22


家族の入り口・歓喜と悲哀・この涙の先


三人で必死に走った、あの後。
無事、見回りの先生に見つからないまま休憩時間を迎え、私達は各自教室へ戻ることになった。

「じゃあ帰りにな、紅涙。迎えに行くから。」
「うん、また後でね!」

トシに手を振ると、少し後ろに立っていた総悟お兄ちゃんと目が合う。

…そうだ、

「総悟お兄ちゃんも一緒に帰ろうよ。」

せっかくだから、このまま家へ来ないかな。
お母さんとお父さんも、きっと喜ぶと思うんだけど…。

「途中までなら構いやせんぜ。」
「用事があるんですか?」
「いや、ただ単に俺の駅が紅涙達と反対方向だから。」
「あ、えっと…一緒に帰るって言うのは、そういう意味じゃなくて……、…。」

言葉をにごす。
黙って聞いていたトシが、助け舟を出してくれた。

「“うちに”一緒に帰らないか、だってよ。」
「うちって…土方さん達が住む家に…、…俺も?」
「…そうです。」

頷く。
総悟お兄ちゃんは目を瞬かせて、

「それはちょっと…、…急な話ですねィ。」

やんわりと拒んだ。

やっぱり、まだ難しいのかな…。
楽しい雰囲気だし、大丈夫かと思ったけど…別の問題だよね。

「…ごめんなさい。総悟お兄ちゃんの気持ちを考えずに誘ってしまって…。」
「謝る程のことじゃありやせんよ。」
「そんなことないです。やっぱり心の準備もないままに行くのは、怖いと思いますし――」
「いや、怖いとは言ってやせんから。つか、心の準備とか…俺はべつに……いらねェし。」

ゴニョゴニョと口ごもる。
もしかして、帰ることが気まずくて…断ってるだけ?

「総悟お兄ちゃんが来てくれれば、お母さんとお父さんも喜ぶと思うんだけど…。」
「それはどうですかねィ。」
「…喜ぶに決まってんだろ。」

トシが気怠そうに溜め息を吐く。

「施設にお前を呼びに行った二人だぞ?そいつが自分から来てくれたら、嬉しくないわけなねェだろーが。」
「……。」
「ビビんな、総悟。」
「ッ、ビビってねェし!」
「どうだかな。」

フンと鼻で笑う。
総悟お兄ちゃんは悔しそうに「わかったよ」と言った。

「行きまさァ。行きゃいいんだろ。」



そして放課後。

「ただいま〜。」

家の鍵を開け、トシが先に入る。
私の後ろには総悟お兄ちゃんが口数少なに立っていた。

「……。」

どことなく不機嫌そうなのは、どんな顔でいればいいか分からないせい。

それを、私達は感じ取っていた。

駅のホームで、


『総悟、俺達に言われて行くんなら無理に行くことはない』
『…わかってまさァ』
『お前の意思で行くんだな?』
『…あァ。俺は…自分で行くって決めやした。野郎に言われて行くんじゃねェ』
“自惚れんな、土方コノヤロー”


