Side:A 朝比奈隼人の話
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(緊張してきた……)

早めに出勤してインターホンを鳴らすと、少しして返事があった。

「おはようございます。本日から配属になりました、新人の朝比奈と申します」
『おお、おはよう。今開けるから待っててな』

いくらもしないで営業所の扉が開く。出てきたのは温厚そうな男の人で、たぶん上の人だろうなと思った。貫禄がある。

「おはようございます」
「おはよう。部長の相沢です、よろしく」
「朝比奈隼人です、よろしくお願いします」
「うん。きみはシュッとしてていいなあ、櫻井みたいだな。さ、入りなさい」

穏やかな笑顔で中に入れてくれた部長に頭を下げる。
ーーサクライさんって誰だろう。先輩かな。
応接室、資料室、休憩室、喫煙室、トイレと案内してもらって、最後にオフィスに入った。中には既に人影があって、他に人がいるのにわざわざ部長が出てきて案内までしてくれたんだと驚いた。

「これからまだ出てくるけどな、一旦顔見せとこう。皆、新入社員の朝比奈くんが来てくれたぞ」

一旦挨拶を済ませて、続々と出勤してくる先輩たちにも部長が声を掛けてくれた。

「おはようございます」

また誰か来た、と思って入り口を見ると、二人のうち一人の先輩と目が合った。一目でカッコいい人だなと思うと、部長がその名前を呼ぶ。

「筧、櫻井」

ーーあ、サクライさん。

「今日から新入社員がウチに一人来てくれた。後でみんな揃ったらまた自己紹介させるが、よろしくな」
「朝比奈です、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

先輩たちが揃えた声は明るかった。本当に気のいい人が多そうだ。
席に向かう二人のうち、さっき目が合った先輩を部長が小さく指す。

「あのシュッとしたほうが主任の櫻井だ。朝比奈の直属の上司になるからな、よろしくな」

部長の言う「シュッとした」が体型のことなら筧さんもシュッとしてるほうだと思うけど、櫻井さんがシュッとしてるのはなんとなくわかった。
背筋がちゃんと伸びていて、服にシワがなくて、靴がピカピカで、全部に気を遣ってそうな、そんな感じ。
ーーじゃあ、俺があの先輩みたいってことかな? それなら嬉しいかも。

朝礼が終わって部長と話した後、所属する三班に合流しようとすると談笑中だった。またふと櫻井さんと目が合って、こっちを向いてくれる。歩み寄ってお辞儀すると、微笑ましげに見られてるのがわかって少し恥ずかしかった。

「朝比奈です、よろしくお願いします」
「櫻井です。よろしく」

握手までしてもらった。社会人ってスマートだな、と先輩たちに挨拶を済ませると、早速フレンドリーに話しかけてもらった。
それぞれのスケジュール報告を見守ってから櫻井さんに名前を呼ばれて返事をする。

「一ヶ月先輩に同行する決まりは聞いてるな。今日は俺についてもらうから、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
「今日と言わずずっと櫻井でもいいんじゃねえか?」
「それじゃ勉強にならないでしょう、予定を見て組んでいきますから。では、今日も一日頑張りましょう。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

櫻井さんに続いて営業所を出ると、車の助手席に乗せてもらって、出発前に資料を受け取った。

「今日はまず雰囲気を掴んでもらえたらそれでいい。話も俺が進めるけど、さっぱりっていうのも心許ないだろうから、一応それ見といて」
「ありがとうございます」

車が発進するのにあわせてざっと資料を捲ってみると、プレゼンが綺麗にまとめられていて驚いた。
まず物凄く見やすい。
もう一度頭から見てみると、色使いもレイアウトもすごく考えられてる気がした。シンプルで、見る人のことを考えてて、大切なことだけきちんと反映されてるような。
まだ何もわかってない俺でも、これを作った人が仕事に、お客さんにちゃんと向き合ってる人だってことはわかる。

