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呼名・番号
そして、昼休み。
「失礼しまーす。」
お弁当を持って、私は準備室の扉を開けた。
奥の方から坂田先生の声が聞こえる。
「早雨、こっちー。」
奥を覗けば、窓際に立つ先生を見つけた。
ぼんやり外を眺める右手には、煙草がゆらゆらと煙を上げている。
「…坂田先生って、ちゃんと先生してるの?」
「何、この子!失礼なヤツー。」
「ふふっ。だって他の先生と全然違うんだもん。」
「それが俺のイイとこだから。」
「ですね。」
クスっと笑い、側のデスクにお弁当を置いた。
その時、ふと思う。
「先生、」
「んー?」
「私がここにいると、変に思われませんか?」
“他の先生とかに”
1人の生徒がここでお弁当を食べていると、変に思わないのかな?
「構わねェよ。他の国語教師は滅多にこの部屋を使わねーし。」
“国語なんて大して準備するもんねェからな”
先生が窓の外へ白い煙を吐く。
煙草は炭酸飲料の空き缶の中へ捨てた。
「そんなわけで、ここは俺の城。」
「独り占め?」
「そ。部屋も冷蔵庫も何もかもな。」
ニッと笑い、近くにあった冷蔵庫からカフェオレとフルーツサンドを取り出した。
「うわ…、甘そう。」
「“甘そう”じゃなくて、甘ェの。」
「それが先生のお昼ご飯?」
「おうよ。早雨は?」
「私はお母さんの作ってくれたお弁当だよ。」
「へ〜いいな、そういうの。」
「…先生も食べる?」
「いや、俺はこっちの甘ェ飯でいいわ。糖分万歳。」
先生が封を切ると、部屋に甘い匂いが立ち込める。
私はその香りを嗅ぎながら、
お母さんが作ってくれた、トシと同じお弁当を食べた。
「ごちそうさまでした。」
「ごちそうさん。」
開け放たれていた窓から気持ちの良い風が入ってくる。
誘われるように窓の側に立てば、グランドに野球部がいた。
「あ……、」
だけど、トシの姿はない。
朝の気まずい別れ方…、
家に帰って会うの…ちょっと、ヤだな。
「“お兄ちゃん”から始めるか。」
隣に立った先生が、カフェオレを手にしながら言う。
「“お兄ちゃん”…?」
「そ。お兄ちゃん。」
ズルズルと音を鳴らしながらカフェオレを飲む。
「土方のこと、今まで名前で呼んでただろ?」
「…うん。」
「お前がいい妹を望むなら、今より少し距離をおく必要がある。そのためにも、だ。」
「トシを、“お兄ちゃん”って?」
「そういうこと。」
頷いた先生が微笑む。
「小さいことからやっていかねェと、無理してもツラいだけだろ?」
「先生…。」
銀色の髪が風に揺れる。
同じ風が、私の髪を揺らした。
「実際問題、お前らがすぐに距離を置くのは難しいかもしれねェ。親が心配するだろうしな。」
「…そうですよね。」
「だからって出来ないわけじゃない。いつかのために、今は必ずアイツを“お兄ちゃん”て呼ぶようにしていきゃいいんだ。」
「…はい。」
返事をして、外を見る。
野球部はもういなかった。
「紅涙。」
「っ、」
突然名前で呼ばれて、心臓が跳ねる。
隣を見上げると、先生の真っ直ぐな眼差しを受けた。
「さ…坂田先生?」
「……。」
手を伸ばし、私の頬に触れる。
「あ、の…」
何?どうして?
