【Lavie】
[3/4]
身体が動かない。
これは夢だからだ。わかっているのに恐ろしい。わかっているからこそ。
遠ざかっていく背中を止められない。手を伸ばしたくとも、叫びたくとも、いっそ目を瞑りたくとも、ただ立ち尽くして眺めていることしかできない。
その身体が宙を舞うのと同時に目を覚まし、数秒遅れて鳴った時計のアラームを腕だけ動かして止める。しばらく天井を眺めて、嫌な汗を掻いているのに気がついた。
当然だろう。未だに飛び起きることもあるのだから。
正月が明け、新しい年が始まったところで、特別なことは何もない。トレーニングをする。レッスンをする。勉強をする。適度に休む。五感を鍛え、身体を整えて、最高のパフォーマンスを披露する。それが日常だ。
ダンサーとして在り続けるために必要なことはすべてやる。
朝のランニングは頭と身体を働かせるためのウォーミングアップ程度に済ませ、シャワーを浴びて朝食を摂る。ここまでは日課だ。
休日は素直に休んでいる。身体を休めていても、頭にインプットすることはできる。好みのカフェで読書するも良し、尊敬するダンサーの動画を研究するも良し、世間の流行をチェックするも良し。ダンスに生かせるもの、ひいてはチームのパフォーマンスに生かせるものを見つけては、休み明けにアウトプットしてみるのだった。
午前中は家で過ごし、気になっていたダンサーのことを調べて終わった。昼食を終え、一時になったところで、コートを着て駅に向かう。
なんとも気持ちよく晴れた空だが、頬を撫でる風は冬そのものだ。
電車を乗り継いで二時間、駅から徒歩十五分。小旅行のような道のりだが、心が弾むことはない。
辿り着いた駅はカレンダーに関係なく、いつも閑散としている。乗り降りするためだけに設けられたようなホームを歩き、改札を抜けた先には坂と緑が続く。
なんのことはない、緩やかな坂道だ。足が重いのは、単に気のせいだ。誰に頼まれているわけでもない。それでも行かなければならない。
他でもない、自分のために。
「あら、白綾さん。こんにちは」
「こんにちは」
訳知り顔で話しかけてきた受付の女性は、一慶がカウンター前に立っただけで、慣れた手付きで面会証と引き換え用紙を差し出した。必要項目を埋めながら時計をちらと見る。
「あ。お母様は、お昼前に帰られましたよ」
「……そうですか」
礼を言って面会証を受け取り、廊下ですれ違う看護師に会釈しながら、安堵を覚えていることに気がついた。母親と顔を合わせづらいのは、何年経っても変わらない。
病院は好きでも嫌いでもなかった。元々身体は丈夫なほうで、医者にかかった記憶はあまりない。それなのに、病院の白さにも、消毒液や薬品の匂いにも、なんの非日常感も覚えないのは、学生時代から少なくとも二週に一度はここを訪れているからだった。
迷うことなく辿り着いた病室の前で、ノックをするのには一瞬迷う。しかし三度、控えめに音を響かせ、静かに扉を開けた。
ーーああ、よかった。
どれだけ気が重くても、足が重くても。顔を見るだけで、やっぱり来てよかったと思うのだ。
「飛鳥。来たぞ」
病室で一時間ほど過ごした後は、また二時間以上の家路についた。これも、見舞いの時にはいつものことだ。
しかしホームからエスカレーターを降りた先で、妙に馴染みのある顔と目が合った。向こうがなんとも言えない表情をするが、恐らく一慶の顔も似たようなものだったに違いない。なんとなく端で立ち止まると、人波がおさまってから、向こうにいた桂樹がやはりなんとなくといった風に歩いてきた。
