に、なぜかトシが悲しそうに笑う。

「ありがとな。俺も…好きだよ。」
「トシ…。」
「だが…、」

やや目線を落とし、

「俺のは、紅涙が言ってる"好き"と…少し違うんだ。」

自嘲するように笑った。

「…どう違うの?」
「うまく言えねェが…違う。」
「同じだよ。」
「違うって。」

トシはポケットの中から煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。

「でも俺は、それで十分だから。」
「……、」
「ありがとな。」

何が…違うの?

私だって…知ってるよ。
家族や友達に使う"好き"とは違う、

特別な、"好き"って気持ち。

「私、ちゃんと…好きなのに。」
「…ありがとよ。」
「分かってない…、トシ。」

腕を掴む。
いきなりの行動に驚いたトシは、

「っ、何だよ。」

動揺しながらも、煙草を持つ手を遠ざけた。

「トシは私を分かってない。」
「わ、わかってるって。」
「分かってないよ。」

掴んだ腕をギュッと掴む。
引き寄せるように僅かに引っ張って、

「ちょ、おいっ!」
「私の"好き"は…」

足を踏みしめた。
だけど引き寄せるつもりだったのに、トシはビクともしない。

だから私は背伸びして、

「私の"好き"は、こういうことだよ。」

薄く目を閉じ、
その唇に、

――チュッ…

「っ!!」

キスをした。

「お、前……。」

トシの瞳が揺れる。
視界の端に、地面へ落ちる煙草が見えた。

「私はこういう意味で"好き"って言ったの。…トシは違う?」
「……、…はァ。」

浅く溜め息を吐き、
「ったく」と言いながら、落ちた煙草を足で踏み消した。

「違わねェよ。」
"お前と一緒だ"

その言葉が耳へ入るのと同時に、トシは私の肩を掴み、

「紅涙…、」

煙草味のキスをする。

これはまだ、禁忌。
許されないこと。

でも…

「トシ…っ」

今は、心のままに抱き締めた。

暑く照らす太陽だけが、想い合う私たちを見ている。
…そう思っていた。


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