はち
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「ちょっと、すみません」
「え、うわ」
櫻井の前髪を分けた朝比奈が額に触れる。するとますます顔をしかめた朝比奈が櫻井を見た。
「櫻井さん、熱あるんじゃないですか」
「え」
「やだ、櫻井くん風邪? 体温計あるわよ」
会話を聞いていたらしく引き出しから体温計を取り出した中江、受け取った朝比奈が櫻井に体温計を手渡す。
「計ってください」
「いや、別に」
断ろうとした櫻井だが、じーっと見つめてくる朝比奈の視線に負けて「わかったよ」と体温計を受け取った。
数分後、ピピッと計測を終えた音が響く。
(げ)
と思わず心の中で呟く。体温計は三十八度を示していた。
(嘘だろ、そんなに)
しかし思えば今日一日、身体はだるく重かった。古賀と会うという複雑な思いからくる憂鬱だと思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。熱だと意識するとますます身体が熱くなるような気がした。
ぱっと朝比奈が櫻井の手から体温計を奪う。
「……櫻井さん」
「いや……俺まだ仕事が」
「何、熱あったの?」
「櫻井さん八度です」
「え!? やだ早く帰って寝なさい、仕事なんて」
「ただいま戻りましたー」
「三国くんが全部やっといてくれるわよ」
「ハイ?」
ちょうど帰ってきた三国を中江が手で示す。
首を傾げた三国に事情を話すと、三国は頷いて言った。
「了解、帰れ櫻井。先輩命令だ」
「すみません」
「で、朝比奈、お前は櫻井送ってってやれ」
「えっ」
と驚いたのは朝比奈ではなく櫻井のほうだった。朝比奈は笑顔で「わかりました」と答える。
「いいよ朝比奈、運転くらいできる」
「危ないからダメです」
「事故でも起こされたらたまんねえからな。大人しく送られろ」
二人の譲らない姿勢に、中江が「愛ねー」と呟く。少々迷った櫻井だが、実際具合の悪さは増している気がしたので、最終的には諦めて甘えることにした。
「じゃあ、すみません、お願いします」
「はいよ」
「任せてください」
仕事は三国に任せ、従業員たちに見送られながら櫻井は朝比奈と営業所を出た。朝比奈の車に乗り、ふと明日の朝はどうしようかと思う。車を置いていくことになるのだ。
「明日は、熱が下がってたら俺が迎えに行きますね」
「え」
タイミングのよさもさることながら、朝比奈の面倒見のよさに櫻井は首を振った。
「いいよ、そこまで」
「櫻井さんにはお世話になりっぱなしですから。いつかのタクシー代がわりだとでも思ってください」
エンジンをかけて笑う朝比奈が続けた。
「それに、熱が下がらなかったら明日は休まないとダメですからね」
「そういうわけにも」
「皆さんダメって言うに決まってます」
確かに風邪を引いたまま仕事に出るのは営業相手にも同僚たちにも迷惑がかかる。それはわかっているが、そうなると最早気合いで治すしか道はない。
小さくため息をつく櫻井に、朝比奈が微笑んで言った。
「早く帰って、ゆっくり休みましょう。きっと頑張りすぎたんですよ」
穏やかな優しい表情と声色に、心が温かく包まれたような気がした。真っ直ぐ自分に向けられる純粋な優しさに何となく気恥ずかしさを感じ、櫻井は「そうかな」と前髪を掻いて目を逸らす。
酷く心地好い空間だった。
*
櫻井の住むマンションの駐車場に車が停まり、櫻井は鞄を持って朝比奈のほうを向いた。
「朝比奈、送ってくれてありが」
とう、まで言い終わる前に、朝比奈がドアを開けた。そのまま車を降りる朝比奈に櫻井が思わず疑問符を浮かべていると、前から回った朝比奈が助手席のドアを開けて笑った。
「櫻井さん降りないんですか?」
「いや……朝比奈こそなんで降りて」
「お部屋までご一緒します」
その言葉に、櫻井は瞬きをして「いやいや」と返す。予想以上の世話焼き気質である。
「いいって、そこまで。送ってもらっただけで十分助かったから」
「ご迷惑ですか」
「それは朝比奈のほうだろ」
「じゃあ問題ないですね」
そう笑った朝比奈が櫻井の鞄を預かる。
「あ」
「全然迷惑なんかじゃないです。なんならご飯も作りますし……お昼から食べてないなら、少し入れたほうがいいですよ」
「さすがにそこまでしてもらうわけには」
「俺結構したがりなので、むしろ嬉しいです」
相変わらずの笑顔に肩の力が抜けてしまう。
少々迷ったが、朝比奈が引かないと見ると、櫻井はようやくだるい身体を車から降ろして「お願いします」と甘えることにしたのだった。
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