そんな会話があったから。

口数が少なくて不機嫌そうなのは、自分自身と向き合ってる時間。
総悟お兄ちゃんにしかわからない、苦しい時間。

…でも、
もしそれを乗り越える力になってもいいなら、
私達はなりたいなって、思うよ。

「……、」

靴を脱ぎ、トシが「ただいま」と言って家へ入る。

“おかえり”の声がないのは、お母さんもお父さんも仕事だ。

「…総悟お兄ちゃん、」

私は玄関の外で立ちすくむ姿に手を伸ばした。
それを静かに見ても、動かない。

「帰るか?」

トシが言う。
総悟お兄ちゃんは吐き捨てるように笑った。

「スッと入っちまうのも…アレだなと思ってただけでさァ。」
「なら盛大に歓迎してやろうか?」
「…うるせェ。」

複雑…だよね。

ここは総悟お兄ちゃんにとって、
自分の母親が住む家であり、他の家族が住む家。

正確には"ただいま"でもなければ、"お邪魔します"でもない。

「総悟お兄ちゃん…、」
「……ん。」
「難しく考えんなよ。お前の家だろ?これからは。」
「……、…そうですねィ。」

自分の足もとを見て、一歩踏み出す。
総悟お兄ちゃんの身体が、家の中へ入った。

「これからは…、ここが俺の家…、」

玄関を見回して、

「ああ。」

トシが頷く。

「俺の…家、か。」

総悟お兄ちゃんは小さく笑い、おもむろに腰を屈めた。
靴を脱ぐ…のかと思ったけど、なぜかそこでトシの靴を手にする。

そして……

「ということなら、」
「「?」」

あろうことか、総悟お兄ちゃんは手にしていたトシの靴を外へ放り投げた。

「っおい!!」
「野郎は出て行ってくだせェ。」
「なんでそうなる!?」

トシが靴下のまま玄関を下り、靴を取りに行く。
途端、バタンッと玄関の扉を閉めた。

『なっ、総悟!』
「そ…総悟お兄ちゃん?」
「妹の彼氏を気に入らない兄なんて、どこにでもある話でさァ。」
『俺はまだ彼氏じゃねーよ!戸籍上は紅涙の兄だ!』
「俺ァ戸籍よりDNAを重視してやすんで。」
『知るかよ!』
「仮にもし土方さんに兄の認識があるなら、あんなキスなんてしねェはずですしねィ。」
『ッ、お前…』

『あら。』

「「!」」

『なにか賑やかだと思ったら、うちだったのね。』

突然聞こえた声に心臓が跳ねる。

「この声…、お母さん…?」

『ただいま、十四郎君。』
「あ…、……。」

うそ…、もう帰ってきたの?
ううん、それはいいとして…
さっきの話、聞かれてなかったよね…?

トシと私の関係が…普通じゃないってこと――

『…お、おかえりなさい、早雨さん。』

扉の向こうから動揺した声が聞こえる。
おそらく、トシも私と同じことを心配しているせいだろう。

でも“早雨さん”って…、ちょっと他人行事すぎない?

『早かったんですね。』
『ええ、そうなの。ミーティングが早く終わってね。』
『そ、そうだったんですか…。』

取りつくろうような乾いた笑い声が聞こえる。

「…野郎は、いつもあんな風に呼んでるんですかィ?」

総悟お兄ちゃんが扉を見つめたまま口にした。

「母さんのこと、“早雨さん”って。」
「たぶん気が動転してるせいだと思います。」
「そのわりに、母さんは引っ掛かりやせんでしたね。いつも通りって感じでさァ。」

言われれば…そうだけど。
でも私と話す時は、普通に『母さん』って言ってるし。

…もしかして、使い分けてた?
本当はずっと…心の中で一線引いて、過ごしてた…とか?

「……、」
「…悪い、紅涙。俺ァそういうつもりで言ったんじゃ――」

『紅涙は中にいるの?』
『あ…はい。』

――ガチャッ

扉が開く。
その瞬間、

「!」

総悟お兄ちゃんのまとう空気が張り詰めた。
そして、中へ入ってきたお母さんと視線を絡ませる。

「ただい――」
「……どうも。」
「!…まあ…、…っ、」

お母さんは持っていたバッグを落とし、口元に手を当てた。

「総君…!」

その目が潤む。
私とトシは顔を見合わせ、小さく笑った。

「“総君”だってよ。」
「なんか可愛いね。」
「っうるせェ!」

ほんのり頬を赤くして声を挙げる。
それをクスクス笑っていると、傍でお母さんが「ちょっと待って」と言った。

「ど、どうしてなの?どうして総君が、ここに…?」
「あ、えっと…」
「紅涙が一緒にって言うから…来ました。」
“いきなりすみません”

黄色い髪を揺らして頭を下げる。
お母さんは大きく首を振って、総悟お兄ちゃんを抱き締めた。

「つらい思いをさせて、ごめんなさい…っ、」
「……、」
「来てくれてありがとう…っ!」

抱き締められたまま、総悟お兄ちゃんは動かない。
だけどその表情に嫌悪感があるわけではなく、

「総君が戻るって言ってくれて…嬉しかったわ。おかえりなさい。」

照れくさそうな、
くすぐったそうな顔をして、

「…ただいま。」

そう呟いた。



それからのお母さんは浮かれっぱなしで、

「今日はみんなでご飯を食べましょう!」

帰って来て早々、今度は買い物へ行ってくると言った。

「ああでも先にあの人に連絡しておかないとね!」
「あの人?」
「お父さんよ。今日は夕飯の頃には帰って来るから。…そうだわ、総君、今日は泊まっていったらどう?」
「ちょ、ちょっとお母さん。それはさすがに急すぎるんじゃない?」

