短編集
塔野くんの自然観察同好会日誌
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春山水樹は一人っ子である。

「みーくん、そっちは危ないから!」
「やー!! いく! かわ! いく!!」

猛ダッシュで川に向かう水樹少年、四歳の夏。

「水樹っ! あなたぁ、つかまえて!」
「水樹〜ッ」

母に託され、目の前に立ちはだかる父に突進した。

「へぶっ」
「ゴフッ」

当然敵うはずもなく、しかし相討ち程度のダメージは食らった父に呆気なく抱き止められる。

「うー!!」
「悔し泣きか? いいタックルだったぞ、水樹……しかしな、父はそう簡単に息子に倒されるわけにはいかんのだ」
「あなたー、大丈夫ー?」
「おう、水樹は泣いちゃったけどな」
「はあ、よかった、私一人じゃ止められなかったわ」

立ち上がる父に抱きついたまま、背をとんとんと叩いてあやされ、肩口に額を擦り付ける。

「しゃかなぁ、しゃかな……」
「んー? 魚見たかったのか。うん、見に行こうなあ。それ、水樹専用肩車だ!」

父は胴を掴んで抱き上げると、肩車をして小走りに川に向かった。

「あはは!! ひひひ」
「どうだ、自分で走るより楽しかろう」
「たのしいー」
「ちょっとぉ、気をつけてねー」

心配しつつも楽しそうな母の声を背に受け、父の頭にしがみつく。背の高い父の肩車はまるでロボットの操縦士にでもなった気分で大好きだった。
浅い川につくと降ろされ、父と手を繋いでサンダルのまま片足を入れる。

「ちゅめたー」
「ん! たしかに」
「しゃかな……んー、ない!!」
「潔い! でも水樹、ほら、よく見てみろ」

岩影を父が指差すのでまじまじと見てみると、指先ほどの稚魚が数匹泳いでいた。

「いた!」
「すごいな水樹! 大発見だ」
「だいはけんだ……」
「何かいた〜?」
「まま、だいはけん!!」
「えーっ、大発見? すごいみーくん、何、なに」

いつも両親の笑顔に包まれていた。
幼いながらに幸せとはなんたるかを感じていたような気がする。目に映るものすべてが輝いていた。

小学生になると、水樹少年はどうやら運動音痴らしいと自覚した。走るのだけは速いのだが、ボールが加わると、縄を扱うと、障害物が出てくると、にっちもさっちもいかなくなる。
おまけに勉強のほうもいまいち上手くいかなかった。

「春山くんは、理科の成績はいいですね、あとは国語も一部……。それ以外がもう少し、頑張らないと」
「そうですか、」

家庭訪問で家に来た先生と母が話すのを隣で聞きながら、なぜ頑張らないといけないのだろうと思った。

「水樹、宿題やった?」
「やった! 公園行ってくる!」

やるべきことはやってから。母の教えである。
遊ぶときは全力で遊べ。父の教えである。
両親の教えの通りに生きていた。

「春山くんは、他の子に比べて落ち着きがありませんね。突拍子もないことをしたりして、周りの子に悪影響なので、ご両親からも言い聞かせていただけると……」
「春山、お前遊んでばっかりで、勉強してないだろう。真面目にやれ、今からそんなんじゃ将来ろくなことにならないぞ」

大きくなるにつれ、周りの大人たちは水樹少年に厳しくなった。
九九が人より覚えられなくても、花の名前を人より知っているのに。
日本地図が覚えられなくても、太陽がいつどこに昇るのか、いつどこに沈むのかわかるのに。
縄跳びが上手く跳べなくても、美味しいホットケーキを作るコツを知っているのに。
いつしか誰も褒めてくれなくなった。
ーー否、誰も、ではなかった。

「水樹、学校楽しいか?」
「……うん、まあまあ」

中学一年生の水樹少年は、仕事から帰ってきた父と話すついでに晩酌をしていた。母は風呂に入っている。
父の質問に、一瞬答えに詰まるが、笑って返せば父が「そうか」と頷く。

