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真意・家族


「ただいまー。」

鍵を開け、玄関を上がる。
この時間、家には誰もいない。

お母さんは仕事。
お父さんは単身赴任で、もう長い間会っていない。

「疲れた〜。」

静かな部屋に私の声だけが響く。
時計を見ればまだ夕方だ。

外で楽しそうな学生の声が聞こえて、

「あのマネージャー…、」

また思い出してしまった。

「トシ…、…好きなのかな。」

正直、
今まで女の子と親しげに話す姿を見たことがなかった。
マネージャーも楽しそうだっし、
トシの表情も柔らかくて……。

「…モヤモヤする。」

考えれば考えるほど、私の中が曇っていく気がする。

心配とか、不安とか。
そんな感情に似ている。

「トシに…彼女、か…。」

これまで不思議と彼女なんて気配がなかった。
とは言っても、
バレンタインデーにはチョコを山ほど持って帰ってくるし、
都度、喜んで家族で食べてたけど、好きな人がいるなんて考えたこともなかった。

『絶対さー、彼女いるよねー。』

「そう…だよね…、トシ…カッコイイもん。」


モヤモヤする。
頭の中がグチャグチになる。

「帰ってきたら…聞こうかな。」

好きな人がいるのか。
聞けばきっとスッキリする。

いつかのトシみたいに、私も応援してあげられるし。

…だよね?トシ。


「ただいま。」

低い声が聞こえて、目を開いた。
いつの間にか、リビングで眠っていたらしい。

部屋に入ってきたトシが、冷たい目で私を見下ろした。

「いいもんだな、帰宅部は。」
「おっ、おかえり!」

「ケッ」と吐かれ、隣のキッチンへ向かう。

3年生のトシは本来なら部活を卒業してる時期。
けれど今年で野球部が廃部になるらしく、

『俺たちは学年の最後まで出ようじゃないか!』

という周囲の熱い思いに引っ張られて続けている。

頭が良いから、学力低下の心配はない。
それでも本心として、今の部活は義務感みたいな部分が大きいらしい。

「あー暑かった。」

冷蔵庫から麦茶を取り出す。
コップに注ぐ音を聞き、私はソファに座ったままで声を掛けた。

「トシ、私も飲みたい。」
「テメェで入れろ。」
「そのコップでいいよ。」
「ったく。」

飲み終わったコップに、お茶をいれる。
文句を言いながらも、「ほらよ」と持ってきてくれた。

「はァァァー、しんど。」

トシがソファに倒れこむ。

「母さん、まだ?」
「うん、まだ帰ってない。」
「今日は遅ェんだな。」
「そうみたいだね。」

トシがソファに片肘をつき、テレビのリモコンを持つ。

電源が入り、
騒がしい音量が耳に入る中、
私はコップをキュッと握って、トシの背中に言った。

「…あのさ、トシ。」
「あァ?」
「…あの…さ、トシってさ…、」
「んだよ、気持ち悪ィな。」

身体を起こし、こちらを見る。

「その…、」
「何。」
「す…好きな人とか……いるの?」

言った。
握り締めたコップには汗が掻き始めている。

「…なんだよ、いきなり。」
「い、いや、いるのかなぁって……思ったりなんかして。」
「……。」

怪しむ視線を感じる。

やばい、緊張する。
トシの返事が恐い。

…なんでだろう。
何て返事するんだろう。

「教えねェ。」
「っ!なっ何で!?」
「紅涙は?」
「へ!?」

疑問を疑問で返されて驚く。
トシはニヤリと楽しそうに笑った。

「紅涙は好きなヤツ、いるのか?」
「わ…私の話じゃなくて、今はトシの」
「紅涙が言ったら言ってやる。」

ええ!?
そんなの困る!

「い、いない!私、好きな人いないもん!」
「だったら俺もいない。」
「ズルイ!」
「何がだよ。」

ふっと笑う。
このままだと適当に流されそうだ。

「じゃ…じゃあさ、いるかいないかだけ…ちゃんと言い合おう?」
「わかった。お前からな。」
「っ。…わ…私は…、」

ゴクリと音を鳴らし、唾液が喉を通る。
トシの目が真っ直ぐすぎて、嘘をつくことすら厳しい。

けど、今はトシのことを知りたいから、

「いる…よ?…私は。」

嘘をついた。

「……へェ。」
「トシの番だよ!」
「…俺は……、」

ほんの少し視線をさまよわせ、私を見る。

「いる。」
「え…」

トシ…、
好きな人、いるの?

