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距離・理解


「行ってきまーす。」
「行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。紅涙、十四郎君。」

朝練のないトシと一緒に家を出る。

何の変哲もない登校、
何気なく交わす会話。

だけど私の心の中は穏やかじゃなかった。
昨夜から考えている計画が、ずっと頭にあるせいだ。

それは、

「…トシ、」
「ん?」
「あのね、…。」

私達は、あまりに近すぎた。
離れて寂しく思うのも、
トシを取られるなんてバカな考えも、原因は私達の距離にある。

だからこれからは…、
“これからはトシと距離を置こうと思う”

「…そ、の……、」

言おうと決めていたのに、いざ口にしようと思うと声に出せない。

「紅涙?」

不思議そうな顔をして、トシが足を止める。

拳を握り締め、
必死に喉の奥から引っ張り出した言葉した。

「あの…ね、…今日のお昼…、友達と食べる、から。」

随分と、遠回りしたものだった。

「はァ?なんでだよ。」
「それは…、」

今までみたいに、傍にいる生活を終わりにするため。

トシは私のものじゃない。
ずっと、私の傍にいるわけじゃない。

いつか、離れなければいけない…から。


「…たまには友達と食べたいかな、って。」
「なんで。」
「なんでって…」
「……。」

トシの視線が痛い。
逃げるように俯いて、前髪を触った。

「今…ね、友達に好きな子ができて、その話が楽しいの。」

私は、つくづく嘘を吐くのが下手だ。

「だから…さ、明日も…明後日も、友達と食べるよ。」
「紅涙。」

低い声で私を呼び、眉間に皺を寄せる。
そのせいで、ほんの一瞬しか目を合わせられなかった。

「お前…、俺を避けてんのか?」
「ち、違うよ!ほんと、友達の話を聞かなきゃいけないの。」
“これも付き合いっていうのかな”

から笑いをする。
トシの機嫌はどんどん悪くなった。

「何なんだよ、俺に何かあんのか?」
「だからそんなんじゃないって。トシを避ける理由なんてないでしょ?」
「だが現に避けてんだろ。」
「避けてないから、そんなに怒らないで。」
「っ、俺はっ――」

トシは眉間の皺を深くして、何か言おうと口を開ける。

…けど、

「……。」

黙って背を向けた。
そして、

「…分かったよ。」

そう言った。

「じゃあ今日は俺、部活だから。」
「…うん。」

トシが歩き出す。
私も歩き出した。

どんどん距離が出来て、
歩幅も違えば、スピードも違って。
おまけにトシには友達が駆け寄って来て…

もっともっと距離が出来た。

「これで…いいんだ。」

ここから始めるんだ。

私たちは近くに居過ぎた。
それだけだ。

「これで…いいんだよね。」

必要以上に苦しむ胸がある。
それも一時のものだと、見て見ぬふりをした。


「早雨。」


ポンと肩に手がのる。
見上げると、白衣と煙が見えた。

「あ…。」
「おはよ。」

ボサボサ頭に、ズレた眼鏡。

「…おはようございます、坂田先生。」

やる気のない瞳が、私を静かに捉えた。

「準備室に来いよ。」
「え…また手伝いですか?さすがに今日は――」
「アイス。」

かさりと音が鳴る。

「アイス、あるぜ?」

コンビニ袋を持ち上げ、私に見せる。

「おいで、早雨。」
「…はい。」


相変わらず先生と私しかいない国語準備室は、相変わらず煙草の匂いがした。

「朝から暗いねェ。」

カップ入りのアイスを頬張り、スプーンで私をさす。

「せっかく俺が買ってやったアイスなんだから、もっと旨そうに食えよ。」
「…先生には、」
「ん?」
「先生には、兄弟がいますか?」
「いや?いねェけど。」
「…そっか。」

私は棒に刺さるオレンジのアイスをひと舐めした。

「…で?」

先生は目を伏せ、アイスを掬う。

「どうしたいんだよ、早雨は。」
「どうって……。」
「土方とどうあるのがお前の理想なんだ?」

…スゴイ。
先生は何でも分かってるんだね。

「…私、トシが大切なんです。」
「ああ。」
「今までみたいに、これからもずっと傍にいたいし、いてほしい。…でも、」
「……。」

食べることを忘れた私のアイスが溶け始める。

「でもそんなこと無理だって……分かってるんです。」
「…無理?」
「いつかはトシにも彼女が出来るから。そうなると傍にはいられなくなる。そう…分かってるのに、」

わかってる。
昨日、たくさん考えた。
だけど、

「私…、それが嫌だって…思っちゃうんです。」

最後に想う気持ちが、消えない。

頭のどこかで、
トシは誰のものにもならないって思ってた。
ずっと、私だけを見てくれてるって、そう思ってた。

だけど、そんなわけ…、ないんだよね。

「私、本当に…トシが大切です…、嘘じゃない。」
「…ああ。」
「だから…大切な人には……、」

そう、大切な人には。

「大切な、…家族には、」

右手に持ったアイスが溶けて、私の手に垂れる。
制服にポタリと落ちたのは、

「幸せになってほしいから…、」

私の涙だった。

「…どうしたい?」
「応援…できるようになりたい…っ。」

我が侭で、
勝手な感情を抱く妹じゃなくて、

「いい妹に…っ、なりたいよ、先生っ…!」

普通に笑って話せる妹でいい。
トシの恋の話を聞いて、応援できる普通の妹でいい。

私にとって、それが“いい妹”だから。

「っぅ…、」

トシとの関係を、やり直したい。

「早雨、」

ポンっと頭の上に軽い重みを感じる。
顔を上げれば、


「…つらかったな。」


優しく笑う先生がいた。

「俺も考えてやるよ。お前が“いい妹”になれる方法。」
「っ、先生っ…!」

目の前に垂れ下がる白衣を握り締める。

朝、坂田先生に会えて良かった。
坂田先生がいてくれて、良かった。

「昼休み、来いよ。」
“一緒に飯食いながら考えようぜ”

頷くと、
先生は「よし」と言って、私の手にあるアイスを取り上げた。

「ベタベタになっちまったな、手ェ洗っとけ。」
「…はい!」

蛇口を捻って手を洗う。
振り返れば、先生が私のアイスを口に入れていた。

「それ…、」
「あんな溶けたアイス、もう食わねェだろ?」
「…溶かしちゃってごめんなさい。」
「別にいいよ。また買っとく。」
「…うん。」
「ほら、手ェ拭いたらそろそろ教室行け。朝礼の時間になるぞ。」
「あ、ほんとだ。じゃあ先生、またお昼休みに。」
「おう。」

先生に笑って、準備室を出る。
教室へ行くと、少し腫れた目が皆の話題になった。


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