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女子・記憶・好意


家を飛び出したところで、行くあてなんてなかった。
友達を頼るには、まだあまりにも気持ちが騒がしい。


『俺はお前を妹なんて思ったことはねェよ』


あれはどういう意味だったんだろう。

血が繋がってないから、妹とは思えない?
それとも私に特別な感情を抱いて…?

「…どっちだとしても、ひどいよ…。」

だって、
いくらトシが認めなくても『家族』なんだから。
戸籍上の私達は、家族なんだから。

「どうしようもないことなのに…」

なぜ今になって壊そうとするの?
どう足掻いても壊せないものを、どうして急に…

「もしかして、紅涙ちゃん?」

知らぬ間にうつ向いていた顔を上げる。
そこには、カバンを片手に持つ制服姿の女の子が立っていた。

彼女とは、昼休みぶりの再会だ。

「…黒川、さん。」
「こんなところで会うなんて偶然ね!」
「そう…だね。」

神様はなんと意地悪だろう。
よりにもよって、今この子に会わせなくたっていいのに。

「十四郎君はもう帰ってる?」
「っ…うん。」
「そっかぁ。私、マネージャー日誌書いてたらこんな時間になっちゃったの。」
“よく十四郎君にもノロマって怒られちゃうんだ”

肩をすくめて笑う。
そんな彼女のカバンに、ふと視線が留まった。

「黒川さん、料理…するの?」

閉じきれていないカバンから、料理雑誌が顔を覗かせている。
黒川さんは照れくさそうに頷いた。

「でもあまり上手くないの。たまに野球部にクッキーを差し入れるんだけど、中々おいしいって言ってもらえなくて。」
「そう、なんだ。」
「ねぇ紅涙ちゃん。十四郎君ってどんな味が好きなのかな?」
「え……お兄ちゃん?」

トシの顔が頭によぎる。
最後に見た、あの熱い眼差しの中にある寂しさ。

「っ……、」
「紅涙ちゃん?どうかしたの?」
「あ…ううん、えっと…好きな味、だっけ?」
「うん。私ね、いつも自分のお弁当を作ってるんだけど…」

黒川さんの頬が、ほんのり赤くなる。

「十四郎君にも…お弁当を作ろうかなって思ってて。」

…ああやっぱり。
黒川さんは、トシが好きなんだ。

「紅涙ちゃん、どう思う?」
「どうって…」
「私がお弁当作っても食べてくれるかな?もし捨てられちゃったりしたら…」
「それはないよ。」

たぶんトシは食べる。
食べ物を粗末にしないし、
相手の気持ちを考える、…優しい人だから。

……でも。

「お弁当は…やめておいた方がいいんじゃないかな。」
“もうお母さんがお弁当の下準備を始めてると思うし”

どうしてそんな嘘を言ったのか、自分でも分からない。

私は彼女を応援する立場のはずなのに。
これだとまるで、トシから遠ざけようとしてるみたいだ。

「そっか、紅涙ちゃんのところはお母さんが作ってくれるんだよね。」
「うん…、」
「でも大丈夫!私、朝練の後に食べてもらうお弁当を作ろうと思ってるの。よくお腹減ったって言ってるから。」
「そう…なんだ。」
「心配してくれてありがとう、紅涙ちゃん。」

やわらかな黒川さんの笑みに、胸が痛む。

こんな女の子に想われたら、きっと幸せになれる。
トシは、幸せになれる。

「…黒川さん、」
「うん?」
「……お兄ちゃん、マヨネーズが好きだよ。」

応援するよ、トシ。

「マヨネーズを使ったお弁当なら、喜ぶと思う。」
「本当!?教えてくれてありがとう!じゃあエビマヨにしよっかな。」
「…、もう行くね。」
「あ、うん!また明日ね!」

黒川さんが嬉しそうに手を振る。
私も手を振った。

薄っぺらい笑顔が消えた頃、
夜の中に、ぽつんと私だけが浮かび上がった。

「…なんだろ、この気持ち。」

頭に張り付いた黒川さんの笑顔と、
心に張り付いたトシの顔が、隣り合う。

「……、…さみしい。」

その言葉が、一番しっくりくる。
傍にあったものが明日から…
これから先は、もうなくなってしまうのだと思うと寂しい。


『何かあったら連絡してこい。遠慮なくな』


「……、」

私は携帯電話を取り出し、アドレス帳から電話をかけた。

「もしもし…、坂田…先生?」

私を支えてくれる、大切な人。

『おう、どうした?早雨。』
「今…忙しいですか?」
『いや、アイス食い終わったとこ。』
「また?」
『うっせェ。今日も一日がんばりましたのご褒美だよ。』
「ふふっ、そっか。」

学校の雰囲気と全く変わらない先生に安心する。
話しているだけで、気持ちが温かくなった。

『それで?何があったんだよ。』
「…何もないよ。」
『だったら電話なんてしてこねェだろ。先生に言ってみ?』

先生…、

「…会いたい。」
『え?』
「先生に…会いたい。」
『早雨…』

これは弱音だ。
寂しい心が、先生を頼ってる。

甘えてる。

「ごめん、先生。今のは聞かなかったことに――」
『分かった、すぐ行く。』
「えっ、」
『場所は?』
「し、新線駅の近くですけど…」
『なら駅で待ってろ。くれぐれも変なヤツに絡まれないよーに!』
「は、はい。」
『じゃ、あとでな。』

電話が切れる。
私は半ば呆然としながら、眩しい程に光るディスプレイを見た。

「来るって…どこから?」

家?それともまだ学校にいたのかな。
学校なら、ここまでそう遠くないけど…。

いやその前に、まさか本当に来てくれるなんて思ってなかった。

「みんな、優しいな……。」

坂田先生の行動力も、
黒川さんの心遣いも、
記憶の中にあるトシも…。

「私も…変わらなきゃ。」

ふうと息を吐き、夜空を見上げる。
瞬く星が、


『ねぇ、トシ。』


遠い過去を思い出させた。

ずっと、
ずっと昔。

『トシは私とケッコンしてくれる?』

兄妹でも結婚できると思っていた幼い頃。

『いいぜ。』
『ほんと!?』
『おれも紅涙とケッコンしたいし。』

トシも、まだ知らなかったんだよね。
私達が結婚なんてできないこと、知らなかったんだよね。

だからあんな約束…してくれたんでしょう?