「そんなに見てたら酔わないか? 本当、触りだけでいいんだぞ」

櫻井さんの声に顔を上げると、車は赤信号で止まっていた。

「え、ああ、ありがとうございます。でも俺、車酔いしないから平気ですよ」
「そう? ならいいけど」

そう言う櫻井さんはやっぱり微笑ましげだった。
ーーカッコいい。

「早くお役に立てるように頑張ります」
「気合い十分だな」



櫻井さんは本当に仕事ができる人だった。

「――でして、こちらでしたら加我様のご要望通りのプランに」
「いいねえ。いいよ、うん。ははは、もう決めてもいいかな、うん」

手元の洗練されたプレゼン資料を見てるのか見てないのかわからないくらい櫻井さんと話すのに夢中だった加我様は、上機嫌なまま膝を叩いた。

「いやあ、昨日もね、ナントカってとこが来たんだけどね、ありゃあダメだ。名前も忘れちったよ俺は。ははは! いや〜やるって決まった時からね、頼むならお宅かなあとも思ってたんだよ俺は」
「ありがとうございます」
「うん、うん! な、そーだな。いや〜それにしても櫻井さんがもう昇進とは。偉いもんだ、若いのに頑張ってなあ。立派だよ、なあ。うちも櫻井さんにはお世話になってきたしなあ」
「ありがとうございます、こちらこそ、いつも良くしていただいて。昇進といっても若輩者に変わりありませんので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
「ね、ね、謙虚だよ。こちらこそお願いしますよ。ああほら、契約書書かないとね。ははは、契約契約と」
「ありがとうございます、こちらに」

櫻井さんの中ではもう決まっていたらしく、スマートに契約書を取り出すと、まだ談笑しながらもしっかり加我様に判をついてもらっていた。
そうして記入欄に素早く目を通すとにっこり笑う。

「それでは、確かに。ご契約ありがとうございます」
「はい、こちらこそ。ははは、櫻井さんにお任せして後悔したことはありませんからね。新人さんは櫻井さんに教えてもらうのかね?」
「そうですね、主に。これから一ヶ月は、いろいろな担当者について回るんですよ。初日から加我様とお会いできたのはラッキーですね」
「ははは、そうですか! これから大変だ。社会人ってのはね、いろいろあるからねえ」

ニコニコとした加我様の目がこちらに向いてドキリとする。
変な返し方しないようにしないと。

「新人さんも頑張りなさいよ。櫻井さんはね、そりゃあ良い先輩だからね、しっかりと教えてもらうんだよ。揉まれてナンボだ、ね、頑張りなさいよ」
「はい、ありがとうございます。精進いたします」
「うん、いいですねえ。では櫻井さん、よろしくお願いします」
「ありがとうございます。またご連絡させていただきます」
「はい、お待ちしてますよ」

失礼いたします、と櫻井さんと会社を出て車に戻る。
助手席のドアを閉めて、ようやく息ができた気がした。

「よく喋る方でしたね」

あんなに喋る人は初めて見たかもしれない。うちの母は相当お喋りな人だと思ってたけど、到底敵わないだろう。
いっそ感心して言うと、櫻井さんも苦笑した。

「喋るの大好きなんだ。ああいうお客様の時は、何も言わなくても自分の要求をバンバン話してくれるから、こっちはしっかり聞いて要約して、本当に伝えたいことだけ伝えればいい。職業柄、ご機嫌取りも忘れずに」

櫻井さんは少し自嘲気味に付け足したけど、聞いていてそうは感じなかった。相手が気持ちよくなることを言ってるのはわかるんだけど、思ってもないことを言ってる風には見えなかった。
たぶんそれは本当で、櫻井さんの人柄なんだろうなと思う。

「全く話さないお客様とかもいらっしゃるんですか?」
「まあ、無口な人も結構いるぞ。それでもパターンに当てはめてっていうのは難しいから、やっぱり一番は個人個人をよく見て臨機応変に対応することだな。やってくうちに慣れるさ」
「はい、ありがとうございます」

櫻井さんがスケジュール帳を開いたので、その間にもらったアドバイスや商談を見ていて得られたことを手帳に書き留めて眺めた。

「朝比奈、飯は次回ってからだから遅くなるけど大丈夫か? どうしても腹減ってたらコンビニ寄るけど」
「平気です、緊張してるので」
「はは、そっか。緊張するなって言っても無理だよな、初日なんて」

緊張してるのも本当だ。でも、今日はご飯が食べられなくてもいいから、もっと櫻井さんの仕事を見ていたかった。
もっと知りたい。仕事のことも、櫻井さんのことも。
ーー櫻井さんはどうしてここを選んだんだろう。

