短編集
塔野くんの自然観察同好会日誌
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塔野灯には兄がいる。
名前はつもる。塔野積。

「つもにい」

そう呼んでいたのは五歳、いや、八歳ーーとりあえず、そのくらいまでのこと。
『つもにい』は弟にとって神だった。
机に向かっていても、弟が話しかければ振り向いて笑ってくれる。泥だらけの手を出せば、洗面所まで飛行機ごっこをして連れていって、綺麗に洗ってくれる。夜になれば、忙しい両親に代わって、ベッドの中で少し古くなった絵本を読み聞かせてくれる。
二人のお気に入りは、少年・エルマーが活躍する冒険譚。だから一番ぼろぼろだった。
広いリビングの隅には大きなラックがあって、いろいろな賞状が飾られていて、両親はそこに新しい何かが増える度、嬉しそうにしているのを知っていた。
逞しくて優しくて、なんでもできて、カッコいい。自分も大きくなればこんな風になるのかと楽しみだった。

「兄貴」

最後にそう呼んだのは、中学一年、いやーーよく覚えていない。
大学生になって家を出た兄は、週末になると帰ってきた。勉強で忙しいはずなのに、家族に顔を見せるためにわざわざ二時間近くかけて帰ってくるのだ。
週末の食卓は賑やかだった。兄が近況を話す。両親は笑顔になる。
小さい頃あんなに美味しかった、母が作る食事の味は、だんだんよくわからなくなっていった。

「灯は将来、何になるか決めたのか?」

両親の前で当たり前のように尋ねる兄がいつの間にか疎ましくなっていた。

「わかんねえよそんなの……」
「そうよ積、いいのよ、灯は積とは違うんだから。そういえば、積は小学生の時から、お医者さんになるって言ってたもんねえ。たしか、お向かいのお婆ちゃんが亡くなって……」
「ん、覚えてるよ、本当にお世話になった……俺がお医者さんなら治せたのに、って思ったんだよな。すごい、子どもの発想」
「ははは。でも本当に、治せるようになるかもしれないんだからな。立派なもんだ、積は」

静かな「ごちそうさま」は笑い声に消え、弟は一人、部屋に戻ってベッドに倒れた。
どうせ自分は兄とは違う。
どうせ自分には何もない。
どうせ、

「……どーでもい……」

何をしたって兄には敵わない。兄のようにはなれない。何もかもを積み重ねていく兄と違って、吹けば消えるような微かな灯。
立派な夢も目標もない、自分が何をしたいのかもわからない。
何が楽しくて、何が好きなのかさえ。

中学二年生になると、小学生から貯めていた小遣いで髪を染めた。

「灯、どうしたのそれ……」

母は驚いていたが、怒ったりはしなかった。
週末に帰ってきた兄は「変な奴に絡まれるから元に戻したほうがいい」と心配した。
父は何も言わなかった。
それからしばらくしてピアスも開けた。気づかないのか、もうどうでもよくなったのか、誰も何も言わなかった。
それそのものがもはやどうでもよかった。
兄の心配は当たっていた。柄の悪い輩に絡まれることも増えたが、持ち前の運動神経で適当にいなしていた。時には怪我をすることもあったが、そんな時は帰ってきた兄が勝手に世話を焼いてくる。

「灯、母さんや父さんに心配かけるようなことしたらダメだろ」

医者ぶった兄が傷を診ながら、小さい子どもに言い聞かせるように諭してくるのに、どうしようもなく腹が立った。
兄は知らない。
兄がいない食卓の静けさも。
兄がいないと両親が笑わないことも。
兄がいないと、比べられさえしないことも。

「うぜえんだよ」
「灯、」

家を飛び出したところで友人もおらず、行く宛もなく、部屋にこもるしかない。
小さい子どもと変わらないことは自分でわかっていて、余計にやるせなかった。

中学は出欠の帳尻を合わせてギリギリで卒業した。母にせっつかれて選んだ高校は地元、歩いて行ける近所の学校。名前を書けば入れるらしいと馬鹿な噂が流れる程度のレベルだが、そのくらいでちょうどいい。
中学卒で終わる学歴を両親が気にしただけのことで、卒業さえできればそれでいいのだから。
なんのために行くのかわからないが、行っておけば面倒なことは言われない。

何も期待していない。

- -

「……だからどうでもいい、なんもかんも」

視界の端で相槌を打っていた春山は、塔野が何も言わなくなると短く拍手した。文字通りの自分史を思い出して暗くなった塔野に、春山が微笑む。

「教えてくれてありがとう。なんだか塔野くんのこと、一センチくらい知れた気がするよ」
「一センチ……」
「質問、質問。塔野くんは朝と、昼と、夜と……あと夕方、だったらどの時間が一番好き?」
「……は?」
「なんとなくない? 明るいほうが気分がいいとか、暗いほうが落ち着くとか。理由はハッキリなくてもいいよ」

突拍子もない質問に意味がわからず瞬きするが、春山が引く様子はない。
ーー時間? 知るかよ……
そう思いながら思い起こす。

朝。ふとアラームより先に目覚めたときの薄暗い室内。カーテンの隙間から漏れる光。
昼。草の香りを含んだぬるい風が抜ける晴れた外。
夕方。帰り道の橋から見える夕焼けを映した川の水面、その煌めき。
夜。静寂の中で耳を澄ませば、遠くから聞こえる車の音、バイクの音、それからーー


