屋上にあがると、いつの間にか薄闇が辺りを満たしていた。
病院の本棟から離れた別棟の屋上は、普段から人の出入りが少ないのだろう。屋上へと繋がる狭い階段の照明は薄暗く、空気は少し埃っぽい気がした。
アーシェは手すりを握りしめ、泣き腫らしたブルーの双眼で海を見つめていた。
ぼんやりと感情の読み取れない表情を浮かべるその横顔を、イザークは隣でただ見守ることしか出来ずにいた。


あの後、騒ぎを聞きつけた軍医と保安要員が慌てた様子で病室に駆け込んできた。
ジークとイザークは適当にその場を取り繕い、「始末は自分達がするから」としばらく下がっているように命じた。白服2人が強く押し切れば彼らはそれ以上何も言わなかった。
ジークはその日何度目か分からない謝罪の言葉をアーシェにかけて、今まで隠してきたという彼女の真実を語った。
捕虜の少女―フィーネは、激昂し叫んでいた姿とは一変してジークの腕の中で弱々しく啜り泣くだけになっていた。
「廃棄はいやだ」と泣くアーシェの言葉を、ジークは「それは誤解だ」と否定した。

『“お前は”大丈夫だよ。こいつは、お前に取って代わるために造られたわけじゃない。お前を生かすため、自ら身体を差し出すことがこいつの役割だ』

アーシェのクローンだというフィーネは、臓器提供用の“器”として造られたという。
ジークの話に、イザークとアーシェは愕然とした。
“フリッグ・スキャルブ”の重要な部品であるアーシェを修理するために造られた、アーシェの“部品”…
銀色の女神を造りだした製作者は、戦闘時にアーシェの身体に何か不具合が起きたときフィーネの身体から必要な臓器を取り出して補強するつもりだったのだと。
アーシェを造った経緯だけでも吐き気を覚えたというのに、彼女達の“製作者”とはどこまで外道なのか…
死ぬことを前提に造られたフィーネは、どういう経緯かその役割を全うすることなく戦闘用コーディネーター育成の研究所に送られ、そこでジークと出会ったという。
『ヴァルハラで…こいつの呼び名は“スペア”だ。だが、俺はこいつを何かの代わりだなんて思ったことは一度もない』
ジークはフィーネを腕に抱きながら言った。
『悪い…アーシェ。俺はフィーネを生かしたい。守るって、ガキの頃に約束したんだ』


長い静寂のあと、2人の間にヒヤリとした夜風が吹き抜けたとき、固く結ばれていた彼女の唇がようやく動いた。
「お前には替えがない」
ポツリと呟かれたそれに、イザークは目を丸くする。
アーシェは視線を目の前の海に向けたまま続けた。
「フリッグにはお前しかない。お前にもフリッグしかない」
「父の言葉です」と抑揚のない声で語る。
「私は、物心ついた時からフリッグの為に生きるよう教育されてきました。いつかフリッグの一部として戦場で戦果を上げて、ヘインズの名を世界中に知らしめる…それが、私がこの世界で与えられた役割です」
「兵器の部品として生きることが、役割だと…?」
嫌悪感を露わにしたイザークに、アーシェは頷く。
「でも、私は父が生きているうちにあれを完成させられませんでした。目標とする数値にまで機体の能力を高められなかった…父は亡くなる直前までそのことに苛立っていました」
アーシェの父―アルフォンス・ヘインズの名は、プラントでは知らない者の方が少ないだろう。経済界の重鎮にこんな裏の顔があったなどと、当時誰が想像しただろうか。
「父に言われる度に思ったんです。じゃあ、替えがあったらどうなるんだろうって…父を満足されられない私は廃棄なんじゃないかって…」
次第に声が震えていく。
乾いた頬に再び涙が伝った。
「あの子を目の前にしたとき、自分の“スペア”の存在を確信したとき…ああ、殺さなきゃって思ったんです。何より先に湧き上がった感情が殺意だった…」
「アーシェ…」
「廃棄はいや…あの子を殺してでも自分が生きたかった。あの子の本当の“役割”なんて知りもしないで…自分のことばかり…」
力に取り憑かれた狂者から生み出された2人の少女。
本来、怒りの矛先は製作者に向けられるべきだった。製作者亡き今、行き場を失った憎悪は非情にも被害者同士に向いてしまった。
「ジュール隊長」
涙で濡れた顔がこちらを向いた。
「いまの私は、あの頃の“アーシェ”じゃないんです。戦争も好き。自分を守る為ならこうして人殺しも厭わない…」
「ほんと、気持ち悪い」とアーシェは冷たく自身への嫌悪を吐き出した。
「こんな気持ちの悪いバケモノを生かすためにあの子が生まれたなんて…あの子を、殺そうとしたなんて…」
「お前のせいじゃない」
イザークはきっぱりと言い切った。
彼女が責めを負う道理なんて何一つない。
「お前だって被害者だ」
アーシェは少し驚いたような表情を浮かべ、やがて「でも」とぎこちない笑顔をつくってみせた。
「それでも私、これからもこの血には抗えません。戦争で多くの生命を奪い続ける…笑いながら。ヘインズの狂った理想の被害者だとしても、私はもう誰かの加害者なんです」