『じゃぁあのお星さまにちかおう?それでね、チューするの。』
『…なんで。』
『だって、ちかいのチューしないとケッコンできないもん。』
『おまえ、母さんとドラマ見すぎ。…まァいいけど。』

トシ…、
私、あの時本当に誓ったんだよ。

トシは…どうだった?
叶いもしないこと、一緒に誓ってくれた?

『じゃあ…次はキスだな。』
『うん!』
『…でも、おでこにするぞ。』
『なんで!?口じゃなきゃヤだ!!』
『口はケッコン式でする。だからオトナになってからな。』

チュッ

ほんの一瞬だけ額に触れた、優しい温もり。
トシが顔を真っ赤にして『恥ずかしい』と呟いた声は、今も耳に残ってる。

「トシ……、」

私達、子供のままだったら幸せだったのにね。


「お待たせ、早雨。」

それから20分ほどして、先生は駅前に来てくれた。

「遅くなって悪かったな。なんか全部の信号に引っ掛かっちまってよ。」
「え、ここまでどうやって…」
「車。つっても俺は持ってねェから、学校の古ィやつだけど。」

鍵を見せ、ニッと笑う。

…そっか、
まだ学校にいたから、こんなに早く来てくれたんだ。

「よかった…。」
「早雨?」
「ん、なんでもない。先生、来てくれてありがとう。」
「……礼よりも、事情が聞きてェな。」
「事情?」
「夜にほっつき歩いて、何してたんだよ。」
「そ…れは……、」

乱暴で、悲しげなトシを思い出す。

「その痕と関係あんのか?」
「え、」
「鎖骨のとこの、赤いやつ。」
「っ!」

すぐさま手で鎖骨を隠す。
そこにあるのは、アレしかない。

トシが付けた、キスマーク。

「早雨…、」
「なっなんでもありません!」

首を振る。
先生は細く息を吐いて、眉を寄せた。

「何された?」

言えない。
言ったところで、どうなる?

先生がトシのこと怒る?
私のことを可哀相だと慰める?

そんな気持ち…必要ない。

「これは…関係ないから。」
「関係なくねェだろ。怖くて逃げて来たんじゃないのか?」
「……、」

確かに怖かった。
私の知らないトシを見て、怖かった。

だけど、それだけじゃない。

「…私、」

私は、自分自身が怖い。

「自分の中で、何かが溢れ出しそうになって…」
「“何か”って?」
「…分からない。でも、分かっちゃいけない気がする。」

トシに触れられた時、
離れなければいけない想いと、
この先には何があるのか知りたい想いがあった。

たぶん、兄妹にはあるまじき未来を。

「…ごめんね、先生。私、何言ってるんだろう。」
「気にすんな。考えてることを言葉にするのは難しいもんだ。」
“国語教師の俺ですら難しい”

うんうんと頷き、「ただな、」と続ける。

「もう1つだけ、先生はお前に聞きたい。」
「何ですか?」
「早雨はどうして俺に電話したんだ?」
「え、だって…何かあったら連絡していいって先生が言ってくれたから。」
「言ったけど、普通こういう状況で呼ぶのは友達じゃね?」
「うん…でもまだ友達には上手く話せない気がして。…ダメだった?」

顔色を窺う。
先生は困ったように笑い、首を振った。

「いいや、ダメじゃない。友達より俺に会いたかったってわけだもんな。」
「そう…だね。先生に会いたかった。」
「嬉しいこと言ってくれるねー、早雨は。」

ふっと笑い、目を細める。
生暖かい風が、先生の髪を揺らした。

「俺も、早雨に会いたいと思ってたんだ。」


『先生を悪く言わないで!』
『お前……、…アイツのこと、好きなのか?』


私…、
先生のこと…好きなのかな?

“好き”って…何?
もしドキドキすることだったり、大切な人だと思えることなら…

私は、坂田先生が好きだ。

「先生、」
「ん?」
「私…、先生のこと好きだよ。」
「俺は早雨のこと好きだよ。」
「ふふ。そこは、『俺も』じゃないの?国語の先生。」
「あえての、『俺は』なの。たぶんお前の言ってる“好き”とは違ェから。」
「え…、」

先生が小さく笑う。
夜空を見上げ、「そういうことだ」と言った。

「せん、せい…、」
「早雨のとは違うだろ?」

胸が甘く痛む。
私は先生の服を掴んだ。

「…違わないよ、先生。」
「早雨…、」
「私の“好き”も、先生と同じ意味だよ。」
「……なら、付き合おっか。」
「!」

先生がニッコリと笑う。


「学校には内緒で付き合おうぜ、紅涙。」


差し出されたその手に、

「…うん。」

私は自分の手を重ねる。

トシとキスした日、
私はトシじゃない人と、手を繋いだ。


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