「――フィーネ!」
営倉に駆け込んだとき、ジークは激しい後悔に襲われた。
「時間をかけない方がいい」と、かつてレイに忠告されたことを思い出す。このことを指していたのではないにしても、自分はやはり悠長に時間をかけてしまったのだ。
『またね、狼さん』
あの日、無理やりにでも自分の元に繋ぎ止めておくべきだった。彼女の言う「また」などと不確定な未来に何故希望をみたのか…
鉄格子の隙間から見える彼女の姿に狼狽し、独房のロックを解除しようにも手が震えてボタンが上手く押せない。
「…くそッ!」
床に倒れ込む身体はぐったりとして、暗闇に途切れ途切れの息遣いが響く。
「フィーネ!」
やっとのことでロックを解除し、フィーネに駆け寄った。
「お前!いつからこの薬使ってる!?」
床に膝をついて抱き起こすと、彼女は虚ろな眼つきでぼんやりとジークを見上げた。
「いつ、からって…な…に…?」
弱々しい音が唇から漏れた。
彼女のこの眼つきにジークは覚えがあった。
あれは、インド洋で初めて“アレウス”と交戦したときだ。自分を認識しないその眼は瞳孔が開き、血走っていた。
あの時感じた違和感の正体に、今更気付いたところでもう遅い。
「くす…り…?」
フィーネはジークの手の中にある小瓶に気付くと、ハッと目を見開いて拘束されたままの両手を伸ばした。
ジークは反射的にそれを遠ざける。
自身の手で彼女にこの薬を与えることに躊躇いがあった。
これを与えれば、彼女を苦痛から救うことは出来るだろう。与えなければ、彼女は激しい苦しみのなかで絶命するしかない…
取るべき選択肢はひとつしかないというのに、混乱する頭は薬を握る手を彼女の前に差し出すことを拒否した。
「なんで…」
彼女は悲痛な表情でジークを見つめた。
「なんで、くれないの…?」
拘束された両手で縋るようにジークの軍服を掴む。
大きな瞳からとめどなく涙が溢れていた。
ずっと噛み締めていたのか切れた唇から血が滲み、細腕は掻き毟ったように赤い爪痕を残していた。
「ちょうだい」と、遠ざけた薬に再び手を伸ばした。
「ねぇ…おねがい…もう、痛いの。くるしいの…」
「たすけて。ジブリール」
絶句した。
遅れてやって来たグレイも、凍りついたように独房の前で息を詰めた。
“ジブリール”
その言葉が何を意味する言葉だったか、脳が理解するまでに数秒の時間を有した。
今、彼女は虚ろな眼にジークを映して、彼が誰よりも憎んできた男の名を呼んだのだ。
フィーネは苦しそうな息遣いのまま、力なく微笑んだ。ゆっくりと身体を起こしてジークの耳元に唇を寄せる。
「お願い…意地悪、しないで…?」
愕然としたジークは、脱力したようにその場に崩れ落ちた。
「私、今日あの銀色に勝ったの。次はちゃんとフェンリルも、ミネルバも討てるよ…全部、殺してみせる。だから…」
甘く囁くその姿は、ロード・ジブリールの飼い猫としての姿だった。
「だから、ちょうだい。ジブリール」
「…フィーネ」
ジークが知っているフィーネ・ハゼットは、いつも悠然とした態度だった。
強く、美しい少女…
「おねがい」「ちょうだい」と、囈言のように繰り返すフィーネを抱いて、ぼんやりと天井を仰いだ。暗い空間を一点に見つめて、ジークは自分の胸中がどす黒い何かに支配されていくのを感じていた。
「はッ…」
その感覚に懐かしさを覚え、思わず乾いた笑いが漏れた。
脳裏にチラつく“あの夜”の光景。
真っ赤な血溜まりに座り込んだ少年は、腕に抱いた少女を生かす方法を必死に考えた。
それまで自らの運命に何の疑問も抱いたことがなかった彼は、生まれて初めて世界を呪い、必ず自分がこの不条理を変えるのだと決意した。
暗闇に消えていく水色を見送ったその眼からは涙が溢れた。独りその涙を拭い、初めて自分にも“泣く”という機能が備わっていたことを知って驚いたのを覚えている。
「チビ助…」
“ジーク・エアリス”の人生は、全てこの少女から始まったのだ。
啜り泣く声を聞きながら、ジークはゆっくりと手の中の小瓶を床に置く。
――もう、後には退けない。
大きく息を吐き、拳を強く握る。
――どんな手段を使ってでも、俺は…
俺の手で彼女を生かすと決めたではないか。
「――あぁ、フィーネ」
涙で濡れた頬を両手で包んだ。
「お前は頑張ったよ。良くやった」
黒い瞳は絶望を映して笑う。
「さすが、“私”のフィーネだ」
「おい、ジーク…?」
彼らしからぬ口調に、グレイが困惑したように声をかけた。
「お前、何言って…」
「可哀想に。コーディネーターなんかに捕まって…心配で“私”の方から来てしまったよ」
「帰ろう」と優しく頬を撫でれば、彼女は必死に何度も頷いた。
「かえる…帰る、から…ゆるして」
「いい子だ」
ジークも頷き返す。
「そういえば、フィーネ…」
白々しく首を傾げて言う。
「“私達”の本当の待ち合わせは、何処だったか?」
「どこって…」
フィーネはもどかしそうにこちらを見返してきた。
