果て無く広がる澄んだ青に、フィーネはひとり「よかった」と安堵の声を漏らした。今日は終日晴れの予報だった。
裏庭から塀の外へと出られる小さな木製の扉を開けて、腕の中の黒猫に視線を落とす。
「君もずいぶん大きくなったのね」
初めて会った時はまだ仔猫だったのに。
ジブリール邸に連れてこられて初めて出来た友だった。
一緒に過ごした日々を思い出しながら、細い革製の首輪を外した。
「そろそろここにも“怖い人”が押し寄せてくるの。早く遠くに行きなさい」
伝わらないと分かっていながら、フィーネは語りかけた。
「大丈夫。きっとすぐに新しい飼い主が見つけてくれるわ」
地面に降ろしてやると、友は小さく鳴いた。
「いい?噛み付いちゃだめよ。爪も立てちゃだめ。君は気が強いからそこだけが心配ね…生きたいなら目一杯愛想良くしなさい」
手入れされた黒い毛並みを優しく撫でて微笑んだ。
「可愛く鳴いていれば、世間はみんな優しいのよ」




《――私は何も先日名を挙げた方々に軍を送ろうというわけではないのです》
またも始まったギルバート・デュランダルの演説が、地下シェルターに響く。
《“ロゴス”を討つということは、そういうことではない》
フィーネはスカートをたくし上げて、レッグホルスターに銃を収めた。
背後でグラスが割れる音がした。激昂したジブリールがテーブルの上の物を全てなぎ払ったのだ。
「デュランダルめ!」
彼が忌々しげに睨みつけるモニターには、ザフトが入手したらしいロドニアの研究所の映像が映っている。
水槽のようなガラスケースに陳列された子供たち。赤く染まった床に散らばる腐乱した無数の肉の塊…
《コーディネーターは危険な存在…分かり合えぬ化け物…本当にそうでしょうか?私からしてみれば、幼い子ども達にこんなことを平然と出来る“ロゴス”こそ、化け物だ!》
よくもそんな偽善的な言葉を吐けるものだ。
フィーネは冷やかな視線をデュランダルに向けた。
では、自分は誰に造られた?
“ヴァルハラ”の子供たちは何の為にあそこにいた?
全て無かったことにして、コーディネーターだけ正義のヒーローを気取るのか。
画面はやがてユーラシア西側の“デストロイ”による虐殺の映像に切り替わる。
瓦礫の中で独り泣き叫ぶ子供の姿は、いま世界中の人々の同情を誘い、“ロゴス”への憎しみを増長させている事だろう。
《これらはすべて戦い続けるためにやっているのです!》
「こんな馬鹿なことを…!」
マルチモニターのいくつかにジブリールの邸宅の監視カメラの映像が映し出されていた。今まさに暴徒がなだれ込んで来ている。この地下シェルターの存在に気付かれるのも時間の問題だった。
――軍を送ろうというわけではない。
先ほどデュランダルが言った言葉を振り返って、フィーネは敵ながらに感心する。
そう、自ら手を下さずともここまで民衆を焚きつければ後は正義に奮い立った彼らが始末してくれるのだ。
フィーネは怒りで全身を震わせる主人を呼んだ。
「ジブリール、早く出ましょう。もう時間がない」
「…フィーネッ!」
彼が勢いよく振り返ると同時に、フィーネの頬に衝撃が走った。鈍い音とともに、目の前に火花が散って見えた。
「よくもお前は、そんな涼しい顔をしていられるな!?」
口の中に広がる血の味。
殴られたのだと、ふらつく頭で理解した。
「お前が!いつまでもミネルバを討たなかったからこうなっているんだろうが!」
直ぐに謝罪しようとしたが、不意に受けた衝撃は思いの外強かったようで、口が上手く開かない。
「早急に討つべきだった!何の為にお前に“あれ”を造ってやったと思っている!?」
頭上に降り注ぐ理不尽な罵倒を、目を閉じて受け入れた。ひと通りの罵詈雑言を吐き出せばいつもの彼であれば落ち着くはずだ。
それまでは何を言っても無駄だと、長く従ってきて理解していた。
「お前の“性能”に合わせた特注品だったはずだが、それすら乗りこなせないとは…本当に欠陥品だな!お前は!」
全ての記憶を取り戻しても目の前の男に反抗する気にはなれなかった。拾ってもらった恩か、彼による長年の躾の効果なのかはもう分からない。
「申し訳…ありません」
ようやく吐き出せた言葉は、掠れていた。
なんとか脱出口へ向うようジブリールを誘導した後、フィーネは主を失った空虚なその部屋を見渡した。
《ジブリール!助けてくれ!暴徒が邸にまで…!》
モニターに、“ロゴス”のメンバーの必死の形相が映る。
《何とかしてくれ!ジブリール!》
パニックになったその男は、既にジブリールがこの場に居ないことに気付かない。
フィーネは何も言わずそれを見つめ、やがて耳障りな悲鳴だけが響く回線を切った。
「…無様ね」
薄暗く長い通路を歩きながら、遠い昔に想いを馳せる。
今更飼い猫が噛み付いたところで何も変わらない…
世界中が敵になった今、ジブリールのもと以外に何処に行き場があるというのか。
与えられた役割に抗って得られるのは明るい未来ではないことを、“あの日”嫌というほど思い知らされた。
『大丈夫。大丈夫だから…』
ふと、背中に声をかけられた気がした。
フィーネは振り向いて目の前にぼんやりと浮かんだ少年を見つめる。
「大丈夫じゃないよ」
自分を真っ直ぐ見つめるその幻影に、フィーネは冷たく言い放って背中を向けた。
「だって、君は見つけてくれなかったじゃない」
ずっと待っていた。
生きてさえいれば見つけてくれると、子供同士の口約束を真に受けて愚かにも生に縋ってきた。
何かもが遅すぎたのだ。
再会したときには彼は立派にプラントでの立場を築いていて、守るべき仲間に囲まれていた。
沢山のものを抱える彼の腕の中に、自分の入る隙などもう無い。
それに…
思い浮かべるのは、銀色のモビルスーツ。
“フリッグ・スキャルブ”
美しいその芸術品は、戦場で出会ってからいつも“フェンリル”の側にあった。
――結局、君も“本物”を選ぶんだ
彼の記憶がなくなることを願ったのは自分だが、実際に忘れられるのはやはり寂しいものだ。
『会うたび振り出しから始めなきゃいけないこっちの身にもなれよ』
そう言って自分を抱き寄せた彼も、こんな気持ちだったのだろうか。
愛想を尽かされるのも当たり前だろう。
与えられた役割を何ひとつ果たせず、身勝手に生きてきたツケだ。
頬が熱を帯びて痛むのを感じながら、フィーネは覚悟を決めたように進む先を睨んだ。
向かう先は、泥舟だ。