「綺麗な貴方の側には居られない」

「アーシェ…」
「居られない、って…側にいちゃいけないって、思って…」
途端、アーシェは両手を強く握りしめて俯いた。
「わたし…」
距離を取るように後退りをした彼女に、イザークは硬い表情で詰め寄ってその腕を掴んだ。
強引に抱き寄せると、腕の中で華奢な肩がビクリと跳ねる。
「…そういうのじゃなくて」
キツく抱き締めて言う。
彼女はいつだって優等生で、模範的な回答ばかりだ。
「“優しいアーシェ”じゃない」と自嘲しながら、自分の前では未だに秘書官だったときのアーシェであろうと無理をしていることに気付いていた。
「いい加減お前の本心を言えよ。あの頃のお前じゃないと言うなら、全部見せろ」 
その言葉に、彼女がハッと息を詰めた。
「俺に全部知ってほしいって言ったあれは嘘か?」
みるみるうちに身体が震えだし、「ごめんなさい」とアーシェはようやく抑えに抑えていた感情を解き放った。
「わたし…隊長に、壊して欲しいって言ったくせに…やっぱり、生きたかった…」
“生きたい”
平和な世界に自分は要らないと卑下していた彼女から初めて吐き出された未来への希望に、イザークは目頭が熱くなるのを感じた。
「隊長に好きだと言われたとき、嬉しかった。同時にますます自分が怖くなった…。こんな身体のくせに…壊されるより、生きて、貴方の側に置いて欲しいって思ってしまったんです…」
胸に顔を埋めて激しく泣きじゃくる彼女をしっかりと抱き締め、イザークは「大丈夫」と何度も繰り返しその背中を擦った。
「アーシェ」
湧き上がる愛しさに、イザークの決意は強固なものとなった。
再び名を呼ぶと、涙で揺れる大きな瞳が自分を映した。長いまつ毛が瞬く度に大粒の雫が弾ける。 
「壊せっていう願いを聞く気は端からなかったが…」
彼女の顔を両手でそっと包むと、愛おしそうにその泣き顔を見つめた。
「その願いなら、聞いてやれる」
「ジュール隊長…」
手のひらで頬の曲線をなぞり、言葉を紡ごうと小さく開いたその唇に親指で触れる。微かに震えるそこは驚くほど柔らかだ。
背徳感を覚えるほど繊細なそこに、イザークはそっと唇を寄せた。
刹那、イザークの軍服を握っていた彼女の掌がぱっと開いた。細い指先が戸惑ったように虚空を彷徨い、やがてぎこちなく背中に回る。
彼女が長く保留にしてきた“返事”は、背中に感じる手の温もりが全てだった。