「……朝」
「ん! ちなみに、何か理由はあるの?」
「別に……なんとなく」
「なるほど。いいね、朝! 僕も朝好きだよ、なんとなく」
「なんの質問だよ、心理テストか? あ?」
「いや、特別何かってわけじゃないけど、ただ聞いてみたかったから聞いただけ。あとはそうだな、小さい頃なりたかったものとかある? もちろん今でもいいよ」
「……皮肉か? それ」
「何が? なりたかったものとか、なりたいものだよ。曖昧でもいいよ、固い決意とか理由とか、あればもちろん聞くけど、そんなの別になくていい」
「……」
「ちなみに僕は小さい頃、魔法使いになりたかったよ。テレビで観て、杖を使って魔法を出すのがカッコよくてさ。箒で空を飛ぶのには未だに憧れるね」
「はあ……?」

くだらない、と言おうとしてやめた。
なんとなく言えなかった。

「まあ、僕の話はあとで。今は塔野くんの話が聞きたい」

笑顔で待つ春山に、いつかの夜の静寂の中、隣で聞いた声を思い出す。
ーー『カッコいいなあ、』


「……エルマー……」
「エルマー?」

目を丸くする春山に、教卓に頬杖をついてぼそりと話す。
興味を持たれている。なんだか気恥ずかしい。

「……本の、主人公だよ、絵本の」
「あ! 知ってる! エルマーの冒険だろう、懐かしいなあ」

塔野は目を合わせた。

「知ってんのかよ……」
「うん、小さい時読んでたよ。へえー、エルマーかあ、いいね」
「……動物に追われるだろ、いろいろ」
「うんうん、トラとか、ライオンとかね。賢いんだよね、エルマー」
「猿に虫眼鏡やったりとか……」
「ああ! あった、あった」
「あれが……面白いって兄貴と、」

じわ、と視界が滲む。

ーーあれ、

「っ……ふ、」
「……塔野くん?」

ぼろぼろと溢れた涙が腕を伝い、捲った袖に染み込んでいく。
腕で目元を拭うと、春山にハンカチを渡された。

「うぜ……」
「うん」
「っ……っ、ぅ」
「ティッシュもあるよ」
「……ティッシュ……」
「うん! あるよ、全部あげる」

どうぞ、と笑顔でハンカチの上から持たされたポケットティッシュに、なぜかますます涙が溢れた。
結局、塔野が落ち着くまでの間、春山は隣に座って、塔野が時折漏らす呟きに相槌を打つばかりだった。
三枚ほどは残っているだろうポケットティッシュを春山に返す。

「……もう平気、サンキュ」
「どういたしまして。目元、冷やしたほうがいいかな。僕、ちょっくら保健の先生のところに行って氷のうとか持ってくるよ、ここにいてくれ」
「…………」
「ん? あっ、他にも何か話したいこと出てきた? 聞くよ、聞くよ」
「……お前の話は?」

春山がきょとんとして、それから笑顔になる。

「聞いてくれるの? ありがとう。でも僕の話は長いから、明日にしよう。明日、放課後、またここでもいい?」
「……わかった」
「よし! あ、でもキミの目は冷やそう。ひとっ走りしてくるよ。すぐ戻るから、待っててくれ」

びゅん、と風を切って出ていった春山が、すぐに引き返してくる。

「その前に、忘れてた、これも渡しておこう」

鞄を漁った春山がA5サイズのノートを取り出した。アンティーク調のレザーカバー、留め具代わりのチャームペンダントは錨型と洒落ている。

「これ、僕から塔野くんにプレゼント。同好会立ち上げに協力してくれたささやかなお礼。航海日誌みたいでカッコよくない?」
「ノート……?」
「うん。この同好会ではいろんな発見をしていくつもりだから、活動の記録とかにどうかなと思ったんだけど、何に使ってもらっても構わないよ」

でも、冒険譚を綴るにはちょうどいいデザインだろう。
そう笑う春山からノートを受け取る。

「おっと、冷やすの遅れちゃう。行ってくるよ!!」
(声デケェ……)

バタバタと出ていった春山の背を座ったまま見送り、まだ熱を持った瞳でノートの表紙を眺める。
塔野は鞄から筆箱を取り出すと、一頁目を開いた。
なんとなく、二百円のボールペンが味気なく思え、ノートに合わせた洒落たペンが欲しくなる。
まあいいか、と芯を出し、上から二行目に黒で綴る。

【5月20日 自然観察同好会に入る。】

塔野は書いた字をしばらく眺めると、【春山と。】を付け足した。

× ×

そして翌日、放課後。

「や! 待ってたよ、塔野くん」

既に第二棟の昇降口は開いており、旧化学室に行くと春山がいた。
教卓にはチョコレート菓子やスナック、飲み物が並んでいる。ご丁寧に紙コップまで用意され、塔野は顔をしかめながらも椅子に座って鞄を置く。

「パーティーかよ……」
「パーティー! 楽しい響きだなあ。まあまあ、いいじゃないか。何飲む?」
「……コーラ」
「お、いいね。僕は紅茶にしようかな」

紙コップを渡され、持っているとコーラを注がれる。
ーー超、普通……。
昨日、春山が持ってきてくれた氷のうで目元を落ち着けた後、二人は第二棟を出て解散した。鍵と氷のうを返しに行くと言う春山に、自分が行くと申し出たが、

「ありがとう! でも、今日は大丈夫だよ、ゆっくり帰ってくれ。明日は塔野くんにお願いするよ」

そう返され、結局塔野は先に帰ったのだった。
鼻唄混じりに自分の飲み物も用意する春山は昨日のことを茶化す様子もなく、忘れているのかと思う自然体ぶりである。
乾杯をせがまれコップを軽く突き合わせると、一口飲んで置いた春山が「さて」と手を合わせた。

「今日は僕の番か」



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