「ど…どんな人?」
「普通だ、普通。」
「同じ年?」
「2つ下。」
「え…私と…同級生?」

やっぱり…、
やっぱりマネージャーだ。
あのマネージャーなんだ。

「そ…そっか。ありがと、教えてくれて。」
「おい、俺ばっか言わせてんじゃねェよ。お前も言え。」

私はトシに背を向け、コップをシンクに置く。

「嘘だもん。」
「聞こえねェ。」
「私のあれは…嘘だったの。」
「…んだとコラァァァ!騙しやがったのかテメェ!!」

ごめん、トシ。
でもどうしても、聞きたかったの。

「が…頑張ってね。」
「何がだよ!」
「その…、好きな人のこと。」

背中越しにそう言って、リビングを後にする。

「おい、紅涙!」

トシが呼んだけど、無視した。

おかしい。
おかしいよ、私。

どうして逃げたの?
どうして悲しいの?

どうしてトシの目を見て、
頑張れって言ってあげられなかったんだろう。

「私…変だ…。」

自分の部屋に入って、倒れこむようにベッドへ伏せた。
ギュッと閉じた目からは意味の分からない涙が出て、布団に染みを作った。

「私…最低な妹だ。」

聞きたかったはずなのに、
言ってほしくなかったなんて、最低だ。


――コンコン

「紅涙、飯だぞ。」

どれぐらいか時間が経った頃、扉の向こうでトシの声がした。

たぶん、お母さんも帰ってきてる。

「…ん、行く。」

そう言ったのに、

―――ガチャッ

トシが部屋へ入ってきた。

「…え?」

私たちの部屋は小さい頃から鍵が付いていない。
だからトシは黙ってズカズカ歩き、ベッドの側までやって来た。

「な、何…?」
「それはこっちのセリフ。お前、何かあったのか?」
「え…どうして?」
「はァァ。」

溜め息を吐き、床に座る。
ベッドに寄りかかるように、背中を凭れさせた。

「夕方、いきなり変なこと聞いてきやがっただろ。」
「あれは…、…変なこと、なのかな。」
「紅涙…、」

私が聞いたことって、変なこと?

「気になったの…、だから…聞いた。」
「…何かあったのか?」

心配そうな目で私を見る。

「…何もないよ。」

私は顔を横に振って、トシに笑いかけた。

「トシのことが気になっただけ。」
「…紅涙。」
「お兄ちゃんなのに、私…トシのこと全然知らないから。」
「!」

トシが大きく目を開く。
私、何かおかしなことを言った…?

「…悪かった。」
「やだな、トシが謝ることじゃないよ。私がただ気になっただけで」
「お前を寂しくさせてたんだろ?」
「え…?」

“寂しい”?

「そんなこと…ないよ。」

だってトシ、いつも傍にいてくれるもの。
いつだって、手を繋いでくれてたもの。

心細い時なんてなかった。
だから寂しいなんて…。

「悪かったな。」

トシの手が頭に載って、ポンポンと軽く叩かれる。
途端、私の心の中で何かが溢れた。

トシ…、
トシ……。

ずっと傍にいてほしい。
私だけのトシでいてほしい。

誰かの隣じゃなくて、
私だけの隣に。

「紅涙、明日は朝練ねェから一緒に行こう。」
「…うん。」

優しく笑ってくれる。

「飯、冷めるな。」
「お母さんに怒られるね。」

笑ってくれるから、私も笑える。

「早く行くぞ。」

トシが出した右手を取り、ベッドから出た。


私の中で溢れたモノの正体は、突き止めてはいけないような気がする。

どうしようもなくトシを独占したい気持ちも、
きっと、我が侭で勝手な感情だから。

だって、
私にとってトシは大切な人で。

「トシ、」

お父さんがいて、お母さんがいて、
トシがいるから。

「どうした?」

だから、
私はトシの幸せを願わなくてはいけない。

「頑張ってね。」

間違った独占欲は、捨てなければいけない。

「しつけェよ。その話は忘れろ。」
「忘れないよ。せっかく…聞けたんだし。」
「……。」
「応援、してるね。だって…、」


だって私たち、


「家族…、なんだから。」


間違いは、絶対に許されない。


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