じゅう
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しばらくして、もう事務所を出ようかというところだった。
朝比奈がふと、「すみません」と申し訳なさげに声をあげる。
「お手洗いをお借りしても」
「ああ、場所わかるかな? 出て左だよ」
「ありがとうございます。少し失礼します」
あ、と櫻井は身動きしないまま心の中で呟いた。
ガチャと聞こえた音は既に朝比奈が扉を閉めた音で、部屋には古賀と二人きりとなる。しまった、と何となく指を組んだ。慌ててついていくのもおかしいが、この際一緒に席を立つんだったと後悔する。タイミングを逃した結果訪れる妙な沈黙に、一度は引いた嫌な汗が再び流れそうだった。
否、沈黙なら沈黙でいい。
(このまま)
何もなく。
「櫻井」
ーーああ、
「……なんだ」
平静を保つ。もしかしたら違う話かもしれない。
しかし古賀と目を合わせて、それはただの櫻井の願望だと思い知らされた。
「この間のことだけど」
そうだろう。
瞼を伏せ、指を組み直す。もう汗ばんでいた。
「……なあ今はやめないか、朝比奈が」
「出ていったばっかりだろ。俺の言ったことちゃんと、考えてくれたのか?」
「考えるってあんな」
「確かにいきなりだと思うよ。でも櫻井が、俺のことまだ好きだと思ってくれてんなら、迷うことなくないか。好きじゃないならそれはそれではっきり言ってくれていい」
言い切って、櫻井を見据える古賀に、櫻井は開きかけた口を閉じて息をつく。
「……そういうことじゃないだろ……」
「そういうことだろ? 櫻井が、」
「そんな簡単に答えられるわけないだろ!」
目を丸くした古賀にはっとして指に力を入れる。
声を荒げたのは随分久しぶりのような気がした。すぐに自制心を取り戻し「悪い」と呟く。
「……とにかくそんな、すぐには……答えられない」
「……わかった。でも俺は、待つからな。さっきの、会社のことだってそうだ。お前のこと本気なんだ」
じわりと、
(……本気)
腐っていく。
ーー本気で?
再び扉が開いた時には、やはり沈黙が流れていた。
戻った朝比奈が一人笑顔で「すみません」と呟く。櫻井はそのまま立ち上がった。急に立った櫻井に朝比奈は驚いた顔をしたが、古賀は表情を変えずにいる。
「櫻井さん?」
「じゃあ、今日はこれで……行くぞ朝比奈」
「えっ? はい! 古賀様、本日はありがとうございました。失礼いたします」
慌てて鞄を取り古賀に頭を下げた朝比奈を最後に、扉は音を立てて閉められた。
事務所を後にして、忙しなく響いていた革靴の足音は徐々に速度を落としていく。ビルを出たところで朝比奈が隣に追い付き、それから少し後ろにさがって歩くのに、櫻井はため息を殺して声を出す。
「急かして悪かったな」
「ああ、いえ……俺のほうこそ、お待たせしちゃって」
「そんなことなくて、」
一度場を去れば後はもう、自己嫌悪の嵐である。
じっくりと太陽に焼かれる後ろ髪をくしゃりとして「全然、」と続ける。言葉が上手くまとまらなかった。
「……気にしないでくれ。俺が」
ーーそうだ、俺が
「俺が悪かった」
初めからそうだ。
確かに拒んだのは古賀だった。ただ櫻井が欲張らなければ、何も変わらずにいられたのだ。
言うんじゃなかった。『普通』の人とは違うんだと理解していた。ただの気の合う友人に好意を投げて全て壊したのは自分だと、何度も後悔して、もう何度も。
だから終わりにしたのだ。もう二度とあんな思いはしたくない。もう二度と同じことで傷付きたくないから、もう二度と同じような真似はしないと。
答えなどもう出ているのではないか。
(だけど)
もうやり直せないと口から出てこないのは、また傷付くのと同じだけ、これから先の一生、誰の傍にもいられないことが恐ろしいからだ。
天秤の真ん中にいる。どちらかへ行こうとすれば足元がぐらついて、不安に駆られて動けない。
どうにも。
「櫻井さん」
「、ああ」
「大丈夫ですか?」
心配そうに櫻井を見る朝比奈の顔は、何となくもう見慣れてしまった。後輩にこんな顔をさせてばかりでは情けないと口角を上げる。
「ああ。大丈夫……」
ふと朝比奈を見やる。
「櫻井さん?」
「……朝比奈」
一度は気にしたことを。
「聞いて……」
朝比奈を見ると、きょとんとした瞳が返ってきた。その後首が僅かに傾けられる。
「なんですか?」
「……いや……なんでもない」
考えすぎかと、ぎこちない笑みを浮かべて視線を逸らした。
心の中がごちゃごちゃとして、どうしようもなく散らかった部屋に一人きりでいるようだった。
朝比奈が気を利かせたように口を開く。
「それにしても、外に出ると暑いですね。ちょっとコンビニ寄ってもいいですか?」
「ああ」
「俺、今ディアマのパンのシール集めてるんです。お皿もらえるんですよ」
「何か見たなそれ。ゆるキャラのだろ」
「そうです! 可愛くないですか」
「動きがすごいよな……」
朝比奈とコンビニへ向かううち、櫻井のぎこちない笑みが自然なものに変わっていくのがわかる。朝比奈と話すのは純粋に楽しくて気が楽だった。妹の理香に少し似ていると思うところもあって、どうしても可愛いげを感じてしまう。
ゆったりとした優しさが似ている。
「シール集めてるなら、明日からパンはディアマで買うよ」
「えっありがとうございます! 言ってみるものですね」
「狙ってたな」
「ふふ、ちょっとだけ」
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