私が言うのもなんだけど…。

「似てやすね、紅涙と。」
「え?」
「ああ。確かに似てるな。」

トシと総悟お兄ちゃんが頷き合う。
お母さんがクスッと笑った。

「二人がクラスメートなのは聞いていたけど、仲も良かったのね。」
「「よくありません。」」

声を揃えて否定する。
それをお母さんは「あらそう」と微笑ましそうに笑ったけど、私は…笑えなかった。

トシの口調が…また、他人行事で。

「…じゃあ俺は一度戻って外出申請を出してきやす。」
「泊まんのかよ。」
「泊まりまさァ。つーか、ここで寝るのが当たり前。"俺の家"ですからねィ。」
「総君…!」

お母さんが嬉しそうにする。
総悟お兄ちゃんはハッとした様子を見せた後、
照れくさそうにして、「まァそういうことだから」と施設へ向かった。

「それじゃあ私は買い物へ行ってくるわね。」
「一緒に行かなくて平気?」
「ええ。紅涙は十四郎君と家の準備をしててちょうだい。」
「準備って…何を?」
「そうねぇ…テーブルの上を片付けておくとか?」

バタバタと忙しく動き回るお母さんが、適当な返事をする。

「じゃあ行ってくるから!」
「い、行ってらっしゃい。」


「すげェ喜んでたな、母さん。」
「…、……うん。」
「…なんだよ、どうした?」


「トシ、…お母さんのこと、なんて呼んでる?」
「?母さん。」
「…それと?」
「……、…。」

トシは『気付いたのか』と言いたそうな目で私を見て、

「…早雨さん。」

小さな声でそう答えた。


それからのお母さんは浮かれっぱなしで、

「今日はみんなでご飯を食べましょう!」

帰って来て早々、今度は買い物へ行ってくると言った。

「ああでも先にあの人に連絡しておかないといけないわね!」
「あの人?」
「お父さんよ。今日は夕飯の頃には帰って来るから。…そうだわ、総君。今日は泊まっていくのはどう?」
「ちょ、ちょっとお母さん。それはさすがに急すぎるよ。」

まぁ…私が言うのもなんだけど。

「似てやすね、紅涙と。」
「え?」
「ああ。確かに似てるな。」

トシと総悟お兄ちゃんが頷き合う。
お母さんがクスッと笑った。

「二人がクラスメートなのは聞いていたけど、仲も良かったのね。」
「「よくありません。」」

声を揃えて否定する。
それをお母さんは「あらそう」と微笑ましそうに笑ったけど、私は笑えなかった。

トシの口調が…また、他人行事で。

「…じゃあ俺は一度戻って外出申請を出してきやす。」
「泊まんのかよ。」
「泊まりまさァ。つーか、ここで寝るのが当たり前。"俺の家"ですからねィ。」
「総君…!」

お母さんが嬉しそうにする。
総悟お兄ちゃんはハッとした様子を見せた後、
照れくさそうにして、「まァそういうことだから」と家を出て行った。

「それじゃあお母さんは買い物へ行ってくるから。」
「一緒に行かなくて平気?」
「大丈夫よ。紅涙は十四郎君とお部屋の準備をしててちょうだい。」
「準備って…何の?」
「そうねぇ、テーブルの上を片付けておくとかかしら。」

バタバタと忙しく動き回るお母さんが、適当な返事をする。

「じゃあ行ってくるわね!」
「い、行ってらっしゃい。」

足音が遠ざかり、玄関の扉を閉める音が聞こえる。
私達だけが残された部屋は、なんだか極端に静かに感じた。

「…すげェ喜んでたな、母さん。」

トシが思い出したように小さく笑う。

「連れて来て良かったな。」
「うん…、……。」
「…なんだよ、どうした?」

…トシ、

「お母さんのこと、…普段、なんて呼んでるの?」
「?なんだよ、急に。」
「いいから。なんて呼んでる?」
「…母さん。」
「それと?」
「……、」

『気付いたのか』
そういう目で私を見て、

「…早雨さん。」

白状するみたいに、溜め息混じりで答えた。

「…どうして?」
「どうしてって…、…昔からそう呼んでたから、変えるタイミングを逃しただけだ。」
「それなのに、私の前では『母さん』って言い換えてたの?」
「…ああ。」
「…私に気を遣って?」
「……。」

『違う』とは言わなかった。
嘘や屁理屈で隠そうとしなかったことに、

「そう…だったんだね。」

私は、またひとつ、トシの優しさを知った。

「…ごめんね。」
「え…?」
「私、トシがそういう見えない部分に壁があったこと…全然気付いてなかった。」
「壁っつーか…まァそれは俺の問題だから。お前が謝ることじゃねェよ。」
「だとしても、欠片も気付かないなんて…、」

ずっと傍にいたのに、

「こんなに一緒にいたのにね…、」

何も気付いてあげられなかったなんて。

「私、能天気に笑って過ごして…っ」
「そんな言い方するなよ。」

トシが私を抱き締める。

「俺だってこの十数年、普通に笑って暮らしてきた。"母親"で悩んだことは一度もない。」
「…ほんとに?」
「ああ。早雨さんを悪いように思ったこともない。俺に対しても、すごくいい母親であってくれた。」

