頬に伸ばした手は、冷たく払い除けられた。
「…フィーネ」
ジークは自身の掌を困ったように見つめ、フィーネに語りかける。
「それ…手当てだけさせてくれ」
銃弾が掠めたことによる火傷と擦過傷は、彼女の頬を朱く汚していた。
「そのままにはしておけない」
キツく結ばれた唇から返事は無かった。
激情が引いたフィーネは、泣き疲れたように茫然とベッドに座っていた。意思も感情も持たない目を正面の壁に向けたまま、ベッド端に腰掛けたジークを見ようとはしなかった。
ささやかな抵抗を抑えて手当てを進めながら、ジークは彼女と過ごした幼い日のことを思い出していた。
以前もこうして彼女の頬を汚す血を拭ってやったことがある。あの時は忌々しい大人たちの返り血で、ジークが手にしていたのも清潔なガーゼなどではない、自身が着ていた薄っぺらなシャツだった。

――嗚呼、そうだ

こちらを見ないよう逸らされたその横顔にガーゼを貼りつけて、ジークはようやく自身の思い違いに気付く。

――こいつは、強い女なんかじゃなかった

ヴァルハラで、彼女はいつも身体のどこかしらに傷を作っていた。腫れ上がった頬を涙で濡らし、「こわい」とよく泣くものだった。何かあれば直ぐに自分の背中に隠れ、シャツの裾を掴んで不安げに見つめてくる…
そんな彼女の頭を「大丈夫だ」と撫でてやれば、途端にその顔は安堵を浮かべて笑った。

彼女は昔から、臆病で泣き虫で…

――誰より寂しがり屋だった

成長した彼女が見せる誰にも媚びない姿が好きだと思っていた。気が強くて気まぐれな、そんなところが良いと…
「いい女になったな」と唇を重ねれば、彼女はいつも大人びた顔で満足気に笑った。
それが彼女の精一杯の強がりだと、今日まで気づいてやれなかった。
「フィーネ」
泉のようにとめどなく溢れる後悔が全身を冷やした。
「…すまない」
その言葉に、オッドアイが驚いたように見開かれ、ゆっくりと向いた。
「すまなかった」
「なに、それ…」
頑なに閉ざされていた彼女の口がやっと開く。乾いて色を失ったその唇から漏れる声も、震えていた。
「狼さんのくせに…そんな、情けない顔…情けない声で…やめてよね」
再び溢れ出した涙が今しがた手当てを終えたばかりの頬を濡らす。
「君は強いままでいてよ。自信家で、野蛮なくらい強引で…そして、肝心なことには鈍感なのが君よ」
ジークは何も言い返せなかった。
長年彼女の本心に気付けなかったのは事実だ。その愚鈍が、目の前の愛しい人も守ると決めた同胞をも傷つけた。
「悪いのは君じゃないってことは分かってる。君の手を取らないと決めたのは私だもん。そう決めたのに、今まで中途半端なことを続けたのも私。全部、私の勝手な我儘よ…」
フィーネは肩を震わせて涙を拭った。
「でも…」
必死に涙を止めようと両手で眼をこするその姿は、幼い頃の“チビ助”だ。
「でも、やっぱり…わたし…」
ジークはこみ上げてくるものを感じて、堪らず彼女を抱き寄せた。
「わたし、は…」
「フィーネ」
彼女はジークの腕から逃れようと必死に身をよじり、両手でジークの胸板を押して拒絶を表した。噛み殺した口からは呻きに似た嗚咽が漏れた。
「ごめん」
そんな彼女の抵抗をものともせず、ジークは彼女の頭を掴んで強引に自分の胸に押し付けた。
瞬間、彼女の全身からフッと力が抜けた。力なく身を預け、消え入りそうな声でジークを呼ぶ。
「やっぱり、私…君のこと、忘れられなかった…」
彼女は堰を切ったように心の澱を吐き出した。
嗚咽しながら必死に訴えるのは、彼女が長年たったひとりで抱えてきた悲痛な想いだ。
「7年よ?パナマで、君が見つけてくれるまで…7年も経ってた。ずっと、待ってたのに…もう何もかも遅かった」
「ごめん」
「なんで、もっとはやく見つけてくれなかったの…?なんで、迎えに来てくれなかったの…?」
「なんで、なんで」と彼女のその弱々しい糾弾は、ジークの胸の奥まで鋭く突き刺さった。
「君に会いたくて強くなるって、泣かないって決めたのに…強くなっても、君とは一緒に居れなかった…」

『強くなりたいなら泣くな』
不意に声変わり前の少年の声が頭に響き、ジークはハッとした。
幼い日の自分だ。
『じゃあ、わたし…もっと頑張らなきゃ』
少年の声に、ぎこちなく笑って応える少女…
彼女は今日まであの言葉を信じて生きて来たというのか。
決して涙を見せなかったのも全部自分の為だった…

「…ごめん。フィーネ」
彼女の純粋で不器用なその想いに、ジークは罪悪感に押しつぶされそうだった。自身の瞼が熱をおびてふくらあがってくるのを感じて顔を顰める。
あの頃の自分は、「強くなって研究所を出たら一緒に居られる」と彼女に未来への希望を語りかけたつもりだった。臆病な彼女が立ち止まってしまわないようにと。
だが、それはいつの間にか彼女にとって呪いとなっていた。
敵同士として刹那の逢瀬を重ねる度、彼女はどんなに思いで強い女を演じてきたのか…
必死に弱さを隠そうとしているのに気付けず、曖昧な態度をとる彼女に苛立ちすら覚えることもあった。
ジークは何度も何度も、彼女にあらゆる謝罪の言葉を繰り返した。
「私は…あの銀色が欲しいわけじゃない。あの子になりたいわけじゃない…ただ、君の側に居たいだけなのに…」
顔をあげた彼女は揺れる瞳にジークを映した。
小さな唇が何かを伝えようと開いたかと思うと、躊躇するように震えて閉じる。喉元まで出かかった言葉を、彼女の中の何かが邪魔をしていた。
ひとり静かに葛藤を繰り返し、しばらくして彼女はぎこちなく言葉を紡いだ。

「あい…してる」

初めて彼女の口から出たその言葉に、ジークは目を見開いた。
「フィーネ…」
「君を、愛してるの…」
それは、何度もジークが彼女に伝えてきた言葉…何度も笑ってあしらわれてきた言葉だ。
「でも、もう遅いの。強くなきゃいけないのに…私、こんな弱くなったら君に選んでもらえない…!こんな醜い姿じゃ君と一緒に居られない…!」
「違う!」
ジークは語気を荒げ、今度こそはっきりと否定の言葉を吐いた。
「違う…フィーネ。違うんだ…。強くなくていい。お前は、そのままでいいから…」
子どものように泣きじゃくる彼女を力いっぱい抱き締めて、ジークは「大丈夫」と背中をさする。
「大丈夫。大丈夫だから…頼む…」
黒い瞳に涙を滲ませ、ジークはこれまで何十、何百と重ねてきた願いを彼女に伝えた。

「今度こそ、俺の側に居てくれ。フィーネ」