「あの、櫻井主任」
「うん?」

思いきって話しかけると、なんだか嬉しそうに答えてくれた。

「主任は、どうしてここに勤めたんですか?」
「就職した理由? ああ……ていうかその、主任じゃなくていいから。櫻井でいいよ、慣れないんだそれ」
「じゃあ櫻井さん」

実際に呼んでみると、少し距離が縮まったような気がする。

「なんだろう……夢がないけど、偶然なのかな。元々、いいと思ったところに就職できればそれでって考えだったんだ。それが」

一瞬言葉を切ると、思い出すようにフロントガラスの向こうを見つめた。

「あの頃は……いろいろ切羽詰まってたから、とにかく落ち着きたくて。手当たり次第受けて、最初に内定取れたのがタチカワだったんだ」

少し意外だった。こんなに力を尽くして仕事に向き合って、てっきりこういう仕事がやりたくて選んだのかと思ってた。

「そうなんですか」
「今はよかったと思ってるよ。朝比奈は? なんでここ入ったんだ」
「働いてる人に知り合いがいて、話を聞いてたらよさそうだったので決めました」
「へえ」

櫻井さんは関心があるように呟いたけど、改めて口にするとすごく軟派な理由に思えてくる。なんとなく恥ずかしくて、とっさに思い出した縁を伝えた。

「それと本社で研修中、六花は働きやすいって聞いて、そこがいいなって思ってたら配属になったんです」
「そんな噂もあるのか。確かに、仲はいいからな。朝比奈もきっとすぐ慣れる、新人一人じゃ皆無駄に絡んでくるぞ」
「あはは、楽しみにしておきます」

笑い返してくれる櫻井さんと少し打ち解けられたような気がして嬉しくなる。

「最後のところでは、朝比奈も少し話してみよう。俺もちゃんとサポートするし」
「ほんとですか? ふふ、実は少しやってみたいなって思ってたんです」
「おお、いいな。じゃあやろう、無理そうになったらすぐ俺に投げてくれていいから」
「ありがとうございます、頑張ります」

いきなり櫻井さんになれないことは十分にわかっていても、すごい人を見ると力をもらえる。任せてもらえたことが嬉しくてさらにやる気がわいた。
最後、どんなところなんだろう。


* *


「それでは、失礼いたします」

最後の営業先。
二人で部屋を出て、車に戻った。ドアを閉めて櫻井さんが尋ねる。

「どうだった」
「すみません……」

もうそれしか出てこない。
謝らせたいわけではなかったであろう櫻井さんが「いや」と否定する。

「うんあの……俺が悪かった、てっきりいつもの方だと思ってたから」
「いえ、勉強になりました」

三嶋インテリアさん。
物腰の柔らかい話しやすい人がメインの担当さんだと聞いて入ってみたら、待っていたのは既に怒ってるのかと思うような男の人だった。メインの担当さんはどうやら急に外出の用事が入ってしまったらしい。先導してくれた櫻井さんが予定を変えて全て担おうとしてくれていたんだろうけど、緊張感でわからなかった俺がいろいろと慌てたおかげで余計な気を回させてしまった。

「あの人は俺でも難しいんだ、朝比奈はよく頑張ってたよ。ほんと、驚くくらい」
「そうですか……? そう言っていただけると嬉しいです、ありがとうございます」
「うん」
「さっきもありがとうございました、ほとんどフォローしていただいて……さすがというか、櫻井さんカッコいいなあって思いました」
「褒めても飴くらいしか出ないぞ」
「あはは、出るんですね」

穴があったら入りたいぐらいの俺を上手に慰めてくれる櫻井さんに、今日会ったお客さんたちの顔を思い出す。
皆笑顔で、櫻井さんが来ただけで嬉しそうで、話してるだけで楽しそうだった。三嶋インテリアさんは顔こそ怒ってたけど、櫻井さんの話には感心して納得していた。

「初日が櫻井さんでよかった、楽しく働けそうです」
「持ち上げるの上手いな」
「本心ですよ」
「ありがとう。さて、会社戻ったら日報の書き方も教えるからな。それが終わったら初日終了だ、お疲れ様」
「ありがとうございます、お疲れ様です」

たぶん雄司さんの言う「強かさ」を櫻井さんはちゃんと持っていて、それ以上にお客さんのために心を尽くしてる。
真摯で頭がよくて、優しい人なんだろう。


* * *


慣れないことをしていると、あっという間に時間が過ぎていく。

『よー隼人、元気か〜』

夏の夜、クーラーの効いた寝室で祥からの電話を受けた。連絡がメッセージじゃないのは久しぶりだ。大学を卒業して半年経たないくらいだけど、声を聴くともう懐かしく感じる。

「元気だよ。祥は?」
『あっちこっち行ってもー、クッタクタ。でも元気』
「あはは。彼女も元気?」
『おう。毎日仕事のこと愚痴ってるけど』
「なんの仕事だっけ?」
『家電販売。ノルマとか大変らしい』
「あー」
『隼人も営業系じゃん? アイツの愚痴聞いてたら大丈夫かな〜と思ってさ』