先生の手の感覚が、頭を混乱させる。
「…、くくっ。」
「…え?」
「ブハハッ!悪ィ悪ィ、早雨。」
我慢できなくなったといった様子で、先生が笑い出した。
「お前、パニクりすぎ。」
「だ、だって先生が名前で呼んだり、さ…触ったりする、から。」
「だな。でも呼び方が違うだけでも、わりと印象って変わるもんだろ?」
「はい…かなり。」
頷く私の頬が熱い。
先生の手は離れているのに、いつまで経っても感触が残っている。
部屋に響く予鈴が、どこか遠くに聞こえて…
「ヤベ。予鈴、鳴っちまったな。」
先生が慌ててデスクの上をまとめた。
「先生の次の教室は?」
「お前んとこの隣。てなわけで、」
ドサッとプリントの山を置く。
「手伝え、早雨。」
「やっぱり…。」
肩を落とす私を気にも留めず、
先生はチョークの箱を持って「行くぞ」と言った。
カバンを肩に掛け、プリントを抱えて廊下に出る。
「重っ…。」
「落とすなよー。」
先生が準備室に鍵を掛けた。
けれど、
「あ、忘れもんした。」
また部屋へ戻って行く。
「忘れ物?」
「おう。教科書忘れた。」
「教師のくせに教科書忘れるなんて…」
「うるせェ。」
先生がデスクの上を掻き回しながら探す。
「あれ?確かここにポイッと置いたはず…。」
「先生、プリント重ーい。腕がちぎれるー。」
「ちょっ、待てって。焦らされると余計に…あった!」
「じゃあ早く教室に――」
「紅涙…?」
「!」
呼ばれて振り返る。
そこには怪訝な顔でこちらを見る、
「ト――」
「早雨。」
「!」
今度は先生に呼ばれて振り返る。
先生は準備室の中から、口をパクパクと動かした。
『“お兄ちゃん”』
ああ…そっか。
「お…お兄ちゃん。」
「はァ?」
トシが眉間に皺を寄せる。
なんだか今日は朝からこんな顔しか見てないな…。
「お前、今何て言った?」
「だから…お兄ちゃんって。」
「何を急に…」
「十四郎く〜ん!」
女の子らしい柔らかな声が私達の会話を割く。
駆け寄ってきたのは、野球部のマネージャーだった。
「ごめんね、遅くなっちゃった。」
「いや…そんなことねェけど。」
トシが私を見る。
導かれるように、マネージャーも私を見た。
「あ、紅涙ちゃんだよね?」
「そう、だけど。」
「私、黒川ひよりっていうの。こう見えて野球部のマネージャーしてます!」
えへへと笑う彼女からは、可愛らしい雰囲気が伝わってくる。
その第一印象だけで、
トシにはこういう女の子がいいんだろうなと思った。
「いつも十四郎君から紅涙ちゃんの話を聞いてるよ。」
「私の?」
「てめっ、嘘言うな!別に何も話してねェだろ!」
「あはは!ごめんごめん。」
「ったくよォ。」
「…仲、いいんだね。」
そう、それはまるで、
彼女みたいに。
「ほんと?」
「…え?」
「私、十四郎君と仲良く見えるかな?だとしたら、すごく嬉しいんだけどっ。」
「あ……う、うん、見えたよ。」
「嬉しい!十四郎君、妹さんの公認いただきましたよ!」
「黒川。そういうの言わなくていいから。」
それって…
付き合ってるって意味?
「紅涙ちゃん、これからもヨロシクね。」
「あ…、…。」
“よろしく”
その当たり前の返しが、私には出来なかった。
言わなければと思うのに、たった4文字の言葉が出ない。
「……、」
「紅涙ちゃん?」
どうしよう。
このままだとトシにも黒川さんにも怪しまれて…
「早雨、」
すぐ後ろで先生の声がする。
教科書を片手に持ち、準備室の鍵をして、
「行くぞ。」
トシ達の前を歩いて行った。
「…じゃあ私、行くから。」
二人に軽く頭を下げ、先生の背中を追いかける。
「紅涙!」
トシが私を呼んだけど、振り向かなかった。
少し先の階段に差し掛かったところで、前を歩く先生に声を掛ける。
「先生、」
「ん?」
「…ありがと。」
「何がー?」
「さっきは助けてくれて…ありがとうございました。」
語尾は小さくなったけど、
先生が「ん」と返事をしたので、ちゃんと聞こえたんだと思う。
「…ああそうだ、」
思い出したように足を止め、ポケットを探る。
「早雨にこれ、渡しとくわ。」
プリントの端きれのような紙を私に差し出した。
そこには、携帯番号とアドレスが書いてある。
「これ、先生の?」
「他のヤツの番号教えてどうすんだよ。」
先生はプッと笑って、
「何かあったら連絡してこい、遠慮なく。」
私のカバンのポケットに、紙の端きれを押し込んだ。
そのままの流れで、黙って私の抱えていたプリントを取る。
「え?あの…」
「ここまででいい。いつもありがとな。」
やんわり笑うと、先生は階段を上がって行った。
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