「オーブって、言ったのは…貴方でしょう?ジブリール」
「オーブ?」
「セイラン家で待ってるって言ってたのに」
刹那、ジークの唇が弧を描いた。
光を失っていた黒い瞳の奥に邪悪な喜びが微かに光る。
「ダメ、よ。ひとりで動いちゃ…危ない…」
「そうか…ああ、そうだったな。思い出した…」
「ねぇ、もういいでしょ?お願い…もう…たすけて…」
自分の胸に縋る愛しい人。
「敵兵の為に流す涙はない」と冷たく言い放った強気な少女は、今自分に違う男の幻覚を見て泣いている。
「いたい、の。こんなに痛いのに、これ、いつも殺してくれない…!なんで…!!」
余程の激痛なのか、美しい顔をぐしゃぐしゃに歪め全身を震わせるその姿はあまりにも哀れだ。
哀れな飼い猫は必死に飼い主に訴える。
「痛いのに、死ねない…生きたいのに、痛いの…!ねぇ、ジブリール…!」
ジークは冷然とそれを見つめ、やがてゆっくりと彼女の前にその薬を差し出した。
「すまない。意地悪が過ぎたな…今、楽にしてやる」
フィーネはそれを受取るやいなや、呷るように口に入れた。白い喉が上下し、邪悪なその液体を華奢な身体に吸収していく。
やがて、フッと息をつくと脱力した手から落ちた空瓶が床を転がった。
彼女はしばらく放心したように遠い眼をして坐していた。
「フィーネ」
名を呼べば、美しい宝石が再びジークを映す。
いつの間にか涙は止まっていた。つい先ほどまで顔を歪めて泣きじゃくっていた姿とは一変して、上気した頬に恍惚が滲んでいた。
「ん」とジークに手を伸ばして、妖艶に微笑む。誘われるままに抱き寄せると、腕の中にすっぽりと収まった彼女はジークの胸に頬を擦り寄せた。
「ありがとう…ございます」
微かに鼻をかすめる彼女の匂いはダチュラ。
劣情を誘う甘美なそれに、感情を消していたジークの眉が微かに動いた。
独房の隅に転がった小瓶に視線をやって思う。
あんな薬より、彼女の存在自体が劇薬だ…
「ジブリール」
熱を帯びた吐息とともに飼い主の名を呼んだ。
「今度は、ちゃんと上手く殺します。貴方を困らせるものは全部…だから、許して…」
飼い主への忠誠を吐き出した途端、彼女の意識は途絶えた。
――これは、どちらだ?
ジークは華奢なその身体をキツく抱き締め、思考を巡らせた。
頭に次々と浮かび消えていくのは、これまで見て来た彼女の笑顔だった。
これが、アルフォンス・ヘインズが作った“芸術”か。
それとも、ロード・ジブリールが育てあげた“飼い猫”か。
自分が見てきたフィーネは…ずっと求め続けた愛しい人の姿とは、どの姿だったか。
――本当の“フィーネ”とは、なんだ…?
硬く圧縮された沈黙がしばらく続いた。
独房の隅で立ち尽くしかないグレイにとって、それは途方もない時間のように思えた。
「…ジーク」
突き刺すような厳しい視線を目の前の青年に向けても、彼は振り向くことをしなかった。
「お前、自分が何やったか分かってるのか」
「…ああ」
「どういうつもりだよ…こんな…」
「お前も聞いたな?」
「ああ?」
「ロード・ジブリールの居場所」
「お前な…」
グレイはわなわなと肩を震わせてジークを怒鳴りつけた。
「そんなこと、今はどうだっていい!お前、今その子に何した!?その子は…フィーネは、お前の何より大切なものだろ!?その薬はいずれフィーネの人格を殺す…!」
「グレイ」
ジークはグレイの言葉を遮った。
抑揚のない、冷たい声だった。
彼の背中が醸し出す禍々しいまでの殺気は、辺りに蔓延し空気を冷やす。
暗く狭い独房。
床に転がった薬瓶。
劇薬に犯され自我を失った少女を鎖に繋いだまま、大事そうに抱き締める男の姿は異様だった。
「フィーネは…俺に、自分から、自分の口で、飼い主の居場所を教えてくれたよな?」
「いや。これは反則だ…」
「これまで、俺達のする事に正義なんてあったか?」
冷たく切り捨てるその言葉に、グレイは口籠る。
「こいつが、少しでも俺に…ザフトに恭順を示したという事実が欲しい。ジブリールの逃亡先の情報提供は大きな功績だろ」
暴論だ。
そこにフィーネの意思は何ひとつ考えられていない。
グレイは何も言い返せずだだ立ち尽くす。
ずっと彼の幸せを願ってきた。彼が“欲しいもの”を手に入れられるようにと。
やっとそれが叶う瞬間に立ち会いながら、グレイは困惑していた。
これが、彼が…自分が求めていたものなのか?
「ジーク」
乾いた喉から低く声を絞り出した。
「俺達、そろそろ20年の付き合いになる」
「そうだな」
「俺は、お前のこと大好きだよ。俺達にとって“英雄”はお前だ」
「だが…」とグレイは泣きそうな顔でその英雄の背中を見つめた。
「俺、今はじめてお前のこと軽蔑してる」
「…なんとでも言え」
ジークは腕の中の少女の穏やかな寝顔をジッと見つめ、閉ざされた瞼にそっと唇を寄せた。
「こんなんで、死なせてたまるか…」
「俺は、こいつの為ならいくらでも愚かな獣に成り下がる」