6


普通・崩壊


学校が終わり、
いつもみたいに誰も居ない家に帰った私は、部屋に閉じこもった。

理由は簡単。
トシに、会いづらいから。

「…はぁ。」

カバンの中から携帯を取り出す。
その時、ポケットの中でカサリと音がした。
取り出すと、電話番号とアドレスが書かれている。

「先生…、」

『何かあったら連絡してこい、遠慮なく』

優しい優しい坂田先生。
でも、

「お昼は…ビックリしたな…。」

今日で少し印、象が変わった。
頬に触れられた時、先生から目が放せなかった。

「初めて…、触れられた。」

ドキドキした。
顔が熱くなった。

「…変な気持ち。」

騒がしい胸を感じながら、先生の番号とアドレスを登録する。
操作を終えた後は、ベッドで仰向けに寝転がった。

静かな部屋。
時計の針の音しかない。
外はどんどん色を変え、
眠ってもないのに、あっという間に夜になる。

空の色と同調するように、私の心も少しずつ冷静になっていった。

「…ダメ、だよね。」

このまま部屋に閉じこもってても、何も変わらない。

きっとトシはもっと機嫌が悪くなって、
分かり合えないまま、微妙な関係で月日が過ぎるだけだ。

私は、気まずくなるために、トシと距離を取るわけじゃない。

「頑張らなきゃ…。」

いい妹になるために距離を取るんだから。

頑張らなきゃ。


部屋を出て、リビングの電気を点ける。
テレビも点けてソファーに座ると、時計の針は19時をさしていた。

「今日も遅いな…。」

お母さんも、…トシも。

―――カチャ

玄関の鍵が開く。
少し離れた場所で聞こえる「ただいま」の声。

足音が近づき、リビングに入って来たその人は、

「…ただいま。」

トシだった。

「お、…かえり。」

急激に緊張する。

普通に振舞わなきゃ。
自然な会話をしなきゃ。

「あ、のさ…」
「なに。」

やや疲れた顔で私を見る。

「…部活…、お疲れさま。」
「…ああ。」

自分でも他人行儀な空気を感じる。
トシはカバンを置いて、冷蔵庫からお茶を取り出した。

黙ってコップに注ぎ、一気に飲み干す。
何も考えなければ日常の一コマでしかないのに、今は居心地が悪い。

な、何か会話を…。
焦りを覚えつつもどうしていいか分からず、私はその場で立ち上がった。

「き、今日は疲れてるね、ト…お兄ちゃん。」
「…はァ?」
「あ、そうだ。おやつ食べる?疲れてる時は甘い物がいいって言うし。」

まとわりつく重い空気を振り払うように、足を踏み出す。
けれどトシが、

「どういうつもりだ。」

飲んだばかりのコップを握り締め、私を睨んでいた。
思わず足が止まる。

「な…何の話?」
「“お兄ちゃん”って何なんだっつってんだよ。お前、昼間も言ってただろ。」
「…だって、お兄ちゃんだし。」
「なんで急にそんな呼び方になるんだよ。」

距離をおくとか、
いい妹になるためにとか、

そんなことは言えない。

「今までが…変だったの。」
「変?」
「私、お兄ちゃんって一度も呼んだことがなかったんだよ。だからこれからは…ちゃんと呼ぼうと思って。」

トシに言ったのに、なぜかその言葉は自分の心に返って来た。

そうだよね。
どうして私…トシのこと、
初めからお兄ちゃんって呼ばなかったんだろう。

急に出来た兄のことを認めてないわけじゃなかった。
むしろ兄が出来て嬉しかったぐらいだったのに。

なのに…、
どうして?


「やめろ。」


ガンッと音を立て、トシがコップを置く。

「“お兄ちゃん”なんて呼ぶな。」
「…どうして?」
「どうしてもだ。」
「そんなの、理由にならないよ。だってトシは私のお兄…」
「黙れ。」

今までに見たことがないほど、トシの機嫌が悪い。
怯みそうになって、私はソファの背もたれを握った。

「…呼ぶよ?これからは。」
「やめろっつってんだろ。気に食わねェんだよ、その呼び方。」
「そ…そんなこと言ったって…、仕方ないじゃん。」

そうだよ…、

「トシは…、…っ、」

どうなんったって、トシは私のお兄ちゃんなんだから。

「トシは私の…たった一人のお兄ちゃんなんだもん…っ。」
「……。」

俯けば涙が零れてしまいそうで、ソファをキツく握り締めた。

「…お前、何なんだよ。昨日から変だぞ。」
「変…じゃないよ。私…っ、間違ってない。」

間違ってないよね…、先生。

「…アイツか。」
「え?」
「銀八がお前に何か吹き込んだんだろ。」

…え?
どうしてそこで、トシの頭に先生が出てくるの?