「えーと……なんか用?」
「こっちの台詞だ」
「えー。こちとらアヤ様がお待ちの様子だったもので馳せ参じたのですが」
「どこがだ。面倒くさそうに来やがって」
話しながら改札を抜ける。高校でただの同級生だった桂樹とは妙な縁があり、卒業してからも関係が続いている。特に仕事の都合で今の住まいに引っ越した後、桂樹が同じマンションに住んでいると知った時には目眩がしそうだった。
自然と帰り道は一緒になるが、桂樹が珍しく夕飯に誘ってきた。
「向こうに新しく定食屋できたの知ってる?」
「……まさか春にできた店のこと言ってるんじゃないだろうな」
「あ、それです」
どんな時間の流れ方だ。
浮世離れとは違うが、ゆっくりしたほうのマイペースな男であることは確かだった。のんびり屋とは相性の悪い一慶が付き合いを続けている理由は、やはり腐れ縁としか言いようがない。
「実家でも帰ってたのか」
夕飯の席など設けるくらいだから、話を聞いてほしいのではないかと気を回してそう尋ねた。未だにただの同級生ならそもそも誘いを断っていただろうが、チームメイトとなれば憂さ晴らしくらいには付き合う義理がある。
「いや、うん。半々」
「なんだ半々って」
「妹と会ってきただけだから、家には行ってない」
その妹は確か実家暮らしのはずだが、わざわざ外で会うあたり、余程寄り付きたくないのだろう。
「楽しかったか」
「そうね。まあまあ元気そうで、兄は安心しましたね」
「ふうん。よかったな」
どうやらさして吐き出したいこともないようで、単に腹が減っていただけかとホッケの開きから骨を剥がす。
「アヤ様は?」
うっかり手を止めかけて、なんでもないように動かした。
「別に。出掛けてただけだ」
「あ、そう」
平然と味噌汁を飲む桂樹は、どうやら察しているらしい。
腐れ縁も考えものだ。
中条飛鳥が植物状態になったのは、高校三年生を終える春のことだった。
一慶が通った高校は、ダンサーや役者、演出家などを志す者のための学校で、ダンスを専攻した一慶の周りには、当然ダンスと共に生きていきたい人間ばかりがいた。
元々人付き合いが好きなほうではない。一人のほうが気楽なくらいだ。姉と喧嘩になると、彼女の捨て台詞は必ず「この自己中が」だった。
自己中で何が悪い。他人の言動に逐一気を払うような時間も、他人のためにすり減らす神経も持ち合わせていない。そのぶん音楽を抱き、音楽と手を取り合って踊っていたほうが、余程有益に違いない。
小学校に上がる前、姉のついでに入れられたダンススクールがきっかけでダンスを始めた。理由もわからず魅了された。どうして惹かれたのか、うっすらと理解したのは先のことだが、音楽もダンスも、伝えるための言葉を持たない。それなのに、作り手の、奏者の、表現者の、それぞれの感情が伝わってくる。一慶にとっては、言葉よりも余程豊かなコミュニケーションツールに思えた。
そして何よりも、ただ楽しかった。
一慶の評価は幼少の頃から抜きん出ていた。まず見た目で注目された。加えて言葉も早く、身体も強く、文武両道を地で歩み、敬遠されることも多かったが、幼稚園から中学まで、自己中でもそれなりに友人らしい者はいた。
高校入学初日、中条飛鳥を最初に見かけた時、「人目を惹く」という意味を初めて実体験で理解した。顔立ちなのか、身体のバランスなのか、表情なのか。考える余地を与えず目を奪われ、しばらく見つめて我に返った。
あれは誰だ?