「最近、元気ないって母さん心配してたぞ」
「……んー……」
「あ。部活、どうだ。陸上部」

食べるか? とビーフジャーキーを差し出されるが、首を横に振る。

「部活は……なんか、空気がピリピリしててちょっと……」
「ほう。結構厳しい部活なのか」
「厳しいというか……、先輩が、わざと無茶な練習メニュー組んで僕ら一年生にやらせたりとか、失敗すると僕らのせいにしたりとか、何がしたいのかよくわかんない……。僕、走るの以外ダメなのに、無理矢理やらされて馬鹿にされたりするし……」
「はあ……。なるほど。なあ、水樹はどうしても陸上部がいいのか?」

父が立ち上がり、冷蔵庫からオレンジジュースを出して戻ってくる。そしてコップを持たせるとそこに注いだ。

「……別に、僕、走るくらいしかできることなさそうだったから入っただけだけど……」
「なんだ! よかった。なら辞めちゃってもいいんじゃないか」
「えっ」

父の言葉に、コップを両手で握って顔を上げる。

「水樹が部活のせいで学校つらいなら、俺は辞めてもいいと思うなあ。もちろん、どうしても、何がなんでも陸上部がいい! ってなら話は別だ。何とか部を改革せねばなるまい……が、今の水樹がそれをする必要はないだろう。それより優先すべきは、水樹が楽しく学校に行くことだ。母さんだってそう言うさ」

笑って、ビールに口をつける。ちべてぇ、と美味そうに唸る父に眉を下げた。

「でも、成績下がったりとか……、お父さんとかお母さんも、先生から何か言われるかもしれないし」
「転職みたいなものだろ? 大したことじゃない、ない。それと、子が親の心配をすな。そういうところは母さんに似てるんだよな……長所だが」

父の手が優しく、力強く肩を叩いた。

「大丈夫だよ、お父さんこう見えて強いんだからな! 母さんのこともちゃんと守る。水樹は今、自分のことだけ考えてればいいんだ。嫌なこと話してくれてありがとうな」
「……うん」
「あ。ティッシュな、ティッシュ……ほら、いっぱい使っていいぞ」
「うん……」
「母さんには俺が言っておくから、もう寝て大丈夫だぞ。自分で話したければ、話してもいいし」
「……ずびっ、お父さん言っておいてほしい……明日自分でも言う……」
「よし、よし。水樹はいい子だなあ」

大人しく撫でられるうちにまた涙が溢れてくる。
持ってけ、とボックスティッシュと氷のうを渡され、部屋のベッドに潜ると声を出して泣いた。何がそんなにつらかったのか、悲しかったのか、悔しかったのか自分でもわからない。
ただ翌朝には妙にスッキリとしていて、水樹少年は陸上部在籍半年にして、退部届けを提出した。

「ちょっと嫌なことがあったくらいですぐ辞めてたら、ろくな大人になれないぞ」

案の定顧問には説教された。
しかし水樹少年は決めていた。

「何事も、楽しくないと頑張れないと思ったので、父と母にも相談して辞めることにしました。が、もしリレーで欠員が出て困ることがあればいつでもお助けします! お世話になりました!!!」
「声デカッ……おい、春山!」

清々しい気持ちで職員室を後にし、やれやれ、と身体を伸ばす。

「春山……?」
「? あ、咲川くん」

職員室にいたらしいクラスメートに後ろから声を掛けられ振り返ると、咲川は「今の」と楽しげに笑った。

「すごかったな。カッコいいじゃん、お前」
「え……、あ、ありがとう」
「うちの陸部って、結構悪名高いぜ。辞めて正解だよ」

咲川はクラスでも人気者で、男女共に尊敬されるリーダー的存在だった。頭も顔立ちも良く、同級生と比べると大人びている印象だ。

「次、何にすんの? うち、校則で部活は何か入らないといけないことになってるだろ」
「うーん……そうだよねえ、どうしようかな」
「ははっ決めてなかったのかよ。おもしろ、春山」