「…違うよ。」
「違わねェな。あの野郎…」
「ト…お、お兄ちゃん、違う!」

先生に何も吹き込まれてない。
先生は悪くない。

私はトシの腕を掴んで、必死に顔を横に振った。

「本当に先生じゃないの!先生は何も言ってない!」
「…お前…」
「先生を悪く言わないで!!」

顔を横に振れば涙が出た。

どうして上手くいかないんだろう。
どうして上手く出来ないんだろう。

どうして私…いい妹じゃないんだろう。

「先生は…関係ないから…。」
「紅涙…」
「これだけは…信じて。お願い。」

力なくトシの腕を放し、私はリビングを出た。

「おい、待てよ!」

腕を痛いほどに強く掴まれる。
だけど私は、

「っ、放して!」

その手を振り払って、自分の部屋へ駆け込んだ。

ベッドに飛び込み、うつ伏せに寝転ぶ。

「ぅっ…っ…」

泣き声も涙も、
思い通りにならない歯がゆさも、全部、枕が吸い込んでくれた。

しばらくは放っておいてくれるだろう。
そう思っていたのに、3分と経たないうちに部屋の扉が開く。

「紅涙。」

トシが部屋へ入って来た。
私は枕に顔を押し付けたまま、返事をしない。

「何、泣いてんだよ。」
「……ない。」
「あァ?そんなところで喋っても聞こえねェよ。顔上げろ。」

揺するように私の肩に触れる。
途端、私の中で色んな気持ちが溢れた。

「お兄ちゃんにはっ…関係ないっ!」
「!」

ねぇ…、トシ。
どうしてトシはお兄ちゃんなんだろうね。

もしトシがお兄ちゃんじゃなかったら、きっと上手くいってたんじゃないかな。

…でもそれって、


「っ、いい加減にしろ!」


どういうことなんだろうね。

「っ!!」

腕を掴みあげられ、強引に身体を起こされる。
渋々ベッドの上に座っても、トシは私の腕から手を放さなかった。

「っ、痛いよ、放して!」

声を上げ、雑に振り解く。
感情に負けるのは子どもの証拠だ。

「…何を言われたんだ。」

トシの眼が私を睨みつける。

「銀八に、何言われたんだ。」
「っ、言われてないってば!どうして先生のことを悪く言うの!?」

先生は私を助けてくれる。
私と一緒に考えてくれる。

大切な人だ。
トシみたいに家族じゃないけど、私にとって大切な人。

「先生を悪く言わないで!」
「お前……、…。」

信じられないといった様子で私を見て、

「アイツのこと、…好きなのか?」

突拍子もないことを口にする。

「好きって…どうしてそんな考えになるの?」

先生が…好き?

「今日だって俺に嘘ついてまでアイツに会ってたじゃねーかよ。」
「嘘なんて…」
「言ったよな?『昼飯は友達と食べる』って。なのにお前、あの部屋から出てきたじゃねーか。」
「っ、それは…、…。」

言い返せない。

「なんか言えよ。」
「っ…、」

唇を噛む。

「…悪いけどお前の話、全然わかんねェよ。」
「……。」
「とりあえず、俺の言い分としては…」

私の肩を掴む。

「紅涙がどんな嘘を吐こうが構やしねェ。」
「え…」
「けどな、」

ドンッと身体を押される。
背中からベッドに倒れた私に、影が出来た。

「な、にを…」
「アイツだけは許さねェ。」
「っ…、」

覆いかぶさるトシは、うなる様な声を出す。

「お前が幸せになれるならって、今まで色んなことに目ェつむってきた。けど…」

私を封じるように両手首を押さえつけ、

「アイツにだけは渡さねェ。」

トシが私に顔近づけた。
とっさに目を閉じると、「それにな」と話す吐息が私の唇にかかる。

薄らと目を開ければ、
視界に収まり切れないほど近くにトシの顔があった。


「俺はお前を妹なんて思ったことはねェから。」


え……?