しかしダンス専攻クラスは一学年に一つきり。どうせ同じクラスだろう。立ち姿がダンサーのそれだった。しかも相当踊れるだろうと、妙な高揚を覚える。
案の定、飛鳥はダンスを専攻しており、かなりの実力者だった。大会で顔を見なかったことを不思議に思い話を聞くと、どうやらチームに恵まれなかったようだ。当の本人はそう思っていないらしく、楽しかったと曇りのない笑顔で語った。
他人に興味の薄い一慶の目を惹くほどであるからして、飛鳥の周りには常に人がいた。理由はわかる。飛鳥と話をするのは面白い。飾らず、爽快で、気がつけば笑ってしまっている。こんな人間がいるものなのだと感心した。
話をするのも面白いが、ダンスをするのはもっと面白い。ジャンルを問わず、飛鳥の実力と表現力は称賛せざるを得なかった。感性の豊かさもあるだろうが、地道な努力の積み重ねであることは、ダンスと向き合う姿勢を見ていれば聞かずともわかった。
実技も座学もトップを争うのは飛鳥と一慶で、いつしか誰かが、二人の関係をライバルと呼んだ。
『一慶』
同じような立ち位置で、同じくらいの熱量で、同じ志を持つ人間が傍にいることが、これほど心地好いとは知らなかった。友人に困らない飛鳥が、気づけばいつも一慶の隣にいたのは、飛鳥もまた同じような心地でいたからではないかと思う。
三年間、ほとんどの時間を飛鳥と共に過ごす中で、影響を受けたことは多かった。
一番変わったのは、他人の心を気にするようになったことだ。飛鳥にあって一慶にないものは、感情に対する理解の深さだった。今まで一慶が半ば無視してきた他人のそれを、飛鳥は受け止め、観察して、自分のものにしてきたのだ。
指南書だけでなく、小説も読むようになった。あまり興味のなかったドラマや映画も観るようになった。流行りものを知るようにした。好き嫌いせず、多様なジャンルで。飛鳥がそうしてきたように。
ダンスに関わるものには人一倍触れてきたつもりだが、いかにそれだけだったかを思い知った。飛鳥に出会わなかったことを考えると、恐ろしくさえなる程に。
『一慶も春からトップチームのダンサーか』
誇らしそうに、どこか寂しそうに言う友に、どの口がと笑ってやった。そのトップチームからの誘いを蹴って、芸能事務所に行くと決めたのはお前じゃないか。
本格的なダンスボーカルグループ育成に力を入れる新星事務所の名は、ダンス専攻の間でも話題になっていた。オーディションの時期があわず、まだ所属は決まっていなかったが、飛鳥のことだ。なんの心配もしていない。懸念があるとしたらグループに恵まれるかというところだが、所属者のレベルは高いという話だ。いよいよ中条飛鳥が世間に名を広めるのかと思うと、早くその姿を見たくなった。
それから何日もしない、二月に入った日のこと。
よく晴れていた。三年生の授業はもう終わり、あとは卒業式の予行まで登校日もないのだが、何人かで空きスタジオを借りて、午前中一杯自主レッスンをしていた。これまでもよく休日にやっていたので、特別なことではない。
有志メンバーとは校門で別れた。自転車で帰る奴もいれば、バスで帰る奴もいた。駅は徒歩五分のほうと、十五分のほうがあって、後者を使うのが飛鳥と一慶の二人だった。結局いつも通りの帰り道、他愛ない話をした。
ような気がする。
正直よく覚えていない。
ただ、あの瞬間だけは覚えている。
先にある横断歩道が赤信号になったのを見て、お互いなんとなく歩速を緩めた。瞬間、何かが足元を過ぎ去った。
子ども。
認識した刹那、背後の悲鳴で事を察する。止まる気のない小さな身体が赤信号の横断歩道へと全力で向かっている。こんな時に限って速度をもったままのトラックが見えている。
すべての反応において飛鳥のほうが早かった。
何もかも一瞬だった。
轟音が止むと、子どもの泣き声が響いた。横断歩道を渡りきった地面に転がっている。
急ブレーキをかけたトラックはそこで止まっている。
ーー飛鳥は?
走っていった飛鳥は、横断歩道の真ん中で子どもに追いついた飛鳥は。
たった今、トラックに撥ね飛ばされた飛鳥はどこに行った。
飛鳥!