けらけらと笑う咲川に、彼ならヒントをくれるだろうかと尋ねる。

「僕、走るのだけ得意で陸上部選んだんだ。他に何かできる部活、あるだろうか」
「ふーん……春山さ、さっき言ってたじゃん。楽しくないと頑張れないって。春山は何が楽しいの?」
「……笑わない?」
「え、わかんね。面白かったら笑うかも」

にや、として言う咲川は、しょんぼりとした視線を受けて「うそうそ」と手を合わせた。

「笑わないよ」
「……虫探したりとか、花とか、空見たりとか……そういうのが楽しくて、好き」
「へえ、いいじゃん。なんで笑うと思ったんだよ」

それなら……、いや……、と顎に手をあてて真剣に考える咲川に、なぜ彼が人気者なのかわかる気がした。

「……あっ! ほら、あるぜ。美術部が」
「えっ……僕、絵描けないよ」
「上手くないと入っちゃいけないなんて規則ないだろ。それに、美術部の奴に聞いたことあるんだけど、たまにその辺の公園とか、山とかに絵描きに行くらしい」
「へえ……! 楽しそう、かも」
「部活見学とか、先生に頼んで行ってみれば? 一緒に行ってやろうか」
「んー……大丈夫、自分で美術部の人に声掛けてみるよ。ありがとう咲川くん」
「おう。……んー、俺も楽しくやろ! ありがとな、春山」

そう笑う咲川に、もしかすると、彼もまた何か抱えているものがあるのかもしれないと思った。
嫌な先輩も。先生も。優しい両親も。
人それぞれ、見えない何かを、言わない何かを抱えているのだろう。
見えるものばかり見ていては、見ているつもりで見えていないものが多すぎるのかもしれない。

それからの水樹少年は、なんでもよく見るようにした。

花の色、虫の羽、季節で姿を変える雲。
それから、

「えーと……」
「お母さん、はい」
「あ、こんなとこに! ありがと水樹……なんでエプロン探してるのわかったの?」
「うーん……? なんとなく」

×

「……あれ、お父さん、目の下クマ出来てる」
「ん? あー……実は最近ちょっと寝付き悪いんだよなあ」
「そうだったんだ。じゃあ、お風呂上がったら足揉むよ! そのほうが寝られるかも」
「水樹〜……!」

×

「誰か、体育祭実行委員やってくれる人、ふたり〜……決まらないと、ホームルーム終わりませーん」
「えー、めんどくさ……あ、咲川とかピッタリじゃん? 運動神経いいしー、イケメンだしー」
「……えぇ、俺? あー、」
「……はいっ! 僕がやります!!!」
「声でかっ! 誰今の……えっ春山? プッ、」
「ぶはっ、春山が体育祭実行委員て! ダンスとかあんの知ってんの? お前、絶対できねえじゃん! アハハ」

ガン、と咲川の机から音が響いて教室が静まる。

「……あー、ゴメン、足滑った。春山と俺で、やりまーす。もう部活行っていい?」

へら、と笑う咲川に、気まずい空気で解散となる。
皆がそそくさと出ていく中、春山は咲川をつかまえた。

「ごめんよ咲川くん、余計なことしたかな……変な空気になっちゃったよ」
「いや、お前は最高だっただろ。……俺が押し付けられると思って入ってくれたんだろ、ありがとな。いんだよ、慣れてるし」
「うーん……、うん、まあ、僕もやるなら咲川くんとやりたいし、キミがいいならいいか!」
「そうそう。あ、ダンスは一緒に練習しような」
「うん、心の底からお願いするよ……」
「はは」

友人は多くはなかったが、友人と呼べる人は皆心優しく、信頼できる人ばかりだった。



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