「初めて会った頃からずっと、」

ト、シ?

「俺は一度たりとも、お前を妹として見てた時なんてねェよ。」

言葉の意味を深く考える間もなく、

「っ、ん」

トシが、私にキスをした。

「ッ…っやだ…っん、ぅ」

触れ合う熱を感じる余裕はない。
ただ『離れなければ』と、それだけが頭にあった。

「や、めてっ…、お兄…っちゃん!」
「だから“お兄ちゃん”じゃねェって。」

少し息を上げ、トシの舌が咥内に入る。
ぬるりとした感覚で弄って、私の何かを引っ張り出そうとする。

それが何かは、

「ぁっ…っ、…ふっぁ」

絶対に考えちゃいけないと思った。

気にしてはならない。
私達は兄妹なのだからと、眼を伏せてきたそれに似ていた。

「や、っだ、ぁ…」
「俺はずっと、…こうしたかった。」
「っ、ぇ…」

ちゅるっと音を立て、唇が解放される。
見下ろすトシは、ひどく悲しそうな眼をしていた。

「…どう、して?」

どうしてそんな眼をするの?
どうしてそんなこと言うの…?

トシには黒川さんがいるんでしょう?

なのに…、

「どうして…こんなことするの?」
「決まってんだろ。我慢の限界だからだよ。」
「限界…?」
「お前がフラフラして、俺に心配ばっか掛けさせるからだ。」
「私…フラフラなんてしてない。」
「してる。特にここ数日はすげェ弱ってて…」

トシの唇が首を撫でる。

「っっ!」

ぞくっと全身に痺れが走った。

「誰かに、簡単に攫われちまうんじゃねェかって…気が気じゃなかった。」

私の鎖骨をキツく吸い上げる。

「っ!やだ!っ…やっ…やめてっ!」

足をバタバタつかせても、体重を掛けて動きを封じられる。

「悪いけど、今余裕ねェから。」
「トシ…ッ!」
「ああ…それでいい。」

薄い笑みを浮かべ、浅く頷く。

「これからもそうやって、俺の名前を呼んでろ。」
“どうせもう『お兄ちゃん』なんて呼べねェだろ?”

トシ…

「だめ…だよ、こんなこと。」
「わかってる。」
「じゃあやめよう?私、お母さんに言わないから。」
「好きにしろ。言おうが言うまいが、どうでもいい。」
「どうでもいいって…。もし私が言ったら」
「うるせェよ。」
「っ!」

こわい。

「ここでやめても、どうせ元に戻れねェんだ。諦めろ。」

私の知らない人がいる。

「ト、シ…」
「俺は本気だぞ。…この10年を無駄にしたんだからな。」
「10年…?」
「……。」

じっと私を見つめる。
その瞳を見ていると、なんだか悲しくなってきた。

それは私の内側から湧き起こる感情でもあり、
トシの瞳から伝わる感情のようにも思う。

つまり今、トシはこの状況を、
悲しんでる…?

「…どうして」
「もう黙れ。」

腰骨の辺りにトシの手が添えられる。
服の間から手を滑り込ませると、肌を這い上がって来た。

「っ、やめ」

「ただいま〜。」
「「っ!!」」

お母さんの声が聞こえた。
声の遠さから、おそらくまだ玄関の辺り。

「帰ってきたか…。」
「っ、もう離れて!」

力いっぱいにトシを押す。
手も足も使って私の上から押しのけると、

「っぐ!」

ちょうど膝がみぞおちに入ったようで、トシは苦しそうに身体を曲げた。

「ってェ…」
「ごっ…、…。」

とっさに謝ろうとした自分を止める。
私は携帯を握り、部屋を飛び出した。

「紅涙!!」

トシの声を背中越しに聞く。
階段を駆け下りれば、お母さんと会った。

「あら、紅涙。どうしたの?そんなに急いで。」

私は『おかえり』と言う余裕もなく、

「っ友達のところに行ってくる!」

適当な嘘を言った口元を手で覆い、家から飛び出して行った。


- 6 -

*前次#