やっと声が出て、横断歩道に出た時、全身の力が抜けそうになった。
あの血溜まりの中に倒れているのが、さっきまで隣で笑っていた飛鳥なのか。
何かの冗談ではないのか。腰を抜かしている暇はないと飛鳥の元へ駆け寄る。変わり果てた友人の姿を間近に見てもっと絶望した。何度呼びかけても返事はない。頭部からの出血が酷いのは素人目にも明らかだった。慌てて呼吸を確かめると、今にも止まりそうなほどだが、微かに息をしている。
救急車、応急処置、もうなんでもいい。早くしないと。
飛鳥が死んでしまう。
一慶が飛鳥の元へ駆けつけた時には、既に子どもの母親が救急車を呼んでいた。運転手はポツポツとやって来る他の車を誘導している。電話越しに指示を受けた母親からすぐに救急車が来ること、動かさないようにすることを伝えられ、一慶はいよいよ飛鳥の手に触れてやることと、己の無力さを悔いることしかできなかった。
救急車の到着が早かったことが何よりの救いで、絶望的と思われた飛鳥の命はなんとかこの世に繋ぎ止められた。
でもそれが限界だった。
春になっても、当然のように飛鳥は目を覚まさなかった。
卒業式は通夜のように終わった。三年生どころか、校内で飛鳥を知らない奴はいない。
夏になっても飛鳥は目を覚まさなかった。
飛鳥を知るチームの仲間たちは一慶を気遣ったが、それが逆につらかった。ダンスに集中している間は楽になった。でもふと気の緩む瞬間があると、決まって事故の場面と、眠る飛鳥の顔を思い出した。
『もう目は覚まさないかもしれないって』
そう判断されて、飛鳥は慢性期患者が入院する病院に転院した。
飛鳥の母親は、やはり飛鳥の母親で、明るく優しい人だった。半狂乱になってもおかしくないような愛息子の状態を、なんでもないことのように穏やかに言ってみせるのは、足繁く病院に通う一慶を気遣っているからだ。
『もう、植物と同じなんだって』
事故の関係者が誠実であったこと。
救急車の到着が早かったこと。
オペチームの腕が良かったこと。
事故が起きてから、様々な出来事が飛鳥を助けた。これが他人のために心を尽くし、ひたむきに努力を重ねてきた飛鳥への褒美だとでも言うのだろうか。
それから秋になっても、冬になっても、とうとう飛鳥は目を覚まさなかった。
そのまた次の冬を迎え、一慶は成人したが、式には行かなかった。代わりに病院へ行き、飛鳥と二人で静かに過ごした。
できるだけ飛鳥の母親とはすれ違うようにしていた。それでも時折顔を合わせることはあり、その度笑顔を向けてくれるが、なんの妨げもなく成長していく自分の姿を見せるのは、どうしたって忍びなかった。
飛鳥の時が止まっているのに、どうして世界は動いているのだろう。
飛鳥。
あの日何も起こらなかったら、普通に電車に乗って、家に帰って、笑顔で卒業していたら。お前は今頃何をしてたんだろう。
ふとそんなことを考えて、唐突にその名前を思い出した。
【vivid gem】。
飛鳥が望んだ場所。きっと居た場所。
『受かって、蹴って、戻ってこい。でも応援はしてやる』
オーディションを受ける決心を伝えると、リーダーはそう言った。
飛鳥の代わりに生きようなどと思っていない。飛鳥は自分で生きている。
ただ知りたかった。あの飛鳥が憧れた世界。
そして教えてやりたかった。どんな奴がいるのか、どんな場所なのか。そうしたら、もしかしたら、焦った飛鳥が目を覚ますかもしれない。羨ましくなって、一緒に踊りたくなって、目を覚ますかもしれない。
可能性とも呼べない、ただの願望だった。それでも一度考えたら、いてもたってもいられなくなった。
飛鳥の母親にも伝えた。罪滅ぼしどころか、追い討ちのようなものかもしれないと思った。でも黙ってやるわけにいかなかった。
飛鳥の手を握っているのと反対の手が、一慶の手に優しく触れる。
『ありがとう』
初めて見たその泣き顔が、一慶の足取りを確かなものにした。
事務所に所属して、グループに所属して、ダンスチームとはまた違う魅力を味わった。まだまだ全体として洗練の余地はあるが、それぞれ光るものを持ったグループメンバー。ダンス以外の仕事もあったが、触れてみるとやりがいもあった。
飛鳥はこの場所で、こういう日々を過ごしたかったのか。