何かあったのかと思ったけど、心配で掛けてきてくれたらしい。相変わらず優しい友達だ。

「ありがとう、大丈夫だよ。同期は営業所にいないけど、先輩たちすごくいい人ばっかりだし」
『そらよかった。休みなかなか被んねーと思うけど、そのうち俺が土日休み取れるようになったら、久々会って話そうぜ』
「そうだね。ほんと、身体気を付けて」
『お互いな。じゃ、おやすみー』
「おやすみ」

通話を切って携帯を枕元に置く。
ーー大丈夫、か。
寝転んで会話を反芻する。少し強がったかもしれない。嘘はついてないけど。
一ヶ月の先輩同行はとっくに終わって、一人でお客さんの元に足を運ぶようになって数ヶ月。先輩のお客さんを引き継いだり、新規の方を任せてもらったりして、契約を取れたこともある。先輩たちはよくやってると褒めてくれる。
それでも、送り出された頃は前しか見えなくて気にならなかったような自分の粗が、だんだん気になるようになってきたこの頃。よく言えば余裕が出てきて、悪く言えば自信がなくなってきた。

(……櫻井さんの営業、もっと見たかったな……)

つい先日、一度体調を崩してしまった櫻井さんは無事に回復して、早速ぶり返しそうな案件を入れられてしまっていた。『例の』女社長さん。俺と一緒に。
尊敬する櫻井さんの仕事が間近で見られるのはありがたい。それがあの社長さんのところでなければ尚よかった。たぶん仕事を盗むどころじゃなくなるから。あれを仕事と割り切れる櫻井さんは本当にすごい。
彼女と別れて以来なんとなく女の人に苦手意識があるとはいえ、社長さんは別枠だ。社会人はいろいろあるから、と笑った加我様の笑顔が浮かぶ。その通りでした。
ーーでも確か、社長さんの後に櫻井さんはもう一件アポが入っていたような。


* *


そして当日。
気が重い案件を乗り越えてから、次の営業先で後ろにつかせてもらえないかお願いすると、櫻井さんは少し迷っていたみたいだけど引き受けてくれた。無理を言って申し訳ない。
営業先の古賀様は、大学時代の友達らしい。たまたま再会したというからすごいご縁だ。

「まだ打ち合わせ、二回目なんですよね」
「ああ。でもこの前結構進んで、大まかな話は済んでるんだ。あとは具体的なところを確認して、だな」
「そうなんですか? さすが櫻井さん」
「いや……知り合いっていうのも、あるから」

暑さのせいか、まだ万全じゃないのか、あんまり元気がないような。
ーー気のせいかな。
ビルの二階まで階段で上がり、突き当たりの事務所の前まで来る。
櫻井さんがノックをすると中から返事が聞こえた。

「タチカワの櫻井です」
「ああ、」

そんな声の後、すぐに向こうから扉が開けられた。
顔を出した古賀様が櫻井さんを見て、それから不思議そうに俺へと視線を移す。櫻井さんが事情を説明してくれて、快く中に入れてもらった。少し古く殺風景な内装が、臨時のオフィスという雰囲気を出していた。

「二人ともアイスコーヒーでいいか?」
「ありがとう」
「ありがとうございます」

クーラーが効いた室内の快適さに小さく息をつく。
向かいに座った古賀様が資料をテーブルに並べていった。

「今日は、確認だったよな。あともう少し追加で希望があるんだけど平気か?」
「ああ。作業が始まってからだと難しいこともあるから、今のうちに言ってもらったほうが助かるよ」

テンポよく打ち合わせが進んでいく。顔見知りだと言っていただけあって会話はフランク、だけど的確なアドバイス。古賀様も櫻井さんのことを信頼してるのがわかる。
二人のやり取りを見つめていると、話の節目にふと俺を見た古賀様が笑った。

「きみ、そんなに気張ってたら疲れないか? 俺は気にしないからもっとダラッとしてていいって」
「いえ、勉強になります。ありがとうございます」
「熱心だなあ」
「ウチの期待の星だからな」
「そんな」

櫻井さんに褒めてもらってつい照れてしまう。
感心したようにして、古賀様が笑顔のまま言った。

「俺も人を集めないとなあ……今手伝ってくれてる奴らと、もう少し。朝比奈くんみたいな人がいるといいんだけどな」
「ありがとうございます」
「引き抜こうなんて思うなよ」
「恐れ多いぜ。もっと会社がでかくなったらお誘いするよ、櫻井のこともな」
「よろしく頼む」