『感謝してる』
重く吐き出される声音に、嘘が混じっているようには聞こえない。

「それでも俺が"母さん"って言えなかったのは…ただ単に、気恥しかったからだと…思う。」
「気恥しい?」
「…なんか、こういうのって言いにくいもんだろ?」
「そう…なのかな。」

眉を寄せると、トシが苦笑いを浮かべた。

「お前は別格だな。総悟のことも、すぐに『お兄ちゃん』って呼んじまうんだから。」
「だって…実際お兄ちゃんなわけだし、そう呼んだ方が距離も縮まりやすい気がして…。」
「そういうとこが、お前のいいところだ。」

チュッと私の額に口付ける。

「トシ…、」
「ま、俺とは距離をあけるために使ったみたいだけどな。」
「あっあれは…、…、……ごめん。」
「いや…、…悪い。つまんねェこと思い出しちまったな。」
「ううん…、…。」

あの頃は…毎日トシのことを考えていた。
どうすれば、ちゃんとした"兄妹"になれるんだろうって。

「色々…あったよね。」

楽しかったこと、悲しかったこと。
ドキドキしたり、傷ついたり、逃げ出したいほど…ツラい体験をしたり。

「思えば…俺のせいだよな。」
「…何が?」
「全部。ここしばらく騒がしかったのは、俺が原因だった気がする。」
「…そんなことないよ。たとえ今じゃなくても、いつかは…こうなってたと思う。」

兄妹のことも、黒川さんのことも。
私達の…気持ちも。

「トシがいる間に、色々あってよかったよ。」
「紅涙…、」

一人じゃなかったから、今がある。
好きだよって、ちゃんと言えた今がある。

「トシがいて…、…っ、よかった。」
「……、」
「っ、ごめん。」

トシの胸を押し、距離を取った。

やばい…、泣きそう。
少し落ち着かないと。

「…紅涙、」
「ごめん、ちょっと…待って。」

トシがいなくなるまで、
出来るだけ、笑って過ごしたいなって思ってたのに。

「はぁ…、…。」

頭に浮かぶのは、
寂しいとか、しばらく会えないとか、そんなどうしようもないことばかりで。

「…っ、…、」

悲しさばかり増してしまう。

「…私、着替えてくるよ。」

一度部屋に戻ろう。
気持ちを切り替えないと、せっかくのパーティーまで壊してしまう。

「ちょっと…待っててね。」

トシの横を足早に通り過ぎようとした時、

「待つのはお前の方だろ。」

手首を掴まれた。

「…なァ、紅涙。」

私は顔を向けず、トシの声に耳を傾ける。

「隠すなよ、お前の気持ち。」
「な、何の話…?」
「そういうの。」

グッと手を引かれ、無理やりに身体を向き直された。

「俺は、…これからは今までみたいに、お前の傍に居てやれねェんだ。」
「っ、」
「すぐに駆けつけてやることも出来ねェし、お前の力になってやることも…ほとんど出来ない。」

私の視界に映る世界が、少しずつ滲んでいく。
鼻をすすると、トシが困ったように笑った。

「そうやって泣いても、抱き締めることすら出来ないんだ。」

胸が痛い。
瞬きすれば、迷いもなく涙が落ちた。

「大…丈夫だよ、私…。」

たぶん…、
ううん、きっと大丈夫。

「トシが…いなくても…っ、頑張るから。」
「…紅涙、」
「大丈夫、だからっ、」

自分でも、なんて説得力のない言葉だろうと思った。

「…着替えてくるね。」

手首にある手を、"放して"と促す。
でも、トシは放すどころか強く握り、

「違う。」

立ち去ろうとする私の目を真っ直ぐに見た。

「俺が言いたいのは、そういうことじゃない。」
「…え…?」
「我慢するんじゃなくて、もっと俺に言ってくれ。」
「トシ…、」

私の頬に、トシが触れる。

「これからしばらく俺達は離れ離れの生活になる。だからこそ一緒にいる時間を、大事にしたいんだ。」
「っ…、」
「寂しいことも含めて…俺は、紅涙と同じ時間を刻みたい。今まで以上、お前を知っておきたい。」

トシ…、

「俺達の間に、隠さなきゃいけないことなんて何もないんだ。」
「っ、」

落ちる涙は止まらず、

「トシっ…!」

私は、
目の前にいる大好きな人に、手を伸ばした。


- 22 -

*前次#