リーダーの奴は馬鹿みたいなお人好しだが、なんとなくお前に似てる。たぶん気が合うだろうな。
メインボーカルはやかましい奴でちょっと鬱陶しい。でも歌は一回聴いたほうがいい。
桂樹がいるのはさすがに驚いた。あの野郎、やっぱり高校の時は本気でやってなかったぞ。
俺はもうしばらくここにいる。飛鳥も早く来たらいい。
週に一回。どうしても行けない時は二週に一回。ステージのこと、メンバーのこと、事務所のこと。飛鳥が興味を持ちそうなことはなんでも話した。
それでも、飛鳥は目を覚まさなかった。
五年間、そして今日も。
「まあ、アヤ様が話したいことあれば聞くし、話したくないなら聞かないし」
桂樹はそう言って、「お茶飲む?」と急須を浮かせた。差し出した湯呑みに湯気が立つ。
「俺はお前のほうが何か話があるのかと思った」
「え。そんでついてきてくれたの? どうしたの」
「どうもしてない。話くらい聞いてやる」
「光栄ですがね。アヤ様に聞いていただくほどの話はないのよ」
自分の湯呑みにも茶を注ぎながら、微かに口の端を上げる。相変わらず掴みどころのない奴だ。
学生の頃は、まさか二人で食事をするような仲になるとは思っていなかった。今だからよくわかるが、この男は己の存在感をコントロールして生きている。気が付いた時は薄気味悪くも感じたが、しがらみを纏う身ではそのほうが生きやすいのだろう。
店を出てからの帰り道はろくに会話もしなかった。
マンションに着いてエントランスを抜ける。セキュリティがしっかりしているのもあって、一慶は自室練習で下に気を遣いたくない、桂樹は移動が面倒という理由でそれぞれ一階に住んでいる。
「やっぱアヤ様と一緒に帰るの変な感じする……」
「異論はない」
それも一つ部屋を挟んだだけの距離ではなおさらだ。
別れを惜しむこともなく、それじゃと簡素なやり取りで互いの部屋の扉に向かう。
「アヤ様」
扉を開けかけたところで呼ばれ、ほとんど視線だけで応えた。
「また二人でご飯行こうね」
「……たまにならな」
「そうそう。年に一回くらい」
「行事か」
「何。もっと行きたかった?」
「いや。そのくらいでちょうどいい」
「そうでしょうよ」
じゃあおやすみ、と返事も聞かずに部屋の中へ消えていく。何故か負けた心地で、一慶も今度こそ扉を開けた。
風呂に入って軽くストレッチを済ませ、いつもより早くベッドに向かう。
明かりを消して目を閉じる。
ーー『一慶』
ああ、また。
またこの夢か。
隣を歩く飛鳥が笑う。冬の晴れた空、点滅する青信号。目に入る景色がやけに色づいている。
赤信号。
ふと、大人しく隣で立ち止まる飛鳥を見る。
『どうかしたか?』
『……いや……なんだろうな』
『なんだよ。ふっふふ、目ぇまんまるにして』
悪戯に笑った飛鳥の指が優しく眉間に触れる。
『うわ、やめろ馬鹿』
『あっはっは』
信号が青に変わる。横断歩道を渡りきったところで、飛鳥が空を見上げた。
『どうした』
『……雪降ってきた。こんな晴れてんのに』
まさかと見上げれば、確かにちらちらと煌めく粒が舞っている。
不意にざあと風が吹き、澄んだ青空の下、花吹雪のように結晶が溢れ散った。
本当は、こんな景色をこそ夢と呼ぶのだろう。
残酷な色など欠片もない、穏やかで、ただ幸せで、美しい世界。
『綺麗だなあ』
『ああ』
『なんか、もうちょい頑張れそうな気がしてきた』
『なんだよ、急に』
『んー……? そうだな。なんだろうな』
景色が白んでいく。朝になるのだ。
夢の時間はもう終わる。
『お前が頑張ってると、やっぱ負けてらんねえって気になんの』
『……そうか』
『おう』
『早く来い。もう少し待っててやる』
『おう。わざわざ待ってなくていいぞ。行けるとこまでとっとと行け』
『ああ』
またな。
どちらともなく手を打って、瞬きをした。
朝だ。
ゆっくりと起き上がり、遅れて鳴ったアラームを止める。
「……はは」
少しだけ特別な朝。そして今日もまた、変わりない一日が始まる。
願わくは、変わりない一日として終わっていくことを。
そして叶うなら、夢の続きを、いつか特別な一日に。
* 前へ | 次へ #
栞を挟む
3/4ページ
LIST/MAIN/HOME