打ち合わせはそのまま順調に進んでいった。
古賀様から新しくあがった要望や修正をまとめた櫻井さんが小さく息をつく。

「こんなところか……次回また練り直して持ってくるよ」
「おう。何か、来てもらってばっかじゃ悪いよな。たまには俺がそっちに行ったほうがよくないか?」
「いいんだ、お客様は涼しい部屋で存分に寛いでてくれ」
「今トゲを感じた」
「気のせいだ」

お互いに笑い合う様子に、なんとなく昔の櫻井さんに思いを馳せた。俺にとって憧れの先輩である櫻井さんにも学生時代があって、こうやって友達と笑ったり遊んだりしてたんだと思うとなんだか嬉しい。
どんな風に過ごしてきたんだろう。

「お二人は、本当に仲がよろしいんですね」
「、まあ……大学時代はよく、一緒にいたからな」
「おお。いろんなとこ行ったよな、博物館とか」
「……そうだな」
「図書館で勉強したり……楽しかった」

「なあ櫻井」という古賀様の言葉に、櫻井さんは何か思い出しているように、薄く笑って頷きを返していた。

それからしばらくして、そろそろ帰る雰囲気になった頃お手洗いを借りた。
事務所に戻ろうとした時、不意に櫻井さんの声が聞こえてきて驚いた。
ーー怒ってる?
言葉まではよく聞こえなかったけど、明らかに怒鳴り声だった。どうしたんだろう。
櫻井さんは温厚な人で、ダメなことはダメだと言うし、必要な注意はするけど、怒鳴るところなんて見たことがない。
扉を開けていいのか迷った。でも突っ立ってるわけにもいかないし、と思いきって開ければ、二人とも黙って座っていた。
どうしたらいいのか、「すみません」と中に入ると櫻井さんが急に立ち上がる。

「櫻井さん?」
「じゃあ、今日はこれで……行くぞ朝比奈」
「えっ? はい! 古賀様、本日はありがとうございました。失礼いたします」

慌てて鞄を取り、古賀様に頭を下げて扉を閉めた。
事務所を後にして、忙しなく響いていた櫻井さんの足音がだんだん速度を落としていく。ビルを出たところで隣に追い付き、それから少し後ろにさがって歩いた。
珍しく抑揚のない声で櫻井さんが呟く。

「急かして悪かったな」
「ああ、いえ……俺のほうこそ、お待たせしちゃって」
「そんなことなくて、」

ため息混じり、何か後悔してるように髪を掻いた。

「全然……気にしないでくれ。俺が」

なんだか、俺に話してるんじゃないみたい。

「俺が悪かった」

さっきのことだろうか。
だけど陽炎みたいに不安定な後ろ姿に、それだけじゃないような気もした。古賀様と何かあるのかな。

「櫻井さん」
「、ああ」
「大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫……」

笑顔を作ろうとした櫻井さんがふと俺を見て立ち止まった。

「櫻井さん?」
「……朝比奈、聞いて……」

ーー聞かれたくなかったんだ。

「なんですか?」
「……いや……なんでもない」

やっぱりぎこちない笑みを浮かべて視線を逸らす。
やっぱり何かあったらしい。喧嘩してしまったのは間違いない。櫻井さんが聞かれたくなかったなら、今はそういうことにしておいたほうがきっといい。
どっと疲れたような櫻井さんに少し休んでほしかった。

「それにしても、外に出ると暑いですね。ちょっとコンビニ寄ってもいいですか?」
「ああ」
「俺、今ディアマのパンのシール集めてるんです。お皿もらえるんですよ」
「なんか見たなそれ。ゆるキャラのだろ」
「そうです! 可愛くないですか」
「動きがすごいよな……」

コンビニへ向かううちに、だんだんぎこちなかった笑顔が自然なものに変わっていくのに気付いてほっとした。よかった。

「シール集めてるなら、明日からパンはディアマで買うよ」
「えっありがとうございます! 言ってみるものですね」
「狙ってたな」
「ふふ、ちょっとだけ」

たった半年、その中で櫻井さんにたくさん助けてもらった。頼りになって、優しくてカッコ良くて、褒め上手で隙がない。
こんな人になりたいなっていう、尊敬してやまない先輩。

そんな人が何か悩んでいるなら、少しでも力になりたいと思った。



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