カレット
じゅういち
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(なんとか抜けられた……)

酒豪たちが盛り上がり始めた頃、どんちゃん騒ぎを背に部屋に戻った櫻井は、風呂の支度を済ませるとさっさと温泉に向かった。慰安旅行でのいつもの流れである。
脱衣場に着くと人はいたものの、疎らな様子でひとまずほっとする。思春期などとうに過ぎたがどうにもこういうところは落ち着かなかった。
早く出よう、と身体を洗いながら息をつき、誰もいない湯に足を入れる。落ち着かないとはいえ、家とまた違う大きな風呂が気持ちいいのは確かである。
一度頭の中が静かになると考えてしまうのは、このところずっと同じことだった。

ーー『お前のこと本気なんだ』

(……本気ってなんだ……)

パシャ、と小さく波打つ湯が水面に映る櫻井の表情を歪ませる。
古賀の声が、言葉の一つひとつが頭に残って、櫻井を惑わせる。古賀の言葉に頷くことが酷く怖いのと同時に、たった一度頷くだけで、望む幸せを得られるような気もしてしまっている。
もう苦しまなくて済むのではないかと期待している。
ーーでも、
期待する度、絶望する恐怖に苛まれてならない。あっさりと打ち砕かれる幸せなど悲しいばかりで、それならば初めから手にしないほうが幸せだと、臆病な自分が膝を抱えてしまう。
古賀という男のせいにして、一歩も前に進まないのは結局のところ自分のせいだとわかっている。
わかってはいるのだ。

「櫻井さん」
「、あ」

嬉しそうに声を掛けられ、櫻井は顔を上げる前から誰だかわかった。
予想通りの笑顔で、朝比奈が同じ湯に浸かる。

「お邪魔します」
「悪いな、さっさと抜けて」
「いえ、女性陣ももう部屋に戻られましたし。今日は連れ回しちゃってすみません、ありがとうございました」

髪を掻きながら小さく笑う朝比奈はいつもと印象が少しだけ変わり、なんともなしにどきりとする。そもそも近い、と思いながらさりげなく距離をとり、櫻井は「いいよ」と返した。

「おかげでいろいろ見れて楽しかった」
「本当に櫻井さんがついてきてくださって助かりました……俺一人ではどうにも……」
「だろうな……」

朝比奈の安堵の息に、若手事務員コンビのパワフルさを思い出しながら苦笑する。
でも、と朝比奈が穏やかに笑った。

「櫻井さんに楽しんでもらえたなら良かったです。最近、」

そこまで言って朝比奈が言葉を止めた。
その妙な間に、思わず爪先に力が入る。
ーーまさか

「……元気なかったみたいなので」
「……そんなことは……」

ーー聞いてたのか?

一度は気にしたことだった。あの日、古賀の事務所で。
扉の向こうにいたのではないかと。

「櫻井さん」

そんなことが、

「やっぱり、古賀様と喧嘩しちゃったんですか……?」
「……え」

尋ねるのも申し訳なさそうに櫻井を見つめる朝比奈の瞳に偽りはない。
櫻井が固まっていると、朝比奈が「その、」と行き場のない手をなんとなく動かした。

「同行させていただいた時……事務所の前に戻ったときにちょうど、櫻井さんの声が聞こえて……なんだか怒ってらっしゃるようだったので、少し驚いて」
「ああ……」
「それで心配だったんです、最近。仲のいい人と喧嘩しちゃうと辛いですよね」

一人で頷きながら納得する朝比奈に、櫻井は肩透かしをくらった気分だった。どうにも取り越し苦労だったようである。
ただ不思議な感覚だった。

(今、)

ーーがっかりした?

「俺、月岡様に可愛いお土産探してきますって約束してて。櫻井さんも明日一緒にお土産選びませんか?」

いつも通りの柔らかな笑顔に、どこか呆然としながら「ありがとう」と答えると、やはり朝比奈は嬉しそうだった。
朝比奈を残して湯から上がり、髪を乾かし、浴衣を羽織って廊下を歩く。
部屋に戻ると、相部屋の湖山が窓際の座椅子に座り、一人酒を飲みながら景色を眺めていた。湖山が櫻井に気がつき、おかえりと声を掛ける。

「いい旅館だな。温泉も広かったろう」
「そうだな。来年も期待してる」
「来年の幹事はお前だと思うが」
「……そうなったら日帰りにしよう」

櫻井がそう返して向かいに座ると湖山が微笑した。何か飲むか、と進められるが首を横に振る。
しばらく他愛のない同期ならではの話をして、ふと会話の途切れに湖山を呼んだ。

「ん?」
「変な話していいか」
「いいぞ」

あっさりと頷く湖山に、こういう奴だよなと感謝しながら指を組む。信用に足る男である。

「こう……人に知られたくないと思うことってあるだろ」
「あるのか」
「教えないけどな」
「わかった」
「けどそのことを、知られたかもしれないと思ったら知られてなくて、なんかがっかりするって、……なんと言うか、どんな現象なんだろうと」

珍しく言葉がまとまらず、自分で言いながら首を傾げそうになる。
しかし湖山は少し考えてから頷いた。

「それは単純に知ってほしかったということだろう」
「だって知られたくないんだぞ」
「本当は知ってほしいのか……もしくは不特定多数の人間には知られたくないことも、特定の誰かには知ってほしいと思ったんじゃないのか」

ーー知ってほしい、

確かにがっかりしたのだった。
もしかしたら朝比奈が、あの日櫻井と古賀の話をすべて聞いていて、その上で変わらない笑顔を向けてくれているのではないかと。
何故か朝比奈なら、たとえ櫻井の『本当のこと』を知ったとしても、変わらずにいてくれる気がしたのだ。
不思議なことだ。

「……まあ、誰にでも秘密の一つや二つある。あまり無理するなよ」
「ああ。ありがとう」

それからまたとりとめのない話に戻った。
やがて眠る支度を整えて布団に潜る。湖山は自分からは深くまで聞こうとしない。それも付き合いやすさの一つであり、以前から変わらないことだった。
いつか湖山にも、六花の皆にも、知ってほしいと思う時が来るだろうか。
そう考えると、それはとても幸せなことに思えた。


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